文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

反逆のテクノロジー(その22) 言語の領域

言葉というのは、とても不便なものだと思う。もし尋ねられれば、私は「民主主義を支持している」と答えるだろう。しかし、100%そうかと言えば、それは違う。独裁よりはいい。それは確かだ。しかし、愚かで騙されやすい大衆の意向を尊重するのが民主主義であって、それは完璧という概念からは程遠い。実は、古代のシャーマニズムの方が良いのではないか、という気持ちが私にはある。加えて、民主主義で選ばれた政治家は何をしても構わないという主張が成り立つのであって、政治家は憲法の枠を超えてはならないとする立憲主義と民主主義は対立するのだ。では、どちらが正しいのか、という疑問だってある。このように様々な疑問や考え方があるにも関わらず、私は「民主主義を支持している」と言うだろうし、このブログにも幾度かそう書いた。

 

そのように考えると、私は、嘘つきなのかも知れない。本当の気持ちはもっと複雑であるのに、その複雑さを表現できず、格式ばった言語に置き換えているに過ぎない。しかし、そう考えてみると嘘つきなのは、私だけではないような気もする。例えば、恋人同士で「愛している」などと言う訳だが、それもはなはだ心もとない訳だ。相手の全てを理解している訳ではないし、往々にして、恋愛中の人間というのは、理想的なイメージを相手に投影する傾向がある。更に言えば「愛している」のは現在の心境であって、将来までそのことを保証できる訳ではない。従って正確に言うならば、「私は、私がイメージしているあなたを、現時点においては、愛している」ということになるだろう。但し、こんなことを言ったら、言われた方は怒り出すに違いない。

 

すっかり猫好きになってしまった私は、よくYouTubeの猫動画を見る。大体これらの動画は、ある日突然、何の脈絡もなく、子猫を拾ってしまうところから始まる。腹をすかせた子猫は衰弱していて、やせ細っている。物陰で鳴き声を上げる子猫を取り上げてみると、とても可愛い。そこで、ユーチューバーはその子猫を助けて、共に暮らすようになる。私はこのような動画を見て感動している訳だが、その子猫の愛らしい鳴き声、かわいい仕草など、とても言葉にはできない。

 

つまり、言語で表現できる事柄というのはごく限られた範囲に留まるのであって、大半の事項は、言語によっては表現し得ないのだ。そして、このように考えると言語の領域と意識との関係性に思い至るのである。

 

心理学者は、意識と無意識を区別して考えている。無意識の領域が圧倒的に多く、意識は心の表層に位置するに過ぎない。ここでは仮に意識の領域を1%、無意識の領域を99%としておこう。そして、人間の心の壊れやすさ、狂気に傾倒する性向、経験に関する記憶などは、無意識、すなわち99%の方に存在する。また、無意識の領域は、本人でさえ認識できないという特徴を持っている。本人が分からないのだから、ましてや他人が分かるはずがない。このように考えると、人間同士が互いに理解し合うことは、ほぼ、不可能だと思える。家族であっても、恋人同士であっても、永年の友人であっても、事情は変わらない。同じ環境で育った子供同士であれば、それなりに共通項も見いだせるだろう。しかし、年を重ねるにつれ、経験の種類や幅に差異が生じる。経験は豊かな無意識を構成すると共に、互いに理解し合うことの困難さを増幅させるに違いない。

 

では、意識の方はどうだろう? この領域は1%に過ぎないが、検討する価値のある領域だと思う。何故なら、意識の領域というのは、言語の領域とオーバーラップすると思うからだ。

 

例えば、あなたが何年か振りで旧友と会ったとしよう。そして、旧友はあなたにこう尋ねる。

 

「あなた、最近、幸せにやってる?」

 

ありがちな質問だが、この問いに答えるのは困難を極めるに違いない。幸せだと言えばそう言えそうだし、そうでないような気もする。それが、普通ではないだろうか。この質問に対し、仮にあなたがイエスと言えば、あなたは幸福そうなあなたを演じることになる。ノーと言えば、旧友はあなたにその理由を尋ねてくるだろう。「曰く言い難い」と答えたのでは、会話が続かない。つまり、イエスと言うか、ノーと答えるか、その言葉にあなたは支配されることになるのだ。

 

このような考え方は、構造主義に似ている。物事には構造というものがあって、人はその構造に支配される。その構造から逃れることはできない。上に記した話においては、言語の中に構造を見ている訳だ。

 

少し、上に記した主張をまとめてみよう。

 

まず、人間の心の中には意識と無意識がある。その比率は、仮に、意識が1%で無意識が99%だとする。そして、99%を占める無意識の領域というのは、非言語領域であって、これは本人ですら認識することが困難な領域だ。従って、無意識の領域については、他人とコミュニケーションを取ることができない。他方、1%しかない意識の領域は、言語に拘束されるが、反面、他の人と意思疎通を図ることができる。

 

意 識・・・ 1%・・・言語領域 ・・・意思疎通が可能

 

無意識・・・99%・・・非言語領域・・・意思疎通は不可能

 

このように考えると、言葉の持つ力とその限界が見えてくる。言葉はとても不便なもので、それによって私たちは私たちの気持ちを表わすことなど、とてもできないのである。しかし、言葉によって私たちは互いにコミュニケーションを取っているし、言葉の力によって私たちは集団を組成し、社会を構成しているのだ。

 

では、何故、言葉がかくも不便なものなのか。

 

このブログでは、繰り返し「リミットセッティング」ということについて述べてきた。例えば、相撲は土俵の中で、野球は野球場という空間的な枠組みの中でしか存在しえないし、音楽は時間的な制約の中でしか存立し得ない。これを敷衍して言えば、文化を成立させるために不可欠な要素がリミットセッティングだ、ということになる。

 

私がこの言葉を学んだのは、数年前の放送大学における人格心理学の講義においてだった。大山泰宏氏がその重要性を説いていたのだ。この言葉の出典がどこにあるのか定かではないが、多分、心理学の用語だろう。ある領域を設定して、その中でしか人間は文化を創造できないし、更に言えば、限定された領域の中でしか人間は認識できない。

 

この「領域を限定しなければ認識できない」という原理が、言語に対しても働いている。例えば、色彩は連続していて、近似した色には必ずその中間色が存在する。赤と黄色の中間にはオレンジ色が存在するし、赤と青の間には紫色がある訳だ。そして自然界には、無数の色彩が存在する訳だが、私たちは言葉にするとき、単に赤だとか青だと言う。仮に赤だと言った場合、それはオレンジ色でも紫色でもないことを意味する。それらの可能性を排除して、私たちの会話は成立している。幸せだと言えば、不幸ではないことを意味するし、民主主義を肯定すると言えば、その周辺の様々な概念を排除することになる。何故、このようなことが起こるかと言えば、まず、それぞれの言語が使用している音の単位(音素)に限界があるからだ。例えば、日本語には英語のTHに相当する音素は存在しない。限られた音素の組み合わせによって発話される言語が成り立っているので、その数には自ずと限界がある。文字の種類にも限界がある。しかし、この限界があるからこそ、私たちは言語を理解することが可能なのだ。仮に音素の数が無限にあったら、言語は成立しないし、それは文字の数にも同じことが言える。このような限界設定があるからこそ、言語は成立するのだし、他方、この限界が言葉に不自由さをもたらすのだと思う。

 

また、言語は何故、変化し続けるのか、という問題もある。共感を求める若い人たちが隠語を作るからだということを以前、このブログで述べた。それもあるだろう。しかし、もっと大きな要因は、各時代が有する科学的知見、常識、価値観(エピステーメー)が変化するにつれ、新しい言葉が必要になるという事情もあると思う。時代は変わる。それにつれて、新しい言葉を生み出し続けなければならないのだ。そして、言葉は民主主義に似ていて、多くの人たちが評価した言語は生き続けるし、そうでない言葉は死んでいく。昔、若い人たちの間で「超ムカツク」という言葉が流行ったようだが、最近、これは使われていないのではないか。他方、「~である」という言い方は、現在も頻繁に使用されている。この表現を発明したのは、夏目漱石だと言われている。そう、あの猫の小説において、である。