文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

反逆のテクノロジー(その18) 言語化するということ

フーコーは、性に関する事項を自ら告白するという文化は、キリスト教カトリックに由来すると説明している。カトリックには「キリスト教司教要綱」というものがあって、これに定められた「告解」という手続きに従って、信者たちは自ら犯してしまった罪について、告白することが求められてきた。馴染みのない言葉なので、「告解」を広辞苑で調べてみた。

 

告解・・・カトリック教会で、洗礼を受けた後に犯した罪を、司祭を通して神に言い表す行為。赦しの秘跡の中心的行為。

 

懺悔と同じような意味ではないだろうか。想像だが、多分、告解の基底にはキリスト教における原罪という概念がある。自ら罪を告白させることによって、自らの罪を認めさせる。信者は自らを罪深い人間だと認識する。従って、神に赦しを請わなければならない。そういうロジックがあったのだろう。

 

時代を経て、次第に告解は姿を変えていく。近代になるとこれは一般的な告白という形を取り始める。この形式は、文学の世界に影響を及ぼす。そればかりか、近代の西洋社会においては、精神病理学、警察の取り調べや訴訟における証言、更には教育学までもが人々に告白を強要するようになる。

 

現代日本の社会制度においても、目に見えにくい形ではあるが、キリスト教の影響が多々存在することが分かる。現代の日本においても、心理療法家は患者自らに語らせようとするだろうし、警察は「吐け!」と言って被疑者に自白を求める。訴訟になれば、裁判官が被疑者に尋問するし、学校で悪事を働いた生徒は反省文を書かせられる。このような告白に関する制度の起源がキリスト教にあったとは驚きである。そして、西洋と東洋の文化的な背景の根深い差異を感じざるを得ない。

 

ところで、上記の告白と同様に、人々は「曰く言い難い」事柄を、なんとか言葉にしようと努めてきたのだ。それは、無意識や性の領域に留まらない。例えば音楽評論家は、「曰く言い難い」音楽の世界をなんとか言語化しようと努めているし、それは美術評論家も同じだ。モーター・ジャーナリストと呼ばれる人々は、クルマやバイクの乗り心地がどうだとか、今度の新型は旧型とどう違うかというような事を言語化しようと、日々、努めている。グルメ・リポーターは、微妙な味の違いを言語化することに苦心している。何がどうおいしいのか、独自の表現を模索している。

 

もちろん、おいしい料理というのは、誰かがそれを食べることを目的として作られる訳だ。従って、誰かがそれを食べた時点で、料理を作るという行為自体は完結する。音楽は、誰かが聞くことによって、絵画は誰かがそれを見ることによって、完結する。それにも関わらず、人間はそれらの「曰く言い難い」営為について、言語化しようと努めている。何故だろう。

 

例えば、ショパンが自宅のピアノで即興演奏をしたとしよう。それはそれで素晴らしいことだし、芸術的な営為だと言える。しかし、それだけでそのショパンの行為を文化だと言えるだろうか。それはあまりにも個人的な行動なのであって、文化と呼ぶに相応しい域には達していない。ショパンが忘れてしまえば、その即興演奏は何の痕跡も残さず、消滅することになる。そこで、ショパンは自らの演奏を楽譜に記すことになる。この楽譜というものは、オタマジャクシという記号を用いて作成される。この行為については、「記号化」と呼んでいいだろう。

 

記号化されたショパンの曲は、再現することが可能となる。そしてその曲は、ショパンの死後であっても再現することが可能となる。演奏会も開催され、多くの人々がショパンの楽曲に触れることになる。しかし、どういう訳かこれら音楽の世界で発生する事柄に続いて、言葉がやって来るのだ。評論家が、論評する。ショパンの死後であれば、伝記が出版される。この段階は「言語化」だと言える。この段階まで至るとショパンの楽曲は、文化そのものだと言える。すなわち、多くの人々がショパンの楽曲をよく理解し、それを繰り返し聞こうとする訳だ。

 

上に記したショパンの例では、次のステップを踏んでいることになる。

 

個人的な営為・・・楽曲のアイディア、即興演奏

記号化・・・・・・楽譜の作成

言語化・・・・・・楽曲の社会的認知。文化の成立。

 

全ての文化的営為が、上記の3段階を経るとまで言うつもりはない。しかし、このように考えた場合、いくつかの傾向を指摘することはできる。

 

1つには、言語によってしか到達し得ない、ある領域が存在すること。だから人々は、「曰く言い難いこと」であっても、なんとか言語化しようと試みるに違いない。

 

2つ目としては、個人的な営為から、人間集団の認識へと進んでいること。そして、人間集団が認知した事項だけが、文化として成立すること。

 

3つ目としては、個人的な営為が人間集団のレベルで認識されるためには、多くの人々が追体験できる必要がある、ということ。ショパンの例では、楽譜という記号がそれを可能ならしめていた訳だ。では、楽譜を読めなかったジミ・ヘンドリックスの場合はと言うと、それはレコード、CDなどの記録媒体が楽譜の代替機能を果たしたに違いない。加えてビデオなどの記憶装置があるおかげで、私たちは愛すべきジミ・ヘンの演奏を追体験できるのだ。(言うまでもなく、多くの評論家や関係者がジミ・ヘンに関する書籍を出版している。すなわち、言語化である。)

 

料理番組ではレシピが、グルメ番組ではその料理を提供している店舗に関する情報が公開されるのが普通だろう。番組で紹介している料理を、視聴者が追体験する道が示されるのである。

 

蛇足かも知れないが、もう1点追加しておこう。個人的な営為というものが先にあって、その後に言葉がやってくるという原則もある。例えば、個人的な犯罪が起こる。それが社会的に認知されると、法律という言語によって、これを処罰しようということになる。法律という言語は、常に、出来事を後追いするのだ。例えば、吃音の若い僧が金閣寺に放火する。そういう出来事があって、その後に三島由紀夫の小説が登場する。

 

ここまで考えると、例のパロール話し言葉)とエクリチュール(書き言葉)の関係が見えてくる。ちなみにヨーロッパではパロールが主体であって、エクリチュールパロールを補足するに過ぎないという考え方が大勢を占めている。しかし、パロールはその場で消えてしまうもので、それを追体験することはできない。追体験を可能ならしめるのはエクリチュールの方であって、私の立場から言えば、重要なのはパロールではなくエクリチュールだ、ということになる。(この考え方は、フーコーデリダの主張とは無関係。)

 

まとめてみよう。物事というのは、個人的な営為から始まる訳だが、それを人間集団における認識にまで高めた場合、それは文化となる。そして、その方法が言語化するということなのだ。

 

反逆のテクノロジー(その17) 知への意志

表題の「知への意志」とは、ミシェル・フーコーの連作、「性の歴史」第1巻のタイトルである。「性の歴史」は当初、全5巻となることが予定されていたが、その3巻までが出版された時点で、フーコーは他界した。タイトルを並べてみよう。

 

性の歴史 I   知への意志

性の歴史 II  快楽の活用

性の歴史 III 自己への配慮

 

従って、第3巻の「自己への配慮」がフーコーの遺作となる訳だが、実は、幻の第4巻というのがあって、それが発売になるという未確認情報もある。

 

私は、前作の「監獄の誕生」から「知への意志」へと読み進めてきた訳だが、この2冊において、フーコーの権力論が語られているという説がある。そこで私は、フーコーの権力論に期待しながら、この「知への意志」を読み進めたのだが、ある種の戸惑いに直面した。例えば、フーコーは権力について次のように語っている。

 

・権力は性と快楽について否(ノン)と言うこと以外は何も「でき」ない。(P.108)

 

・要するに人は、権力というものを法律的な形態の下に図式化している。(P.111)

 

・何かを作り出すことは全くできず、ただ限界を課する以外に能のないこの権力は、本質的に反-エネルギーということになる。(P.111)

 

・権力は至る所にある。全てを統轄するからではない、至るところから生じるからである。(P.120)

 

重要だと思われる箇所を上にピックアップしてみた訳だが、何か、具体的なイメージは湧くだろうか? フーコーが言っている権力とは、法律的な何かのことだろうか?

 

そこで思案した訳だが、私なりの解釈を以下に述べてみたい。そういう学説がある、という訳ではない。あくまでも、私の私見に過ぎない。

 

フーコーが述べている権力というのは、エピステーメーとの関係で理解することができるのではないか。人間の社会においては、常に変化しようとするエネルギーが満ちている。それは科学的な知見であったり、人々の常識であったり、欲望などに基づいている。しかし、その変わろうとするエネルギーに対抗する規制というものも存在する。この関係は、ダムによって堰き止められる大量の水に似ている。社会的な要請に基づく変化しようとする力、これが蓄積される水の側のエネルギーだ。しかし、コンクリート製のダムがその力を堰き止める。この堰き止める力が、権力なのだ。そして、水の量が一定水準を超えるとダムは決壊し、一気に水が流れ出す。このようにして、エピステーメーは短期間に変化する。例えば、フーコーは、カオスのような状況にあったヨーロッパの懲戒制度が、近代的な監獄システムに変化するのに100年とはかからなかった、と述べている。

 

このように解釈すると、そもそもエピステーメーが何故、発生するのか、そして、短期間で何故変化するのか、その理由も見えてくる。すなわち、変えようとする力(水)は、常に増大し、蓄積される。他方、その力を堰き止める力、すなわち権力(ダム)があるから、ある時代に共通する常識や価値観、すなわちエピステーメーが成立するのだ。しかし、水のエネルギーが上回った時に、ダム、すなわち権力は崩れる。そして、時代は一気に変化する。

 

例えば、現在、世界各地で同性婚の合法化を求める声が高まっている。それは日本でも同じだが、憲法には「婚姻は両性の合意に基づき成立する」と書いてある。この解釈については議論のある所だが、一応、両性というのは男女を意味するので、憲法上、同性婚は認められないとする主張が成り立つ。やがて、同性婚を求める声、すなわち水の側のエネルギーが増加し、憲法や法律の力、すなわち権力を上回れば、時代は一気に変化するに違いない。

 

このように解釈すると、権力とは、反-エネルギーで、どこにでもあり、法律的な形態を持っているというフーコーの説明と矛盾しないように思う。

 

ところで、「知への意志」という本のタイトルだが、とてもいい言葉だと思う。その正確な意味を知りたいと思った訳だが、この本の中に然したる説明はない。この言葉は、さらっと次のように語られる。

 

- 一方は、西洋世界における科学的言説の確立を支えてきたあの巨大な<知への意志>に属するであろうが、それに対して他方は、<非-知>への執拗な一つの意志に属するものだとも言えそうだからである。(P.72)-

 

これだけで、特段の説明はない。「あの」と表現されているので、浅学の私が知らないだけで、有名な言葉なのかも知れない。

 

思うに、言語によって認識できる領域というのがあって、それは限られている。例えば、人間の無意識や夢など。無意識というのは、そもそも意識されないから無意識なのであって、これを言語化して認識するのはほとんど不可能ではないか。私も、夢はよく見るが、目覚めると同時に忘れてしまう。夜、床に着くと昨晩みた夢の状況がふわっと浮かび上がってくるようなこともあるが、それもあやふやで、つかみ所がない。夢を語る、夢を言語化するというのはとても難しい。

 

性の問題もある。文化人類学を学んでいると、無文字社会における性の形が、とても多様であることに気づく。21世紀に生きる日本人の間でも、それはとても多様で、性的欲望の本質というのは、結局、人間には理解し得ないものなのではないか。追いかけてみて、満足する場合もあるし、失望することもある。一度満足しても、それはやがて色褪せてしまう蜃気楼のようなものではないか。

 

このように人間には言語化することが困難な事柄が沢山あるのであり、その領域というのは、触れずにおいても良いのではないか。そこは断念する。そして、分からないということを受け入れた上で、侘びて行く、寂びて行く。そういう美意識があっても良いのではないか。そんなことを思いながら、「知への意志」を読み進めていくと、終盤になって、次のような記述に出会った。

 

- 西洋的人間は次第次第に学ぶのだ、生きている世界の中で生きている種であるとは如何なることか、身体をもつとは、存在の条件を、生の確率を、個人的・集団的健康を、変更可能な力を、その力を最も適した形で配分し得る空間をもつとは、如何なることであるのかを。(P.180)-

 

上に記した私の印象は東洋的であって、そのことをフーコーも知っていたのだ。あくまでも領域を選ばず探究しようとする知への欲求。それこそが、フーコーがこの文献のタイトルに込めた意味、すなわち「知への意志」ということなのだろう。

 

そこまで考えると、ふと気づくことがある。そもそも、このシリーズ原稿のタイトルは、「反逆のテクノロジー」というものだが、そこに私が込めた思いは、権力に対する反逆であり、そのための技術とはいかなるものか、それを検討しようというものだった。そして、権力の姿はおぼろげながらも見えてきたのである。その権力に対抗する、反逆を起こすための前提条件こそが、「知への意志」ではないだろうか。かつて、人間は何も知らなった。そこで、想像力を働かせて、様々な事柄を認識しようと努めてきたのだ。人間の歴史とは、認識の歴史でもある。例えば、無意識の領域はフロイトが、性の世界については文学者が、言語化を試みてきた。一見、とても理解できそうにもない領域、そこに向けて、問いを発してみる。それは、例えば古井戸の深さを知ろうと思って、小石を落としてみるような行為に似ているかも知れない。ポチャンという小さな音が返ってくるかも知れないし、その音は聞こえないかも知れない。それでも、小石を落としてみる。試してみる。仮説を立ててみる。そういう態度が大切なのではないか。「知への意志」とは、複雑化した権力に反逆を試みようとする透徹した意志のことなのだ。

 

(参考文献)

文献9: 監獄の誕生/ミシェル・フーコー/新潮社/1975

文献10:   知への意志/ミシェル・フーコー/新潮社/1976

 

注)「知への意志」は、「監獄の誕生」の翌年にフランスで出版されている。しかし、事情があって、和訳本の出版は遅れた。和訳本の初版の年を記述していたのでは、先後関係が混乱する。よって、フーコーの著作については、そのフランス語版の出版年を記述することとする。

反逆のテクノロジー(その16) 監獄の誕生

ミシェル・フーコーの著作「監獄の誕生」は、哲学書のようであり、歴史書のようでもあり、そして文学書のようでもある不思議な作品だ。フーコーは膨大な史料を読み解き、自らの思想については控えめに記述し、史料自体に語らせるという方法で、この本を書き上げている。そこには残酷さや人間の愚かしさに関する徹底したディテールの描写があるが、それらを乗り越えて通読してみると、そこはかとなく立ち上がってくる物語があり、その背後にフーコーの明確な意志が見えてくる。人生の限られた時間の中で、このような本に出会えることは極めて稀であり、私はこの本を長く手許に置いて、事あるごとに参照しようと思っている。

 

例えば傑出した芸術作品の一部を切り取って、その作品の素晴らしさを表現することはできない。それと同じで、「監獄の誕生」の思想史における意義を、短い文章で再現することなど、誰にもできはしない。以下の記述はあくまでも、私がこの著作に共感を覚えた多くの事柄の、その断片に過ぎない。

 

「監獄の誕生」の冒頭には、写真や施設の見取り図などが掲載されているが、私がここで言及したいのはその30枚目、最後の1枚である。左側には人為的に加工したであろう1本の直線状の材木が垂直に立てられている。その右側には曲がりくねった生きた樹木が立っている。そしてその2本は、太いロープで固く結ばれているのだ。タイトルにはこうある。

 

「30/ N・アンドリュー 『整形術、もしくは幼児における身体の畸形を予防し矯正する術』1749」

 

この絵画が示すのは、幼児の畸形を矯正するためには、当時の大人たちが正しいと考えていた道徳観なり価値観に幼児を強制的に拘束すべきだ、という思想に他ならない。言うまでもなく、大人たちの道徳観や価値観というのは仮説に過ぎない訳だが、そのような危惧をこの絵に見て取ることはできない。人類の歴史は秩序化の歴史であるという考え方があるが、直線の発見から始まる自然界に対する働きかけのみならず、秩序化という営みは人間自身に対しても向けられてきたに違いない。

 

「監獄の誕生」の本文は、18世紀のフランスにおける残虐な身体刑の描写から始まる。それは人間の身体に火傷を負わせ、引き裂き、切り落とすような刑罰だった。そして、そのような刑罰は、一般大衆に「見せしめ」として、公開されていたのである。公開することによって、将来起こり得る同様の犯罪を未然に防止し、時の君主の権力を誇示していたとも言える。

 

処刑の行われる広場には、多くの大衆が集まった。そして、処刑の様子をつぶさに観察している彼らは、熱狂したのである。大衆が憎しみを抱く犯罪者に対しては、彼らはより残酷な刑罰を希望した。反対に、彼らが共感を覚えるような犯罪者に、彼らは減刑を望んだ。熱狂する大衆は処刑人の手から犯罪者を奪還することもあった。処刑の方法は予め定められていた。例えば、斧を一振りすることによって犯罪者の首を切り落とすことなど。

 

- 命令どおりに相手の首を一刀両断に斬り落とした場合、彼は「その首級を民衆に見せて地面におろし、ついで一礼する、と皆はその腕前にさかんに拍手喝采を送るのである。」(P61)-

 

また、処刑という行事は娯楽的な色彩を帯びていたのではないかと思わせる記述もある。

 

- 処刑当日には、普段の仕事は中止され、居酒屋は満員となり、権力者たちは罵倒され、死刑執行人や治安取締役人や兵卒は侮辱されたり投石されたりするのであった。(P.73)-

 

すなわち、当時のフランスにおける処刑は、混乱を極めていたのである。18世紀の後半になると、残虐な身体刑に対する批判が高まった。中心的な役割を果たしたのは、法律家たちだった。1つには、処刑の残虐さに対する批判だった。犯罪行為よりも、更に残虐な刑罰を与える場合があり、これに対する反省が起こる。処刑を公開することによって惹起される社会的な混乱についても批判される。また、当時の裁判官というのは一種の財産のようなものであって、その立場は金銭で売買されていたのだ。そのため、刑罰の種類や程度にも統一性がなかった。そこで、刑法の改正案が次々に提出される。例えば、1791年にル・ペルティエが刑法の改正案を提出した。

 

- 「犯罪の性質と処罰の性質とのあいだには正確な対応関係が必要であって」、犯行が残忍であった者には、身体刑が課せられるべきであり、怠惰な手段をとる者は重労働を強制されるべきであり、卑劣であった者には、加辱刑が課せられるべし。(P.124)-

 

罪を犯した者には、その罪に相応する罰を与えよ。そのような考え方には、一定の合理性がある。しかし、同1791年に制定されたフランスの刑法典は、ペルティエが主張したものとは、異なるものだった。謀反者と殺人者には死刑を規定しているが、他のすべての刑罰には監禁されるべき期間(最長20年)が定められたのだ。多くの議論が繰り広げられたはずだが、1つには、英米の刑法が検討のモデルとされたとの記述がある。また、その思想の基調をなすのは、刑罰を課す目的に関するものだった。ペルティエの主張は、あくまでも罪に対して罰を与えるというものだったが、新刑法典が立脚した思想は、罰に主眼を置くのではなく、犯罪の再発防止を意図したものだった。すなわち、罪人を矯正して社会に復帰させる。そのことを目的としていた。そしてこの考え方は、私が先の原稿で「勤労主義」と呼んだ考え方と調和する。「生きんと欲する者は働くべし」という訳だ。

 

勤労主義にも理由がある。働かない者や放浪を繰り返している者は、必ず経済的に困窮する。そこで犯罪に走るようになる。従って、犯罪を減らすためには人々を働かせるべきだ、と当時の人々は考えていたらしい。

 

このような経緯で、近代的な意味での監獄が誕生し、そこに監禁される囚人たちには労働が命じられる。そして、囚人たちは監視される。やがて権力者たちは、より効率的な監視方法を考案する。

 

一方、ヨーロッパにおいて「規律・訓練」の制度が進展する。

 

- ずっと以前から規律・訓練の方策は多数実在していた。修道院のなかに、軍隊のなかに、さらには仕事場のなかにも。だが、規律・訓練が支配の一般方式になったのは、17世紀および18世紀である。(P.159)-

 

規律・訓練と言って、現代日本人に馴染みがあるのは、北朝鮮の兵士たちの一糸乱れぬ行進ではないか。足の上げ方、手の振り方まで、全てが訓練されている。そして、この規律・訓練を推し進めると、その習熟度を測るための試験が登場する。試験は、人々を階層に分解し、序列を生む。より上の序列を目指そうとする者は、規律に従順になるし、従順でない者は、序列を下げられる。

 

加えて、人々の時間を管理する「時間割」なるものが登場する。

 

- 時間割は古来の一種の遺産である。その厳密な模範は、最初おそらく修道院が暗示したにちがいない。その三つの主要な方策 - 拍子をつけた時間区分、所定の仕事の強制、反復のサイクルの規制 - は、たちまち学校や仕事場や施療院のなかで見いだされるようになった。(P.172)-

 

こうして現代の管理社会が成立する。人々は一か所に集められ、すなわち空間上の拘束を受ける。規律・訓練によって、権力は人々の身体に直接働きかける。時間割によって、人々は時間上の拘束をも受ける。一挙手一投足が監視される訳だが、やがて人々はその監視行為に主体的に取り組むようになる。このような社会の仕組みを「システム」と呼んでおこう。

 

このシステムは、何も監獄だけを支配しているのではない。軍隊、学校、病院、会社、スポーツ団体などをも支配しているに違いない。

 

決して簡単な話ではないが、少し整理してみよう。

 

古代まで遡って考えた場合、最初にあったのは父親の、もしくは集団を率いるリーダーの権力だったのではないか。何しろ、猿山にだってボスザルはいる。リーダーが存在する集団というのは、そうでない集団よりも生存確率が高かった可能性も否定できない。そして、自然界に対する秩序化の働きかけが生ずる。やがて、この秩序化の意志は人間自身に向けられる。すると、マジョリティが認識できない他者(マイノリティ)が排除される。大規模な収容所が作られ、怠け者や精神病患者、同性愛者や犯罪者などが、いっしょくたになって収容所に監禁される。そこで、勤労主義が力をもち始める。同性愛者や怠け者は、強制的に働かせればよいのだ。結果、働くことが困難な精神病患者は病院に、犯罪者は監獄に監禁されるようになる。監禁された者たちは、監視されると共に、空間的、時間的、身体的な拘束を受ける。このシステムは取り分け軍隊や工場の運営に適合していた。規律・訓練の徹底した軍隊は、そうでない軍隊よりも戦果を収めただろう。また、このシステムは、産業革命後の大量生産を支えた工場の運営にも適していたに違いない。

 

人々を監禁し、監視することから、人間集団に関する「知」が生まれる。この点は、フーコーもそう指摘している。例えば、たった1人の精神病患者を観察するよりも、100人の患者を観察した方が、多くのことを理解できる。

 

このシステムこそが、近代ヨーロッパが生み出した社会構造であって、日本は明治維新以降、躍起になってこれを輸入したという訳だ。言うまでもなくこのシステムは、人間社会に貧富の格差を生み、主体的には何事にも関心を持たず、疑問すら感じない、のっぺりとした表情の現代人を生み出した元凶ではないのか。しかし、事は単純ではない。ここまで考えた時に、フーコーが何故、18世紀のカオスのような状況を描写したのか、その理由が見えてくる。現在のシステムは欠陥だらけだ。しかし、あのカオスの時代と比べてどうなのか? 若しくは、欠陥だらけのシステムでも、カオスよりはましだと言えるのか?

 

この問題に対し、安易な解答は差し控えたいが、このシステムに関する問題は、現在の、そして近未来の私たちが抱える最大の課題だと思う。言うまでもなく、デジタル監視社会は目前に迫っているのだから。

 

(参考文献)

文献9: 監獄の誕生/ミシェル・フーコー/新潮社/1977

 

(文献9がフランスで出版されたのは、1975年である。そして、和訳本の出版は2年遅れの1977年。一方、現在販売されている新装版は、2020年の発売である。今まで、参考文献の出版年については、時系列に従って理解するために、初版の年度を記載してきた。私が読んでいるのは和訳本だし、1977年と記せば、それはオリジナルの1975年とも差異は少ない。よって便宜上、1977年と記すことにした。)

反逆のテクノロジー(その15) 想像力の功罪

私が敬愛するブルース・ギタリストの一人に、ジョニー・ウィンターという人がいる。彼はアルビノで、視力もほとんどなかった。アルビノというのは色素欠乏症のことで、肌は透き通るように白い。髪から眉から、とにかく全身が白いのだ。そんなジョニーが愛したブルースは、黒人の音楽である。人種差別の激しかった1960年代のアメリカで、ジョニーは黒人ばかりが集まるクラブで、ブルースを演奏していた。ある日、ジョニーは黒人からこう言われる。

 

「ここは黒人のミュージシャンが演奏する場所だ。白人は出て行け」

 

するとジョニーは、次のように答えた。

 

「君たち黒人は肌の色が黒すぎるから、差別を受けているのだろう。俺は肌の色が白すぎるから、差別を受けている。だから、俺にもブルースを演奏する権利がある」

 

若き日の私は、この話にシビレタものだ。

 

ところで、今日においてもアメリカでは白人警官による黒人への虐待が続いている。そこで、黒人の命も他の人種と同様に大切なんだ、と訴えるBLM(Black Lives Matter)という運動が起こっている。言うまでもなく、マジョリティとしての白人が、マイノリティの黒人を迫害している訳だ。ところが、アフリカのザンビアでは、正反対のことが起こっている。

 

ザンビアにおけるマジョリティは黒人だが、そこに2万5000人のアルビノがいる。そればかりか、ザンビアではアルビノの肉体には呪術的な力があると信じられており、アルビノの身体の一部や死体が高額で取引される。殺されたり、生きたまま腕を切断されたりするアルビノの人々が、後を絶たない。21世紀の日本に生きる私たちからしてみれば、ちょっと信じられない話だろう。人間の肉体にそんな呪術的な力があるはずはない。

 

呪術というのは人間の、特に古代人の直観に基づくものである。そして、そこに想像力が加味され、宗教へと至る。そのように考えると、ザンビアの悲劇が普遍性を持っていることに気づく。例えば、中世のヨーロッパで行われた魔女狩りなども、この文脈で考えることができる。15世紀から18世紀にかけてヨーロッパ全土において、4万人~6万人が処刑されたのだ。まったくもって馬鹿げた話で、そもそも人間が箒に乗って空を飛べるはずがない。言うまでもなく、魔女は人間の想像力の産物に過ぎない。

 

そんな馬鹿げた話は他国に限ったことであって、我が日本に限ってそんなことはない、と考えたいところだが、そうは問屋が卸さないのである。かつて日本においては家を建てる際、神に対する生贄として子供を生き埋めにしたという話がある。その子供の霊が「座敷わらし」として出現するという説もある。「座敷わらし」を生み出したのも、想像力に他ならない。

 

いずれにせよ、想像力が生み出す無数の悲劇を経験した後、それらに対するアンチテーゼとして、ヨーロッパで近代理性というものが生まれたのだろう。迷信を信じるのは止めようと考えた人間は、科学を発明する。論理的思考と言っても良い。例えば、「あそこの家の奥さんが、箒に乗って空を飛んでいるところを見た」という噂が立つ。しかし、そう述べる人を1人ずつ詰問して行けば、それが根も葉もない噂話に過ぎないことが判明する。自然科学の世界で成果が生まれたこともあって、人文科学が発達し始める。それは本当に、事実なのか。そのことは、証明できるのか。そういうマインドが普及するにつれ、想像力は悪いものだ、という風潮が生まれたに違いない。

 

しかし、本当にそうだろうか? 想像力とは、悪いものなのか?

 

ここまで考えると、以前このブログで取り上げたチャールズ・サンダース・パース(1839-1914)が主張したアブダクションのことを思い出す。パースは、アメリカの記号学者で、論理学についても研究していた。そこで、従来の帰納や演繹に加え、アブダクションという論理的思考が成立すると主張した。アブダクションとは、簡単に述べると次の3つのステップによる思考方法だと言える。

 

1)驚くべき事実を発見する。

2)その驚くべき事実を説明できる仮説を立てる。

3)その仮説によって、驚くべき事実を説明できる場合、その仮説は正しいことになる。

 

まず、「1」については、「疑問を持つ」と言い換えても良いだろう。疑問を持つところから、アブダクションは作動するのだ。そして、「2」の仮説については、想像力に依っていると言える。あれこれと想像することによって、仮説が生まれる。つまり、想像力なくして、このアブダクションは成立しないのだ。

 

但し、このアブダクションは不完全な論理だと言わざるを得ない。何故なら、1つの「驚くべき事実」に対し、複数の仮説が成立する可能性があるからだ。例えば、ビートルズの音楽はとても素晴らしく、とても感動する。これは驚くべき事実だ。そこで、何故、ビートルズの音楽がそのように素晴らしいのか、仮説を立ててみる。ある人は、ジョン・レノンが天才だったからだと考える。しかし、別の人はポール・マッカートニーが天才だったからだ、と考えるかも知れない。そして、この2つ仮説はどちらも正しい。つまり、どちらの仮説も部分的には正しいが、総合的に見た場合、誤っている。このような誤謬を引き起こす可能性があるので、アブダクションは不完全なのだ。

 

しかし、現実世界に目を転じた場合、想像力を含むアブダクションなくして私たちが認識できることは、とても少ない。例えば、明日の天気であれば、ある程度、予想することができる。しかし、例えばあなたが恋愛をしているとして、その恋がどうなるか、そのことを言い当てることのできる論理など、どこにも存在しない。明日の株価がどうなるか、それすら人間には分からない。

 

ちなみに、私がかつてこのブログで検討した「認識の6段階」という概念モデルがあるが、これを要約すると人間の認識というのは、まず、知識があって、それが想像力を経て、論理的思考に至るというものだった。ここでも、「想像力」は不可欠の要素となっている。

 

結局、人間の想像力というのは、誤りを犯しやすくとても頼りないものであるが、それなくして人間の思考は成り立たない、という関係にあるのではないか。想像力を駆使し過ぎると、アルビノの人々を殺戮したり、魔女狩りなどという馬鹿げたことをしたりしてしまう。しかし、想像力を用いず人間が思考できる範囲というのは、せいぜい実験によって事実を確認できる自然科学の世界に限定されるのではないか。

 

この点、ミシェル・フーコーの「言葉と物」の中に、次の一節がある。

 

- 想像力は人間のなかで、霊魂と肉体との縫い目にある。じじつ、デカルト、マルブランシュ、スピノザは、想像力を、まさにこのような位置において、誤謬の場であると同時に数学的真理にさえ到達する能力として分析した。(P.95)-

 

想像力とは、人間が決して飼い慣らすことのできない怪物なのだ。

 

ちなみに現代の日本社会においては、想像力が不足しているのではないか。例えば、自分のことを一方的に話し続ける人というのは、少なくない。自分の経験を語るという行為において、想像力は要求されない。他方、誰かに質問をする場合には、その相手の経験や興味などを想像する能力が求められる。そもそも、何に対しても疑問を持たない人だって、少なくはない。疑問を持たなければ、思考の回路は停止したままだというのに。

 

反逆のテクノロジー(その14) 労働とベーシックインカム

前回の原稿で、人間はその初期設定の段階で狂気を孕んでいる、ということを述べました。このように考えますと、肩の荷が降りたような、少し楽な気持ちになってきます。これまでの私は、自民党はけしからん、モリ・カケ・サクラはどうなっているんだ、とか、日本の司法に正義はないのか、とか、新自由主義はけしから、と思ってカリカリしていた訳です。そのような見方に変化はありませんが、しかし所詮、人間は不完全なもので、その不完全な人間が作り出す世の中が、狂っていないはずがない。学者の世界や教育の世界だって、例外ではない。そう思うと、冷静になれる。かと言って、それは諦めるということではありません。クールに、静かに、考える。その方が、思考能力が高まるような気もします。

 

さて、ミシェル・フーコーはその著作「言葉と物」の中で、人間は3つの事柄に規制されていると述べました。

 

- 人間は労働と生命と言語に支配され、その具体的実存は、それらのもののうちにみずからの諸決定を見出している。- (P.333)

 

確かに人間には寿命があって、それが尽きれば死ぬ運命なので、「生命」に支配されているということは納得できます。また、人間は「言語」によって認識し、思考するので、これに支配されているということも理解できます。ちなみに、言語心理学という学問があって、こちらではチンパンジー、カラス、イヌなど、言語を持たない動物も思考するので、人間も言語によって思考するとは言えない、という学説が主流になっているそうです。しかし、チンパンジーなどの動物は、経験的に学習することはあっても、直線を発見したり、文字を発明したりすることはありません。思考の複雑さの程度というは本質的な相違をもたらしているのであって、人間だけが持つ思考能力は言語に依存していると思います。

 

さて、問題は「労働」です。人間は本当に、「労働」に支配されているのでしょうか。フーコーが「言葉と物」を出版したのは、1966年です。それから54年の歳月が流れています。その間に、情報技術をはじめ、多くのテクノロジーが発展したことは言うまでもありません。

 

思えば、現代の社会システムや権力構造というのは、この「人間は働くべきだ」というテーゼ(以下、便宜上「勤労主義」という)を前提にしている。仮に、このテーゼをひっくり返すことができれば、それは人類がかつて経験したことのような、大きなパラダイムシフトが引き起こされるに違いない。そしてこの課題は、コロナ禍が引き起こすであろう目前に迫った世界恐慌との関連で、検討されるべきなのです。

 

そもそも、勤労主義というのはどこから来ているのか。日本でも「働かざる者、食うべからず」という言葉があります。これをWikipediaで調べてみますと、その起源は新約聖書にあると書いてある。なるほど、新約聖書にそう書いてあるので、聖書を重んじるプロテスタントが勤労主義を支持し、それが資本主義を支えることとなった。そういう経緯があるのではないでしょうか。

 

もう一つは、日本国憲法の第27条1項です。

 

- すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。-

 

ここにも勤労主義が定められている訳ですが、何故、このような条文になっているかと言うと、当時、マルクス主義者である憲法学者が主張した、という説があります。(Wikipediaで「勤労の義務」を調べると説明の詳細を読むことができます。)レーニンも「働かざる者、食うべからず」と述べたことがあるらしい。つまり、社会主義共産主義は、働ける者は皆働き、その成果を国民全員で平等に分配しようという考え方なので、必然的に勤労主義に至る訳です。

 

勤労主義が、戦前の軍事政権が唱えた「富国強兵」と合致するのは言うまでもありません。現代社会を支配している国際金融資本の場合は、どうでしょうか。彼らの手口というのは、大衆を貧しくさせておいて、労働によって拘束する。そういう手法を採っているように思います。してみると、キリスト教プロテスタント)、マルクス主義軍国主義グローバリズムなど、様々な政治勢力が共通して勤労主義を支持してきたことが分かります。これらの勢力を説得して、若しくは打ち勝って、ベーシックインカム(以下“BI”)を導入するのは、並大抵のことではなさそうです。

 

そもそも、人間は本当に働かなければならないのか。この点、私はそうではないと思うのです。狩猟・採集を生業としていた古代人は、現代人ほどは働いていなかった。中世の貴族もほとんど働かなかったし、宗教の聖職者たちだって、経済的な生産活動には従事していない。むしろ、働かない人たちこそが文化や芸術を支えてきたのではないか。

 

では、導入するとすればどのようなBIが適切なのか。それは、国民が現代社会で生きていく上で必要最小限の金額に若干の余裕をもたせた金額を、全国民に給付するということだと思います。仮にその金額は月額15万円としておきましょう。贅沢はできない。そこで、贅沢をしたい人は、働く。ただ、働くか否かという判断は、個々人が自由に決める。生活保護は廃止。国民年金に加入している人達の平均的な年金受給額は月額6万円程度なので、差額の9万円を支給する。その他の年金制度は、何十年かの時間をかけて、段階的に廃止していく。ざっくりと言いますと、そのようなBIがいいのではないでしょうか。

 

そもそもBIは可能なのか、という問題がありますが、YouTubeで複数の動画を視聴しますと、どうやらこれは可能らしい。衣食住という観点で検討してみても、既に、各分野での機械化は進み、生産性は各段に向上している。何も、現在のように多くの人々がシャカリキになって朝から晩まで働かなくとも、国民の衣食住を維持することは十分可能なのです。今後、人口知能などの技術が進歩した場合、この傾向は更に強まります。

 

ただ、BIの導入は天と地がひっくり返るような変化ですので、段階を追って進める必要があります。まず、定額給付金などのコロナ対策を継続する。そして、消費税の廃止。MMTに基づく積極財政への転換。そしてBIへと進める。そういう道筋が見えます。

 

BIを導入する上で最大の障壁は何かと言うと、それは前述の勤労主義者たちをどう説得していくか、ということではないでしょうか。彼らは一様に、変化を望んでいない。既得権にしがみつこうとする人も少なくないでしょう。そして、そもそも自由を望んでいない人たちだって、少なくはない。背広を着て、ネクタイを締めて、働く以外にすることがない。いざ、自由になってみると、何をしていいか分からない。定年退職をして、途端に老け込むお父さんというのは、日本全国にいる。彼らには趣味がない。遊びを知らないんです。今の日本には、81才にもなって自民党の幹事長として働いているおじいさんだっている。陰気な顔をした総理は、71才だったでしょうか。こういう人たちというのは、引退しても何をすればよいのか分かっていないに違いない。日本には欧米のようにバカンスを楽しむという習慣もない。

 

長い目で見ますと、それらの仕事人間に対し、仕事以外にも楽しいことは沢山あるんだよ、ということを教える必要があるように思います。北風ではなく、太陽のように。そして、特にやりたいこともないのに、いい年をして権力にしがみついていることは恥ずかしいことなんだ、という価値観を醸成する必要があるのではないでしょうか。働くだけが人生の目的ではない。人生にはもっと楽しいことが沢山ある。もっと大切なことだってある。それを証明する力はどこにあるか。それは、文化の中にある。文化には、そういう力があると思うのです。

 

グローバリズム、国際金融資本に関するおススメ動画

グローバリズムの手口について三橋貴明氏がYouTubeで分かりやすく説明してくれているので、リンクを貼っておきます。

 

三橋TV 第296回 グローバリズムは我々の「祖国を愛する気持ち」までをも利用する

26分 

https://www.youtube.com/watch?v=K_brhkr6Nfw&t=1126s

 

 

同じく三橋TVですが、こちらは国際金融資本(ロスチャイルド & ロックフェラー)についての解説です。

 

三橋TV 第299回 国際金融資本の真相を知り、「日本国民の国」を取り戻そう

28分

https://www.youtube.com/watch?v=7k3awZjwq2A

 

お時間のある時に、是非!

 

反逆のテクノロジー(その13) 人間のデフォルト

工場を出荷する段階でのコンピュータは初期設定の状態にあり、これをデフォルトと言う。人間にも、同じことが言えるのではないか。生まれたての人間の状態、人間の初期設定の状態は、どうなっているのだろう。

 

かつて西洋人は、世界各地を訪れ、先住民たちを観察した。すると、どの民族も信仰を持っていることに気づく。そこで西洋人は、人間は生まれながらにして、換言すればそのデフォルト状態において、神という概念を持っていると考えた。これに対し、ジョン・ロックは「生まれたての人間の心は白紙なのであって、その内実は経験によって醸成される」と考えた。これが「経験主義」と呼ばれる思想だ。このような考え方に似たことを私も考えている訳だが、そのアプローチは少し違う。そもそも人間の心は、その初期設定状態において、正常なのか、それとも最初から狂いを生じているのか。そういう疑問がある。私は今日まで、人間の心というのはその初期設定状態においては正常なのであって、誤った教育を受けたり、過酷な経験をしたりすることによって壊れていくのだろうと考えてきた。しかし、本当にそうだろうか? いくつかの事例を通じて、そのことを考えてみたい。

 

まず、私が敬愛しているイワム族の事例を取り上げたい。私がイワム族を知ったのは、吉田集而氏の著作「性と呪術の民族誌」(平凡社/1992)を通してのことだった。吉田氏は民俗学者であると共にフィールドワーカーであり、パプアニューギニアに何年か滞在し、その経験をこの文献において活写している。それは小説のようでもあり、私は、この本に魅せられた。そして、吉田氏がイワム族を愛したように、いつか私の心の中にもイワム族が棲みついた。私の呪術に対する考え方などは、この本に拠るところが大きい。

 

著作の年次は逆になるが、その後、私は同じく吉田氏の著作である「不死身のナイティ」(平凡社/1988)を読んだ。しかしこちらの文献は、驚くべき記述から始まる。まず、イワム族のグループAの男が、グループBの男によって殺害される。怒ったグループAは、だまし討ちを掛けて襲撃し、グループBを皆殺しにしてしまう。そして、殺害したグループBの死体を持ち帰り、皆で分け合って食べたというのだ。1956年のこと。あまりの記述にショックを受けた私は、この本をそれ以上読み進めることができなかった。飢えたピラニアなどが、水槽の中で共食いをすることはあるだろうが、人間以外の哺乳類において、共食いなどということはあるのだろうか? そもそも人間は、狂っていないか?

 

カニバリズムは、イワム族に固有の現象かと言うと、そうではないらしい。「暴力の人類史」(スティーブン・ピンカー/上巻/青土社/2015)から、引用させていただこう。

 

- カニバリズムは長い間、原始的な残忍さの見本と見なされてきたが、文化人類学者のなかには、カニバリズムの報告は隣接する部族による「血の中傷」〔差別や虐殺の口実として、でっちあげられた事実無根の噂〕だと片づける者も少なくなかった。しかし、近年の法医考古学の研究により、カニバリズムは先史時代に広範囲に行われていたことが明らかになった。人間の歯形がついた人骨や、動物の骨のように折ったり火を通したりして、食べ物のゴミとして捨てられたものなどが証拠として見つかっている。 -

 

次に、ミシェル・フーコーの「監獄の誕生」(新潮社/発行2020。フーコーの執筆は、1975年)を取り上げたい。私は、この本をまだ読み始めたばかりだが、こちらもショッキングな描写から始まる。それは1757年のパリにおける死刑執行の様子である。まず、死刑囚の体に灼熱した“やっとこ”を押し付ける。そこに溶かした鉛などを浴びせかけ、最後は、死刑囚の四肢をロープにつなぎ、それぞれのロープの端を馬に曳かせたという。そしてこの刑罰は、公衆に公開の上で執行されたとのこと。繰り返しになるが、私は、この手の話が苦手だ。フーコーの著作なので、読み進める覚悟はしているのだが。

 

このように残酷な刑罰の方法というのは、フランスや西洋に固有の事象だったのかと言うと、そうではないのだろうと思う。日本においてもかつては打ち首、晒し首、切腹などの刑罰が執行されていたはずだ。

 

現代に目を転じてみよう。トランプは今日までに「消毒液を注射すればコロナは治癒するのではないか」とか「コロナの99%は完全に無害だ」などと発言している。現実には、ホワイトハウスクラスター化し、既に21万人の米人がコロナで死亡している。これが世界一の軍事力を誇るアメリカの実情かと思うと、背筋が寒くなる。

 

日本では今年の8月に1845人が自殺したとのこと。これらは遺書が発見されたケースだけだろうから、実際にはもっと多くの方々が自ら命を絶っているに違いない。コロナ禍の影響で経済が停滞し、派遣社員の多くの方々が職を失っている。その影響から、女性の自殺者が急増しているらしい。現在の日本だって、狂っていないだろうか?

 

歴史上のジェノサイド(大量殺戮)を数え上げれば、きりがない。

 

そうしてみると、人間というのはその初期設定の段階において、既に狂気を孕んでいると考えた方が自然ではないだろうか。そして、その狂気は人間集団におけるマイノリティにおいて顕在化するばかりか、時として、マジョリティを構成する人々を凶行に走らせる。歴史を通じて、人間社会から狂気が消え去ったことはないのではないか。私たちは、現在も狂気と向き合って、日々の暮らしを立てているに違いない。今も狂気は犯罪を生み、人々の精神をむしばみ、時に自殺に走らせ、社会を狂わせている。

 

こういうことを考え始めると、その人は最後には「自分は狂っていないか?」という疑問に行き当たると、何かの本に書いてあった。私が狂っている? そうかも知れないし、そうでないかも知れない。それは、誰にも分からないのではないか。人間の認識能力というのは、極めて不確実で、限定的なのだから。