文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

反逆のテクノロジー(その25) 想像力と科学

 哲学とは何かという大問題がある訳だが、初心者向けの説明として「神話に準拠しない思考方法」が哲学だと言われている。してみると、歴史的に人間の思考方法には「神話に準拠するもの」と「哲学的なもの」の2つがあることになる。

 

「神話に準拠する思考方法」は、やがて宗教を生み、文学を生んだと言えよう。これらを根底から支えてきたのは、人間の想像力である。

 

他方、哲学は自然科学や社会科学を生んだ。哲学から科学が分岐したので、哲学が扱う領域は狭くなった。哲学に残された中心的な課題は「認識論」だという説もある。

 

いずれにせよ上記の前提に立てば、一応、想像力と科学という2項対立を措定することができる。想像力は科学を否定し、科学は想像力を否定する。例えば、新聞を見てみればいい。新聞記事において、人間の想像力は極限まで排除されている。そして、想像力を排除し続けると、他人の痛みを理解しない人間が量産されるに違いない。最近、渋谷でホームレスが殺害されるという事件が起こった。今だけ、金だけ、自分だけ、という現代の風潮も、この想像力の欠如から来ている。加えて、新自由主義と呼ばれる弱肉強食の思想が、社会を疲弊させている。例えば正規従業員は、ボーナスを受給できない非正規従業員の痛みを理解しないのだ。

 

他方、想像力も万能ではない。例えば、オウム真理教が犯した地下鉄サリン事件などは、人間の想像力が生んだ悲劇だった。

 

想像力と科学との関係は、どちらか一方だけではダメなのだから、両者をどこかで調和させる必要があるように思える。そんなことが可能なのかと思われるだろうが、私は可能だと思う。例えば、武田泰淳という作家がいた。武田の家業はお寺さんだった。家業を継いだ武田は坊主になった。しかし、勉学を積んだ武田は左翼思想に傾倒していく。そして、「赤い坊主は生きられるのか」という問題に突き当たる。左翼思想は社会科学であって、仏教は想像力の世界にある。相当大変だったと思うが、やがて武田は「ひかりごけ」という短編小説を生み出す。この作品は、そもそも人が人を裁くことは可能なのかという問題を扱い、裁判制度の本質に迫るものだった。そしてそのことを武田は小説という想像力の世界において、表現した訳だ。すなわち、この小説において武田は、科学と想像力の融合に成功している。同じようなことは、戦後のプロレタリア文学においても言えるのではないか。この想像力と科学の領域を融合させるという点に、近代日本文学の妙味がある。

 

別の見方をすれば、武田泰淳は、政治や法律という大衆から見れば遠い領域の事柄を、小説という大衆にとっても身近に感じられる文化的な領域にまで引き下げて見せた、とも言えよう。大衆にとって裁判は遠い事柄だが、小説は身近であるに違いない。

 

大衆にとって遠い存在である政治を、大衆にとって身近なレベルにある文化の水準まで落とす。そして、文化のレベルで解決を図っていく。どうも、ここら辺に解決の糸口があるように思える。

 

例えば、アメリカではBlack Lives Matterという運動がある。このキャッチコピーが人々を団結させ、人権擁護運動を推進させている。警察官などから暴行を受けてきた黒人たちには、複雑な思いがある。その複雑で曰く言い難いことを一つのコピーで象徴させている。すなわち、言語化である。

 

同じくアメリカで、共和党サイドの運動だったと思うが、Tea Partyがあった。これは、大衆がご近所さんを自宅に招き、お茶を飲みながら政治の話をするというもの。これも、政治という遠い存在を、お茶を飲むという文化的な水準に引き下げようとする試みである。

 

探してみると、日本でも同じような試みは少なからず存在する。最近、ツイッター・デモという言葉が生まれた。同じハッシュタグを付けて、皆で同時に呟く。すると、その言葉がツイッターのランキングに登場して、政治的な影響力を持つ。

 

「私立Z学園の憂鬱」というマンガもある。このZは、財務省の頭文字と掛けている訳だが、主人公の女子生徒が消費税の欺瞞を暴き、次々と大人たちを論破していくというもの。複雑な経済の話ではあるが、マンガなら若い人でも読みやすい。

 

マイナーな話ではあるが、経済学者の松尾匡氏はYouTube番組に出演する際、オリジナルのセーターだったか、ジャケットを着ていた。そして、そのジャケットの胸の辺りには大きく「反緊縮」と書かれてあった。思わず笑ってしまったが、これなども複雑な経済の話をファッションという文化的なレベルに落とす試みだ。これ、Tシャツで販売されれば、私だって着てみたいと思っている。

 

こんな話はいくらでもあるのであって、安倍晋三を揶揄する歌もあった。メロディーは完全にストーンズの「悲しみのアンジー」なのだが、その歌詞は「お腹が痛くちゃ、政治は無理だよ~♪」というもの。

 

思うに権力と文化は、その位相は異なるものの、時に対立するのだ。例えば、北海道の開拓に乗り出したとき、和人はアイヌに対する弾圧を始めた。当時、アイヌの結婚している女性たちは、口の周りに刺青を入れていたが、和人はこれを禁止した。そして、和人はアイヌの人々に日本語を教えたのだ。この時点で、アイヌの文化は和人の持つ権力に屈したように見える。しかしその後、アイヌの文化を守ろうということになり、現在では多くの人々がその活動に参加している。強固な文化は、そう簡単には死なない。

 

人間の認識を高める限界設定(リミットセッティング)ということで言えば、それは言語と国家ではないか。言語という限界、国家という限界の中で、私たちは認識能力を高めていくべきだと思う。

 

文化という水準の、その領域に、私たちの希望がある。

 

この問題、もう少し考えてみたいと思うのだが、今は、フーコーに戻るべきだと思う。フーコーに関する文献をもう少し読み込んだ後、このシリーズの後半に着手したいと思っている。

反逆のテクノロジー(その24) 中間的なまとめ

少し、本原稿の主眼なり、途中経過をまとめてみたいと思う。

 

現在、私はとても不安だし、社会に対する不満も抱えている。私は高齢者なので、コロナだって怖い。そもそも人間の体にはガン細胞が巣くっているのであって、この年まで生きてくると、ガンで死ぬのであれば、ある意味寿命だと思ってあきらめもつく。しかし、コロナは違う。コロナなんかで死ぬのは嫌だ。また、日本の政治はグローバリズムに侵略されており、私としては、はなはだ不満に思っている。では、どうすればいいのか。

 

また、現在の日本がいかに絶望的な状況にあるか、そのことを語る知識人は多いが、希望を語る人は少ない。他方、私は希望を語りたいと思っている。私が何を考え、このブログに何を書こうが、システムに対する影響など、皆無であるに違いない。しかし、システムに操られながら何も知らずに死ぬのか、少しでもそれに反逆を試みながら死ぬのか、それは私自身にとっては重大な問題で、言うまでもなく私は後者でありたいと願っている。

 

このブログでは、文化論、認識論について検討してきた経緯があるが、そこにミシェル・フーコーの思想が合流しつつある。フーコーが述べたエピステーメー、権力、システムなどのキーワードは衝撃だった。そして、現在取り組んでいる原稿のポイントも、権力論、文化論、認識論の3つに集約できる。

 

ある対談の中でフーコーは、「権力とは何か、それを認識することはできない」と述べている。その不可能性を承知の上で、現時点の私は、次のように考えている。まず、権力そのものが悪なのではない、ということ。この考え方はトマス・ホッブズから来ているが、フーコー自身も権力自体を否定するような発言はしていない。人間の社会には様々な理由により秩序が必要だし、戦争の歴史だってある。そこで、民意を反映した権力を持った国家を設立する必要が生ずる。不完全な秩序であっても、アナーキーな状態よりはマシだろう。問題は、権力のあり方と、それを更新していく、バージョンアップさせて時代の価値観と合致させていく、その方法にあるのだと思う。権力は、常に現状維持を目指し、変化を拒絶するからだ。

 

また、権力は何かを背景として持っていると言えよう。それは暴力的な力である場合もあるし、経済的なものや、「知」である場合だってある。それらを隠し持ち、偉そうに振り回すのが権力者の特徴だ。自民党は利権を背景に持ち、立憲民主党共産党などは、法律学マルクス主義に関わる「知」を背景に持っている。権力という観点からすれば、立憲も共産も権力者たちの集団であることに変わりはない。その前提で考えると、いくら与党と野党が国会で戦ったとしても、情勢は1つも変わらない。与野党が国会で論戦を繰り広げることによって、現状が維持されるというパラドックスに陥っているように思う。

 

次に文化論だが、現在、私が着目しているのは、権力やシステムの力が及ばない領域というものがあって、それが文化的領域なのではないか、という点だ。かつて黒船がやってきて、日本に開国を迫った。敗戦後にはGHQがやってきて、日本の欧米化を推し進めようとした。確かに、日本の風景は一変した。都市には高層ビルが建ち並び、地方はコンビニだらけになった。しかし、私たちは今日においても和食を愛しているし、日本の伝統的な祭祀を守っている。春には花見に出かけ、お盆には墓参りをする。そして、日本人が連綿と紡いできた文化の中核には、世界的に見ても珍しいであろう「美」というものがある。この美意識に基づく文化を守り、発展させていくこと。それは、権力に対抗する手段になり得るのではないか。そこに希望を見つけることはできないのだろうか。この問題は、未だ解決に至ってはいない。

 

最後に、認識論と言えば少しオーバーかも知れないが、「言葉」の問題がある。言葉はとても不便なもので、それによって表現し得る事柄は、とても限られている。しかし、私たちは言葉によって意識を持っているであろうし、言葉によってしか意思疎通を図れない事柄は、少なくない。現代は、動画の時代だと思う。確かに、動画が提供する情報量はとても多い。動画は、人間の表情や音声、子猫の仕草までも漏らさず伝えることができる。しかし、動画が持つ意識や思考に対する影響力は、言葉よりも少ないに違いない。例えば、動画によってミシェル・フーコーの複雑な思想を再現することなど、出来はしないのだ。

 

前述の通り、「知」を背景とする権力者は、確実に存在する。それは宗教の世界における聖職者であったり、学者であったりする訳だが、彼らが持っている「知」を言語によって公開することができれば、一つの権力を解体することが可能なのだ。そのためには、大衆に語り掛ける言語が必要なのであって、私たちはそれを発明する必要があるのではないか。また、与野党の不毛な論戦については、両者が合意に至るべき言語を生み出す必要があるのではないか。与野党が論戦している間に、グローバリストが漁夫の利を得る。このような現状は、変える必要がある。民主主義社会においては、知識人と大衆とが和解すべきなのだ。

 

反逆のテクノロジー(その23) 美を扱う技術

美とは何か、という問題を主に考え続けてきたのは、文学者ではないだろうか。例えば、三島由紀夫も美について考えた作家の1人である。彼のギリシャ彫刻趣味や、ボディービルで肉体を鍛え上げるという発想には辟易するが、ただ、滅びゆくものこそが美である、という主張には賛同できる。桜は散るから美しい。

 

女性の中に美を見出した作家の1人に、川端康成がいる。半世紀も前に読んだ小説なので記憶は曖昧だが、「伊豆の踊子」にはこんなシーンが描かれていた。主人公である書生は、たまたま離れた所にある露天風呂に入っている旅芸人の家族を目撃してしまう。書生は眼をそらそうとするのだが、その瞬間、踊り子の少女が全裸のまま立ち上がって主人公に向かって手を振るのだ。このシーンが意味するのは、まだ羞恥心さえも持ち合わせていない少女の純粋さである。遠くない将来、少女は大人の女性へと成長を遂げるに違いない。その直前の、一瞬の煌めきを川端は捉えたのである。作家の慧眼に敬服する他はない。

 

このようにある種の美は、時間と空間の中で突如として現出し、消えていく。それは何処に現われるか、予測すらできない。ところが、私たちの文化には奥行きがあり、そのような美を扱う技術が存在する。

 

例えば、谷崎潤一郎の随筆に「陰影礼賛」という随筆があって、これは伝統的な日本家屋の中に潜む影の領域に美を見出そうという主張である。人間の無意識などを含めて、全てに光を当てようとする西洋の思想と対照をなすもので、いかにも東洋的、日本的な発想だろう。かつては、たとえ小さな家であっても、床の間を設ける例が多かった。狭い家なので空間は貴重だが、それでも床の間を設け、そこに掛け軸を掛けたり生け花を置いたりして、四季の風情を楽しむのである。これなども西洋の合理主義には、対抗する。

 

例えば、西洋料理に使われる皿はどれも白く、底の浅いプレートと底の深いディッシュ、それにスープ皿を加えた3種類程度しかない訳だが、和食に用いられる食器は無数だ。調味料を入れる小皿があり、漬物などを入れる小鉢があり、焼き魚を置く長方形のものや、煮物を入れる円形のものがあり、木製のお椀があり、茶碗がある。それぞれの食品の味が混在しないようにという合理的な配慮もあるだろうが、それ以上に器そのものに美を見出しているのだ。

 

日本舞踊や茶道は、人間の一挙手一投足の中に美を生み出そうと努めているし、その伝統は、日本旅館の仲居などが受け継いでいる。着物姿の彼女たちは、客をもてなすために三つ指をついて、頭を下げる。その所作の中にも美しさがある。

 

最近の若い人の事情を私は知らないが、昭和の時代には、多くの日本人が心に抱く原風景というものがあった。それは里山であり、畑や田んぼがあって、道路は舗装されておらず、のどかで美しかった。野に季節の花が咲きほこり、秋になれば農家の庭先に柿の実がなった。その風景は、とても懐かしく、心が安らぐ場所だ。何県の何町が、という訳ではない。このような風景は、日本の田舎へ行けば、何処にでもあったのだ。

 

つまり、こうして人為的に美を作り出す技術を、かつての日本人は持っていたのだ。それは、10年とか20年という短い時間の中で成し得るものではない。100年、いやもっと長い時間を掛けて、人々が工夫し、考え、積み上げてきた伝統というものがあって、初めて成立する美なのである。

 

では、そのように伝統を継承し、日本の美を創造し、維持し、発展させてきたのは誰なのだろう。それは日本家屋を作ってきた大工であり、食器を作ってきた陶工であり、旅芸人であり、農民であり、旅館に務める仲居なのだ。すなわち、美を創造する技術を持ち、それを継承してきたのは、大衆なのである。権力者ではなく、大学教授でも役人でもなく、どこにでもいる市井の人々の功績なのである。

 

美は、自然と共にある。自然を征服しようとする態度によって、美は生まれない。自然に少しだけ手を加えることによって、美が生まれるのだ。例えば、人が立ち入ったことのないアマゾンのジャングルがあったとして、そこは美しいだろうか。確かに原色の花が咲き乱れていて、それなりに美しいかも知れない。しかし、その花を一輪だけ切り取って、花瓶に入れてみれば、その花はより輝くに違いない。例えば、民家の裏に小さな山があったとする。木の杭を使って階段上の道を作れば、その山はより魅力的になるはずだ。

 

美しいと感じるか、そうではないと感じるか。これは人間の認識能力の極めて基礎的な要素だと思う。知識は不要だし、ましてやロジックやイデオロギーなどというものとは無縁なのだ。私たち日本人の心の底にある美意識。これをもって、西洋の合理主義やグローバリズムに対抗することはできないだろうか。

 

反逆のテクノロジー(その22) 言語の領域

言葉というのは、とても不便なものだと思う。もし尋ねられれば、私は「民主主義を支持している」と答えるだろう。しかし、100%そうかと言えば、それは違う。独裁よりはいい。それは確かだ。しかし、愚かで騙されやすい大衆の意向を尊重するのが民主主義であって、それは完璧という概念からは程遠い。実は、古代のシャーマニズムの方が良いのではないか、という気持ちが私にはある。加えて、民主主義で選ばれた政治家は何をしても構わないという主張が成り立つのであって、政治家は憲法の枠を超えてはならないとする立憲主義と民主主義は対立するのだ。では、どちらが正しいのか、という疑問だってある。このように様々な疑問や考え方があるにも関わらず、私は「民主主義を支持している」と言うだろうし、このブログにも幾度かそう書いた。

 

そのように考えると、私は、嘘つきなのかも知れない。本当の気持ちはもっと複雑であるのに、その複雑さを表現できず、格式ばった言語に置き換えているに過ぎない。しかし、そう考えてみると嘘つきなのは、私だけではないような気もする。例えば、恋人同士で「愛している」などと言う訳だが、それもはなはだ心もとない訳だ。相手の全てを理解している訳ではないし、往々にして、恋愛中の人間というのは、理想的なイメージを相手に投影する傾向がある。更に言えば「愛している」のは現在の心境であって、将来までそのことを保証できる訳ではない。従って正確に言うならば、「私は、私がイメージしているあなたを、現時点においては、愛している」ということになるだろう。但し、こんなことを言ったら、言われた方は怒り出すに違いない。

 

すっかり猫好きになってしまった私は、よくYouTubeの猫動画を見る。大体これらの動画は、ある日突然、何の脈絡もなく、子猫を拾ってしまうところから始まる。腹をすかせた子猫は衰弱していて、やせ細っている。物陰で鳴き声を上げる子猫を取り上げてみると、とても可愛い。そこで、ユーチューバーはその子猫を助けて、共に暮らすようになる。私はこのような動画を見て感動している訳だが、その子猫の愛らしい鳴き声、かわいい仕草など、とても言葉にはできない。

 

つまり、言語で表現できる事柄というのはごく限られた範囲に留まるのであって、大半の事項は、言語によっては表現し得ないのだ。そして、このように考えると言語の領域と意識との関係性に思い至るのである。

 

心理学者は、意識と無意識を区別して考えている。無意識の領域が圧倒的に多く、意識は心の表層に位置するに過ぎない。ここでは仮に意識の領域を1%、無意識の領域を99%としておこう。そして、人間の心の壊れやすさ、狂気に傾倒する性向、経験に関する記憶などは、無意識、すなわち99%の方に存在する。また、無意識の領域は、本人でさえ認識できないという特徴を持っている。本人が分からないのだから、ましてや他人が分かるはずがない。このように考えると、人間同士が互いに理解し合うことは、ほぼ、不可能だと思える。家族であっても、恋人同士であっても、永年の友人であっても、事情は変わらない。同じ環境で育った子供同士であれば、それなりに共通項も見いだせるだろう。しかし、年を重ねるにつれ、経験の種類や幅に差異が生じる。経験は豊かな無意識を構成すると共に、互いに理解し合うことの困難さを増幅させるに違いない。

 

では、意識の方はどうだろう? この領域は1%に過ぎないが、検討する価値のある領域だと思う。何故なら、意識の領域というのは、言語の領域とオーバーラップすると思うからだ。

 

例えば、あなたが何年か振りで旧友と会ったとしよう。そして、旧友はあなたにこう尋ねる。

 

「あなた、最近、幸せにやってる?」

 

ありがちな質問だが、この問いに答えるのは困難を極めるに違いない。幸せだと言えばそう言えそうだし、そうでないような気もする。それが、普通ではないだろうか。この質問に対し、仮にあなたがイエスと言えば、あなたは幸福そうなあなたを演じることになる。ノーと言えば、旧友はあなたにその理由を尋ねてくるだろう。「曰く言い難い」と答えたのでは、会話が続かない。つまり、イエスと言うか、ノーと答えるか、その言葉にあなたは支配されることになるのだ。

 

このような考え方は、構造主義に似ている。物事には構造というものがあって、人はその構造に支配される。その構造から逃れることはできない。上に記した話においては、言語の中に構造を見ている訳だ。

 

少し、上に記した主張をまとめてみよう。

 

まず、人間の心の中には意識と無意識がある。その比率は、仮に、意識が1%で無意識が99%だとする。そして、99%を占める無意識の領域というのは、非言語領域であって、これは本人ですら認識することが困難な領域だ。従って、無意識の領域については、他人とコミュニケーションを取ることができない。他方、1%しかない意識の領域は、言語に拘束されるが、反面、他の人と意思疎通を図ることができる。

 

意 識・・・ 1%・・・言語領域 ・・・意思疎通が可能

 

無意識・・・99%・・・非言語領域・・・意思疎通は不可能

 

このように考えると、言葉の持つ力とその限界が見えてくる。言葉はとても不便なもので、それによって私たちは私たちの気持ちを表わすことなど、とてもできないのである。しかし、言葉によって私たちは互いにコミュニケーションを取っているし、言葉の力によって私たちは集団を組成し、社会を構成しているのだ。

 

では、何故、言葉がかくも不便なものなのか。

 

このブログでは、繰り返し「リミットセッティング」ということについて述べてきた。例えば、相撲は土俵の中で、野球は野球場という空間的な枠組みの中でしか存在しえないし、音楽は時間的な制約の中でしか存立し得ない。これを敷衍して言えば、文化を成立させるために不可欠な要素がリミットセッティングだ、ということになる。

 

私がこの言葉を学んだのは、数年前の放送大学における人格心理学の講義においてだった。大山泰宏氏がその重要性を説いていたのだ。この言葉の出典がどこにあるのか定かではないが、多分、心理学の用語だろう。ある領域を設定して、その中でしか人間は文化を創造できないし、更に言えば、限定された領域の中でしか人間は認識できない。

 

この「領域を限定しなければ認識できない」という原理が、言語に対しても働いている。例えば、色彩は連続していて、近似した色には必ずその中間色が存在する。赤と黄色の中間にはオレンジ色が存在するし、赤と青の間には紫色がある訳だ。そして自然界には、無数の色彩が存在する訳だが、私たちは言葉にするとき、単に赤だとか青だと言う。仮に赤だと言った場合、それはオレンジ色でも紫色でもないことを意味する。それらの可能性を排除して、私たちの会話は成立している。幸せだと言えば、不幸ではないことを意味するし、民主主義を肯定すると言えば、その周辺の様々な概念を排除することになる。何故、このようなことが起こるかと言えば、まず、それぞれの言語が使用している音の単位(音素)に限界があるからだ。例えば、日本語には英語のTHに相当する音素は存在しない。限られた音素の組み合わせによって発話される言語が成り立っているので、その数には自ずと限界がある。文字の種類にも限界がある。しかし、この限界があるからこそ、私たちは言語を理解することが可能なのだ。仮に音素の数が無限にあったら、言語は成立しないし、それは文字の数にも同じことが言える。このような限界設定があるからこそ、言語は成立するのだし、他方、この限界が言葉に不自由さをもたらすのだと思う。

 

また、言語は何故、変化し続けるのか、という問題もある。共感を求める若い人たちが隠語を作るからだということを以前、このブログで述べた。それもあるだろう。しかし、もっと大きな要因は、各時代が有する科学的知見、常識、価値観(エピステーメー)が変化するにつれ、新しい言葉が必要になるという事情もあると思う。時代は変わる。それにつれて、新しい言葉を生み出し続けなければならないのだ。そして、言葉は民主主義に似ていて、多くの人たちが評価した言語は生き続けるし、そうでない言葉は死んでいく。昔、若い人たちの間で「超ムカツク」という言葉が流行ったようだが、最近、これは使われていないのではないか。他方、「~である」という言い方は、現在も頻繁に使用されている。この表現を発明したのは、夏目漱石だと言われている。そう、あの猫の小説において、である。

 

反逆のテクノロジー(その21) アカデミズムの正体

一般大衆がその時代の「知」に近づこうとすると、若しくは「知」について発言しようとすると、これを妨げようとする力が働くような気がしてならない。実際、れいわ新選組山本太郎氏が街頭で演説をしていたときに「偉そうなことを言うな!」というヤジが飛んだことがある。1人の人間がその人生を賭して、街頭に出て、自らの言葉を大衆に向けているのである。何故、そのような野次が出てくるのか。もし、山本氏が著名な大学教授だったとしても、その野次を飛ばした人は、同じ言葉を投げ掛けるだろうか?

 

左派の集会をネットで見ていても、檀上に立って演説をぶつ人たちの多くは、大学教授である。確かに大学教授というのは、専門分野をひたすら研究しているのであって、その意見は傾聴に値する場合も少なくない。しかし例えば、原発反対を訴えるのに、大学教授という資格が必要である訳ではない。そんな専門知識がなかったとしても、子供や孫の世代に正常な環境を残したいという純粋な気持ちを持っている人であれば、若しくは愛する日本の国土を守りたいと思っている人であれば、その気持ちを言葉にする権利を有している、と私は思う。もちろん、大学教授の中にもりっぱな人は沢山いるだろう。しかし、社会の現状を鑑みるに、私はそこに権力の腐臭をかぎ取らざるを得ないのだ。

 

その時代における「知」を保有していると思われる象徴的な組織に、大学がある。大学は本来「知」を公開して社会に貢献すべきだと思うが、実際にはそうなっていない。例えば、ミシェル・フーコーコレージュ・ド・フランスでオープンセミナーを開催していた。誰もが、そこには参加することが可能だったのだ。一方、現在の日本の大学はどうだろう。講義を聴講するには、その大学の学生証が必要ではないだろうか。そして、大学に入学するには高額の入学金と年間の授業料が必要となる。近年、これは高騰していて、年間120万円も取るところがあるらしい。もちろん、大学側にしてみれば、設備の維持費や教職員に対する人件費を賄う必要がある。それは理解できるが、いずれにせよ結果として、大学は「知」を独占しているのである。

 

昨今のコロナ禍の影響で、大学の授業もオンライン化が進んでいるらしい。これをネットで公開すれば、誰もが視聴できる訳だが、そうは問屋が卸さないのである。「知」を公開してしまうと、大学の経営が成り立たなくなる。著作権だとか、ややこしい話を持ち出して、とにかく大学は「知」を公開しない。YouTubeで情報発信している大学教授もいるが、多くの場合それらの番組は、彼が執筆した文献の宣伝とセットになっている。

 

「知」を独占する大学や学者というのは、それはそれである種の権力を持っていると言える。そして彼らの世界は狭く、派閥があり、排他的だ。教授になるまでは、給料も安い。塾の講師や家庭教師のバイトをして、なんとか食いつないでいる人たちも多いに違いない。すると、そのような下積みの苦労を経験していない新参者が現われたとすると、当然これを排除しようとする力が働く。

 

このようにして、一般大衆は「知」に直接アプローチすることが困難となるのだ。「知」と大衆との間には、多くの場合、学者が介在する。

 

大衆 - 学者 - 「知」

 

そして、学者が純粋に「知」を大衆に説くかと言えば、そうでないケースが多々存在すると言わざるを得ない。そもそも、彼らが独占し、隠し持っている「知」というものが空っぽである場合もあるだろうし、間違っている場合だってある。加えて、学者に対して忍び寄る権力というものが存在する。直近の例で言えば、コロナ禍があって、これに対応するために政府は専門家会議なるものを設置した。当然、そのメンバーは全員が大学教授だろう。教授にしてみれば、会議のメンバーに選任されることは、とても名誉だろうし、政府の方針と異なる意見は言いにくい訳だ。そこで、当然予想されたコロナの第3波がやってきた今日においても、未だGo To キャンペーンが展開されていて、この3連休は旅行に出かける人で駅や空港がごった返している訳だ。

 

日本学術会議の任命問題も同じで、そのメンバーに選任されることは学者にとって名誉なことだし、そもそも政府の意向に沿った意見を述べていれば、補助金だって沢山もらえるに違いない。特に理系の研究には多額の費用が掛かる。そこで、理系の学者は研究費を欲しがるものだ。彼らが政府や、特に文科省にたてつくのは困難だろう。

 

こうして学者は、「知」と権力の間で揺れ動くことになる。先ほどの図に、権力を加えてみよう。

 

「知」 - 学者 - 権力

       |

      大衆

 

この構造は、仏教も同じだと思う。

 

悟り - 僧侶 - 権力

      |

     大衆

 

日本にはかつて摂関政治というのがあったが、これも同じ。天皇陛下は、国民のために神に祈りを捧げる人であって、最も、神に近い存在だと考えられていた。その天皇陛下を利用して、摂政や関白が実権を握った。

 

神 - 天皇 - 摂政・関白

     |

    大衆

 

現代社会におけるメディアの位置付けも、これで説明できる。現代の大衆が何かを知ろうとするとき、特に地上波のテレビに依存する割合は高い。そこで、当然、メディアには政権からの圧力が加わる。

 

「知」 - メディア - 権力

        |

       大衆

 

このように考えると、中世の仏教から、コロナの専門家会議に至るまで、その構造は変わらない。これがアカデミズムの正体だと、私は思う。このような構造に反対する考え方をここでは、「反アカデミズム」と呼んでおこう。

 

世の中は広いもので、反アカデミズムの集団も存在する。ネット情報によれば、イスラム教には聖職者というものが存在しないらしい。キリスト教の世界で反アカデミズムを唱えたのは、マルティン・ルターだ。信者(大衆)は、直接、聖書から学ぶべきだと彼は考えた。

 

今日、この反アカデミズムの潮流の先端を行くのは、アメリカのトランプではないだろうか。彼は、メディアを拒絶し、みずからツイッターで情報を発信し続けている。トランプの政治姿勢をもっと一般的な言葉で言えば、「反知性主義」ということになるかも知れない。ちなみに日本の自民党政権は、トランプとは違う。ひたすら学者やメディアに圧力を掛けるという、伝統的な手法を採っている。そして、アカデミズムと反知性主義が戦っているうちに、国際金融資本が利益をかっさらうという仕組みにあるのだが。

 

現在、日本の立憲民主党共産党には、このアカデミズムの構造が見え隠れする。そういうことには、ほとほと嫌気の差している人たちが、反知性主義に走っているように思える。

 

ちなみに、私がどう考えるかと言えば、アカデミズムには反対だ。かと言って、反知性主義にも賛同できない。反知性主義では、リスクマネジメントに対応できない。どちらでもない、第3の道を模索すべきだと思う。では、誰が、どうすれば良いだろう。もちろん、学者の方々には、権力におもねることなく、最先端の「知」を開示していただきたいと思う。しかし、それは望みが薄い。してみると、大衆が自ら「知」にアプローチする、「知」を取りに行く他はないように思える。

反逆のテクノロジー(その20) 狂気と向き合う技術

20世紀の前半、アメリカに住む黒人たちにとって「トレイン」は様々な意味を持っていたに違いない。乗車賃だって高額だっただろうし、「トレイン」に乗るということは、長距離の移動を意味していた。ロバート・ジョンソンが歌う“Love in Vain”のように、恋人との別れの舞台となることもあっただろう。また、厳しい生活から逃れるための希望を象徴していたこともあったに違いない。例えば、遠くから汽笛が聞こえる。それを聞いた黒人のブルースマンは、南の暖かい地域へ旅立つことを夢みたかも知れない。中には、汽笛の音をハープ(ハモニカ)で真似する者もいた。このように素朴な人々の営為に、私は感動を禁じ得ない。

 

ところで、ローリング・ストーンズは今年の9月に「山羊の頭のスープ」(Goats Head Soup)という作品のリミックスを発売した。これは発売直後にチャートの1位に躍り出た。本当に商売上手でため息が出るが、かく言う私も、これ、買ってしまった。そんなこともあって、最近、ストーンズの楽曲のリミックス版などが、YouTubeでも多く公開されている。それらを視聴していると、Silver Trainという曲の宣伝用画像に出会った。

 

歌詞には、こうある。

 

銀色の列車がやって来る ♪

 さあ、あの列車に乗ろう !

 

そして、ハープの音がウ~、ウ~と来る訳だ。これは、確かに汽笛を模した音に違いない。どうか、そういう気になって、シルバートレインのエンディング近くを聞いていただけないだろうか。

 

The Rolling Stones / Silver Train Official Promotion

https://www.youtube.com/watch?v=iOUetwr3h04

 

シルバートレインの歌詞がどうなっているかと言うと、これが例に洩れず、よく分からないのである。何故か、女が登場する。彼女は、俺をハニーと呼ぶ。彼女は俺から金を受け取る。そして「俺は、彼女の名前を知らなかった」という部分がコーラスで繰り返される。総合すると、これは売春婦との情事を歌ったものと推測される。このようにストーンズには、性を暗示する歌がとても多い。Let’s spend the night togetherという曲では、「俺は今、普段よりもお前を必要としている」(Now I need you more than ever)という箇所がある。Under my thumbとか、よく放送禁止にならなかったものだと感心する。ただ、性を暗示するという意味では、英語という言語そのものが、そういう構造を持っているように思う。英単語には、性的な事柄を暗示するものがとても多いのだ。そのため、1つの文章に対して複数の解釈が成立することになる。そういう英語の構造があって、ストーンズの楽曲の歌詞が成立している。韻を踏む。性やドラッグを暗示する。そのようにして成り立っているのであって、日本語でこれを真似ることは困難を極める。

 

上記のようにストーンズの楽曲というのは、文化や言語の伝統の上に成り立っている訳だが、そこに留まらないのがストーンズの特徴だと思う。上に紹介した動画では、衣装に合わせてブルーのアイシャドーを塗ったミック・ジャガーが体をクネクネと動かしながら熱唱する訳だが、これを狂気と言わずして何と言うだろう?

 

ミシェル・フーコーによれば、西洋においては16世紀まで狂人と通常人が共に暮らしていたのだ。17世紀になると、狂人や怠け者は収容され、通常人の目にはつかなくなる。その収容所がやがて、監獄と精神病院に変わる。一見、社会から姿を消したかに見えた狂気は、19世紀になると文学の世界で復活する。マルキ・ド・サドがその典型である。やがてシステムに取り込まれた文学の世界から、狂気はその姿を消す。

 

しかし狂気は、20世紀において、ロック・ミュージックの世界で復活したのではないか? ミック・ジャガーに限ったことではない。ジミ・ヘンドリックスはステージ上でギターに火を付けたし、ジョン・レノンはベッドインを敢行し、各国の首脳にドングリの実を送り付けたのだ。

 

どうも狂気を排除し、若しくは無視しようとするシステム側と狂気それ自体との戦いが繰り返されてきた歴史の一断面が見えてくる。その戦いは熾烈を極め、今日も激化しているように思えてならない。

 

狂気とは何か。それを定義することは困難だが、とりあえずこう考えてみるのはどうだろう。通常人が成し得ることができなくなること。若しくは、通常人が行わないことを行ってしまうこと。前者の例で考えると、うつ病などで就業できなくなるケース。極端な例で考えれば、生きることそれ自体を断念してしまう自殺という現象がある。後者の例で言えば、それは犯罪行為ということになる。精神病に罹患してしまう、自殺してしまう、犯罪行為を働いてしまう。狂気の外観を見た場合、このような類型を措定することができる。どうだろう。現代社会においては、これら3つとも深刻な状況にあるのではないか。

 

少し、日本の文化と狂気の関係を見てみよう。狂人を描く文化の歴史は、「能」の世界にまで遡る。「狂言」も同じではないだろうか。そして、終戦後の日本を沸かしたのは、プロレスである。アントニオ猪木の全盛期があって、アブドーラ・ザ・ブッチャータイガー・ジェット・シンなど、外国人の悪役レスラーが悪行の限りを尽くし、日本の大衆はこれに熱狂した。かく言う私もその1人だった。近所の体育館で新日本プロレスの興行があり、恐る恐るこれを見に行ったのだ。シンがサーベルの柄で藤波辰爾を攻撃し、藤波の顔面が血で真っ赤に染まったのを覚えている。

 

このような過激なものだけではなく、狂気は、大衆文化の中にも息づいてきたのだ。西洋においては、通常人と共に暮らしていた狂人がサーカスのピエロの原型となったそうだが、このようなパターンは日本にもある訳で、例えば、映画「男はつらいよ」に登場する寅さんを挙げることができる。寅さんはちょっと抜けていて、滑稽である。しかし、寅さんは通常人にはどうすることもできないような問題を、解決して見せたりする。「裸の大将」も同じで、洋の東西を問わず、文化が狂人を見る目には、優しさがあるのだ。

 

精神病を患ってしまう人、自殺してしまう人、犯罪に手を染めてしまう人、これらの人々をゼロにすることができないのが人間社会の現状であって、結局、現代文明においても狂気の正体は未だに解明されていない。そうしてみると、当面私たちは、私たちの文化が狂気と向き合ってきた、その手法から学ぶ必要がありそうに思える。それは、狂気を排除することではない。無視することでもない。まず、人間の中に狂気が潜んでいることを認め、それを再現し、何とかそれを飼い慣らすことではないか。

 

プロレスが好きで、ロック・ミュージックに傾倒し、こよなく寅さんを愛している私の中に、狂気は確実に存在している。それはあなたも同じではないだろうか。

 

反逆のテクノロジー(その19) 権力に対抗する技術

ミシェル・フーコーの著作「知への意志」に、次の一節が記されている。

 

- 一方には、性愛の術を備えた社会があり、しかも、中国、日本、インド、ローマ、回教圏アラブ社会など、その数は多かった。(中略)それが秘せられねばならぬのは、その対象が汚らわしいものだと見なされることを恐れるからではいささかもなく、伝統的に、その知は、口外されればその効能と力とを失うと考えられているが故に、最も慎重に隠しておく必要があるからである。(P.74)-

 

性に関する秘密の術を記した何かが、日本にあったのだろうか。ここでも私は自らの不明を恥じなければならない訳だが、例えば江戸時代には好色一代男とか好色五人女井原西鶴)という作品があった。してみると、性の技術に関する「四十八手」的な書物が日本にあったのかも知れない。

 

上記の引用箇所に私が注目したのは、日本に関する記述があることだけが、その理由ではない。そこではなく、「秘密にされている」、「秘密にされていることによって、効能の力が維持されている」という点だ。

 

いずれにせよ、1976年のフーコーは諸問題を西洋の立場から検討している訳で、私は2020年に生きる日本人として、フーコーが提示している西洋と東洋の差異に関する問題について、向き合わざるを得ない訳だ。そこで、机上に一枚の白紙を置き、西洋文明の象徴としてのキリスト教とこれに対する東洋の宗教とを並べて書き、その差異を検討してみた。

 

東洋の宗教は、健康管理法との関連が深い。修行によって心身を鍛え、肉食を禁じて精進料理を食する。呼吸法に関する洞察があり、東洋の宗教家というのは、誰もが健康そうに見える。この修行によって心身を鍛えるという点に着目すれば、それは格闘技に通ずるところがある。例えば、中国には少林寺というお寺があって、そこから少林寺拳法太極拳が生まれた。太極拳は元来、格闘技だった訳だが、これを簡略化して、今では多くの中国人が健康法として取り入れている。八極拳という護身術もある。日本に目を向ければ、柔道、剣道、空手、合気道など、幅広い格闘技に関する伝統がある。例えば剣道であれば、それは斬るか斬られるかの真剣勝負だった時代があり、その時代に生まれたに違いない。どの格闘技も、その起源においてはそのような目的があったはずだ。しかし、時代が変遷した今日においても、何故、これらの格闘技が文化として息づいているかと言えば、それは人間の精神と身体とを区別しない東洋的な思想が背景にあって、身体的な鍛錬を積むことによって心身の健康を維持できると考えられているからだろう。そして、このような思想は、東洋における宗教観と密接につながっている。古来の日本から伝わる修験道も、インドで生まれ中国を経由して日本に伝わった仏教も、そして、上に記した様々な格闘技は、どれも厳しい修行を伴うのである。

 

東洋における宗教家と格闘家は、誰も痩せていて健康的だ。例外としては、相撲を挙げることができる。相撲は元来、護国豊穣を祈願する儀式として発展したもので、太った相撲取りの肉体というのは、たわわに実った稲穂のイメージにつながっていたのではないか。

 

少し話が脱線したが、東洋における伝統的な宗教は社会化して行かないという特質を持っている。出家する仏教徒は、頭を丸めて山寺に籠る。社会との関係を断つ訳だ。山を降りて大衆に説いて回った僧侶もいるが、その目的は布教であり、真理を説くことが目的ではなかったように思う。あくまでも僧侶だけが真理を知っている訳で、大衆は僧侶の説明を盲目的に信じたのだろう。例えばある僧侶は、念仏を唱えれば極楽に行けると言って、大衆はそれを信じた。ここには明らかに、真理を知っている僧侶と、それを知らない大衆という上下関係、換言すれば、権力関係を見て取ることができる。

 

対するキリスト教はと言うと、例えばプロテスタントの場合は、牧師がオルガンを奏でる。それに合わせて、信者が讃美歌を歌う。この讃美歌が、やがてゴスペルとなる訳だが、ここに権力関係は見られない。皆で合唱するという行為は、人間集団の結束を生み、それは社会的な広がりを持ち始める。

 

ここまで考えると、冒頭に記したフーコーの言葉とのつながりが見えてくるのではないか。

 

すなわち、東洋における宗教や格闘技などの文化は、あくまでも個人の身体が基底にあって、いくら鍛錬を積んだとしても、それは社会化していかない。別の言い方をすると、それらの身体的な修行は、言語に向かって行かないのである。反対にキリスト教は、言語化され、社会化されて行く。

 

この違いはどこから来るのか。そもそも人間集団には、それを統率する「知」というものがあって、キリスト教においてはそれが聖書において公開されているのである。反面、日本を含めた東洋社会において、「知」は秘匿され、大衆に公開されない。悟りを開いたと言われる僧侶は沢山いるのだろうが、その悟りの中身は決して言語化されず、公開されることがない。

 

古代のアニミズムからの伝統で考えた場合、それは東洋の方が自然なのであって、むしろ、聖書なるものが誕生したということの方が、奇跡に近いと思う。紀元前の人間が旧約聖書を記すためには、多くの人々の想像力があって、文字があって、並外れた努力の積み重ねがあったに違いない。現代に生きる私は、神の存在を信じていないが、彼らの努力には敬意を払いたいと思う。ここまで考えると私は、自分が東洋人であるということの前に、人間でありたいと思う。

 

人類の歴史というのは、秩序化に向かう歴史なのであって、この何らかの秩序を創出し、維持し、発展させようとした場合、必然的に権力が発生する。人間が2人集まれば、それだけで発生するのが権力だと言っても良い。性別、年齢、人種、社会的な地位、その他の差異から権力が発生する。しかし、絶望することはない。権力が存在するのと同じように、社会には「知」というものが存在する。それは単なる仮説に過ぎないかも知れない。しかし、その仮説を多くの人々が支持すれば、それは権力を上回る力を持ち得るのだ。西洋の歴史において、神、すなわち「知」よりも上位に位置した君主(=権力者)は存在しないだろう。「知」は時として、権力を擁護する。しかし「知」は権力を抑制し、歴史を前進させる力を持っているに違いない。そして、権力と「知」の関係を統御するのが、言語だと私は思う。それはパロール話し言葉)ではなく、エクリチュール(書き言葉)としての言語である。

 

言語によって「知」を公開すること。そこから生まれるのが、法治主義であり民主主義なのだ。簡単に、その歴史を記述してみよう。

 

紀元前、旧約聖書が書かれ、公開された。

 

キリストの死後、新約聖書が書かれ、公開された。

 

マルティン・ルターが95か条の提題を書き、それが公開された。

 

1776年、独立戦争を経て、アメリカの人権宣言が書かれ、公開された。

 

1789年、フランス革命を経て、フランスの人権宣言が書かれ、公開された。

 

1946年、日本国憲法が公布される。

 

もう一度、言おう。言語によって「知」を開拓し、公開すること。これこそが、権力に対抗する反逆の技術なのだ。