文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

実体法と手続法

法律は、制定法と判例法、刑事と民事など、いくつかの方法によって区分されますが、永年私が興味を持ってきた区分方法に、「実体法」と「手続法」というものがあります。実体法というのは、現実に即して、実質的な事柄を定めている法律を指します。その典型として、民法を挙げることができます。民法には私人間の取引や、親族関係、相続など、私たちの生活に根差した事柄が、実質的に定められています。例えば、契約ということがある。契約とは約束のことですが、現実社会において約束というのは、往々にして破られる。更に、約束を破られた側に損害が発生する場合があります。このような場合、損害を被った人は、約束を破った人に対して、損害賠償を求めることができます。民法には、そのようなことが書いてある訳で、これを読み進めて行きますと、「なるほど、そうだなあ」とうなずくことができる。

 

実体法としての民法に対応する手続法は、民事訴訟法ということになります。こちらには、民事訴訟に関する手続ばかりが定められている訳です。従って、これを読んでも、一向にピンとは来ないのです。裁判を経験したとか、裁判に興味を持っている人を除けば、民事訴訟法を読んで面白いと感じる人は、ほとんどいないのではないか。但し、歴史的な沿革や背後に潜むロジックを読み解いていくと、何故、民事訴訟法にそう定められているのか、次第に理解することができます。

 

私たちの生活や慣習に関わる事項を定めたものが、実体法としての民法。これに対して、裁判の手続をひたすら論理的に定めたものが、手続法としての民事訴訟法ということになる訳です。実体法と手続法というのは、本質的に異なっている。この違いというのは、何処からくるのか。

 

例えば、日本の法制度は一夫一婦制を前提としています。従って、夫婦のうち、どちらかが不倫をすれば、それは離婚原因となる訳です。これは、民法にそう書いてあるのです。しかし、一夫一婦制が本当に正しいのか、そんなことは誰にも分からない。こんなことを書くと叱られそうですが、ライオンなどの動物は一夫多妻制ですし、これを採用している人間の社会だってあります。また、乱婚制だと、オスの精子が互いに競争することになり、強い精子だけが生き残る訳です。反面、一夫一婦制だと精子間の競争がない。そこで、弱い精子でも生き残ることとなり、次第に人間の女性は妊娠しにくくなってきている。こういう生物学的な問題もある訳です。実際、不倫をする人というのは後を絶たないし、離婚率も高まる一方です。どうすれば良いのか。そんなことは、誰にも分からない。しかし、民法は一夫一婦制を推奨している。つまり、民法などの実体法が定めているのは、現実世界をよく見て、一応、これがいいのではないか、という願望なり、仮説を定めているのではないか、と思えてくる。

 

他方、裁判というのは人間が作り出す世界なのであって、現実世界とは、一応隔絶している。だから、ひたすら論理に従って法律を定めることができるのではないか。これは、例えば三角形や四角形という概念を作り出し、その面積や角度を計算する数学に似ている。

 

もう少し、裁判について考えてみましょう。現実空間の中に、裁判所という建物が存在します。その中には、裁判官とか書記官と呼ばれる人たちが働いています。実体法である民法も、手続法である民事訴訟法(人事訴訟法)も整備され、準備万端整っている訳ですね。すると、そこへ離婚を求める人がやってくる訳です。そして、裁判が始まります。離婚原因を作ったのはどちらか、慰謝料はどうするか、財産分与や親権はどうするか。そういうことが争点となる訳ですが、法律は既に整備されているので、裁判官は粛々と手続を進め、結論が得られる訳です。

 

この離婚訴訟の当事者たちが抱える現実は、多種多様なのだろうと思います。若い人もいれば、高齢者もいる。金持ちもいれば、貧乏人もいる訳です。離婚原因や家族構成だって、多種多様な訳です。私たち人間は、このように多種多様な環境の中で、生活しているのですから。

 

このように考えますと、私たちが生きている社会は、3つの位相によって成り立っているのではないか、という仮説を立てることができます。すなわち・・・

 

1.現実領域

2.想像領域

3.論理領域

 

「現実領域」とは、上の例で言いますと、離婚訴訟の当事者たちが直面している多種多様な現実のことです。これはとても直接的で、具体的で、動的で、短期的な領域です。

 

「想像領域」とは、現実領域に立脚した人間の願望であり、概念であり、仮説のことです。実体法である民法のみならず、憲法などもこの領域に属すると思います。例えば、憲法には「国民はみな法の下に平等である」と書いてありますが、現実はそうなっているでしょうか。国民がコロナの影響で苦しんでいる今日も、国会議員は高額の所得を得ています。Go Toキャンペーンなどと言っている訳ですが、東京都は除外されそうです。現実は、とても平等と言うには程遠い状況にある。すると、憲法には何故、そう書いてあるのか。平等という概念を提示すると共に、そうあるべきだ、そうであったらいいな、という願望が書いてあるのです。

 

「論理領域」とは、現実とは離れ、人間が作り出した世界の中で、ひたすら論理的な妥当性を求める領域だと言えます。これは抽象的で、長期的で、静的だと言えます。

 

法律学というのは、人々の暮らし、すなわち現実領域から出発している。そして、概念を作り出し、「こうすれば解決できるのではないか」という風に想像力を働かせ、仮説を立てる。最後には、論理的な妥当性を追求する。

 

現実領域 → 想像領域 → 論理領域

 

経済学は反対に、まず、貨幣などの数字から始まる。数字は統計的な手法で解釈され、インフレとか、スタグフレーションなどの概念を生む。そして、現実的な商行為だとか政策に結びついていく。

 

論理領域 → 想像領域 → 現実領域

 

政党についても、この3つの領域に属する文書というものが存在する。

 

現実領域・・・政策

想像領域・・・綱領

論理領域・・・規約

 

フランスの哲学者であるミシェル・フーコーは、「狂気の歴史」を執筆する際、多角的な検討を行ったと言われています。現実的に、狂気がどこに存在するかと言えば、それは患者の中に存在する。そして、患者と向き合うのが臨床医学。論理的に体系づけるのが精神病理学

 

現実領域・・・患者

想像領域・・・臨床医学

論理領域・・・精神病理学

 

アカデミズムとの関係で言えば、往々にして学歴エリートというのは、論理領域において能力を発揮する。これが机上の空論を生むのだと思います。

 

例えば、音楽理論をきちっと勉強して、発声練習を行えば、恋の歌をりっぱに歌い上げることだってできます。たとえその歌手が、失恋をした経験がなくても。そういうことは、起こり得るのだと思うのです。しかしそれでは、本物の歌手とは言えない。

 

フーコーが採用した方法論のように、3つの領域の全てが大切なのであって、本当の学問とは、そうあるべきではないでしょうか。

 

余談ですが、れいわ新選組山本太郎さんは、「現実領域」の中で生きているように思います。困っている人を見ると、すぐに助けようとする。炊き出しには出かけるし、コロナでホームレスになった人を見かけると、勢い余って東京都知事選に立候補したりする。社会的弱者の声を最優先に聞こうとする。そこに理屈はないのではないでしょうか。

 

大西つねきさんは、「想像領域」の中で生きている。彼は、医療や介護の現場について、多くの知識は持っていない。かと言って、自らの主張を論理的に説明することもできない。

 

私はと言うと、「論理領域」の中で生きている。いつも考えているので、周囲からはボーとしているように見られている。困っている人を見かけると、その人を救済するための法律はいかにあるべきかと考えはするが、現実的対応能力は欠落している。結局、何の役にも立っていない。

 

なかなか、3つの領域を自由自在に飛び交うことのできる人というのは、少ないのではないか。政治家という役割を考えた場合、やはり太郎さんが一番適しているのかも知れません。

 

余談を重ねて恐縮ですが、宗教と文学の本質は、「想像領域」にあると思います。