文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

真理と権力

それにしても、現在の日本で幸福になることはとても難しい。もちろん、理由はコロナだけではありません。ちなみに私の場合は、次のような事柄で疲れてしまうのです。

 

モリ、カケ、サクラ、アンリにクロカワ。

 

前法相の河合克行氏は、アンリの選挙で金をばら撒いたらしい。その額、2千万。辞めた黒川検事長は、マージャン賭博。多くのメディアは、緊急事態宣言下にあって、3蜜のマージャンをやったことを非難している。そうでしょうか? 換気扇を回して、マスク着用の上でやっていたかも知れない。賭博が悪いという人もいる。そうでしょうか? かく言う私だって、学生時代には賭けマージャンなんてしょっちゅうやっていました。レートは千点10円でしたが。賭博が悪いと言うのであれば、公共ギャンブルだって悪いし、カジノなんてもっての他だと思います。本質は、メディアの人間と癒着していたことにある。黒川は検察行政に関する内部情報を漏洩していたに違いない。記者の側は情報を得るが、検察行政を批判できなくなる。結果、メディアが報道すべき真実が国民の前に明かされることがなくなる。元厚生労働大臣の村木さんに対する事例のみならず、検察が冤罪事件をでっち挙げてきた例は、決して少なくない。

 

サンケイと朝日には、猛省を促したい。

 

余計なお世話であることは承知の上で、そもそも最高権力者である安倍総理が幸せなのか、考えてみました。

 

最近のトピックスとしては、アベのマスクというのがある。テキトーに配布しようと思ったら、カビが生えていたり毛髪が混じっていたりした。これはいけない。サイズが小さすぎる上に、洗えば縮むらしい。アベノマスクは、未だにほとんど配布されていないが、市中には既にサージカルマスクが流通している。世間からは、さんざん馬鹿にされ、遂にアホノマスクと呼ばれるに至った。本人、結構エゴサーチをしており、こういう話は気にしているらしい。

 

昨日、国会の答弁でルイ14世と言うべきところをルイ16世と言い間違えた。すると早速ネット上では、そんなにギロチンに掛けられたいのか、などと揶揄する声が上がる。

 

しかし、安倍総理の最大の懸念は、2つの刑事事件ではないでしょうか。1つは前述の河合克之、アンリ夫妻の公職選挙法違反。これ、自民党本部から1億5千万円が送金されたらしい。仮に夫妻が2千万をばら撒いたとしても、まだ1億3千万円残る。その行方はどうなったのか。ネット上では、安倍総理個人に対する刑事告発がなされたという情報もある。自民党本部に対するガサ入れが必要ではないか、とも言われています。

 

もう1つは、サクラの前夜祭。昨日だったか、法曹界錚々たるメンバー662名が連名で、安倍総理に対して刑事告発を行った。こちらの事案は、驚く程シンプルだ。前夜祭の参加費は5千円だったというのが安倍総理の主張だが、ホテル側の一般的な説明としては最低でも1万1千円とのこと。そしてホテルは、当時の契約関係書類を保管している。今日まで野党の国会議員もこの問題を追及してきたが、彼らが持っているのは憲法に規定された国政調査権に過ぎない。しかし、検察が動くとなれば、強制捜査が可能となる。ホテルに対し、当時の書類の提出を命令すれば、ホテル側はそれを出さざるを得ない。それにしてもこの件、検察も難しい判断を迫られている。何しろ、相手は時の総理ですから。

 

安倍総理は、2つの時限爆弾を抱えている訳で、これはもう誰がどう考えたって、ピンチなのです。そこで、検察行政に介入しようとして、政権の守護神とも呼ばれる黒川検事長検事総長に格上げしようとして、画策した。思えば、ドリル裕子だって、メロン菅原だって、加計学園から2百万円の政治献金を受けた下村博文だって、皆、黒川に守ってもらったのだ。今度は、安倍総理自身、黒川に守ってもらおう。そう考えたとしても不思議はない。しかし、頼みの綱だった黒川が、あっさりマージャン賭博で辞任。

 

これはもう、大ピンチだと思う訳です。並みの神経ならば、とても持たない。

 

真面目な話、前法務大臣の河合克行氏に対する逮捕許諾請求を検察が国会に提出した場合、もしくはサクラの前夜祭に関する刑事告発を検察が受理した場合、その時点で安倍総理の政治生命は終わるのではないでしょうか。

 

これはもう安倍総理は、幸せではないに違いない。いっそのこと、気楽に暮らしている私の方が幸せなのではないか、とさえ思えてきます。

 

本日発表された毎日新聞による世論調査は、次の通り。

 

政権を支持する ・・・ 27%
政権を支持しない・・・ 64%

 

確実にツイッターデモが効いている。支持率が30%を切れば、その政権は危険水域だと言われています。あと少し。あきらめてはいけない!

 

日本国民の過半数が、物事を正しく認識し、正しい投票行動を取れば、解決できない問題はない。アメリカから独立することだって、十分可能なのだ。最近、私はそう思うようになりました。

 

ところで、私は次の通り、人間のタイプを4つに分けて考えてきました。

 

大 衆・・・知識
芸術家・・・知識 + 想像力
権力者・・・知識 + 思考能力
単独者・・・知識 + 想像力 + 思考能力

 

そして、これらの関係は、次のようになっているのではないかと思うのです。

 

(真理) ← 単独者 - 芸術家 - 大衆 - 権力者 → (権力)

 

左に行けば行くほど、物事を論理的に考え、言わば真理を探究しようとする。反対に、右に行けば行くほど、既得権に固執しようとする。そういう関係にあるのではないか。

 

単独者というのは、想像力も思考力も兼ね備え、たとえ1人になったとしても行動する人のことです。昨今の時局を見ておりますと、次の方々は単独者であると思います

郷原信郎氏・・・元検事。今はヤメ検弁護士として、検察批判などを行っている。

 

藤井聡氏 ・・・京都大学大学院教授。かつては安倍政権の内部にいたが、政権を飛び出し、今はコロナ対策、経済政策などで、政権批判を活発に行っている。MMT支持者。

 

山尾志桜里氏 ・・・元検事。立憲民主党を辞め、今は無所属で活躍中。

 

いずれも、他人を思いやる想像力と論理的な思考力を身につけた立派な方々だと思います。どうやら、この単独者というのは、私が思っていたよりも世間には沢山おられるのではないか。上記の立派な経歴を持った方々のみならず、普通の暮らしをしている人々の中にも、単独者は少なからず存在するのではないか。例えば、「#検察庁法の改正に抗議します」と最初に発信した人。この方、30代の女性会社員だそうです。今まで、あまり政治には興味を持っていなかったそうですが、ツイッターではフェニミズムについて語っていたとのこと。彼女の提唱したツイッターデモは、確実に安倍政権の支持率低下に貢献したと思います。凄いですね。ネットには、現実の政治を動かす力がある。この国の主権者は、私たち国民なのだということが証明されたのです。

 

但し、一般論からしますと、単独者の主張というのはロジカルで、難しい場合が多い。大衆には届きにくい。そこで、単独者と大衆を仲介する役割を担う人が必要になる。それが、芸術家ではないか。芸術家と言うと少し大仰かも知れませんね。今風に、アーティストと言ってもいい。前述のツイッターデモでその役割を果たしたのは、著名な俳優や歌手だった。

 

覚醒した単独者が行動を起こし、それに共感したアーティストが情報を拡散する。そして遂に、マジョリティである大衆の心を揺さぶる。こうして、社会は変革されていくのではないでしょうか。これ、正に文化が本質的に持っているダイナミズムだと思います。

 

そして大衆ですが、彼らの頭の中には過去の経験についての記憶と、知識しかない。従って、彼らの話には起承転結がない。「だからどうということのない話」が多くなる。彼らの話にはオチがない。この人は何を言いたいのだろう、と思いながら聞いていると、とても疲れる。大衆の話には、主張がない。そして鬱屈した大衆は、権力に対し、自発的に隷従する。どうしてそういうことが起こるのか。その秘密は、どうやら彼らの職業と関係がある。

 

ちなみに自民党の支持団体をWikipediaで調べてみると、その大半は同業者団体なのです。(唯一の例外は、宗教団体でした。)そもそも、自由主義社会であるはずの日本において、何故、かくも同業者団体が林立しているのか。それは、政治家や官僚に隷従するためではないか。同業者団体を作って、政治献金を行う。そして、業界に対する補助金を要請する。また、日本の官僚がやることは、大衆に対する意地悪に満ちている。官僚の作るルールというのは煩雑で、一般大衆には理解できない。例えば、今回のコロナ対策で雇用調整助成金を申請できることとなりましたが、当初、その申請書類は60種類もあって、とても通常人では対応できないものだったそうです。批判があって、今は簡略化されたようですが。このように、官僚は大衆に意地悪をする。だから、同業者団体を作って、例えば官僚の天下りを受け入れるなどして、官僚に隷従する訳です。その他にも、業界に対する新規参入者を抑制するという目的もあろうかとは思いますが・・・。

 

もう少し考えますと、大衆というのは、転職しにくい人たちのことではないか、とも思うのです。例えば、大学を出て英語ができて、IT技術でも持っているような人であれば、転職は比較的容易だと思います。他方、農家や漁業に携わっている人たちというのは、転職しにくい。農家であれば、それは先祖代々受け継いだ土地との関係がある。それを手放すことには抵抗がある。漁師であれば漁業権という既得権をベースに稼業が成り立っている。老舗旅館なども、事情は同じだと思います。このような職業に従事されている方々というのは、原則的には世襲で、既得権に基づいて、生計を立てている。転職は困難な訳です。すると当然、現在の社会制度がそのまま維持されることを望む。だから、時の権力者に隷従し、変化を望まないということになる。

 

自民党の政治家の中に世襲が多いのと同じように、大衆の職業も世襲が多い。

 

このように考えますと、今般のコロナ禍で最も被害を受けるのは、大衆だろうということになる。これは、政府が積極財政に転じ、国家的な事業を立ち上げ、仕事を確保すべきだと思います。

 

また、上に記した図を見ていて思うのは、左の方向、すなわち真理の探究に向かう思想的背景としては、根源的には哲学があり、表層的には法律学があるように思います。

 

(真理) ← 単独者 - 芸術家 - 大衆 - 権力者 → (権力)

 

そもそも検察庁の組織はどうあるべきか、三権分立はどう確保すべきか、立憲主義は、民主主義は、という論題は、哲学者や法律学者が考えてきたものです。他方、権力を持った者がどのように権力を行使すべきか、という点を解き明かすのは経済学ということになるでしょう。政権を担う政党には、法律学と経済学の双方に対応する能力が必要だということになります。

コロナ疲れ

まったくもってだらしない話なのですが、私は、コロナに疲れてしまったようです。既に引退している私としては、特段の支障はないのですが、それでも外出時には気を使うし、近所の食堂なども営業時間やメニューを制限しています。最前線で戦っている医療従事者の方々のことを思えば、私ごときがボヤいている場合ではない。そうは思うのですが、どうにもやり切れない。その理由の1つには「現状を認識できない」ということがある。政府は一向に検査人数を増やさないし、検査人数についても公表しない。緊急事態宣言は延長されましたが、その理由も明らかにされないし、出口戦略も示されていない。

 

一体、何がどうなっているのだろう?

 

そこで、以下の動画をベースに仮説を立ててみることにしました。

 

IWJ 上昌広氏 2020.02.16
https://www.youtube.com/watch?v=vcNdQf0vPV0

 

郷原信郎 日本の権力を斬る #12
https://www.youtube.com/watch?v=oiudxr0V-ak

 

まず、日本政府は、オリンピックと習近平氏の来日を原因として、初動において遅れた。ところが、感染者が急増し、オリンピックの開催を1年延期せざるを得なかった。感染者は特に東京都において、急増した。そこで、小池知事は動かざるを得なくなった。

 

政府の諮問機関として、専門家会議なるものが設置されたが、そこには既得権に固執する厚労省や感染研など、様々な組織の利害関係が複雑に絡み合っていた。結果として、PCR検査を徹底するというのがグローバルスタンダードであるにも関わらず、日本はクラスター対策という一昔前の戦略を採用した。

 

何しろ、検査をしないのだから、感染者数は分からない。加えて、PCR検査は同一人に対して複数回実施されるので、検査の実施回数と検査対象人数は異なる。明確な基準を定めていなかった厚労省は、遂に、検査実施人数を把握できないという事態に陥った。この点は立憲民主党、石垣のりこ氏のYouTube動画において、詳しく報告されている。

 

これは困った。日本の対応は、世界の笑い者になってしまった。しかし、PCR検査に依らなくても、概ねの傾向を知る方法はある。それが「超過死亡者数」という指標だ。特段の感染症などが生じていない場合、概ね、何月に何人位死ぬのかということは、統計上のデータがある。従って、その統計上のデータと今年の死亡者数を比較すれば、新型コロナで何人位死んでいるのか、推定することができる。この点は、上記の動画で上医師が説明している。そして、超過死亡者数を見た場合、日本のピークは3月であって、4月には既にピークアウトしていた可能性が指摘されている。だとすれば、日本政府の緊急事態宣言は、3月に発出されるべきだったのであって、4月では1か月遅れたことになる。

 

もう一つ重要な指摘がある。それは死亡率だが、上医師によれば、大西洋沿岸地域における死亡率は高く、太平洋沿岸地域(日本を含む)においては、さほど高くないということ。

 

概ね以上のように考えれば、奇々怪々の現状に説明がつくのではないか。ポイントをまとめてみましょう。

 

・抗体検査の結果も踏まえて考えれば、感染者数は人口の5%程度に達している可能性がある。すなわち、これは政府や東京都が発表している数値よりも格段に大きい。政府や東京都は、この事実を隠蔽したがっている。従って、PCR検査の拡充には消極的なのだ。

 

・死亡者数も政府や東京都が発表している数値よりは、各段に大きい。例年、肺炎で死亡する者の数は10万とも20万とも言われている。そして、現在の日本においては、生前にPCR検査を受けて陽性と判断された者が死亡した場合にのみ、コロナによる死亡者としてカウントされてきた。その他の死亡者は、肺炎として処理されている可能性がある。但し、コロナによる死亡者数は、前述の「超過死亡者数」によって推計することが可能である。

 

・但し、日本を含む太平洋沿岸地域におけるコロナによる死亡率は、欧米(大西洋沿岸地域)のように高くはない。

 

なお、感染のメカニズムに関する政府の説明などにも疑問がある。政府は3蜜(密集、密接、密閉)を避けろと仕切りに言っているが、これはヒト→ヒト感染に対する対策である。これは屋外では発生しないし、お互いにマスクをしていれば相当防止できる。危険性が高いのは、むしろヒト→モノ→ヒト感染の方だ。ドアノブやエレベーターの押しボタンなどの危険性が高い。しかし、これは石鹸を使って手を洗うことによって、防止できる。

 

また、空気感染のリスクが高いのはトイレだという指摘もある。病院や役所など、不特定多数の人が利用するトイレは、極力、使用しない方が良い。

 

上記のように考えれば、概ね、現状がどうなっているのか、説明がつくのではないか。また、私たち個々人が何をどう判断して行動すればリスク回避につながるのか、それも概ね判断できるのではないでしょうか。

 

なお、出口戦略についてですが、その前提は医療崩壊のリスクをミニマイズすることが前提であるべきだと思います。現在、私たちの社会は、医療や介護に従事されている方々のご努力によって成り立っているのですから。

 

ところで、戦時中には大半の文化活動が停止する、という話がある。なんとなく、分かるような気がします。コロナ禍と戦っている現在の私たちも、同じようなメンタリティに陥っているのではないでしょうか。しかし、それは間違いであって、こういう時代だからこそ、文化的な活動の灯を消してはならないのだと思います。

 

文化認識論サマリー

これは一体、何の罰ゲームなのだろう? そう思わざるを得ません。コロナ禍を乗り越えるために、みんなで何かをしよう、ということであれば、まだ、元気が出る。しかし、現実は反対で、みんなで家に引きこもろう。何もしないようにしよう、というのが現在私たちに求められていることなのであって、これはとてもやり切れない。

 

さて、文化認識論と称して、30を超える文章を掲載してまいりましたが、ここで一応の方向性が見えてきたように思います。そこで、ここまでの要旨をまとめてみたいと思います。

 

まず私たちは、その時代に生きる人々が共有している常識や価値観の中で生きています。フーコーは、これを「エピステーメー」と呼びました。エピステーメーは、主に以下の事柄によって変化します。(フーコーは、エピステーメーを科学の世界に限定して考えていたのかも知れません。そうであれば、私は少しエピステーメーを拡大解釈している可能性もありますが、そのような社会的な現象があることは明らかだと思っています。)

 

・科学的な発見、知見。
・社会的な出来事。
・異文化の融合。

 

若い人はあまり意識しないかも知れませんが、1995年にWindows 95というものが世に出て来る前は、会社の仕事はパソコンに依存していなかったのです。電子メールなどというものも存在しなかった。今とはまるで異なるやり方で、仕事をしていたのです。セクハラ、パワハラなどという言葉も存在しませんでした。このように時代の常識、価値観というのは、急速に変化し続けている訳ですが、日々の暮らしの中で、私たちはその変化を直接目にすることは少ないのです。

 

エピステーメーは急速に変化し続けている。それでは、社会制度も同じように変化しているかと言うと、そうではありません。「経路依存性」という原理が働き、社会制度はなかなか変化しないのです。「経路依存性」というのは、一度、一つの方向に向かって動き始めると、誰しもがその方向性に依存して、他の方向には向かわないという現象のことです。反動的な勢力が、これを維持しようとする訳です。

 

まず、政治家。特に与党の政治家には、世襲による2世、3世議員が多い。ある地域で地縁、血縁などのネットワークを使って、後援会組織を作る。2世、3世議員はこの後援会組織を世襲によって引き継ぐ訳です。すると、政治家は代わっても、後援会組織は同一性を維持する。そして、後援会の意向を尊重する政治家は、代替わりをしても、政治信条における方向性は、変わらないことになる。

 

官僚組織も同じです。例えば、日本は先の大戦で負けた訳ですが、その直後に「日本を強い国にしてはいけない、日本は貧しいままにしておこう」と考えたアメリカの影響もあって、財政法という法律ができた。その法律の趣旨に従って、国債の発行を抑制しようという「緊縮派」という勢力が登場する。すると、アメリカの手助けもあって、財務省の中で「緊縮派」は出世するという制度が出来上がる。経済環境が変わっても、財務省のこの体質は変わらない。

 

学者の世界も同じだと思います。例えば、憲法学は東大法学部が強いと言われていますが、そこに「護憲派」の教授が登場する。その教授に気に入られるためには、後進の学者たちも「護憲派」にならざるを得ない。結果、日本の憲法は70年以上も改正されることなく、今日に至っている。

 

中世的な徒弟制度というものもある。職人の世界では、親方のやり方をそのまま学習しなければならない。そうでなければ、暖簾分けをしてもらえない。だから、新しいものが生まれてこない。柔道、剣道なども、流儀というものがあって、その流儀に従って技を学ばなければ、段位を取得することができない。我流でやっていては、昇進が望めない制度になっている。文学の世界には新人賞というものがありますが、それを決める年長の選考委員という方々がおられる。彼らの支持を得なければ、受賞することができない。

 

IT技術の進展に伴い、会社でも不要となった業務は沢山ありますが、いつまでたっても、不要となったそれらの仕事にしがみついているオジサンたちは少なくない。

 

結局「経路依存性」というのは、既得権をベースとしている。この既得権を持って、それにしがみついている人たちのことを「権力者」と言っていいと思います。

 

「経路依存性」は、時として、大変な悲劇をもたらす。1つには、第二次世界大戦。日本の敗戦は決定的であったにも関わらず、権力者たちは戦争を続けた。その結果、広島と長崎に原爆が投下されたのです。権力者たちがもう少し早く決断をしていれば、これらの悲劇は回避されたに違いない。

 

2つ目としては、原発の問題がある。福島第一原発メルトダウンが起こったのだから、もう原発はやめるべきだ。そういうことが明らかになった訳ですが、権力者たちは日本各地の原発を再稼働させようとしている。これも「経路依存性」がもたらす悲劇だと思います。最近、電力会社の内部でもコロナの感染者が出たということで、私などは不安で仕方がありません。

 

3つ目としては、東京オリンピックの1年延期という判断。無理に決まっています。一刻も早く、中止にすべきです。

 

「経路依存性」を支える人々の中には、権力者とは別に「大衆」がいる。大衆は、狭い文化領域の中で暮らしており、権力者が付与する補助金や、ささやかな特権を基礎として生活の糧を得ている。従って、権力者同様、社会制度の変化を望まない。

 

認識能力のパターンを検討すると、以下の4通りの人々が存在する。

 

大 衆・・・知識
芸術家・・・知識 + 想像力
権力者・・・知識 + 思考能力
単独者・・・知識 + 想像力 + 思考能力

 

結果として、想像力を持たない権力者と大衆が共調し、想像力を持つ芸術家と単独者が連帯する。そして、それらが互いに反目するという構図になる。

 

(権力者 + 大衆) ←対立→ (芸術家 + 単独者)

 

権力者と大衆は「経路依存性」を持ち、反対に芸術家と単独者は、社会制度の変化を希求する。

 

このようにして、時代の常識や価値観であるエピステーメーが変化し続けるのに対し、社会制度は現状を維持しようとする。そして、両者のギャップが拡大する。

 

では、どうすれば良いのか。私たちホモサピエンスは、もう20万年も生きてきたし、現在も世界中で60億人もの人々が生きようとしている。生きようとすること、生き残ろうとすること。それは、人間である限り、誰も否定し得ないに違いない。すると、私たちが生き残る確率、すなわち生存確率を高めることが正しい選択なのだ、ということになります。

 

その前提で考えると、エピステーメーと社会制度のギャップを埋める努力をした方がいい。言うまでもなく、人類は神が作ったのではなく、サルが進化したのだし、天空が回っているのではなく、地球が回っているのです。そういうことが分かったのだから、そういう前提で、社会制度を作り直す必要がある。

 

もちろん、人間のすることに完璧ということはない。変化させようとして、もしかすると誤った方向に変化させてしまう危険性だってある。しかし、その判断は300年後の人類に任せるしかないのであって、その時々を生きる人々は、正しいと思う方向に変化させる以外に手はない。進化論における自然淘汰と同じで、間違った方向に変化させた場合、その変化はいずれ淘汰される。

 

もう少し具体的に、何をどうすれば良いのか、と考える訳ですが、ここで1つのキーワードが出てくる。それは、「想像力」です。結局のところ、世の中を変えたいと思うか、そうは思わないか、その分かれ目は想像力を持つか否かにかかっている。起承転結という概念もありますが、これも因果関係を想像する技術だと思います。想像力がなければ、自分の頭で考えることもできない。そして、想像力を培うための方法としては、以下の事項を挙げることができる。

 

・自然と共に生きる。
・動物と触れ合う。
・芸術に接する。
・より多くの「記号体系」を解釈するように努める。

 

動物や文化の構成要素というのは、それぞれに体系を持っている訳で、本稿ではこれを「記号体系」と呼んでいます。例えば、猫には猫の世界がある。体系がある。それが記号体系ということの意味です。

 

単一の、若しくは数少ない記号体系の中で生きていては、想像力を身に着けることができません。例えば、何十年もサッカーばかりやっていては、グラウンドの外のことが分からなくなります。いくら法律の勉強をしても、経済のことは分かりません。そういう意味では、専門家や学者の言うことは、疑った方がいい。例えば、現在、私たちが直面しているコロナ対策について、専門家がしゃしゃり出てきて、いろんなことを言いますが、その対策について総合的に判断するためには、少なくとも病理学、疫学(統計学)、都市工学、経済学、法律学の知識が必要なはずです。そしてもちろん、それらの全てに精通している人というのは、存在しない。結局、それらの専門家の知見や意見を集約して、誰か想像力を持った人が、総合的に判断する必要がある。

 

話は変わります。何故、大衆について考える必要があるかと言えば、それは私たちの身近にいる人々のことだし、もう1つには、民主主義との関係がある。彼らは社会のマジョリティを構成していて、選挙になればみんな1票を持っている。すなわち、大衆は政治を動かす力を持っているということです。だから、民主主義の社会においては、大衆とは何か、この問題を考える必要がある。鬱屈した大衆について、正しく認識できなければ、政権交代は起こらない。野党は、そのことを肝に銘じるべきだと思います。大衆に迎合するべきだ、と言っているのではありません。上から目線で啓蒙するのではなく、大衆を正しい方向に導く。至難の業ですが、そのことが野党には求められているのだろうと思います。

 

最後に、ポストコロナについて。

 

既に、ゲーム機が売れる、株価が下がる、ペットを飼う人が増える、などと言われていますが、これらの事柄は今までの文化の延長線上にある。自粛要請という今の事態が、この夏以降まで続いた場合、もっと大きな変化が起こるのではないでしょうか。今までの延長線上では考えられない、「文化の非連続性」ということが起こるかも知れない。政府が現在のドケチ路線を継続した場合、中小零細企業個人事業主において、破産が続発する。自殺者も増える。すると、今までの延長線上では考えられないような社会が立ち現れるかも知れない。それは、今よりも醜く、過酷な姿をしているに違いありません。

 

変える。変え続ける。変わる。変わり続ける。そうやって、文化を前進させること。そのことが、一番大切なのではないか。あと数日で64才の誕生日を迎える私としては、そう思うのです。

 

まだ聞いていない方は、どうぞ! ストーンズの新曲です。

Rolling Stones / Living in a Ghost Town
https://nme-jp.com/news/88332/

 

文化認識論(その37) パラダイム・シフト

ある政治家が言ったそうです。

 

「地方は干からびさせておいた方が良い」

 

その方が補助金の効果が上がる、ということだそうです。地方にはお金を回さない。すると、地方は貧乏になる。そしてある時、国が何らかの施設の建設を予定し、補助金をばら撒く。すると、貧困に喘ぐ地方在住者は、喜んで国に協力する。そういう意味だそうです。この国の政府は、そうやって安価で土地を収用し、ダムを造り、原発を造ってきたのではないか。

 

地方の第1次産業も基本的には補助金なしには成り立たないような構造を作り出しておいて、そこへ補助金をばら撒く。すると、その産業に従事する人々は、自民党を支持するようになる。企業ぐるみで、業界団体などがこぞって、自民党を応援するようになる。

 

この話、今回のコロナ対策で国民に支給される10万円の話と、どこか似ていませんか? やはり、権力者としては、国民を干からびさせておいた方が、都合が良いらしい。

 

MMTを支持している私としては、今こそ、国債を発行して反緊縮・積極財政に舵を切るべきだと思っています。緊急事態宣言が継続する期間中、政府は毎月、全国民に10万円ずつ配る。消費税は廃止する。そして、コロナ問題が収束した時点で、大規模な公共投資を行い、雇用を確保する。かつてのニューディール政策のように。

 

それにしても、大衆の心理というのは、とても屈折しているのではないか。一生懸命働いても、報われることは少ない。世の中、どこか間違っているのではないかと思っても、自らの考えを理論化することができない。テレビを見ると、幸福そうな人々ばかりが出演している。新聞を読むと、自民党は正しい、と書いてある。でも、自分の生活は楽にならない。こうして、やり場のない怒りが心の奥底に渦巻いている。コンプレックスを持っているので、見栄を張らざるを得ない。結果として、DV、セクハラ、煽り運転などの社会現象が生まれるのではないか。

 

別荘地をドライブすると感じるのですが、高級外車と軽自動車が多い。高級外車に乗っているのが別荘族で、軽自動車に乗っているのが地元の人たちです。そういう傾向があると思うのです。そして、合流の時に道を譲ってくれるのは高級外車の方で、乱暴な運転をするのは、軽自動車の方ではないか。

 

このように鬱屈した大衆の心理を正確に読み解かなければ、現在の野党が政権を取ることは難しいのではないでしょうか。立憲主義だ、共産主義だ、デモクラシーだ、などと言っても、大衆は理解できない。あくまでも下手に出て、大衆の自尊心をくすぐりながら、論理ではなく、別の何かで大衆の心をつかんでいく必要があるのではないでしょうか。

 

結局、現代の日本社会というのは、権力者となるべく学業エリートを目指すか、スポーツ選手や職人など、限定された文化領域で生きていく大衆となるか、その2つに1つの道しかないのではないか。そして、そこから何らかの事情によってドロップアウトした者が、もしくは何らかの出来事によって覚醒した者が、芸術家又は単独者となる。加えて面倒なのは、権力者と大衆が類似する態度をもって、芸術家や単独者を攻撃しようとする。それが政治的な弾圧や集団的な同調圧力となるのではないか。

 

何と息苦しいシステムでしょうか。

 

これはもう、変えなければいけません。教育から、学問から、社会制度から、政治から、何もかも。私たちの常識や価値観を洗いざらい、変革する必要がある。パラダイム・シフト。それが必要だと思います。

文化認識論(その36) 権力と大衆の共謀

安倍政権はコロナ対策に失敗したのだ、と私は思います。1番目としては、新自由主義に基づき、かねてより病院のベッド数を削減しようとしてきたこと。これは現在も削減しようとしているのか、国会で揉めていました。2番目は、中国の春節の時期に、大量の中国人観光客を招聘したこと。3番目は、オリンピックを予定通り開催しようとして、対応を遅らせたこと。4番目は、PCR検査を抑制してきたこと。安倍政権は感染者を発見すると、感染経路を特定し、クラスターの発生を防御しようとしてきた。言わば、これは点と線による対策だと言えますが、他国がやっているのは面の対策なのです。すなわち、日本みたいなことをやっていては間に合わないので、徹底的に検査を実施して、片っ端から感染者を隔離する。5番目としては、緊急経済対策。108兆円の事業規模などと言っていますが、真水は16.7兆円に過ぎない。国民を助けようという気持ちは、全くありません。そう言えば、布製マスクの配布という愚行もありましたが・・・。そんなお金があるのであれば、人工呼吸器を配備すべきです。

 

コロナの問題を「これは戦争だ」と言う人がいますが、私は、そう思いません。戦争であれば、白旗を挙げて降伏することができる。コロナ禍の場合、それができない。

 

ツイッターを見ていますと、医療関係者の呟きに出会うことがあります。既に、いくつかの病院では、医療崩壊が起こっている。昨日のニュースによれば、中野区の病院で90名近くの感染者が発見された。

 

ところで、感染者数は連日発表されますが、検査数はほとんど発表されない。検査数を分母として、感染者数を分子とすれば、当然、感染率を認識することができる。そんなことは中学生でも分かる。しかし、メディアは検査数を報道しない。どうやら、一体、何人の検査をしているのか、厚労省でも分からなくなってしまった可能性がある。これは、立憲民主党の石垣のりこ氏がYouTube動画で、詳述されていました。医療だけではなく、行政までも崩壊しつつある。

 

5月6日までに収束しなければ、安倍総理には、責任を取って退陣していただきたい。安倍政権は、今日までの失敗を正当化しようとして、更に、過ちを犯すに決まっています。そして、国民に責任をなすりつけてくるかも知れません。自粛要請に応えなかった国民が悪い。そういう意見を押し付けてくる危険性があります。マスメディアがこれに乗ると、国民は分断されます。

 

私の支持政党は、れいわ新選組です。できれば、その理由を皆さんにも分かって欲しいと思っています。しかし、どうしても自民党を支持したいという人もいるでしょう。そうであれば、石破茂氏はどうですか? 少し右に寄り過ぎているかも知れません。しかし、石破氏は、論理を語ることができる。憲法を語ることができる。このような人であれば、議論のしようもあろうかと思うのです。論理的に思考する人というのは、常に頭の中でジグソーパズルのようなものを組み立てている。だから、そう簡単には嘘をつきません。1つのパズルを外すと、絵の全体が壊れてしまうからです。

 

石破氏の経済政策がどうなのか、この点には疑問があります。緊縮派である可能性もありますが、最近、改心しつつあるという意見もあります。いずれにせよ石破氏は、安倍総理や立憲の枝野氏より数段、まともだと思います。

 

さて、このブログでは「認識の6段階」ということを考えて、そこから人間のタイプを4つに分類するところまで来ました。

 

・大衆
・芸術家
・既得権者(=権力者)
・単独者

 

それぞれのタイプについて考えていたのですが、どうも権力者と大衆の間には、奇妙な符号がある。そして、権力者の思考パターンというのは似ていて、似たようなメカニズムによって、国政のみならず、学者、会社、宗教、官僚などの世界も動いているのではないか。そう思えてくる。

 

まず、権力者が被支配者(=大衆)に対し何をするかと言えば、金と時間と情報を奪うのではないか。まず、国民は税金をむしり取られる。元来、税金というのは、国民経済(個人+企業)に出回っている通貨量が過剰となった場合に、それを調整する、低減させるために徴収すべきものですが、現実は、そうなっていない。労働者は、低賃金で働かされる。ブラック企業しかり、外国人労働者しかりです。学者の世界も、事情は厳しい。大学の場合、教授になるとそれなりの報酬が得られますが、その前段階だと、生活するのがやっとという水準らしい。会社の初任給は、過去20年、ほとんど変わっていないし、職人の世界でも見習い期間は厳しい。

 

マルクス主義者であれば、これを「搾取」と呼ぶのでしょうが、理由はそれだけではないような気がします。

 

次に、権力者は大衆から時間を奪う。日本の長時間労働は有名ですが、これは今でも続いている。例えば、教員は長時間拘束される。どうでもいいような書類を沢山作らされる。加えて部活を担当させられると、朝練があったり、放課後の練習があったり、おまけに休日には他校との試合や大会への参加などがある。官僚の世界にも長時間労働がはびこっている。

 

権力者というのは、大衆から考える時間を奪うのだと思います。

 

そして、情報。政権はマスメディアを通じて、自分たちに都合の良い情報ばかりを宣伝させる。例えば、現在のコロナ対策など、マスメディアでは他国の成功例をほとんど報道していないのではないか。政府は教科書を検定するし、経営者は会社の経理情報を社員に教えたがらない。儲かっていれば、もっと給料を上げろと言われるし、儲かっていなければ自分が無能だと言われるからです。宗教の教団では、決して、他の宗派の文献を読ませようとはしない。

 

こうして、権力者は大衆の耳をふさぎ、目を覆い、最後に口を封じて言論を封殺しようとする。権力者というのは、徹底して、大衆に対して教えない、考えさせないのではないでしょうか。これは、古今東西、人間集団に共通する原理ではないかと思うのです。それは国家レベルのみならず、会社や学校、そして役所の世界にも共通している。イデオロギーとは無関係で、例えば、中国共産党の内部でも同じ原理が働いているに違いない。

 

権力者はライバルが登場しないように、新規参入障壁を設ける。それは、家柄だったり、学歴や世襲だったり、彼らはあらゆる手立てを講じるのです。そして、棲み分けということもある。権力者は、他の権力者と領域を分断することによって、互いの権力を守ろうとする。役所がたて割りになるのは、これが原因だと思います。それぞれの省庁は、自らの天下り先を確保するために、独立行政法人を沢山作る。これも多分、棲み分けがなされているものと思います。学者の世界も同じで、権力を持つ学者の数だけ、学術分野というのは分断されてきたのだと思います。例えば、憲法学と法哲学。これって、同じじゃ何かまずいのでしょうか?

 

このようにして、大衆の想像力と思考力は奪われていく。認識能力の低下した大衆は、文化の領域を飛び越えることなく、極めて限定された世界の中で生きていくことになる訳です。例えば、野球選手だったら野球の世界で、寿司職人は一生、寿司を握り続ける。

 

本当のことを言えば、彼らだって、外に別の世界があることは知っている。海の向こうには外国があるし、最近は野球よりもサッカー人気が上回っている。寿司には回転寿司もあるし、スーパーに行けば格安のものが売られている。これはとても不安だ、というのが本音ではないでしょうか。そこで、反パターナリズムというメンタリティが生まれる。すなわち、ただでさえ不安に思っているところへ、上から目線で意見をされると激怒してしまう、という心理が生ずる訳です。文化的反動と言っても良い。世の中、変わらないで欲しい。そう思うのは自然なことです。これ以上、世の中が変わってしまうと自分が生きて行けなくなる可能性がある。

 

例えばコロナの関係で、いくつかの英単語が出てきた。パンデミック、オーバーシュート、ロックダウンなど。すると、文句が出てくるんですね。日本語で言え、と。こういうの、文化的反動だと思います。

 

例えば、山本太郎さんが街頭で演説する。すると、消費税がどうだとか、統計上の数字がどうだとか、何やら難しいことを言い始める。世の中変わって欲しくないと思っている大衆は、当然、カチンとくる訳です。

 

反対に安倍総理の会見を見ても、そこにロジックというものは一切、出てこない。全力で、とか、一丸となって、などの情緒的な形容詞ばかりで中身はない訳ですが、大衆としては、安心する。やっぱり、自民党支持にしようと、こうなるのではないか。

 

このようにして、権力者は大衆に考えるなと言い、大衆はそれを受け入れるのだろうと思います。

文化認識論(その35) 単独者に栄光あれ!

昨晩、安倍総理の緊急事態宣言に関する会見がありました。どうやら、日本政府には全ての国民をこの危機から救う気はなさそうです。しかし、私たちには生きる権利がある。生き残ろうとすること、それは正しいことなのです。

 

まず、コロナ対策。アメリカの学者は、次の4項目を推奨している。

 

1. 手を洗う。(特に指先)
2. 手で顔を触らない。(目、鼻、口)
3. マスクをする。(手から鼻や口にウイルスが感染しない)
4. 人に会わない。

 

次に、経済的な事項を考えました。

 

1. 職を失った → ハローワークへ行って、雇用保険(失業保険)を請求しよう。
2. 借金が返せない → 自己破産を検討しよう。自己破産をすれば、保有資産は失いますが、借金をチャラにすることができます。弁護士に相談する必要がありますが、全国の都道府県には弁護士会というのがあって、無料法律相談を受け付けている場合が多いようです。法テラスという組織もあります。傷が浅ければ、民事再生法の申請をするという方法もあります。
3. もう生活が立ち行かない → 生活保護を申請しよう。これは、上記の通り弁護士に相談する方法と、共産党系の市区会議員に相談する方法があるようです。1人で役所の窓口へ行くと、適当に追い返されるケースが多いようなので、要注意です。

 

ところでこのブログですが、「認識の6段階」ということを考え始めてから、私は、同じことを言おうとしているように感じます。例えば、一頭の象がいる。これを描写するために、象の体は大きいとか、象の鼻は長いとか、手を替え品を替え、なんとか象を描きだそうとしている。

 

(認識の6段階)
1. 記号
2. 情報
3. 因果関係
4. 概念
5. 原理
6. 論理(的な帰結)

 

(心の成長3段階)
1. 人間
2. 芸術
3. 論理

 

恐縮ですが、この話、もう少しお付き合いいただきたいのです。今回は次の通り、「認識能力の3段階」ということを提案させていただきます。

 

(認識能力の3段階)
1. 知識
2. 想像力
3. 思考力

 

複数の記号が組み合わさって、情報となる。情報が記憶されれば、それは知識となる。

想像力とは、知識によっては理解し切れない事柄を認識しようとするときに生まれる。それは、古代的であり、かつ、芸術に結びつく。

 

思考力とは、原理を発見し、そこから論理的な帰結を導く能力のことである。

 

このように考えますと、あとは3つの要素の組み合わせによって、パターン化することができると思います。

 

大衆(1だけ)・・・大衆とは、人間に興味を持ち、知識によって生きている人々のことである。想像力と思考力は欠如している。人々のマジョリティを形成する。

 

芸術家(1+2)・・・想像力、発想力に富む。但し、思考力は欠如している。マイノリティである。

 

既得権者(1+3)・・・知識を持ち、思考能力も持つ。但し、想像力が欠如している。専門分野に関する知識と思考能力によって、社会の中で地位や名声を勝ち得る。それが既得権となる。既得権を守ろうとし、社会の変化に抵抗する。

 

単純に組み合わせで考えますと(2+3)というパターンもあり得ますが、知識を持たず、人間に興味を抱かない人というのは、存在しない。すると、残りはフルのパターンということになります。すなわち、(1+2+3)。

 

オルテガは大衆の反対概念として、貴族を持ってきた。但し、その世襲には反対で、何か立派なことをした初代の人だけをそう呼ぼうとした。しかし、現代の日本においては、憲法によって貴族制は廃止されています。もちろん、私たちの身の回りにも貴族はいません。では、大衆の反対概念をどう呼ぶべきか。そういう疑問を持ってきたのですが、どうやらオルテガの遥か昔にキルケゴールが同じようなことを考えていて、彼はそれを「単独者」という言葉で表現したようです。私は思わず、膝を叩いたのでした。

 

上に記した(1+2+3)の人、知識と想像力と思考力、その全てを兼ね備えている人、その人こそが「単独者」であると思う訳です。「単独者」は想像力を持っている。だから、マジョリティである大衆とは相容れない。既得権者とも対立する。思考力を持っているので、芸術家とも異なる。結果として、「単独者」は孤立する。それが「単独者」の本質だと思うのです。オルテガキルケゴールも、きっと孤独な「単独者」であったに違いない!

 

ここで少し、単独者と芸術家が持っている想像力について考えてみたいと思います。想像力は、どのようなときに養われるのか。

 

例えば、私の前にアメリカ人が座っている。そして、彼は英語で何かを話している。私の語学力では、そう簡単に彼の言っていることを理解することができない。そして、想像力が生まれる。彼の表情や身振り手振りを見ながら、話の内容を想像する。私は日本語という記号の体系の中で生きている訳で、彼が話す英語は、日本語の体系とは異なる。そこで、想像力が養われる。

 

私は、野良ねこの花ちゃんと触れ合うのが好きですが、猫には猫の記号体系がある。例えば、猫の愛情表現にも以下のような種類があります。

 

・頭で押してくる。
・舌で舐める。
・甘噛みをする。
・見つめながら、ゆっくりとまばたきをする。
・ニャッと短く、微かな声を上げる。(これは最高の愛情表現!)

 

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花ちゃん かわいいね

このように、猫は人間とは全く異なる記号の体系を持っているのです。もちろん、それらの全てを理解することはできない。例えば花ちゃんは、よく背中を丸めます。これはどういう意味なのだろうと思って、私は想像する訳です。

 

英語には英語の、猫には猫の、法律には法律の、記号の体系がある。文化の構成要素とは、これではないか。今後は、これを「記号体系」と呼ぶことにします。

 

自分が持っているのとは違う記号体系に接したときに、人間の想像力が培われる。すると、より多くの記号体系に接し、それを理解しようと努めた人が、想像力を獲得することになる。

 

例えば、れいわ新選組山本太郎さんは、もともと役者の世界にいた。役者とは、他の人間になりきって演じる役割を担っており、想像力が要求される仕事だと思います。そこで、東日本大震災が起こる。彼は、そこから福島や沖縄へと飛び、現地の人々の話を聞いて回った。すなわち、それまでの自分が知らなかった記号体系と出会った訳です。ただ、そこに留まらなかったのが、太郎さんの特異な点だと思います。それから彼は、経済の勉強を始めた。そうやって思考力を身に着け、単独者になったのだと思います。

 

最近、立憲民主党を離党した山尾志桜里氏も、事情は似ているように思います。事の発端は、民主党政権時代に遡る。当時政権党だった民主党は、インフル特措法というのを制定した。インフルエンザが蔓延した場合、国が緊急事態宣言を発令することができる。そういうことを定めた法律だった訳です。元来、このインフル特措法で、今回のコロナ対策も実施できるという法律構成になっていた。しかし、そこで自民党が変化球を投げてきた。インフルとコロナは違うので、新たにコロナ特措法を制定する必要があると主張してきた。但し、変更点というのは、「コロナも対象にする」ということだけだった。当時、民主党政権の中枢にいた枝野氏は、反対のしようがなかった。しかし、改めてインフル特措法を検討すると、そこには4つの欠陥がある、と山尾氏は考えた。例えば、インフル特措法によれば緊急事態宣言の期間は、最長2年間となっているが、これでは長すぎる。せめて6か月に短縮すべきだ、と彼女は考えた。加えて、緊急事態宣言の期間を更新する場合には、国会の承認を必要条件とすべきだ。しかし、インフル特措法は、国会への報告だけを要件としていた。言うまでもなく、緊急事態宣言を下す場合には、急を要する場合があるが、延長時には事前に国会で審議する時間的な余裕がある。だから、延長時には国会の承認を要件とすべきだ、というのが彼女の主張だった。

 

ロジックで言えば、明らかに山尾氏の主張に正当性がある訳ですが、枝野氏と安住氏は、論議することを拒み、自民党の要請を丸のみしたのです。

 

山尾氏は憲法論議についても自由でオープンな論議をすべきだと主張していましたが、枝野氏はこれも拒んだ。結局、枝野氏は野党第1党の党首であるという既得権を守ることしか考えていない。私には、そう見えます。そもそも既得権にしがみつく人たちは、自由でオープンな論議などしません。説明責任を果たすこともありません。

 

そして、覚醒した山尾氏は、たった1人で立憲民主党を離党した訳です。まさに、単独者として行動したのだと思います。あたかも太郎さんが1人でれいわ新選組を立ち上げたように。単独者とは、たった1人でも行動する人のことです。既得権者が最も恐れ、忌み嫌うのは、覚醒した単独者なのではないか。

 

森友事件で自殺された財務省職員の赤木氏。彼の奥さんが、国と佐川氏を相手取って、訴訟を提起しました。彼女も立ち上がった単独者なのではないか。

 

単独者とは、転校生であり、異邦人であり、記号体系を超えるトリックスターなのです。

 

文化認識論(その34) 心の成長、3段階

結局、日本のコロナ対策が遅れたのは、東京オリンピックを予定通り開催したいがために、感染者数を低く抑えようとして、検査をしてこなかったことに原因がある。あげくの果てに、マスク2枚。これで日本は、世界の笑い者にされた。そして私は、コロリンピックと命名することにした。

 

東京コロリンピックは、即刻、中止せよ!

 

さて、気持ちを落ち着けて、本論に入りましょう。

 

いろいろ考えている訳ですが、人間の心の成長には、3段階あるのではないか。それは、人間が何に関心を持つか、という現象から推論できると思うのです。すなわち・・・

 

第1段階:人間
第2段階:芸術
第3段階:論理

 

では、順に考えてみましょう。

 

第1段階:人間

 

赤ん坊は生まれてくると、最初に母親を認識する。そして、認識の幅が広がり、家族、友達などを認識するのだと思います。そして、思春期になれば異性に興味を持つ。異性に好かれたいと思うので、ファッションに興味を持ったりもする訳です。

 

結婚して、家庭を持つと、関心の対象は家族の健康となり、料理や育児に励む日々が始まります。しかし、人間の認識能力はとてつもなく大きい。家族や友人を認識してしまうと、もっと認識したいと思うようになる。そこで、芸能界が登場する。そこには、美男美女がひしめいている。歌があり、ドラマがある。お笑い芸人だっている。それはもう際限のない「人間」の宝庫な訳です。そして、あの人のファッションはどうだとか、あの人はどういう過去を持っているとか、家族構成がどうだとか、果ては不倫関係まで、そういうことを認識していく。

 

スポーツも同じではないでしょうか。野球チームにはレギュラーだけで9人の人間がいて、サッカーには11人もいる。これはもう、名前を覚えるだけでも大変だと思う訳ですが、好きな人はそういう苦労をいとわない。そして、1人ひとりの個性だとか、身体的な特徴を記憶していく。

 

この段階では、どこまで行っても、認識の対象としては「人間」しか出てこない。

 

例えば、しばらく前に自民党稲田朋美氏が、選挙違反を行った。特定の候補者に対し、「防衛省としても応援しています」と発言したのです。テレビを見ていると、そのことにコメントを求められたオバサンはこう言ったのでした。「ダメですよね、あの人。だって、網タイはいてるでしょ」。これを聞いた私は、悶絶したのでした。

 

スポーツ新聞というものがありますが、こちらも事情は変わりません。スポーツ選手のインタビューだとか、どこの監督がどう発言したとか、エッチな写真とか、大体、そんなところですが、これを熱心に読んでいるオジサンというのも、少なくない。

 

結局、この第1段階に留まる人々の興味の中心には、「人間」がいる。人間がいて、人間が着るものがあって、人間が食べるものがある。

 

オルテガが「大衆の反逆」という本の中で批判した、「大衆」の第1類型は、これで説明できると思います。人間中心の認識パターン。戦後、GHQが推進したと言われる3Sと呼ばれる愚民政策。その本質も、ここにあるのではないか。Sports, Sex, Screen。いずれも人間の認識能力をこの第1段階に留め置こうとするものではないでしょうか。

 

そして、この段階に留まる人というのは、厄介なことに気位が高い。いわゆる上から目線で物を言われることを極端に嫌う。パターナリズムということが言われますが、これはあたかも父親のような目線で、相手のことを思って忠告することを意味しますが、この段階に留まる人には、それが我慢できない。何しろ、自分は完璧だと思っていて、何も疑問を感じずに生きている訳ですから。

 

安倍総理の認識パターンも、実は、これではないか。人を大切にする。但し、それは国民全体ではなく、自分の身の回りにいる人だけ。そこで、縁故主義に陥る。国会で野党から追及されることには、我慢がならない。このパターンの人には、決定的に想像力が欠如している。今、国民がどのような状況に置かれているのか、想像する力がない。明恵夫人も同じですね。

 

第2段階:芸術

 

もう少し認識の範囲を広げますと、自然や動物が見えてくる。そこから、芸術が生まれる。発想力や想像力が芸術を生み出す。ゴーギャンタヒチの娘たちを描いた。そして、例えば「いつお嫁に行くの」というタイトルが付される。(「いつ結婚するの」というタイトルの方が一般的かも知れませんが、私は、「いつお嫁に行くの」という方が好きです。)そして、私たちとは肌の色が違う、体つきが違う、着ている物が違うタヒチの娘たちが、瞬時にして、私たちと同じように生きていることが了解される。ああ、同じ人間なんだ、と思うことによってそこに描かれている娘たちを身近に感じることができる。そこに感動がある訳です。このように融合させる力、そこに芸術の力がある。「芸術的認識」と呼んでいいと思います。

 

政治や経済のことを考えますと、そこには論理的な思考が必要だ、ということになる訳ですが、私が検討した結果によると、論理的な思考に至るそのプロセスにおいて、どうしても発想力、想像力というものが必要になってくる。例えば、私は「認識の6段階」というものを考えた訳ですが、その中には「因果関係」という項目が入っている。例えば、サスペンスドラマがあって、真犯人の発見に努める。大体、キャリアのエリート刑事は机上で考える訳ですが、真犯人に辿り着くことができない。そこで、ノンキャリアの刑事が足で稼いで、閃く。とても些細な真犯人の言動と、犯行動機や凶器のありかを結び付け、因果関係を究明する訳です。人間のこのような力はどこから来るのか。歴史的な時間軸で考えた場合、人間は芸術によって、その能力に磨きをかけてきたに違いない。

 

自分の頭で考える。そういう力の源泉は、この「芸術的認識」から来ている。

 

例えば、欧米の一流のビジネス・パーソンは、高級なワインを飲みながら、芸術の話をする。これができなければ、一流として認められない。そこには、上に記したような事情が潜んでいるのだと思います。

 

かつて、「飢えた子供の前で、文学は有効か」という論議があったそうです。今の私なら、こう答えることができる。文学は、その子供の空腹を満たすことはできない。しかし、その子供が属する人間集団の認識能力を高め、ひいてはその人間集団の生存確率を高めることができる。

 

現在のコロナ禍によって、不要不急の外出は控えようということになって、ライブハウスや劇場の運営が窮地に立たされています。あたかもそれらの活動は、社会にとって不要なものだとでも言われかねない雰囲気があります。確かに、現在の危機的な状況下において、それは不急かも知れない。しかし、それは私たちの社会にとって、必要不可欠な文化なのです。芸術活動がなくなれば、自分の頭で考える人がいなくなる。人間の発想力、想像力が失われる。そうなれば、私たちは生きていけない。大変だとは思いますが、芸術家の方々にはエールを送りたいと思います。

 

ただ、「芸術的認識」にも限界がある。例えば、以前、作家の瀬戸内寂聴さんが死刑制度に反対して「死刑制度に賛成するのは大馬鹿者だ」と発言し、犯罪被害者の方々から非難を浴びた。結果、彼女は「大馬鹿者は私だった」と言って、謝罪したことがあります。

 

第3段階:論理

 

論理的認識については、このブログで既に述べましたので、ここでは「認識の6段階」を再掲することに止めましょう。

 

1. 記号
2. 情報
3. 因果関係
4. 概念
5. 原理
6. 論理

 

これで、3つの要素が揃いました。

 

第1段階:人間
第2段階:芸術
第3段階:論理

 

これで、オルテガが指摘した大衆の第2類型について、説明することが可能となります。オルテガは、「大衆的人間」として、科学者を批判しました。この大衆的人間というのは、本稿における第2段階が欠落した人間のことだと思う訳です。第1段階から、第2段階をすっ飛ばして、第3段階に向かう人というのは、実は、少なくない。彼らには、自分の頭で考える力や人の痛みを想像する力が欠如している。科学者の他にもエリート官僚や弁護士などが、このパターンに陥り易い。何しろ、子供の頃から勉強ばかりしてきて、芸術に親しむ時間が確保できていない。

 

私の人生経験からしますと、弁護士は確かにどういう法律があって、どういう判例がある、ということはよく記憶していますが、自分の頭で考えるという能力の欠落している人は、実に多い。例えば、人間の顔と同じで、同じ裁判というのは2つとない。すると、扱っている裁判をどのような戦略で進めるか、というのは自分の頭で考えなければならない訳ですが、それができない。訴訟戦略を立てられない。そういう弁護士はとても多い。ちなみに、立憲民主党、党首の枝野氏などは、このパターンではないか。現在の同党の執行部には、発想力と想像力が欠けている。だからダメなんだと思いますけれども。

 

まとめます。

 

マジョリティを構成する大衆が興味を持つ対象は「第1段階:人間」だけだと思います。それは、GHQの愚民政策から始まって、現在の既得権者である国際金融資本、経団連自民党やマスメディアによって、そう仕向けられている。そこにある文化形態としては、スポーツ、芸能、グルメ、お笑いなど。これを脱しないと、第2段階には進めない。

 

「第2段階:芸術」は、現在、軽視される風潮にありますが、本当は私たちにとって、とても重要な認識方法であり、文化であることが分かります。

 

第1段階から第3段階までバランス良く兼ね備えることができれば、それが1番いいパターンだと思います。特に政治家には、その素養が求められるはずです。