文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

構造と自由(その7) 哲学の領域

 

 

上の図において指し示したように、哲学を形作る1つの極は「知」であり、もう一方の極は主体なのだと思う。奇しくもこの2つの極について、哲学の始祖であるソクラテスは意見を表明している。「知」について、ソクラテスは「不知の自覚」を持てと述べた。このソクラテスの主張は、その後の哲学のあり方を予言していたのかも知れない。2400年後の今日においても、世界中の哲学者たちは最終的な結論に至ることなく、つまり真理に到達することなく、考え続けている。どこまで考えても、それは「不知」という状態を脱することがない。もう1つの極である「主体」について、ソクラテスは「自らの魂に配慮せよ」と主張した。魂とは、主体そのものを指していると思う。

 

長い歴史の中には、似非哲学者も登場した訳だが、あくまでも哲学のメインストリームは、忠実にソクラテスの主張を守ってきたように思う。つまり哲学の本質とは、反権力であり、脱身体なのだ。

 

グローバリズムが進展した今日的な状況下にあって、哲学の歴史には何の成果もなかったのだ、と思う人がいるかも知れない。しかし、それは違う。独立戦争に勝利したアメリカは「独立宣言」を採択し、革命に成功したフランスは「人権宣言」を発出した。そして、我が国においても「日本国憲法」が制定されたのである。これらの規範の根底に流れるものは、哲学(社会契約論)をおいて他にない。

 

ちなみに、日本国憲法における3大原理は、基本的人権の尊重、国民主権、平和主義だと言われている。憲法学者ではない私は、何故、そのように解釈されているのか、その理由を知らない。しかし私は、そこに平等主義と自由主義を加え、5大原理とすべきだと思う。(もしかすると、平等主義と自由主義は、基本的人権の一部として解釈されているのかも知れない。)

 

基本的人権の尊重(11条)

国民主権(前文)

・平和主義(9条)

・平等主義(14条)

自由主義(12条、13条)

 

このように5つの項目を並べてみると、憲法がいかに人権を尊重しようとしているか、理解することができよう。国民主権とは、独裁者による人権侵害を防止することだ。平和主義とは、徴兵制に基づき戦地に送られる自国民や、相手国の国民の人権を守ろうとする思想に他ならない。平等主義は不当な差別による権利侵害を防止することだし、自由主義は全ての国民が個人として尊重され、幸福を追求する権利を有していることを意味する。

 

では、憲法は何故、ここまで繰り返し、様々な角度から人権を守れと主張しているのか。それは、人類の歴史が人権侵害の歴史に他ならなかったからである。では何故、人類は人権侵害を繰り返すのか。それは、権力があくまでも自己増殖を図ろうとするからである。人間集団には必ず権力者が存在し、権力者は必ず自己保身を図ろうとするのである。

 

では、人権侵害が発生した場合、人々を守ってくれるのは誰なのか。それこそが国家であると憲法は述べている。

 

軍国主義という狂気に走り、人権を侵害し尽くすのが国家であり、人々をそのような惨禍から救済するのもまた、国家なのである。

 

今、哲学はグローバリズムと戦っているに違いない。