文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

反逆のテクノロジー(その24) 中間的なまとめ

少し、本原稿の主眼なり、途中経過をまとめてみたいと思う。

 

現在、私はとても不安だし、社会に対する不満も抱えている。私は高齢者なので、コロナだって怖い。そもそも人間の体にはガン細胞が巣くっているのであって、この年まで生きてくると、ガンで死ぬのであれば、ある意味寿命だと思ってあきらめもつく。しかし、コロナは違う。コロナなんかで死ぬのは嫌だ。また、日本の政治はグローバリズムに侵略されており、私としては、はなはだ不満に思っている。では、どうすればいいのか。

 

また、現在の日本がいかに絶望的な状況にあるか、そのことを語る知識人は多いが、希望を語る人は少ない。他方、私は希望を語りたいと思っている。私が何を考え、このブログに何を書こうが、システムに対する影響など、皆無であるに違いない。しかし、システムに操られながら何も知らずに死ぬのか、少しでもそれに反逆を試みながら死ぬのか、それは私自身にとっては重大な問題で、言うまでもなく私は後者でありたいと願っている。

 

このブログでは、文化論、認識論について検討してきた経緯があるが、そこにミシェル・フーコーの思想が合流しつつある。フーコーが述べたエピステーメー、権力、システムなどのキーワードは衝撃だった。そして、現在取り組んでいる原稿のポイントも、権力論、文化論、認識論の3つに集約できる。

 

ある対談の中でフーコーは、「権力とは何か、それを認識することはできない」と述べている。その不可能性を承知の上で、現時点の私は、次のように考えている。まず、権力そのものが悪なのではない、ということ。この考え方はトマス・ホッブズから来ているが、フーコー自身も権力自体を否定するような発言はしていない。人間の社会には様々な理由により秩序が必要だし、戦争の歴史だってある。そこで、民意を反映した権力を持った国家を設立する必要が生ずる。不完全な秩序であっても、アナーキーな状態よりはマシだろう。問題は、権力のあり方と、それを更新していく、バージョンアップさせて時代の価値観と合致させていく、その方法にあるのだと思う。権力は、常に現状維持を目指し、変化を拒絶するからだ。

 

また、権力は何かを背景として持っていると言えよう。それは暴力的な力である場合もあるし、経済的なものや、「知」である場合だってある。それらを隠し持ち、偉そうに振り回すのが権力者の特徴だ。自民党は利権を背景に持ち、立憲民主党共産党などは、法律学マルクス主義に関わる「知」を背景に持っている。権力という観点からすれば、立憲も共産も権力者たちの集団であることに変わりはない。その前提で考えると、いくら与党と野党が国会で戦ったとしても、情勢は1つも変わらない。与野党が国会で論戦を繰り広げることによって、現状が維持されるというパラドックスに陥っているように思う。

 

次に文化論だが、現在、私が着目しているのは、権力やシステムの力が及ばない領域というものがあって、それが文化的領域なのではないか、という点だ。かつて黒船がやってきて、日本に開国を迫った。敗戦後にはGHQがやってきて、日本の欧米化を推し進めようとした。確かに、日本の風景は一変した。都市には高層ビルが建ち並び、地方はコンビニだらけになった。しかし、私たちは今日においても和食を愛しているし、日本の伝統的な祭祀を守っている。春には花見に出かけ、お盆には墓参りをする。そして、日本人が連綿と紡いできた文化の中核には、世界的に見ても珍しいであろう「美」というものがある。この美意識に基づく文化を守り、発展させていくこと。それは、権力に対抗する手段になり得るのではないか。そこに希望を見つけることはできないのだろうか。この問題は、未だ解決に至ってはいない。

 

最後に、認識論と言えば少しオーバーかも知れないが、「言葉」の問題がある。言葉はとても不便なもので、それによって表現し得る事柄は、とても限られている。しかし、私たちは言葉によって意識を持っているであろうし、言葉によってしか意思疎通を図れない事柄は、少なくない。現代は、動画の時代だと思う。確かに、動画が提供する情報量はとても多い。動画は、人間の表情や音声、子猫の仕草までも漏らさず伝えることができる。しかし、動画が持つ意識や思考に対する影響力は、言葉よりも少ないに違いない。例えば、動画によってミシェル・フーコーの複雑な思想を再現することなど、出来はしないのだ。

 

前述の通り、「知」を背景とする権力者は、確実に存在する。それは宗教の世界における聖職者であったり、学者であったりする訳だが、彼らが持っている「知」を言語によって公開することができれば、一つの権力を解体することが可能なのだ。そのためには、大衆に語り掛ける言語が必要なのであって、私たちはそれを発明する必要があるのではないか。また、与野党の不毛な論戦については、両者が合意に至るべき言語を生み出す必要があるのではないか。与野党が論戦している間に、グローバリストが漁夫の利を得る。このような現状は、変える必要がある。民主主義社会においては、知識人と大衆とが和解すべきなのだ。