文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

反逆のテクノロジー(その18) 言語化するということ

フーコーは、性に関する事項を自ら告白するという文化は、キリスト教カトリックに由来すると説明している。カトリックには「キリスト教司教要綱」というものがあって、これに定められた「告解」という手続きに従って、信者たちは自ら犯してしまった罪について、告白することが求められてきた。馴染みのない言葉なので、「告解」を広辞苑で調べてみた。

 

告解・・・カトリック教会で、洗礼を受けた後に犯した罪を、司祭を通して神に言い表す行為。赦しの秘跡の中心的行為。

 

懺悔と同じような意味ではないだろうか。想像だが、多分、告解の基底にはキリスト教における原罪という概念がある。自ら罪を告白させることによって、自らの罪を認めさせる。信者は自らを罪深い人間だと認識する。従って、神に赦しを請わなければならない。そういうロジックがあったのだろう。

 

時代を経て、次第に告解は姿を変えていく。近代になるとこれは一般的な告白という形を取り始める。この形式は、文学の世界に影響を及ぼす。そればかりか、近代の西洋社会においては、精神病理学、警察の取り調べや訴訟における証言、更には教育学までもが人々に告白を強要するようになる。

 

現代日本の社会制度においても、目に見えにくい形ではあるが、キリスト教の影響が多々存在することが分かる。現代の日本においても、心理療法家は患者自らに語らせようとするだろうし、警察は「吐け!」と言って被疑者に自白を求める。訴訟になれば、裁判官が被疑者に尋問するし、学校で悪事を働いた生徒は反省文を書かせられる。このような告白に関する制度の起源がキリスト教にあったとは驚きである。そして、西洋と東洋の文化的な背景の根深い差異を感じざるを得ない。

 

ところで、上記の告白と同様に、人々は「曰く言い難い」事柄を、なんとか言葉にしようと努めてきたのだ。それは、無意識や性の領域に留まらない。例えば音楽評論家は、「曰く言い難い」音楽の世界をなんとか言語化しようと努めているし、それは美術評論家も同じだ。モーター・ジャーナリストと呼ばれる人々は、クルマやバイクの乗り心地がどうだとか、今度の新型は旧型とどう違うかというような事を言語化しようと、日々、努めている。グルメ・リポーターは、微妙な味の違いを言語化することに苦心している。何がどうおいしいのか、独自の表現を模索している。

 

もちろん、おいしい料理というのは、誰かがそれを食べることを目的として作られる訳だ。従って、誰かがそれを食べた時点で、料理を作るという行為自体は完結する。音楽は、誰かが聞くことによって、絵画は誰かがそれを見ることによって、完結する。それにも関わらず、人間はそれらの「曰く言い難い」営為について、言語化しようと努めている。何故だろう。

 

例えば、ショパンが自宅のピアノで即興演奏をしたとしよう。それはそれで素晴らしいことだし、芸術的な営為だと言える。しかし、それだけでそのショパンの行為を文化だと言えるだろうか。それはあまりにも個人的な行動なのであって、文化と呼ぶに相応しい域には達していない。ショパンが忘れてしまえば、その即興演奏は何の痕跡も残さず、消滅することになる。そこで、ショパンは自らの演奏を楽譜に記すことになる。この楽譜というものは、オタマジャクシという記号を用いて作成される。この行為については、「記号化」と呼んでいいだろう。

 

記号化されたショパンの曲は、再現することが可能となる。そしてその曲は、ショパンの死後であっても再現することが可能となる。演奏会も開催され、多くの人々がショパンの楽曲に触れることになる。しかし、どういう訳かこれら音楽の世界で発生する事柄に続いて、言葉がやって来るのだ。評論家が、論評する。ショパンの死後であれば、伝記が出版される。この段階は「言語化」だと言える。この段階まで至るとショパンの楽曲は、文化そのものだと言える。すなわち、多くの人々がショパンの楽曲をよく理解し、それを繰り返し聞こうとする訳だ。

 

上に記したショパンの例では、次のステップを踏んでいることになる。

 

個人的な営為・・・楽曲のアイディア、即興演奏

記号化・・・・・・楽譜の作成

言語化・・・・・・楽曲の社会的認知。文化の成立。

 

全ての文化的営為が、上記の3段階を経るとまで言うつもりはない。しかし、このように考えた場合、いくつかの傾向を指摘することはできる。

 

1つには、言語によってしか到達し得ない、ある領域が存在すること。だから人々は、「曰く言い難いこと」であっても、なんとか言語化しようと試みるに違いない。

 

2つ目としては、個人的な営為から、人間集団の認識へと進んでいること。そして、人間集団が認知した事項だけが、文化として成立すること。

 

3つ目としては、個人的な営為が人間集団のレベルで認識されるためには、多くの人々が追体験できる必要がある、ということ。ショパンの例では、楽譜という記号がそれを可能ならしめていた訳だ。では、楽譜を読めなかったジミ・ヘンドリックスの場合はと言うと、それはレコード、CDなどの記録媒体が楽譜の代替機能を果たしたに違いない。加えてビデオなどの記憶装置があるおかげで、私たちは愛すべきジミ・ヘンの演奏を追体験できるのだ。(言うまでもなく、多くの評論家や関係者がジミ・ヘンに関する書籍を出版している。すなわち、言語化である。)

 

料理番組ではレシピが、グルメ番組ではその料理を提供している店舗に関する情報が公開されるのが普通だろう。番組で紹介している料理を、視聴者が追体験する道が示されるのである。

 

蛇足かも知れないが、もう1点追加しておこう。個人的な営為というものが先にあって、その後に言葉がやってくるという原則もある。例えば、個人的な犯罪が起こる。それが社会的に認知されると、法律という言語によって、これを処罰しようということになる。法律という言語は、常に、出来事を後追いするのだ。例えば、吃音の若い僧が金閣寺に放火する。そういう出来事があって、その後に三島由紀夫の小説が登場する。

 

ここまで考えると、例のパロール話し言葉)とエクリチュール(書き言葉)の関係が見えてくる。ちなみにヨーロッパではパロールが主体であって、エクリチュールパロールを補足するに過ぎないという考え方が大勢を占めている。しかし、パロールはその場で消えてしまうもので、それを追体験することはできない。追体験を可能ならしめるのはエクリチュールの方であって、私の立場から言えば、重要なのはパロールではなくエクリチュールだ、ということになる。(この考え方は、フーコーデリダの主張とは無関係。)

 

まとめてみよう。物事というのは、個人的な営為から始まる訳だが、それを人間集団における認識にまで高めた場合、それは文化となる。そして、その方法が言語化するということなのだ。