文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

反逆のテクノロジー(その21) アカデミズムの正体

一般大衆がその時代の「知」に近づこうとすると、若しくは「知」について発言しようとすると、これを妨げようとする力が働くような気がしてならない。実際、れいわ新選組山本太郎氏が街頭で演説をしていたときに「偉そうなことを言うな!」というヤジが飛んだことがある。1人の人間がその人生を賭して、街頭に出て、自らの言葉を大衆に向けているのである。何故、そのような野次が出てくるのか。もし、山本氏が著名な大学教授だったとしても、その野次を飛ばした人は、同じ言葉を投げ掛けるだろうか?

 

左派の集会をネットで見ていても、檀上に立って演説をぶつ人たちの多くは、大学教授である。確かに大学教授というのは、専門分野をひたすら研究しているのであって、その意見は傾聴に値する場合も少なくない。しかし例えば、原発反対を訴えるのに、大学教授という資格が必要である訳ではない。そんな専門知識がなかったとしても、子供や孫の世代に正常な環境を残したいという純粋な気持ちを持っている人であれば、若しくは愛する日本の国土を守りたいと思っている人であれば、その気持ちを言葉にする権利を有している、と私は思う。もちろん、大学教授の中にもりっぱな人は沢山いるだろう。しかし、社会の現状を鑑みるに、私はそこに権力の腐臭をかぎ取らざるを得ないのだ。

 

その時代における「知」を保有していると思われる象徴的な組織に、大学がある。大学は本来「知」を公開して社会に貢献すべきだと思うが、実際にはそうなっていない。例えば、ミシェル・フーコーコレージュ・ド・フランスでオープンセミナーを開催していた。誰もが、そこには参加することが可能だったのだ。一方、現在の日本の大学はどうだろう。講義を聴講するには、その大学の学生証が必要ではないだろうか。そして、大学に入学するには高額の入学金と年間の授業料が必要となる。近年、これは高騰していて、年間120万円も取るところがあるらしい。もちろん、大学側にしてみれば、設備の維持費や教職員に対する人件費を賄う必要がある。それは理解できるが、いずれにせよ結果として、大学は「知」を独占しているのである。

 

昨今のコロナ禍の影響で、大学の授業もオンライン化が進んでいるらしい。これをネットで公開すれば、誰もが視聴できる訳だが、そうは問屋が卸さないのである。「知」を公開してしまうと、大学の経営が成り立たなくなる。著作権だとか、ややこしい話を持ち出して、とにかく大学は「知」を公開しない。YouTubeで情報発信している大学教授もいるが、多くの場合それらの番組は、彼が執筆した文献の宣伝とセットになっている。

 

「知」を独占する大学や学者というのは、それはそれである種の権力を持っていると言える。そして彼らの世界は狭く、派閥があり、排他的だ。教授になるまでは、給料も安い。塾の講師や家庭教師のバイトをして、なんとか食いつないでいる人たちも多いに違いない。すると、そのような下積みの苦労を経験していない新参者が現われたとすると、当然これを排除しようとする力が働く。

 

このようにして、一般大衆は「知」に直接アプローチすることが困難となるのだ。「知」と大衆との間には、多くの場合、学者が介在する。

 

大衆 - 学者 - 「知」

 

そして、学者が純粋に「知」を大衆に説くかと言えば、そうでないケースが多々存在すると言わざるを得ない。そもそも、彼らが独占し、隠し持っている「知」というものが空っぽである場合もあるだろうし、間違っている場合だってある。加えて、学者に対して忍び寄る権力というものが存在する。直近の例で言えば、コロナ禍があって、これに対応するために政府は専門家会議なるものを設置した。当然、そのメンバーは全員が大学教授だろう。教授にしてみれば、会議のメンバーに選任されることは、とても名誉だろうし、政府の方針と異なる意見は言いにくい訳だ。そこで、当然予想されたコロナの第3波がやってきた今日においても、未だGo To キャンペーンが展開されていて、この3連休は旅行に出かける人で駅や空港がごった返している訳だ。

 

日本学術会議の任命問題も同じで、そのメンバーに選任されることは学者にとって名誉なことだし、そもそも政府の意向に沿った意見を述べていれば、補助金だって沢山もらえるに違いない。特に理系の研究には多額の費用が掛かる。そこで、理系の学者は研究費を欲しがるものだ。彼らが政府や、特に文科省にたてつくのは困難だろう。

 

こうして学者は、「知」と権力の間で揺れ動くことになる。先ほどの図に、権力を加えてみよう。

 

「知」 - 学者 - 権力

       |

      大衆

 

この構造は、仏教も同じだと思う。

 

悟り - 僧侶 - 権力

      |

     大衆

 

日本にはかつて摂関政治というのがあったが、これも同じ。天皇陛下は、国民のために神に祈りを捧げる人であって、最も、神に近い存在だと考えられていた。その天皇陛下を利用して、摂政や関白が実権を握った。

 

神 - 天皇 - 摂政・関白

     |

    大衆

 

現代社会におけるメディアの位置付けも、これで説明できる。現代の大衆が何かを知ろうとするとき、特に地上波のテレビに依存する割合は高い。そこで、当然、メディアには政権からの圧力が加わる。

 

「知」 - メディア - 権力

        |

       大衆

 

このように考えると、中世の仏教から、コロナの専門家会議に至るまで、その構造は変わらない。これがアカデミズムの正体だと、私は思う。このような構造に反対する考え方をここでは、「反アカデミズム」と呼んでおこう。

 

世の中は広いもので、反アカデミズムの集団も存在する。ネット情報によれば、イスラム教には聖職者というものが存在しないらしい。キリスト教の世界で反アカデミズムを唱えたのは、マルティン・ルターだ。信者(大衆)は、直接、聖書から学ぶべきだと彼は考えた。

 

今日、この反アカデミズムの潮流の先端を行くのは、アメリカのトランプではないだろうか。彼は、メディアを拒絶し、みずからツイッターで情報を発信し続けている。トランプの政治姿勢をもっと一般的な言葉で言えば、「反知性主義」ということになるかも知れない。ちなみに日本の自民党政権は、トランプとは違う。ひたすら学者やメディアに圧力を掛けるという、伝統的な手法を採っている。そして、アカデミズムと反知性主義が戦っているうちに、国際金融資本が利益をかっさらうという仕組みにあるのだが。

 

現在、日本の立憲民主党共産党には、このアカデミズムの構造が見え隠れする。そういうことには、ほとほと嫌気の差している人たちが、反知性主義に走っているように思える。

 

ちなみに、私がどう考えるかと言えば、アカデミズムには反対だ。かと言って、反知性主義にも賛同できない。反知性主義では、リスクマネジメントに対応できない。どちらでもない、第3の道を模索すべきだと思う。では、誰が、どうすれば良いだろう。もちろん、学者の方々には、権力におもねることなく、最先端の「知」を開示していただきたいと思う。しかし、それは望みが薄い。してみると、大衆が自ら「知」にアプローチする、「知」を取りに行く他はないように思える。