文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

反逆のテクノロジー(その2) 表意文字と表音文字

同一の言語を使っている民族がいたとして、その民族が認識している対象範囲は、その言語を調査すれば分かる、という話があります。例えば、テレビを持たない民族は、テレビという言葉も持たない。そう言えば、発展途上国に駐在している商社マンから、現地の言葉は比較的簡単に学習できるという話を聞いたことがあります。

 

そして残念ながら、日本語には「言語」を示す名詞は多くない。他方、フーコーの著作を読んでおりますと、フランス語には「言語」に関わる名詞がとても多いことが分かります。ラング、ランガージュ、パロールエクリチュールなど。これらのフランス語は「言語」と訳される場合が多いようです。私はフランス語を勉強したことはないのですが、多分、ランガージュというのは、英語のlanguageに相当する単語ではないでしょうか。

 

これらのフランス語の中で、私が注目しているのはパロールエクリチュールです。パロールは、話されたこと、話し言葉、と訳して良いようです。他方、エクリチュールは、書かれたこと、書き言葉を意味している。すなわち、この2つを明確に区別していない日本人に対し、フランス人は、少なくともフランスの哲学者は、この2つを明確に区別している。(例えば、デリダの有名な著作に「エクリチュールと差異」というものがあります。まだ読んでいませんが。)

 

パロール・・・話されたこと。話し言葉

エクリチュール・・・書かれたこと。書き言葉。

 

パロールは、人間が声帯を震わせて発話する訳ですから、身体的な表現方法だと言えます。これは「歌」にも共通するもので、女性的で、共感を求めるのに適しており、主観的だとも言えます。そして、何かを話すという行為は、その言葉を聞く人が存在することを前提としている。またパロールは、時間の中に存在しているとも言えます。

 

他方、エクリチュールとは孤独な作業の結果生まれるものです。文字を書く、文字を読むという行為は、大体、1人で行われます。現在はパソコンを使ってデジタルデータとして文字を作成する場合が増えていますが、元来、文字を書くという行為は、石に刻む、木を彫る、毛皮に傷を付ける、紙に書く、という現実的な「物」に対する働き掛けによって成り立っていたはずです。こちらは、男性的で、批判的で、客観的だと言えます。そしてエクリチュールは、空間の中、「物」の中に存在しているのです。

 

文字に関わるには手間がかかりますが、文字は時間を超越する。そしてエクリチュールは、主体を起点として客体に到達するための手段なのだと思うのです。

 

人間と他の動物との差異は何かという話で、「言葉を持っているのが人間だ」と言われるケースが多いように思いますが、実は、そうではないない。文字を持つか否か、そこに本質的な差異があるのではないでしょうか。

 

例えば、街のチンピラが肩をいからせて、何かあれば「コノヤロー!」と怒鳴る。これ、猫が毛を逆立てて「シャー!」という声を発するのと似ている。猫に限らず、人間以外の動物だって、多くのコミュニケーション手段を持っていますが、それらはどれも身体と直接的な関係を持っているはずです。

 

やはり、人間はパロールから出発して、エクリチュールを目指す。そうあるべきではないかと思う訳ですが、事情はもう少し複雑なようです。ご案内の通り、文字にも表意文字表音文字の2種類がある。この点、フーコーの「言葉と物」に面白い記述がありますので、抜粋させていただきます。(P.137)

 

- 文字表記には、語の意味をあらわすものと、音を分析して復元するものとの二つのタイプが知られている。ある種の民族においてまったくの「天才的思いつき」から後者が前者の地位を奪ったと考えるにせよ、あるいは、両者がほとんど同時に、前者は絵を描く民族によって、後者は歌う民族によって(二種類の文字表記はそれほど異質なものなのだ)生み出されたと考えるにせよ、両者のあいだに厳密な分割線が引かれることにかわりはない。語の意味を図示的に表象することは、起源においては、語の指示する物を正確に描くことである。実を言えば、それはほとんど文字表記とはいえぬ絵画的な模写にすぎず、きわめて具体的な物語以外まず書きうつすことはできない。 -

 

上記引用箇所の中で、「絵を描く民族」「歌う民族」という表現が出てきますが、これはちょっと賛同しかねます。同一の民族の中に、絵を描く人もいれば、歌う人もいると思われるからです。ここはむしろ、男が呪術の一環として絵を描き始め、それが象形文字表意文字になった。そして、動物の鳴き声を真似たり歌ったりしていた女が、音に注目し、表音文字を作ったと考えた方が合理的ではないでしょうか。

 

しかし、日本語を例に考えますと、別の推測が出てきます。まず、中国大陸で表意文字としての漢字が発明された。それが、日本に入ってくる。漢字は複雑だし、書くのに時間が掛かる。そこで、漢字を省略することによって、表音文字としてのひらがなやカタカナが発明された。仮にヨーロッパにおいても同じような経緯があったとすれば、まず、表意文字があって、それが簡素化され、表音文字としてのアルファベットが生まれた可能性も否定できない。但し、Wikipediaによりますと、アルファベットの起源というのは、未だに良くは分かっていないようです。また、漢字の本家本元である中国では、未だに表意文字である漢字のみが使用されている。その理由は分かりませんが、それだけ漢字が中国文化に浸透しているのかも知れません。

 

文字について、このように考えて来ますと、再び、2項対立が出現する。すなわち、表音文字に根差した西洋と、反対に表意文字を基底に置く東洋。「言葉と物」の中にも、次の一節があります。(P.138)

 

- 東方と西欧との本質的相違は、まさに空間と言語のこの関係のうちに位置している。-

 

このような見方を発展させてみると、西洋と東洋との本質的な違いが見えてくるように思うのです。

 

西洋 - 表音文字 - 音楽に強い - 抽象的観念に強い - 動的

 

東洋 - 表意文字 - 美術に強い - 物との関わりが強い - 静的

 

まずは、西洋の方から考えてみます。そもそも、表音文字であるアルファベットは、音とのつながりにおいて成立しているので、これは音楽との相性が良い。例えば、ドレミのドの音はC、レの音はDと表わされます。そして、西洋において楽譜が発明され、和音についての研究が進み、ベートーベンなどのクラッシックと呼ばれる音楽の体系が生み出された。アルファベットは意味を持っていないので、その組み合わせによって生まれる新しい単語は、現実的、具体的な拘束を受けない。従って、抽象概念を表現するのに優れた特性を持っていると思います。音楽というのは、歌にしても楽器の演奏にしても身体的な動作を伴うもので、西洋の文化や西洋人のメンタリティは、動的だと言える。

 

個人的な経験もあって、私は上記のように考えるのです。現役時代、私の勤務先はスウェーデンの会社に買収されたのです。以後、必要に迫られて私は西洋人と付き合わなければならなかった。私の上司も、フランス人になりました。まず驚いたのは、彼らは大した用もないのに、頻繁にスウェーデンから日本にやってくるのです。こちらは忙しい中、対応を迫られる訳で迷惑に感じていたのですが、それに留まることなく、今度は、頻繁にスウェーデンまで来い、と言ってくる。片道、12時間、往復で24時間もかかる訳です。苦労して行ってみても、大した仕事はない。何をするかと言うと、会食するのです。ビールやワインを飲みながら、雑談をする。彼らはそういうことをとても大切に思っているようでした。また、会食する際には、必ずその主催者(ホスト、ホステス)がいる訳で、そういう会食の場を主宰することによって、主催者が自らの権限を誇示しているようにも見えました。例えば、皆が雑談をして賑やかになっているときに、突然、主催者がワイングラスをフォークで叩く。カンカンという甲高い音が響き渡り、すると誰もが雑談を止め、主催者に注目する。そうしなければならない暗黙のルールがあるように見えました。

 

もう1つ。個人的な経験からしますと、西洋人(米人も含みます)は、あまり深く物事を考えないように感じました。まず、やってみる。ダメなら、別の方策を考える。日本人はよくHowを主張しましたが、欧米人は常にWhat、すなわち何をやるのか、そのことしか言わなかったように思います。

 

いずれにせよ欧米人というのは、社交的で、人間に興味を持ち、活発だという印象があります。そう言えば、西洋の絵画には人物画が多いような気もします。

 

対する東洋ですが、こちらは文化の根底に自然や物との関わりがあるような気がするのです。随分と前に台湾の故宮博物院を訪れたのですが、そこには膨大な量の美術品や宝物が展示されていました。日本の熱海市にあるMOA美術館も同様で、絵画、骨董、加えて屏風や硯箱のような宝物が展示されています。美人画など人物を素材とする絵画もありますが、歴史的に見ますと、やはり東洋では水墨画のように風景を描いたものの方が多いのではないでしょうか。東洋の文化、東洋人のメンタリティは静的だと思います。

 

西洋と東洋の違いには、自然環境や歴史的な相違点など、いくつかの理由があるのだろうと思いますが、使用している文字の違いが、大きな原因の1つとなっていることに間違いはなさそうです。

 

では、思想的にはどちらが優れているのか、という問題があります。西洋の場合、良くも悪くも振れ幅が大きい。とにかく考える前に行動する。そこで、大きな失敗をする訳ですが、西洋には失敗した後、ごく一部の人々が反省をするという傾向があるように思うのです。この反省をした人々が、西洋の思想を築いてきた。例えば、ヨーロッパにおいて大規模な宗教戦争があった。その反省から社会契約論が生まれ、近代思想が育まれる。2度の大戦とナチズム、広島、長崎への原爆投下という大惨事があって、反省する。そこで、ポストモダンが生まれる。これらの歴史を振り返って反省する人々こそが、哲学者であり、思想家なのだと思います。

 

他方、東洋人は静的なので、歴史上の振れ幅が狭い。従って、大きな失敗をしにくい。それが理由なのかどうか分かりませんが、誰も反省しようとしない。反省しようという発想は、権力の前にかき消されてしまうのかも知れません。そして、思想なり哲学というものが育たない。そういう関係にあるのではないでしょうか。

 

いずれに致しましても、フーコーは明らかに表音文字の方が優れていると主張しています。これに対し、21世紀の日本に生きる私としては、異議を申し立てたい。意味と直結している表意文字の方が、論理的な思考を行うには適している。従って、本当に東洋人が歴史を振り返り反省することを覚えたならば、現在の思想や哲学の状況は一変する可能性があるのではないでしょうか。

反逆のテクノロジー(その1) はじめに

しばらくこのブログの更新が滞っていましたが、主にフランスの哲学者ミシェル・フーコー(1893-1984)を題材とした新規連載、「反逆のテクノロジー」を始めることに致します。本稿の目的は、フーコーの思想的な軌跡を学術的に検討するというものではありません。そのような文献は既に多く出版されていますし、それは私の力量ではなし得ないことです。そうではなくて、時にフーコーの胸を借り、時にフーコーを遠慮なく批判し、フーコーの思想と私の文化論を交錯させてみたいと思っているのです。

 

ところで、フーコーは次のように述べています。(文献1)

 

「わたしは、普遍的な真理には懐疑的だ」

 

フーコーの思想を考える上で、上記の発言は重要な前提を示しています。すなわちこの発言は、フーコーが近代哲学の提唱した「理性」に懐疑的であったことを意味している訳です。しかし、仮に「普遍的な真理」が存在しないのであれば、人は何故考えるのか、という素朴な疑問が湧いてきます。この点、私は、次のように考えています。

 

確かに、「真理」というものは存在しないのかも知れない。「真理」が存在するのかしないのか、それは人間が知り得ない領域に属する設問なのではないか。例えば、人間は何故、存在しているのか。この設問に答えられる人は、多分、いないでしょう。それと同じで、結局は考えても分からないのです。では、考える必要がないかというと、そんなことはありません。人間は、深く思考すべきなのです。その目的はいくつかあるのでしょうが、1つには、権力に負けない自律的な思考を身に付けることであって、2つ目としては、人生という名の芸術作品を完結させるために思考するのだと思います。フーコーは、次のようにも述べています。(文献2)

 

「すべての個人の人生=生活とは、一個の芸術作品でありうるものなのではないでしょうか。なぜ、絵画や建物が美術品(芸術対象)であって、私たちの人生=生活がそうではないのでしょうか」(「倫理の系譜学について」)

 

従って、私たちは思考すべきなのです。しかし、そうは言っても、一体、何をどう考えれば良いのか。それは、簡単には分かりません。その答えは、人によっても異なるはずです。そこで、先人の知恵に学ぶ必要が出てきます。

 

  • 何を考えるべきなのか。
  • 何故、そのことを考えるのか。
  • どのように考えるべきなのか。

 

上記の3点を学ぶために、私たちは本を読んで、先人たちの知恵を学ぶのだろうと思います。言うまでもなく、21世紀の日本に生きる私とフーコーの間には、時間的、空間的、言語上の隔絶があります。しかし、だからこそフーコーの思想と向き合ってみる意義があるように思うのです。そのような隔絶があるからこそ、驚きがあり、発見があるのではないでしょうか。私は、まだフーコーの文献を読み始めたばかりですが、これからも読み続けながら、このブログに記事を掲載していきたいと思っています。

 

ところで、本原稿のタイトルである「反逆のテクノロジー」の意味について、少し述べておきたいと思います。まず、フーコーは近代ヨーロッパにおける理性主義に対する反逆を企てた。例えば、歴史学にも反旗を翻したのです。それまでの歴史学というのは、いつ、どこで、どのような事件が起こった、ということに注目していたのです。しかし、フーコーは各時代の人々が何をどのように思考していたのか、そのメカニズムに注目したのでした。そこで、当時の人々が依存していた科学的知見、物事の見方、常識などに焦点を当てることとし、それをエピステーメーと呼んだのです。加えてフーコーは生涯を通じて、権力とは何か、問い続けたのです。権力と戦い続けた。それがフーコーの人生だったように思います。

 

そしてフーコーは、テクノロジーについても4つの類型を提示しています。

 

 

4番目の「自己のテクノロジー」とは、「自らに関わる倫理的作業であり、自己の変容に関する技術といえる」のです。(文献2)

 

すなわち、反逆のテクノロジーとは、権力から離れ、自律的に思考する自己を確立し、芸術作品としての人生を完結させるための技術であると言えます。その本質にどこまで迫れるか分かりませんが、お付き合いいただければ幸いです。

 

なお、スマホではご覧になれないかも知れませんが、パソコンでは画面の右下にカテゴリーという欄があります。ここをクリックすると関連する原稿を参照することができます。新たに、「ミシェル・フーコー」というカテゴリーを設置します。

 

(参考文献)

文献1: FOR BEGINNERS フーコー/Cホロックス/白仁高志訳/現代書館/1998

文献2: フーコー今村仁司・栗原仁/清水書院/1999

文献3: 言葉と物/ミシェル・フーコー渡辺一民佐々木明訳/新潮社/1974

 

暑中お見舞い申し上げます。

日ごとに暑さも増してきましたが、皆様におかれましては、いかがお過ごしでしょうか。今日、東京都内で確認されたコロナの感染者数は367人となり、記録を更新したそうです。暑きコロナの夏。なんとか生き延びようではありませんか。

 

さて、石の上にも3年と申しますが、おかげ様でこのブログを開設してから4年が経過しました。とは言え、最近、記事の更新が滞り気味になっており、この際、そこら辺の事情を含め、所感を報告させていただこうと思います。

 

〇 話し言葉と書き言葉

 

少し前に「話し言葉と書き言葉」という原稿を掲載させていただきました。このタイトルには、私なりの思い入れがあった訳ですが、今になって読み返してみますと、述べたかったことの半分も言えていない。

 

率直に言いますと、私としては、話し言葉よりも書き言葉の方が重要だと思っているのです。人間の歴史を振り返ってみますと、フランス革命があって人権宣言が生まれた。アメリカの独立戦争があって、独立宣言が生まれた。日本で言えば、古の時代に古事記や日本書記が書かれ、日本と言う国が生まれた。現在は、日本国憲法があって、日本という国家が存在している。全て、文字で書かれたものです。全ての法律は文字で書かれているし、ドストエフスキー罪と罰だって、事情は変わりません。

 

人間が何かを深く思考するための道具として、文字は人間と共に存在する。そして、人間が行動によって何かを成し遂げたとき、それは文字によって記録される。だから、書き言葉の方が重要だ、と私は考えている訳です。

 

しかしながら、言語学ソシュールは、話し言葉に注目した。ソシュールは、話し言葉の線状性や恣意性ということを言って、話し言葉を構成する最小単位は音素にあるということを突き止めた。加えて、現代と言う時代は、圧倒的に話し言葉が優位にあり、書き言葉はないがしろにされている。少なくとも、私はそう感じている訳です。一応、ツイッターは文字を含みますが、文字数は制限されているし、誤字や脱字の多さにうんざりとさせられることも少なくありません。不便なスマホを使っているせいかも知れませんが、現代の日本人は書き言葉を大切にしなくなった。例えば、ツイッターの文章を読んでおりますと「ここに点を打てば、この文章は各段に分かりやすくなるのに」などと思う訳です。

 

書き言葉というのは、言わば書き手の分身だと思うのです。文章を読めば、大体、その書き手がどんな人なのか分かる。そういうことは少なくない。自分の分身であるのだから、言葉はもっと大切にした方がいい。自戒を含めて、そう思うのです。

 

話し言葉よりも書き言葉の方が重要だ」と、私と同じようの考える人は、この世に存在しないのか。そういう、半ば絶望的な気持ちになっていたのですが、それがいたのです。私と同じように考えていた人が。

 

- これ以後言語は、書かれたものであることを第一義的性格とするようになる。声の音は、言語の一時的で心もとない翻訳に過ぎない。 -

 

上記の一節は、ミシェル・フーコーの「言葉と物」からの引用です。そして、この問題は更に複雑な問題を含んでいるのだろうと思います。すなわち、話し言葉というのは、認識の起点である人間の身体から発せられるもので、対する書き言葉は認識の到達点を示すのではないか。

 

いずれにせよ、これは哲学上の大問題であるに違いない。ちなみにフーコーが死んで、その10年後にフランスで発行された論文、インタビュー集のタイトルは、「言われたことと書きしるされたこと」というものだったそうです。

 

この問題、「未だ私には見えていない何か」を孕んでいる。

 

〇 通時態と共時態

 

歴史的な時間軸で物事を見るという方法を一切捨てて、現在、世界はどうなっているのか、という側面のみを検討の対象にしようと考えたのが、言語学ソシュールで、その方法論を踏襲したのがレヴィ=ストロースです。この歴史的な時間軸で物事を見るという方法が「通時態」であって、現在のみを対象に検討するという方法を「共時態」と言います。

 

共時態で人類を見たレヴィ=ストロースの思想は「構造人類学」とも呼ばれ、後の構造主義へとつながる。私は、この立場に対する違和感を持ち続けてきました。歴史的な時間軸で考えなければ、見えてこない本質が沢山あると思っているからです。例えば、無文字社会や古代の認識方法のことを私は「芸術的認識」と呼んでいます。動物の真似をして、歌ってみる。踊ってみる。動物の絵を洞窟の壁に描いてみる。そういうことです。その後、人間は農耕、牧畜を生業としたことから、定住するようになった。そこで、人間の集団は固定化され、権力が生まれる。芸術に権力が加わり、それが宗教となる。このように通時態で考えるからこそ、芸術や宗教の本質が見えてくる。共時態では、そういうことが分からない。これが、私が持ち続けているレヴィ=ストロース構造主義に対する違和感なのです。

 

これに対して、正面から通時態で物事を見ようという思想家が登場した。またしても、それがフーコーだった。彼のデビュー作とも言える論文のタイトルは「狂気の歴史」であって、まさしく通時態で考えていることを象徴している。

 

フーコーは、当初、構造主義の一種だと誤解されたようですが、後に、解釈が修正されたそうです。共時態としての構造主義に対し、通時態で考えるフーコー。180度違う、と思います。

 

〇 権力とは何か、どう向き合うべきなのか

 

このブログでは、政治家のみならず、弁護士、官僚、大学教授などを権力者として、批判してきました。すなわち、私としては権力というものを、幅広く解釈している訳です。そして、フーコーの解説書(フーコー清水書院)には、次の一文がありました。

 

- 権力の病いとは、私たちの日常生活が極度に凝縮されているという意味において現在の私たちの問題であり、権力の過剰ゆえに必ず日常のいたるところにも権力がある。-

 

フーコーが権力についてどのように考えていたのか、未だ、私はよく理解していませんが、上記の抜粋の「必ず日常のいたるところにも権力がある」という箇所は、私の主張に通底しているように思います。

 

では、権力とはどう向き合うべきか。「戦わずに逃げろ」という主張もあるようです。但し、前記の解説書によれば、「言説的実践」によって、対抗すべきだと書いてある。これを私なりに解釈すると、言葉の力で対抗せよ、ということになる。

 

〇 ラストウォーカーとトップランナー

 

人間社会の歩みを山登りに例えてみましょう。例えば、100人の集団で、高く険しい山に登ろうとしている。後ろの方には息も絶え絶えになりながらも、遅れまいとして必死に歩いている人々がいる。この人々が社会的弱者だと言える。思想的な側面から言えば、大衆だとも言える。これらの人々に救いの手を差し伸べようとするのは、現実の政治の世界では、正しい選択だと思うのです。れいわ新選組がそうしているように。但し、この集団全体が生き延びるためには、集団を跳び抜けて、先頭を走る者も必要ではないか。そして、ある時は振り返り、こう叫ぶのです。「おーい、ここまでくれば泉があるぞ」とか、「おーい、こっちの道はダメだ。こっちにはくるな!」といった具合に。そして、思想的な側面から言えば、ミシェル・フーコーは、このトップランナーだったに違いない。

 

とりとめのないことを縷々書き記しましたが、今後、私がなすべきこと、それはフーコーと向き合うことなのです。もう少し時間が必要ですが、準備が整いましたら、フーコーに関する記事を連載する予定です。

 

実体法と手続法

法律は、制定法と判例法、刑事と民事など、いくつかの方法によって区分されますが、永年私が興味を持ってきた区分方法に、「実体法」と「手続法」というものがあります。実体法というのは、現実に即して、実質的な事柄を定めている法律を指します。その典型として、民法を挙げることができます。民法には私人間の取引や、親族関係、相続など、私たちの生活に根差した事柄が、実質的に定められています。例えば、契約ということがある。契約とは約束のことですが、現実社会において約束というのは、往々にして破られる。更に、約束を破られた側に損害が発生する場合があります。このような場合、損害を被った人は、約束を破った人に対して、損害賠償を求めることができます。民法には、そのようなことが書いてある訳で、これを読み進めて行きますと、「なるほど、そうだなあ」とうなずくことができる。

 

実体法としての民法に対応する手続法は、民事訴訟法ということになります。こちらには、民事訴訟に関する手続ばかりが定められている訳です。従って、これを読んでも、一向にピンとは来ないのです。裁判を経験したとか、裁判に興味を持っている人を除けば、民事訴訟法を読んで面白いと感じる人は、ほとんどいないのではないか。但し、歴史的な沿革や背後に潜むロジックを読み解いていくと、何故、民事訴訟法にそう定められているのか、次第に理解することができます。

 

私たちの生活や慣習に関わる事項を定めたものが、実体法としての民法。これに対して、裁判の手続をひたすら論理的に定めたものが、手続法としての民事訴訟法ということになる訳です。実体法と手続法というのは、本質的に異なっている。この違いというのは、何処からくるのか。

 

例えば、日本の法制度は一夫一婦制を前提としています。従って、夫婦のうち、どちらかが不倫をすれば、それは離婚原因となる訳です。これは、民法にそう書いてあるのです。しかし、一夫一婦制が本当に正しいのか、そんなことは誰にも分からない。こんなことを書くと叱られそうですが、ライオンなどの動物は一夫多妻制ですし、これを採用している人間の社会だってあります。また、乱婚制だと、オスの精子が互いに競争することになり、強い精子だけが生き残る訳です。反面、一夫一婦制だと精子間の競争がない。そこで、弱い精子でも生き残ることとなり、次第に人間の女性は妊娠しにくくなってきている。こういう生物学的な問題もある訳です。実際、不倫をする人というのは後を絶たないし、離婚率も高まる一方です。どうすれば良いのか。そんなことは、誰にも分からない。しかし、民法は一夫一婦制を推奨している。つまり、民法などの実体法が定めているのは、現実世界をよく見て、一応、これがいいのではないか、という願望なり、仮説を定めているのではないか、と思えてくる。

 

他方、裁判というのは人間が作り出す世界なのであって、現実世界とは、一応隔絶している。だから、ひたすら論理に従って法律を定めることができるのではないか。これは、例えば三角形や四角形という概念を作り出し、その面積や角度を計算する数学に似ている。

 

もう少し、裁判について考えてみましょう。現実空間の中に、裁判所という建物が存在します。その中には、裁判官とか書記官と呼ばれる人たちが働いています。実体法である民法も、手続法である民事訴訟法(人事訴訟法)も整備され、準備万端整っている訳ですね。すると、そこへ離婚を求める人がやってくる訳です。そして、裁判が始まります。離婚原因を作ったのはどちらか、慰謝料はどうするか、財産分与や親権はどうするか。そういうことが争点となる訳ですが、法律は既に整備されているので、裁判官は粛々と手続を進め、結論が得られる訳です。

 

この離婚訴訟の当事者たちが抱える現実は、多種多様なのだろうと思います。若い人もいれば、高齢者もいる。金持ちもいれば、貧乏人もいる訳です。離婚原因や家族構成だって、多種多様な訳です。私たち人間は、このように多種多様な環境の中で、生活しているのですから。

 

このように考えますと、私たちが生きている社会は、3つの位相によって成り立っているのではないか、という仮説を立てることができます。すなわち・・・

 

1.現実領域

2.想像領域

3.論理領域

 

「現実領域」とは、上の例で言いますと、離婚訴訟の当事者たちが直面している多種多様な現実のことです。これはとても直接的で、具体的で、動的で、短期的な領域です。

 

「想像領域」とは、現実領域に立脚した人間の願望であり、概念であり、仮説のことです。実体法である民法のみならず、憲法などもこの領域に属すると思います。例えば、憲法には「国民はみな法の下に平等である」と書いてありますが、現実はそうなっているでしょうか。国民がコロナの影響で苦しんでいる今日も、国会議員は高額の所得を得ています。Go Toキャンペーンなどと言っている訳ですが、東京都は除外されそうです。現実は、とても平等と言うには程遠い状況にある。すると、憲法には何故、そう書いてあるのか。平等という概念を提示すると共に、そうあるべきだ、そうであったらいいな、という願望が書いてあるのです。

 

「論理領域」とは、現実とは離れ、人間が作り出した世界の中で、ひたすら論理的な妥当性を求める領域だと言えます。これは抽象的で、長期的で、静的だと言えます。

 

法律学というのは、人々の暮らし、すなわち現実領域から出発している。そして、概念を作り出し、「こうすれば解決できるのではないか」という風に想像力を働かせ、仮説を立てる。最後には、論理的な妥当性を追求する。

 

現実領域 → 想像領域 → 論理領域

 

経済学は反対に、まず、貨幣などの数字から始まる。数字は統計的な手法で解釈され、インフレとか、スタグフレーションなどの概念を生む。そして、現実的な商行為だとか政策に結びついていく。

 

論理領域 → 想像領域 → 現実領域

 

政党についても、この3つの領域に属する文書というものが存在する。

 

現実領域・・・政策

想像領域・・・綱領

論理領域・・・規約

 

フランスの哲学者であるミシェル・フーコーは、「狂気の歴史」を執筆する際、多角的な検討を行ったと言われています。現実的に、狂気がどこに存在するかと言えば、それは患者の中に存在する。そして、患者と向き合うのが臨床医学。論理的に体系づけるのが精神病理学

 

現実領域・・・患者

想像領域・・・臨床医学

論理領域・・・精神病理学

 

アカデミズムとの関係で言えば、往々にして学歴エリートというのは、論理領域において能力を発揮する。これが机上の空論を生むのだと思います。

 

例えば、音楽理論をきちっと勉強して、発声練習を行えば、恋の歌をりっぱに歌い上げることだってできます。たとえその歌手が、失恋をした経験がなくても。そういうことは、起こり得るのだと思うのです。しかしそれでは、本物の歌手とは言えない。

 

フーコーが採用した方法論のように、3つの領域の全てが大切なのであって、本当の学問とは、そうあるべきではないでしょうか。

 

余談ですが、れいわ新選組山本太郎さんは、「現実領域」の中で生きているように思います。困っている人を見ると、すぐに助けようとする。炊き出しには出かけるし、コロナでホームレスになった人を見かけると、勢い余って東京都知事選に立候補したりする。社会的弱者の声を最優先に聞こうとする。そこに理屈はないのではないでしょうか。

 

大西つねきさんは、「想像領域」の中で生きている。彼は、医療や介護の現場について、多くの知識は持っていない。かと言って、自らの主張を論理的に説明することもできない。

 

私はと言うと、「論理領域」の中で生きている。いつも考えているので、周囲からはボーとしているように見られている。困っている人を見かけると、その人を救済するための法律はいかにあるべきかと考えはするが、現実的対応能力は欠落している。結局、何の役にも立っていない。

 

なかなか、3つの領域を自由自在に飛び交うことのできる人というのは、少ないのではないか。政治家という役割を考えた場合、やはり太郎さんが一番適しているのかも知れません。

 

余談を重ねて恐縮ですが、宗教と文学の本質は、「想像領域」にあると思います。

 

大西つねき氏の除籍について

世間一般の方々にしてみれば、大西氏がれいわ新選組を除籍になったからと言って、左程、インパクトのある話でないでしょう。しかし、支持者にしてみれば、一連の出来事は晴天の霹靂だった訳で、昨夜は熟睡できなかった人も少なくないと思います。

 

事実関係につきましては、既に動画を含め、ネット上に拡散されていますので、ここでは省略させていただき、私の考え方をまとめてみたいと思います。

 

結論めいたことを先に言えば、今回の件におきましては、処分を受けた大西氏の側、処分を下したれいわ新選組の側、双方に落ち度があったものと思います。

 

まず、大西氏の主張ですが、高齢化する社会の現状に鑑み、介護する若者が貴重な時間を費やしていることが問題だ、という所に出発点があるように思います。そして、高齢者には先に逝ってもらう必要があり、その選別は政治が行うべきだ、と考えているようです。つまり、高齢者を介護する必要性と若者がそのために費やしている時間を天秤に掛けた場合、若者が費やしている時間の方を尊重すべきだ、と言っているのです。

 

高齢者の介護 < 若者の時間

 

こういう図式になる訳ですが、このような主張を私は今日まで、聞いたことがありませんでした。これは、「もう死にたい」という個人の意思を前提とした安楽死尊厳死の議論とは異なるものです。また、製薬会社や病院の経済的な利益を目的として、回復する見込みのない人を薬漬けにして生き永らえさせる終末医療の問題とも異なります。更に言いますと、「極限状況における命の選択」という問題とも異なります。

 

「極限状況における命の選択」というのは、例えば、コロナの重症患者が2人いるが、人工呼吸器は1台しかない。重症患者の年齢は1人が30才で、他方が80才だったとする。このような場合、医師はどちらの患者を救済すべきか、という問題で、イタリアでは現実にこのような問題に直面した医師が苦悩しているというニュースもありました。若い人の命を選択しようですが。ただ、大西氏が言っている問題は、これとも違う。

 

山本太郎氏は、大西氏の考え方を「優生思想にもつながるものだ」と非難していましたが、当然、大西氏の考え方はこれとも異なる訳です。

 

人は、新しい何かに出会ったとき、既存の概念に照らして理解しようとする傾向があるようです。しかし、今回の大西氏の主張は、既存のどの概念にも当てはまらなかった。結果、大西氏と山本太郎氏は理解し合うことができず、消化不良のまま大西氏の除籍処分が決定されてしまった。これが支持者の間では、わだかまりとなっているに違いないと思います。

 

大西氏の落ち度としては、自らの考え方を正確に表現することができなかった点にあると思います。これが1点目。加えて、「高齢者には先に逝ってもらう」というのであれば、具体的にどうするのか、その説明がなかった。多分、大西氏は具体的な制度設計までは考えていなかったのではないでしょうか。仮に大西氏が哲学者だとして、自らの思想を表現しているのであれば、それで良かったのかも知れません。しかし、大西氏は自らを政治家だと言っている。選挙にも立候補している。政治家であれば、最終的には政策として説明する責任があるのではないか。この責任が果たされていない。更に、政治が命の選別をすべきだ、という主張そのものの当否はどうか。私は、自らの意思を前提とする安楽死尊厳死の議論は積極的に進めるべきだと思っていますが、私の命を政治によって選別されたいとは思いません。

 

次に、れいわ新選組と山本氏の側の落ち度について、考えてみます。

 

そもそも、人に刑罰を科す場合には、罪刑法定主義という原則を守る必要があります。これ、言葉は難しそうですが、中身は簡単なことです。時の権力者の気分次第で罰せられたのでは、人々は困ります。例えば、ある日突然、煙草を吸った者は死刑だ、と言われたとしたら、喫煙者は困ります。そこで、人に罰則を与える場合には、どのような行為に対し、どのような罰則が科されるのか、予めルールを決めて、そのルールを公表しておくべきだ、という考え方になる訳です。これが、罪刑法定主義と言われる原則なのです。とても重要な原則なので、これはフランスの人権宣言にも書いてあるのです。

 

今回のケースで考えますと、れいわ新選組は、懲戒を下す場合の行為類型とその懲戒の程度(刑の重さ)については、予め、規約に定めておくべきだったのです。ところが、れいわ新選組の規約に懲戒規定はなかった。すると、罪刑法定主義に従って考えた場合、れいわ新選組は大西氏に対して懲戒を下す権限を持っていなかったことになる。

 

この点、7月16日の総会で、急遽、懲戒規定を設けたようですが、そんなことをしてもダメです。大西氏が動画を公開する(7月4日?)の以前に懲戒規定を定め、それを公開しておかなければならなかった訳です。法律を遡って適用してはいけない。これを「法律不遡及の原則」と言います。

 

次に、大西氏に対し、レクチャーを受けるよう要請したこと。一般的な教育をれいわ新選組が構成メンバーに対して行うことは自由です。しかし、レクチャーを受けるよう要請し、実際にレクチャーを受けさせた上で、更に、懲戒を下すということでは、大西氏の人権を侵害していることにならないでしょうか。レクチャーを受けさせたのであれば、懲戒は下せない。懲戒を下すのであれば、レクチャーを受けさせるべきではなかった、と思います。

 

レクチャーを受けさせるということ自体が懲戒の一種であり、更に、除籍という懲戒を加えたのですから、これは2重処罰禁止の原則に反すると思います。一事不再理とも言います。一事不再理とは、一つの行為に対して、2回以上の処罰を加えてはならない、そういう原則のことです。

 

私は、大西氏の思想は誤っていると思います。しかし、どのような思想を持ち、それをどのように表現するか、それは個々人の自由に委ねられるべき事項だと思います。「あなたがどのような思想を持ち、どのように表現するか、それはあなたの自由だ。しかし、あなたの考え方はれいわ新選組のそれとは相容れないものである。従って、離党してくれませんか」というのが、今回、れいわ新選組が採り得る態度の限界だったのだろうと思います。

 

前にも書きましたが、山本氏とれいわ新選組は経済には滅法強い。これは素晴らしいことだと思います。反面、法律的な側面から言えば、からっきしダメなんです。結果、老人対若者、介護を受ける者と介護をする者の対立構図を浮き彫りにしただけで、多くの支持者たちがれいわ新選組に対する支持を止めると表明することになった。残念でなりませんが、ここから得られる教訓としては、経済も法律も、その双方が大切だということではないでしょうか。

 

話し言葉と書き言葉

どうやら1本の線のようなものが見えてきました。そこで今回は、少しまとめのようなことを書いてみることにします。

 

時間の経過に応じて、人間の社会が持っている常識や価値観は変化する。話はここから始まるのです。確かに、その変化は科学的な発見や環境の変化に応じて、引き起こされるに違いない。常識や価値観が変化するのだから、その変化に応じて社会制度も変化しなければなりません。ところが、現実はそうなっていない。憲法も変わらなければ、所得格差や地域格差なども変わりません。その原因がどこにあるかと言えば、それは人間社会に権力というものがあって、それがシステム化された組織という集団の形態につながっている。権力者や権力組織は、自らの既得権を守ろうとするので、社会の変化を望まない。むしろ権力者は、現状維持に執着する。こうして生まれるのが、人間集団の経路依存性ということになります。

 

では、権力組織というのは、どのような仕組みになっているのか。これは前回の原稿に記した通り、次の要素によって構成されている。

 

A. メンバーは集団に対して、規律に従う義務を負っている。

B. リーダーはメンバーに対して、その集団の設立目的を達成する義務を負っている。

C. リーダーには、メンバーを防御するための権力が付与されている。

D. リーダーは、権力を効率的に行使するために組織を作ることが許されている。

E. 権力が正しく行使されるために、組織の運営について、民主的な手続が定められる。

 

ところが、この仕組みにも変化が生じている。例えば、Aの「メンバーの集団に対する義務」というのは、一見、弱くなっている。長い目で見れば、徴兵制が廃止された影響が大きい。もう少し近い時間軸で考えてみると、メンバーが強制されることなく、自発的に集団の利益を補助しようとする動きもある。2011年以降、ボランティアという言葉やその社会的意義は急拡大している。クラウドファンディングや寄付という行為も急拡大しているように思います。(ここまでが、前回までの原稿に記した事項です。)

 

メンバー(国民、大衆)の心の中から「強制されている」「拘束されている」という意識が減衰している。しかし、本当にそうかと言えば、そんなことはない。確かに、現在の日本に徴兵制はありません。しかし、消費税率は10%まで引き上げられ、ほぼ同じ額だけ法人税は引き下げられています。最近、明らかになったように、補助金電通パソナに中抜きされている。国土の強靭化は一向に進まず、自然災害の規模は増大する一方です。日本の避難所は相変わらず学校の体育館のような場所が中心となっていますが、段ボールで適当に仕切りを作っているだけで、プライバシーの保護もへったくれもないのです。最近ツイッターを見ておりますと、諸外国の避難所の豪華さに目を疑うことがあります。モリ、カケ、サクラは一向に解明されず、メロン菅原氏は不起訴処分となったようです。

 

つまり本来、権力組織というのは、暴走しがちな権力と、それを抑制する民主主義のバランスの上に成り立つのです。

 

権力組織 = 権力 + 民主主義

 

上に記した図式から、現在は民主主義が消失しつつある。それが現状ではないか。では、今後、どうすれば良いのか。道は2つしかない。1つ目の方法は、民主主義を回復させるという従来の方法です。これがA案。2つ目には、そもそも権力や権力組織という構造自体を弱体化する方向に持っていく。これがB案。これを別の言い方で表現すると、地方分権を強化し、ネットワーク型の集団形態を目指し、共生社会を構築する、ということになります。

 

このように考えますと、従来の野党はA案を志向しているのに対し、人々が望んでいるのは、新しいB案の方ではないか、という気が致します。

 

ただ、A案、B案の双方に共通していることがあって、それは権力に立ち向かっていこう、権力を解体しよう、権力は分散しようということではないでしょうか。但し、私がこのブログで主張している権力というのは、狭い意味での国家権力ということではありません。権力というのは、人間が集団を形成すれば必然的生まれるものではないか。自民党共産党も権力組織であるという意味においては、同質だと思う訳です。官尊民卑と言った場合、官僚は民間人に対して権力を持っている。男尊女卑と言った場合には、男が女に対する権力者ということになる。多くの場合、政治家は一般人に対する権力者だし、この権力のシステムというのは、アカデミズムの世界においても原理的に作用している訳です。従って、大学教授や弁護士なども権力者であることになる。

 

では、どうやって権力者と戦うのか、権力を解体していくのか、と考える訳ですが、それは言葉の力による他はない。ここまで考えますと、やっと言葉というものに行き当たる。いくら数字を並べても、いくら踊りを踊っても、権力に対抗することは困難だと思うのです。権力に対抗するには、自分たちが何を主張しているのか、何故、そう考えるのか、それを言葉で表現する必要がある。デモ行進をするという方法もあるでしょう。しかし、デモというのは大人数で行うから効力がある。では、どうすれば多くの人々の考えをまとめあげることができるのか、と考えた場合、やはり言葉の力に頼る以外に方法はないと思います。

 

言葉には、いろいろな種類や位相がある訳ですが、ここでは簡単に文化論的な立場から、話し言葉、すなわち声を使って伝達される言葉と書き言葉、すなわち文字によって表現される言葉について考えてみます。

 

話し言葉の起源は7万年前まで遡るようですが、人間がその声帯を使って音声を発するというこの動作は、歌という文化に結実している。歌詞というのは、比較的短いセンテンスで、リズミカルで、メロディーを持っている。歌は人間の身体と深い関係を持っており、ある時は性的な意味をも持つものだと思います。そして、これは親和的な人間関係を引き起こす力を持っている。詩、短歌、俳句なども、この系統に属する文化だと思います。

 

一方、文字は今から6千400年前に、メソポタミア文明エジプト文明において発明されたと言われています。そして、紀元前1750年頃(今から3770年前)には、ハンムラビ法典が石柱に刻まれたのです。歴史的に考えますと、文字ができる前から人々は神話、民話、童話などを口頭で伝承していましたが、やがてそれらは、文字によって記録されるようになったのです。そこで、小説が生まれ、更に複雑な法律が記録されるようになる。

 

このような歴史的、文化的なバックグラウンドを考えますと、話し言葉と書き言葉の本質が、決定的に異なっていることが分かります。もちろん、どちらもなくてはならないものです。しかし、権力への対抗力ということを考えた場合、より強い力を持ち得るのは、書き言葉の方ではないでしょうか。

 

「偽造、捏造、安倍晋三」と揶揄されるように、文字の記載された文書は、権力者にとって、とても都合が悪いのです。そこにおいては事実が記録され、論理的な主張がなされる。権力者というのは、常に事実を捻じ曲げ、隠蔽し、論理を嫌うのです。

 

このように考えますと、権力を解体するために、変化し続ける私たちの価値観に社会制度を適合させていくために、文字によって言葉を紡いでいくという行為は、半永久的に続けられるべき、人間に課せられた義務なのではないか、と思えてくるのです。但し、この行為は両刃の剣でもある。権威づけられた文書というのは、人々の思考を停止させ、それ自体が権力となるからです。聖書が、仏教の法典が、そして日本国憲法がその例だと思います。従って私たちには、継続的に文字による文書を作成し、それを否定し、新たな文書を作り続けることが求められているのです。

 

近年、文字を使って文章を作成するという行為自体、衰退しています。文字情報よりも、人々は動画情報に依存しつつあります。文字情報をベースとするブログは、既に、オワコンだと言われ、時代はYouTubeに軍配を上げています。しかし、論理や思想を語るためには、YouTubeよりもブログの方が適している、と私は思うのです。

 

ところで、れいわ新選組ですが、大変なことになってしまったようです。大西つねき氏の「命の選別」発言がネットを中心に論議を呼んでいます。大西さんは、そもそもあのようにセンシティブな話を動画の中で語るべきではなかったのです。山本太郎さんの対応も、コロコロと変わっており、とても納得できるものではありません。ジャーナリストの田中龍作さんから愛のある批判を受け、“ざまみや がれい”さんからも辛辣な批判を受けています。れいわ新選組は今週中に総会を開くそうですが、これ以上対応を誤ると、支持者の半数位が離れていくのではないでしょうか。

 

僭越ながら、私からも太郎さんを叱咤激励させていただきます。

 

太郎さんは、経済には滅法強いが、法律はからっきしダメ。攻撃能力は優れているが、ディフェンスはできない。演説能力は天才的だが、文章を書く力はまるでない。

 

まともな規約を作れという声があるようです。それもやったらいい。しかし、それ以上に大切なことは、言葉と、文字と向き合って、れいわ新選組の綱領について、関係者と熟議を重ね、改定することではないでしょうか。次の総会、期待しています。

 

権力組織の落日

既にこのブログでは、「権力組織」について、何度か述べて来ました。この「権力組織」というのは、「権力を持った組織」という程の意味で、恐縮ながら私の造語です。それがどのような仕組みになっているのか、構成要素に分解してみると、次のようになります。

 

A. メンバーは集団に対して、規律に従う義務を負っている。

B. リーダーはメンバーに対して、その集団の設立目的を達成する義務を負っている。

C. リーダーには、メンバーを防御するための権力が付与されている。

D. リーダーは、権力を効率的に行使するために組織を作ることが許されている。

E. 権力が正しく行使されるために、組織の運営について、民主的な手続が定められる。

 

このように考えますと、国家、官僚組織、会社など、現代における多くの人間集団がこのような要素、すなわち権力や組織によって運営されていることが分かります。では、国家を例にとって、簡単に見て行きましょう。

 

A. メンバーは集団に対して、規律に従う義務を負っている。

→ 国民(メンバー)は、国家の定める法律を遵守する義務を負っています。多くの場合、国民は法律を守ることによって、特段の不利益を被ることはありません。例えば、赤信号で止まる。それは、国民自身の安全を守ることでもあります。但し、法律を守ることによって国民の側が多大な不利益を被る場合もあります。1つには徴兵制があり、2つ目には納税義務を挙げることができます。

 

B. リーダーはメンバーに対して、その集団の設立目的を達成する義務を負っている。

→ 国家の設立目的というのは、国民の生命や財産を守ること、基本的人権を保障することなどを挙げることができます。

 

C. リーダーには、メンバーを防御するための権力が付与されている。

→ 総理大臣や国会議員など、国のリーダーたちには、国民を守るという役割が課されているので、その役割を果たすために権力を行使することが認められています。国会議員であれば、法律を制定するという権限が、そして内閣には法律を執行する権限がある訳です。

 

D. リーダーは、権力を効率的に行使するために組織を作ることが許されている。

→ 権力を効率的に行使するためには、組織を作る必要が生じます。政府には、財務省だとか経産省などの組織が設置されていて、それぞれの組織には、行使できる権限の範囲などが定められている訳です。

 

E. 権力が正しく行使されるために、組織の運営について、民主的な手続が定められる。

→ 民主的な手続と言えば、1つには議会制民主主義を挙げることができます。国会で論議をしてもらおう、そして、最終的には多数決で決めよう、ということになります。選挙制度も民主的な手続の1つです。

 

このように概観しますと、これはなかなか良くできたシステムだと思う訳で、その起源はホッブズ、ロック、ルソーらが唱えた社会契約論まで遡ることできます。

 

ところが、民主主義という普遍的な概念をも包含する上記の「権力組織」というものが、現在、制度疲労を起こし、劣化し、機能不全に陥りつつあるのではないか、と思うのです。

 

この「権力組織」は、かつて戦争のリスクが高かった時代には、よく機能していたのかも知れません。国民は徴兵制という大変な拘束に直面していた。すると、国家権力の動向に敏感になるし、選挙にだって行く。ところが、核兵器に関する技術が進展し、今や多くの国が核武装をしている。すると、奇妙な均衡が生まれ、少なくとも大国間で戦争はできなくなりつつある。既に日本は75年もの間、戦争に巻き込まれることがなく、徴兵制もその間、復活したことはありません。すると、権力を監視しようという気持ちが薄れてくる。選挙の投票率だって、必然的に低下する。憲法に興味を抱く人など、今や、変人扱いされかねない。法哲学井上達夫氏は、「徴兵制を復活すれば、選挙の投票率は必ず上がる」と述べています。(だからと言って、私は、徴兵制を復活すべきだとは思っていませんが)

 

すると、現在、国民が国家に対して負っている最大の義務は、納税義務ということになるのではないか。「権力組織」というシステムにおいて、甘い汁を吸ってきた権力者たちは、自らの立場を保全するために、増税の方向に進もうとする。これも、当然の帰結かも知れません。ところがコロナの影響下において、この緊縮・増税路線では、国家運営が困難になって来ている。MMTも普及しつつある。徐々にその正しさを認識する人々が増えてきた。すると、反緊縮の方向に向かわざるを得なくなる訳です。予算が底をついた東京都など、早晩、都債を発行することになると思います。また、自民党ですら、来るべき総選挙に備えて、消費全を減税した場合の影響をシミュレートするよう、経産省に指示を出したという噂もあります。

 

すると、徴兵制はなく、納税義務も軽減される方向に動く。選挙の投票率は更に低下する。権力組織というシステムが劣化すると同時に、民主主義も危機に瀕するのではないか。長い目で見ると、そう思うのです。

 

加えて、そもそも会社というシステム自体、変化の節目を迎えているのではないか、という気がします。

 

かつては「企業は人なり」などと言われたものですが、既に労働者の4割は非正規となった。加えて、大企業ではコスト削減を目的として、アウトソーシングが盛んに行われています。この傾向は様々なレベルで進行していて、経営コンサルタントなどのビジネスも流行っていますね。言ってみれば、最早、経営者すら必要のない時代になりつつある訳です。従業員の非正規化とアウトソーシングを突き詰めていくと、会社は空洞化する。その傾向にコロナが拍車を掛けているのではないか。テレワークとか、在宅勤務と呼ばれる勤務形態のことです。労働者は会社へ行って上司の指示に従い集団で仕事をするというやり方から、個人がその能力に応じて働き、成果に応じて給与を受け取る。そうなると、あの人は〇〇部の人だからということではなく、ある仕事があると、その仕事をこなせる人は誰かという基準で業務が配分されるようになるのではないか。この傾向、「働かないおじさん」以外の人々は、歓迎しているのではないでしょうか。

 

長い間、盤石だと思われてきた「権力組織」というシステムが、崩壊しつつある。

 

このような見方をれいわ新選組に照らしてみますと、まず、Aの「メンバーの集団に対する義務」というものが存在しない。今回の都知事選においても、何をしろという指示はほとんどなかったようです。メンバーは何ら拘束されることなく、自発的に動いていた。しかし、今般の大西つねき氏の問題などもあって、外部のメディアからは、れいわ新選組に組織のないことが批判されています。ただ、その批判は当たっていないと思います。「組織がないこと」を非難するのではなく、Eの「民主的な手続」が定められていないことを非難すべきではないでしょうか。

 

義務ではなく自発的に行ったとしても、ボランティアに参加した人、寄付金を投じた人たちとしては、少なくとも情報を開示してもらいたい、という気持ちが沸き起こっている。当然の帰結です。れいわ新選組は、もっと情報を開示し、説明責任を果たす必要がある。

 

いずれにせよ、私たちは「権力組織」に代わり得るシステムを早急に模索すべき段階に来ていると思うのです。

 

追記: 本日、太郎さんの会見がありましたね。大西つねき氏、除籍の方向で来週、総会にて審議するとのこと。