文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

話し言葉と書き言葉

どうやら1本の線のようなものが見えてきました。そこで今回は、少しまとめのようなことを書いてみることにします。

 

時間の経過に応じて、人間の社会が持っている常識や価値観は変化する。話はここから始まるのです。確かに、その変化は科学的な発見や環境の変化に応じて、引き起こされるに違いない。常識や価値観が変化するのだから、その変化に応じて社会制度も変化しなければなりません。ところが、現実はそうなっていない。憲法も変わらなければ、所得格差や地域格差なども変わりません。その原因がどこにあるかと言えば、それは人間社会に権力というものがあって、それがシステム化された組織という集団の形態につながっている。権力者や権力組織は、自らの既得権を守ろうとするので、社会の変化を望まない。むしろ権力者は、現状維持に執着する。こうして生まれるのが、人間集団の経路依存性ということになります。

 

では、権力組織というのは、どのような仕組みになっているのか。これは前回の原稿に記した通り、次の要素によって構成されている。

 

A. メンバーは集団に対して、規律に従う義務を負っている。

B. リーダーはメンバーに対して、その集団の設立目的を達成する義務を負っている。

C. リーダーには、メンバーを防御するための権力が付与されている。

D. リーダーは、権力を効率的に行使するために組織を作ることが許されている。

E. 権力が正しく行使されるために、組織の運営について、民主的な手続が定められる。

 

ところが、この仕組みにも変化が生じている。例えば、Aの「メンバーの集団に対する義務」というのは、一見、弱くなっている。長い目で見れば、徴兵制が廃止された影響が大きい。もう少し近い時間軸で考えてみると、メンバーが強制されることなく、自発的に集団の利益を補助しようとする動きもある。2011年以降、ボランティアという言葉やその社会的意義は急拡大している。クラウドファンディングや寄付という行為も急拡大しているように思います。(ここまでが、前回までの原稿に記した事項です。)

 

メンバー(国民、大衆)の心の中から「強制されている」「拘束されている」という意識が減衰している。しかし、本当にそうかと言えば、そんなことはない。確かに、現在の日本に徴兵制はありません。しかし、消費税率は10%まで引き上げられ、ほぼ同じ額だけ法人税は引き下げられています。最近、明らかになったように、補助金電通パソナに中抜きされている。国土の強靭化は一向に進まず、自然災害の規模は増大する一方です。日本の避難所は相変わらず学校の体育館のような場所が中心となっていますが、段ボールで適当に仕切りを作っているだけで、プライバシーの保護もへったくれもないのです。最近ツイッターを見ておりますと、諸外国の避難所の豪華さに目を疑うことがあります。モリ、カケ、サクラは一向に解明されず、メロン菅原氏は不起訴処分となったようです。

 

つまり本来、権力組織というのは、暴走しがちな権力と、それを抑制する民主主義のバランスの上に成り立つのです。

 

権力組織 = 権力 + 民主主義

 

上に記した図式から、現在は民主主義が消失しつつある。それが現状ではないか。では、今後、どうすれば良いのか。道は2つしかない。1つ目の方法は、民主主義を回復させるという従来の方法です。これがA案。2つ目には、そもそも権力や権力組織という構造自体を弱体化する方向に持っていく。これがB案。これを別の言い方で表現すると、地方分権を強化し、ネットワーク型の集団形態を目指し、共生社会を構築する、ということになります。

 

このように考えますと、従来の野党はA案を志向しているのに対し、人々が望んでいるのは、新しいB案の方ではないか、という気が致します。

 

ただ、A案、B案の双方に共通していることがあって、それは権力に立ち向かっていこう、権力を解体しよう、権力は分散しようということではないでしょうか。但し、私がこのブログで主張している権力というのは、狭い意味での国家権力ということではありません。権力というのは、人間が集団を形成すれば必然的生まれるものではないか。自民党共産党も権力組織であるという意味においては、同質だと思う訳です。官尊民卑と言った場合、官僚は民間人に対して権力を持っている。男尊女卑と言った場合には、男が女に対する権力者ということになる。多くの場合、政治家は一般人に対する権力者だし、この権力のシステムというのは、アカデミズムの世界においても原理的に作用している訳です。従って、大学教授や弁護士なども権力者であることになる。

 

では、どうやって権力者と戦うのか、権力を解体していくのか、と考える訳ですが、それは言葉の力による他はない。ここまで考えますと、やっと言葉というものに行き当たる。いくら数字を並べても、いくら踊りを踊っても、権力に対抗することは困難だと思うのです。権力に対抗するには、自分たちが何を主張しているのか、何故、そう考えるのか、それを言葉で表現する必要がある。デモ行進をするという方法もあるでしょう。しかし、デモというのは大人数で行うから効力がある。では、どうすれば多くの人々の考えをまとめあげることができるのか、と考えた場合、やはり言葉の力に頼る以外に方法はないと思います。

 

言葉には、いろいろな種類や位相がある訳ですが、ここでは簡単に文化論的な立場から、話し言葉、すなわち声を使って伝達される言葉と書き言葉、すなわち文字によって表現される言葉について考えてみます。

 

話し言葉の起源は7万年前まで遡るようですが、人間がその声帯を使って音声を発するというこの動作は、歌という文化に結実している。歌詞というのは、比較的短いセンテンスで、リズミカルで、メロディーを持っている。歌は人間の身体と深い関係を持っており、ある時は性的な意味をも持つものだと思います。そして、これは親和的な人間関係を引き起こす力を持っている。詩、短歌、俳句なども、この系統に属する文化だと思います。

 

一方、文字は今から6千400年前に、メソポタミア文明エジプト文明において発明されたと言われています。そして、紀元前1750年頃(今から3770年前)には、ハンムラビ法典が石柱に刻まれたのです。歴史的に考えますと、文字ができる前から人々は神話、民話、童話などを口頭で伝承していましたが、やがてそれらは、文字によって記録されるようになったのです。そこで、小説が生まれ、更に複雑な法律が記録されるようになる。

 

このような歴史的、文化的なバックグラウンドを考えますと、話し言葉と書き言葉の本質が、決定的に異なっていることが分かります。もちろん、どちらもなくてはならないものです。しかし、権力への対抗力ということを考えた場合、より強い力を持ち得るのは、書き言葉の方ではないでしょうか。

 

「偽造、捏造、安倍晋三」と揶揄されるように、文字の記載された文書は、権力者にとって、とても都合が悪いのです。そこにおいては事実が記録され、論理的な主張がなされる。権力者というのは、常に事実を捻じ曲げ、隠蔽し、論理を嫌うのです。

 

このように考えますと、権力を解体するために、変化し続ける私たちの価値観に社会制度を適合させていくために、文字によって言葉を紡いでいくという行為は、半永久的に続けられるべき、人間に課せられた義務なのではないか、と思えてくるのです。但し、この行為は両刃の剣でもある。権威づけられた文書というのは、人々の思考を停止させ、それ自体が権力となるからです。聖書が、仏教の法典が、そして日本国憲法がその例だと思います。従って私たちには、継続的に文字による文書を作成し、それを否定し、新たな文書を作り続けることが求められているのです。

 

近年、文字を使って文章を作成するという行為自体、衰退しています。文字情報よりも、人々は動画情報に依存しつつあります。文字情報をベースとするブログは、既に、オワコンだと言われ、時代はYouTubeに軍配を上げています。しかし、論理や思想を語るためには、YouTubeよりもブログの方が適している、と私は思うのです。

 

ところで、れいわ新選組ですが、大変なことになってしまったようです。大西つねき氏の「命の選別」発言がネットを中心に論議を呼んでいます。大西さんは、そもそもあのようにセンシティブな話を動画の中で語るべきではなかったのです。山本太郎さんの対応も、コロコロと変わっており、とても納得できるものではありません。ジャーナリストの田中龍作さんから愛のある批判を受け、“ざまみや がれい”さんからも辛辣な批判を受けています。れいわ新選組は今週中に総会を開くそうですが、これ以上対応を誤ると、支持者の半数位が離れていくのではないでしょうか。

 

僭越ながら、私からも太郎さんを叱咤激励させていただきます。

 

太郎さんは、経済には滅法強いが、法律はからっきしダメ。攻撃能力は優れているが、ディフェンスはできない。演説能力は天才的だが、文章を書く力はまるでない。

 

まともな規約を作れという声があるようです。それもやったらいい。しかし、それ以上に大切なことは、言葉と、文字と向き合って、れいわ新選組の綱領について、関係者と熟議を重ね、改定することではないでしょうか。次の総会、期待しています。