文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

構造と自由(その5) 芸術の使命

 

無文字社会においては、いや現代日本社会においても、その底流には原始宗教が息づいている。そして、原始宗教を構成する3大要素は、呪術、祭祀、神話である。やがて文字が普及し、これら3つの要素も発展を遂げ、今日的な意味での宗教が生まれたに違いない。そして、これら3つの要素は、芸術を生んだとも言える。呪術は美術を、祭祀は音楽を、そして神話は文学として結実した。

 

このように考えると、宗教と芸術のルーツは同じであることが分かる。しかしながら、両者の間には、決定的な差異がある。宗教は権力を生み、人間社会に秩序をもたらすが、本物の芸術は、権力に迎合したりはしない。この宗教と芸術との対立関係が最も顕在化したのは、14世紀のヨーロッパにおいて勃興したルネッサンスだろう。キリスト教が生み出す厳しい戒律と秩序に嫌気が差した芸術家たちが、人間復興を唱えて立ち上がったのだ。

 

1969年をピークとしたロック・ムーブメントにも同じことが言えるのではないか。ベトナム戦争と資本主義が作り出す秩序の中で、窒息しそうになったミュージシャンたちが決起したのが、ウッドストックだった。彼らは愛と平和、ドラッグとセックスを高らかに謳い上げた。第2のルネッサンスとして、私たちはこのムーブメントを記憶に留めておくべきだと思う。

 

芸術は、身体と主体の間に存在する。身体(大衆)に寄り添いつつ、秩序の中では生きていけない人間の姿を描く。それが芸術の本質だと思う。

 

例えば、ゴッホは「馬鈴薯を食べる人々」を描いた。

 

https://artoftheworld.jp/rijksmuseum-vincent-van-gogh/1292/

 

ここには、薄暗いランプの明かりを頼りに、馬鈴薯を食べる貧しい農民たちの姿が描かれている。そのゴツゴツとした手の形が、彼らが従事している過酷な労働を表わしている。明らかにゴッホは、これらの貧しき人々に寄り添っている。誤解を恐れずに言うならば、ここに知性はない。正義も悪徳も存在しない。希望もなければ、絶望もない。私には、そう見える。ここにあるのは、「まったくもって、どうしようもなく、そうなっている」人間の身体だけなのだ。この身体こそが、芸術の一方の極なのだと思う。

 

芸術についてのもう1つの極は、主体である。主体とは、人間の心の奥底から湧き上がってくる内発的な意思のことで、多くの場合、それは権力や秩序と対立関係を結ぶ。

 

近年、主体は液状化したと主張する人がいるらしい。また、経験の多様性が失われたことに伴い、主体もまた消失したとする説がある。しかし、私は必ずしもこれらの意見に賛成はできない。芸術の世界のみならず、現実世界においても、主体は犯罪という形をとって、その姿を現わす。例えば、安倍元総理に対する銃撃事件なども、主体に基づく犯罪だと思う。この主体こそが、芸術の存在する領域におけるもう1つの極なのだ。そして芸術は本質的に権力や「知」、特に科学と対立する。

 

現在も多くの人々は、息苦しく、過酷で、若しくは退屈な日常生活を送っているに違いない。そもそも学校や会社は、そこに通う人々を時間と空間の双方において拘束する。家に帰ればそれらの拘束から解放されるという人もいるだろう。しかし、家族という人間集団も多くの問題を抱えている。そんな日常生活にあって、芸術は人々に異世界を提示する力を持っている。簡単に言えば、私たちの日常生活においても、大きく言えば人間の文明においても、芸術は不可欠の領域なのだ。

 

しかしながら、現代社会において、芸術は衰退していると言わざるを得ない。美術の世界で言えば、かつてアクションペインティングのジャクソンポロックは、次のように述べた。

 

- 何か新しいことをやろうと思っても、それらは全てピカソによって試されていた。

 

そうかも知れない。ピカソが、若しくはそう述べたポロック自身が、最後の前衛芸術家だったのかも知れない。

 

ロックの世界で言えば、未だにビートルズジミ・ヘンドリックスを超える者は登場していない。ジャズについても同様のことが言えて、マイルス・デイビスが死んだ時に、ジャズもその歩みを止めたのである。

 

日本文学について言えば、その最高峰は谷崎潤一郎川端康成三島由紀夫の3名ではないか。その後、これら3名を超えた作家を、私は知らない。

 

芸術が衰退した理由は、無数にあるだろう。しかし、突き詰めると上に引用したポロックの発言に尽きるような気がする。すなわち、全ての可能性は、既に試されてしまったのである。

 

このような芸術に対する絶望感は、構造主義とマッチする。音楽を例に説明しよう。音楽とは、リズム、和音、メロディーなどの構造を持っている。そして、それらは全て研究し尽くされているのだ。リズムをはずす訳にはいかないし、和音の種類にも限度がある。そして、メロディーは和音の進行に拘束される。してみると、音楽とは音楽の構造の外に出ることができない、という結論になる。美術にも文学にも、同じことが言える。構造の外に出ることはできないのである。

 

そこで私は、芸術の再定義が必要だと思うのだ。つまり、美術、音楽、文学などが芸術の全てではなく、芸術の新たな分野を開拓すべきだということである。芸術の本質は、身体と主体の間に存在するということであって、それを表現する記号さえあれば、新たな芸術分野が誕生する可能性は低くないと思う。それは既に始まっているかも知れない。例えばそれはYouTubeの世界において、若しくは現実世界において。