前回の原稿で、私は、芸術を再定義することが必要だと述べた。では、どのように再定義すべきなのか。今回は、そのことについて述べてみたい。
西洋と東洋とでは、異なる歴史的な背景を持っている。それは芸術についても言えるだろう。まず、簡単に西洋に対する私の見方を述べよう。西洋においても最初に原始宗教があったと思うが、早い段階で、新旧の聖書が書かれる。そこから、宗教が一挙にその勢力を増したに違いない。そして、その反動として14世紀にルネッサンスが勃興し、本格的な芸術が生まれたと考えてはどうだろう。ルネッサンスは「人間復興」と訳されるように、西洋における芸術は、主に人間を興味の対象としたのだと思う。ダビンチの「モナリザの微笑み」やボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」などが有名だが、これらの絵画を見ると、当時の画家が女性の持つ美しさに惹かれていたことが分かる。
対する東洋だが、こちらは日本をベースに考えてみよう。まず、原始宗教があって、それは人々の生活と不可分の関係にあったに違いない。やがて、人々の暮らしに余裕が生まれる。そこで、養生法などの身体技術と衣食住に関わる生活技術とが発展を遂げる。この2つの技術を総称して文化と呼ぼう。西洋が戦争と宗教に時間と労力を費やしている間に、日本人は比較的平和に暮らし、生活に、すなわち文化に注力したのである。こうして、日本は文化大国となったのだ。食文化がその代表例だが、その他にも日本は世界に誇れる文化を豊富に蓄積している。
日本人は文化の中で、すなわち生活空間において、様々な美を追求してきた。食事の盛り付けや食器へのこだわりは、多分、世界一だろう。日本家屋における美については、谷崎潤一郎が「陰影礼賛」において指摘した通りである。また、豊かで美しい自然の中で暮らしてきた日本人は、自然との調和に美の源泉を見出してきたとも言えよう。
生活の中に見出された美は、何らかの具体的な有用性を持っている。食器であれば、それは食事をするのに役立つし、美しい衣服や住居も生活の支えとなる。やがて、生活とは切り離された場所で、つまり有用性を持たない、独立した美の追求が始まる。これが様式化された美だと言って良いのではないか。絵画や音楽は、必ずしもそれがなくても、生活に支障をきたす訳ではない。
但し、この様式化された美も単純に語ることはできない。美しい花、美しい女性をそのまま描く場合もあるが、やがて人々はそのような外見的な美しさに飽き足らず、例えば人間の内面に興味を抱いたに違いない。この人間の内面の美しさを表現する手法としては、音楽や絵画よりも文学の方が適していると思う。
このように美の概念自体、多様なのであって、それは人間の行動に現われることもある。自らの危険を顧みず、誰かを助けようとした人の話などを聞くと、私たちは感動を抑えることができない。つまり行動とは、ある人の内面が持っている美しさの表出なのである。
そう考えると、美とは、楽譜や、キャンバスや、原稿用紙の枠の中に納まらないことが分かる。更に言えば、行動の積み重ねとは、私たちの人生そのものではないか。様々な状況下にあって、私たちはどのように行動したのか。その集積こそが、私たちの人生なのだ。
では、このように重層的な美について、身体に近い方から列挙してみよう。
・身体そのものが持つ美
・生活に関わる美
・人の内面に関わる美
・行動に関わる美
・人生に関わる美
ミシェル・フーコーの言葉を引用させていただこう。
- 私が驚いていることは、私たちの社会ではアート(技芸=芸術)が諸個人や人生=生活ではなくて、もはや物体にしか関係を持たなくなっていることです。つまり、アートとは専門的な1つの領域、すなわち芸術家といった専門家たちのための領域であるかのようです。しかしながら、すべての個人の人生=生活とは、一個の芸術作品でありうるものなのではないでしょうか。なぜ、絵画や建物が美術品(芸術対象)であって、私たちの人生=生活がそうではないのでしょうか。(フーコー/今村仁司・栗原仁 共著/清水書院/1999)-
芸術とは、美を求めるあらゆる人間の営為のことである。そう定義することはできないだろうか。このように考えると、芸術は、そこかしこに存在するのだ。そして芸術は、美を求める人間がいる限り、そして、たった1回の人生なのだからより良く生きたいと願う人がいる限り、不滅なのである。