これは一体、何の罰ゲームなのだろう? そう思わざるを得ません。コロナ禍を乗り越えるために、みんなで何かをしよう、ということであれば、まだ、元気が出る。しかし、現実は反対で、みんなで家に引きこもろう。何もしないようにしよう、というのが現在私たちに求められていることなのであって、これはとてもやり切れない。
さて、文化認識論と称して、30を超える文章を掲載してまいりましたが、ここで一応の方向性が見えてきたように思います。そこで、ここまでの要旨をまとめてみたいと思います。
まず私たちは、その時代に生きる人々が共有している常識や価値観の中で生きています。フーコーは、これを「エピステーメー」と呼びました。エピステーメーは、主に以下の事柄によって変化します。(フーコーは、エピステーメーを科学の世界に限定して考えていたのかも知れません。そうであれば、私は少しエピステーメーを拡大解釈している可能性もありますが、そのような社会的な現象があることは明らかだと思っています。)
・科学的な発見、知見。
・社会的な出来事。
・異文化の融合。
若い人はあまり意識しないかも知れませんが、1995年にWindows 95というものが世に出て来る前は、会社の仕事はパソコンに依存していなかったのです。電子メールなどというものも存在しなかった。今とはまるで異なるやり方で、仕事をしていたのです。セクハラ、パワハラなどという言葉も存在しませんでした。このように時代の常識、価値観というのは、急速に変化し続けている訳ですが、日々の暮らしの中で、私たちはその変化を直接目にすることは少ないのです。
エピステーメーは急速に変化し続けている。それでは、社会制度も同じように変化しているかと言うと、そうではありません。「経路依存性」という原理が働き、社会制度はなかなか変化しないのです。「経路依存性」というのは、一度、一つの方向に向かって動き始めると、誰しもがその方向性に依存して、他の方向には向かわないという現象のことです。反動的な勢力が、これを維持しようとする訳です。
まず、政治家。特に与党の政治家には、世襲による2世、3世議員が多い。ある地域で地縁、血縁などのネットワークを使って、後援会組織を作る。2世、3世議員はこの後援会組織を世襲によって引き継ぐ訳です。すると、政治家は代わっても、後援会組織は同一性を維持する。そして、後援会の意向を尊重する政治家は、代替わりをしても、政治信条における方向性は、変わらないことになる。
官僚組織も同じです。例えば、日本は先の大戦で負けた訳ですが、その直後に「日本を強い国にしてはいけない、日本は貧しいままにしておこう」と考えたアメリカの影響もあって、財政法という法律ができた。その法律の趣旨に従って、国債の発行を抑制しようという「緊縮派」という勢力が登場する。すると、アメリカの手助けもあって、財務省の中で「緊縮派」は出世するという制度が出来上がる。経済環境が変わっても、財務省のこの体質は変わらない。
学者の世界も同じだと思います。例えば、憲法学は東大法学部が強いと言われていますが、そこに「護憲派」の教授が登場する。その教授に気に入られるためには、後進の学者たちも「護憲派」にならざるを得ない。結果、日本の憲法は70年以上も改正されることなく、今日に至っている。
中世的な徒弟制度というものもある。職人の世界では、親方のやり方をそのまま学習しなければならない。そうでなければ、暖簾分けをしてもらえない。だから、新しいものが生まれてこない。柔道、剣道なども、流儀というものがあって、その流儀に従って技を学ばなければ、段位を取得することができない。我流でやっていては、昇進が望めない制度になっている。文学の世界には新人賞というものがありますが、それを決める年長の選考委員という方々がおられる。彼らの支持を得なければ、受賞することができない。
IT技術の進展に伴い、会社でも不要となった業務は沢山ありますが、いつまでたっても、不要となったそれらの仕事にしがみついているオジサンたちは少なくない。
結局「経路依存性」というのは、既得権をベースとしている。この既得権を持って、それにしがみついている人たちのことを「権力者」と言っていいと思います。
「経路依存性」は、時として、大変な悲劇をもたらす。1つには、第二次世界大戦。日本の敗戦は決定的であったにも関わらず、権力者たちは戦争を続けた。その結果、広島と長崎に原爆が投下されたのです。権力者たちがもう少し早く決断をしていれば、これらの悲劇は回避されたに違いない。
2つ目としては、原発の問題がある。福島第一原発でメルトダウンが起こったのだから、もう原発はやめるべきだ。そういうことが明らかになった訳ですが、権力者たちは日本各地の原発を再稼働させようとしている。これも「経路依存性」がもたらす悲劇だと思います。最近、電力会社の内部でもコロナの感染者が出たということで、私などは不安で仕方がありません。
3つ目としては、東京オリンピックの1年延期という判断。無理に決まっています。一刻も早く、中止にすべきです。
「経路依存性」を支える人々の中には、権力者とは別に「大衆」がいる。大衆は、狭い文化領域の中で暮らしており、権力者が付与する補助金や、ささやかな特権を基礎として生活の糧を得ている。従って、権力者同様、社会制度の変化を望まない。
認識能力のパターンを検討すると、以下の4通りの人々が存在する。
大 衆・・・知識
芸術家・・・知識 + 想像力
権力者・・・知識 + 思考能力
単独者・・・知識 + 想像力 + 思考能力
結果として、想像力を持たない権力者と大衆が共調し、想像力を持つ芸術家と単独者が連帯する。そして、それらが互いに反目するという構図になる。
(権力者 + 大衆) ←対立→ (芸術家 + 単独者)
権力者と大衆は「経路依存性」を持ち、反対に芸術家と単独者は、社会制度の変化を希求する。
このようにして、時代の常識や価値観であるエピステーメーが変化し続けるのに対し、社会制度は現状を維持しようとする。そして、両者のギャップが拡大する。
では、どうすれば良いのか。私たちホモサピエンスは、もう20万年も生きてきたし、現在も世界中で60億人もの人々が生きようとしている。生きようとすること、生き残ろうとすること。それは、人間である限り、誰も否定し得ないに違いない。すると、私たちが生き残る確率、すなわち生存確率を高めることが正しい選択なのだ、ということになります。
その前提で考えると、エピステーメーと社会制度のギャップを埋める努力をした方がいい。言うまでもなく、人類は神が作ったのではなく、サルが進化したのだし、天空が回っているのではなく、地球が回っているのです。そういうことが分かったのだから、そういう前提で、社会制度を作り直す必要がある。
もちろん、人間のすることに完璧ということはない。変化させようとして、もしかすると誤った方向に変化させてしまう危険性だってある。しかし、その判断は300年後の人類に任せるしかないのであって、その時々を生きる人々は、正しいと思う方向に変化させる以外に手はない。進化論における自然淘汰と同じで、間違った方向に変化させた場合、その変化はいずれ淘汰される。
もう少し具体的に、何をどうすれば良いのか、と考える訳ですが、ここで1つのキーワードが出てくる。それは、「想像力」です。結局のところ、世の中を変えたいと思うか、そうは思わないか、その分かれ目は想像力を持つか否かにかかっている。起承転結という概念もありますが、これも因果関係を想像する技術だと思います。想像力がなければ、自分の頭で考えることもできない。そして、想像力を培うための方法としては、以下の事項を挙げることができる。
・自然と共に生きる。
・動物と触れ合う。
・芸術に接する。
・より多くの「記号体系」を解釈するように努める。
動物や文化の構成要素というのは、それぞれに体系を持っている訳で、本稿ではこれを「記号体系」と呼んでいます。例えば、猫には猫の世界がある。体系がある。それが記号体系ということの意味です。
単一の、若しくは数少ない記号体系の中で生きていては、想像力を身に着けることができません。例えば、何十年もサッカーばかりやっていては、グラウンドの外のことが分からなくなります。いくら法律の勉強をしても、経済のことは分かりません。そういう意味では、専門家や学者の言うことは、疑った方がいい。例えば、現在、私たちが直面しているコロナ対策について、専門家がしゃしゃり出てきて、いろんなことを言いますが、その対策について総合的に判断するためには、少なくとも病理学、疫学(統計学)、都市工学、経済学、法律学の知識が必要なはずです。そしてもちろん、それらの全てに精通している人というのは、存在しない。結局、それらの専門家の知見や意見を集約して、誰か想像力を持った人が、総合的に判断する必要がある。
話は変わります。何故、大衆について考える必要があるかと言えば、それは私たちの身近にいる人々のことだし、もう1つには、民主主義との関係がある。彼らは社会のマジョリティを構成していて、選挙になればみんな1票を持っている。すなわち、大衆は政治を動かす力を持っているということです。だから、民主主義の社会においては、大衆とは何か、この問題を考える必要がある。鬱屈した大衆について、正しく認識できなければ、政権交代は起こらない。野党は、そのことを肝に銘じるべきだと思います。大衆に迎合するべきだ、と言っているのではありません。上から目線で啓蒙するのではなく、大衆を正しい方向に導く。至難の業ですが、そのことが野党には求められているのだろうと思います。
最後に、ポストコロナについて。
既に、ゲーム機が売れる、株価が下がる、ペットを飼う人が増える、などと言われていますが、これらの事柄は今までの文化の延長線上にある。自粛要請という今の事態が、この夏以降まで続いた場合、もっと大きな変化が起こるのではないでしょうか。今までの延長線上では考えられない、「文化の非連続性」ということが起こるかも知れない。政府が現在のドケチ路線を継続した場合、中小零細企業や個人事業主において、破産が続発する。自殺者も増える。すると、今までの延長線上では考えられないような社会が立ち現れるかも知れない。それは、今よりも醜く、過酷な姿をしているに違いありません。
変える。変え続ける。変わる。変わり続ける。そうやって、文化を前進させること。そのことが、一番大切なのではないか。あと数日で64才の誕生日を迎える私としては、そう思うのです。
まだ聞いていない方は、どうぞ! ストーンズの新曲です。
Rolling Stones / Living in a Ghost Town
https://nme-jp.com/news/88332/