文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

領域論 - 主体が巡る7つの領域 - (その1) はじめに

 

現在、私たちの文明は、危機に瀕していると思う。コロナウイルスの問題もそうだが、そればかりではない。政治の危機という問題もある。原則として、政治家は選挙によって選ばれているのだから、政治の危機を引き起こしているのは、主権者である国民の民度の低さであるに違いない。結局、国民がどの政治家に投票すべきか、そもそも選挙に行くべきか否か、そういう判断を下している訳で、その認識自体が危機的状況にあるのだ。

 

何故そうなるかと言えば、それは社会の複雑さに1つの要因があるのではないか。急速に進展する科学やITの技術もあれば、反面、古い文化も依然として生き残っている。古い価値観や文化の上に、新しいそれらが堆積している。それは、長い年月をかけて形成される地層のようではないか。私たちが直面している現代の文明とは、いくつもの層を持っていて、それらが互いに影響を及ぼしながら、時に反目し合っているのだ。その結果、政党は乱立し、人々の意見は真っ向から食い違い、共通の理解、共通の認識を醸成することが困難になっている。

 

上に記した課題に対処するために必要なことは、まず、現代日本保有している文明の本質的な構造を明らかにすることではないか。それは、細分化が進んだ「学問」が成し得ることではない。例えば、日本社会が抱える問題の1つに「自殺」の急増、ということがある。多くは、うつ病が原因だと言われている。これは心理学の問題だ。しかし、それでは何故うつ病になるかと言えば、経済的な要因や人間関係上の問題などが想定される。こちらは経済学や社会学が対象とする分野ではないか。つまり、「自殺」という問題は、細分化された個々の学問によっては、解決できないのだ。コロナの問題も同じだ。必要なのは、全体を見ること。総合性を確保することだと思う。

 

以前、このブログのタイトルの下に、私は「世界を記述する」と書いた。それは、総合性に対する私の願いを込めたものだった。この「世界」とは、自然科学が対象とするような世界のことではない。世界地図が示すような地理的な世界のことでもない。私の興味の対象は、あくまでも人間の世界のことである。そんなことが可能なのか? それは私にも分からない。しかし、チャレンジしてみるべき時期が、やって来たように感じている。所詮、私には失うことを恐れるべき名誉や名声など、何もないのだ。迷ったときには、前進する。それが私の若い頃からのポリシーでもある。

 

さて、随分前のことだが、ローリング・ストーンズが埼玉スーパーアリーナへやって来たことがあった。途中、キース・リチャーズが右手でギターのネックを握り締め、しゃがみ込むシーンが大型のスクリーンに映し出されたのを覚えている。彼の笑顔は、「人生って素晴らしいじゃないか」と言っているように見えた。日々の生活に四苦八苦していた私は、言いようのない敗北感を感じたものだ。コンサート会場を出ると、冷たい夜風が心地よかった。電車に乗って、私は帰宅した。部屋の中にはいつもの机があり、ベッドがある。翌朝、私は何事もなかったかのようにネクタイを締めて、会社へと向かった。

 

この短い話の中に、3つの空間が登場する。コンサート会場、自宅の部屋、そして会社である。これらの空間は、異なる特徴を持っている。それは、場所的な差異だけではなく、そこにいる人間が違う。雰囲気が違う。そして、許容されるルールが違うのだ。例えば、コンサート会場では歓声をあげることが許されるが、会社でそうはいかない。この曰く言い難く異なる空間と言うか、場所と言うか、上述した地層のようなもの。それを本稿では「領域」と呼ぶことにした。そして、「私」(主体)という人間がいて、様々な領域を出入りするのだ。私たちの暮らしや人生は、そのようにして成り立っている。

 

では、古いものから新しいものへ、領域を並べてみる。これが言わば縦軸となる。

 

原始領域

生存領域

認識領域

記号領域

秩序領域

喪失領域

自己領域

 

そして、各領域が持っている特性をチェックするポイントとして、記号、「知」、権力、秩序などの項目を考えている。これらが横軸となる。これらの項目は、左程、難しいものではないので、簡単に説明してみよう。

 

記号とは、人間が五感によって感知するものだ。例えば、ノックの音が聞こえる。これが記号だ。そして、それは誰かの来訪を告げるものだと理解することができる。これを解釈能力と呼んでおこう。(記号学のパースは、解釈思想(Interpretative thought of a sign)と呼んでいたが、明らかに「思想」とは異なる。「能力」と言った方が適切だと思う。)そして、解釈能力があれば、「誰かの来訪」という意味を理解することができる。

 

すなわち、「記号」→「解釈能力」→「意味」という流れにある訳だ。

 

各時代によって、それぞれの領域において、人間が注目してきた記号は異なるので、この点に留意することとしたい。

 

次に、「知」だが、これは「知識」とは異なる。例えば、職人であれば師匠から弟子へと伝授されるものだし、キリスト教においては神が知っているものだ。そこには、価値観が含まれている。そして「知」は、各領域における「権力」と深い関係があるに違いない。

 

「権力」とは、それぞれの領域を支配する力であって、社会の秩序を維持するために必要なものではあるが、同時に社会の進展を妨げ、不平等を引き起こす要因ともなる。

 

「秩序」とは、人間が記号、「知」、権力などを用いて構築することを目指してきた体制であり、ルールのことである。そして、その対象範囲は、少人数の部族から始まって、現代のグローバリズムに至るまで、徐々に拡大されてきたに違いない。

 

では、次回から縦軸に従って、各領域について述べたいと思う。その後、テーマを絞って各論に入る予定でいる。

 

反逆のテクノロジー(その28) 自己への配慮

自己への配慮とは・・・

 

- 単に自分の地位においてだけではなく、理性的存在として自分自身を尊重することの重要性である。(中略)自己を自己の行為の主体として構成する際の手がかりとしての自己への関係の強化 (P.57)-

 

であり、

 

- 配慮すべきは自分の富でも自分の名誉でもなく、自己自身について、自分の魂についてである (P.61)- (ソクラテスの言葉)

 

- 「自分自身が成長する」、「自分自身を改善する」、「自分にもどる」、「自己を形成する」、「自分の権利を主張する」、「自己を作りあげる」、「勉強に閉じこもる」、「自己に専念する」、「自分に身をささげる」、「自分の中に閉じこもる」、「自分にもどる」、「自分自身にとどまる」 (P.64)-

 

・・・ということなのだ。

 

学術的には、本文献においてフーコーは「主体」について、検討したと言われている。そして、フーコーの思想は、「権力-知-主体」という3元構造を持つに至る。フーコーの著書になぞらえてみよう。

 

権力・・・「監獄の誕生」

知 ・・・「知への意志」

主体・・・「自己への配慮」

 

(但し、権力論は「知への意志」においても展開されている。)

 

ところで、冒頭に記したいくつかの引用部分は、分かりやすい箇所を私が抜粋したに過ぎない。本文献の大半は、相変わらず、養生や若者愛(成人男性と若者との同性愛)に関する哲学者たちの考察に当てられている。ちなみに若者愛については、古代ギリシャの時代にはこれが容認されていて、哲学者たちの研究の対象となっていた。やがて、時代はヘレニズム期に移る。すると、若者たちの人権が擁護されるようになり、自由人の若者が成人男性の相手を務めることはなくなる。成人男性の相手を務めるのは、奴隷の青年に限定されるのだ。そこで、哲学者たちもこの問題について考えることを止める。更に時代が進み、キリスト教の倫理観が普及するに伴い、同性愛は悪いことだとみなされるようになる。

 

しかし、本文献はフーコーの遺作だ。死期を覚悟していたフーコーが最後の作品で言いたかったことは何なのか。若者愛? そんなことであるはずがない。

 

ちなみにフーコーが「エピステーメー」という言葉を使ったのは「言葉と物」においてであるが、その後フーコーは、この言葉を封印している。それは、自らの思想を前進させるためだったのだろう。従って、以下に述べる私の見解は学術的には間違っているかも知れないし、フーコー自身の意志に沿うものでさえないのかも知れない。しかし、この本を私は次のように読んだ。

 

エピステーメー」とは、ある社会がある時代に共有している科学的知見、常識、価値観などを指す。そして、「エピステーメー」は時代と共に変化する。そうであれば、人間の社会が築いた最初の「エピステーメー」というものが存在するはずだ。哲学の起源は古代ギリシャにある。ということは、哲学の、西洋社会の、もっと言えば人間社会の起源が、古代ギリシャの思想の中にある訳だ。フーコーは文字によって遡ることのできる最古のエピステーメーを描きたかったのではないか。そしてそれは、現代人からしてみればとても陳腐で、間違いだらけなのだが、それでもそれは、その時代の人々が精一杯考え抜いて作り上げた一つの秩序だったに違いない。

 

性という人間にとっては厄介な代物や、自己という最も身近だが扱うことが困難な対象から出発して、一つの社会の総体を構想する。そのような試みの中にこそ、人間が用いるべき技術の本質があるのではないか。間違ったって構わない。いや、愚かな人間が思考するのだから、その結論は必ず間違っている。それでも思考せよ。それが人間なのだ。そして、新たな時代を切り開け、新たな「エピステーメー」を構築せよ! フーコーは最後の力を振り絞って、思考する全ての人々に対し、そういうメッセージを残したに違いない。

 

<お知らせ>

本ブログでは、ミシェル・フーコーを題材とし「反逆のテクノロジー」と題する原稿を約半年に渡って掲載してまいりましたが、このシリーズは今回をもって終了と致します。私のフーコーに対する敬意と関心が尽きた訳ではありません。今後とも、学んでいきたいと思っています。幸い、読むべき文献はまだ沢山残っています。しかし今は、2400年前のギリシャから、2021年の日本に戻りたいと思う次第です。フーコーから学んだことを踏まえ、新たな連載原稿に取り組む予定です。近日、公開予定です。タイトルは、次のものを予定しています。

 

領域論 ―主体が巡る7つの領域―

 

引き続き、宜しくお願いします。

 

(参考文献)

文献1: FOR BEGINNERS フーコー/Cホロックス/白仁高志訳/現代書館/1998

文献2: フーコー今村仁司・栗原仁/清水書院/1999

文献3: 言葉と物/ミシェル・フーコー渡辺一民佐々木明訳/新潮社/1974

文献4: ミシェル・フーコー、経験としての哲学/阿部崇/法政大学出版局/2017

文献5: ミシェル・フーコーの思想的軌跡/中川久嗣/東海大学出版会/2013

文献6: 図説・標準 哲学史/貫 成人/新書館/2008

文献7: 哲学中辞典/尾崎周二 他/知泉書館/2016

文献8: フーコー・コレクション1 狂気・理性/ミシェル・フーコーちくま学芸文庫/2006

文献9: 監獄の誕生/ミシェル・フーコー/新潮社/1975

文献10: 知への意志/ミシェル・フーコー/新潮社/1976

文献11: 快楽の活用/ミシェル・フーコー/新潮社/1984

文献12: 自己への配慮/ミシェル・フーコー/新潮社/1984

 

 

フーコー年表

 

1926年(0才)                    10月15日。フーコー生まれる。

 

1942年(16才)                  哲学の勉強を始める。

 

1945年(19才)                  高等師範学校不合格。第二次世界大戦終結

 

1946年(20才)                  高等師範学校合格。

 

1948年(22才)                  自殺未遂。

 

1950年(24才)                  自殺未遂。大学教員資格試験に失敗。

 

1951年(25才)                  大学教員資格試験に合格。

 

1952年(26才)                  精神病理学高等教育終了証書を取得。

                                                リール大学文学部哲学科の心理学助手に就任。

 

1954年(28才)                  「精神疾患とパーソナリティ」を出版。

                                                  アルコール依存症になりかけ、心理療法を受ける。

 

1961年(35才)                  博士論文として書かれた「狂気の歴史」が出版される。

(狂気と非理性―古典主義時代における狂気の歴史)

 

1963年(37才)                  「臨床医学の誕生」出版。デリダが「狂気の歴史」を批判。

 

1966年(40才)                  「言葉と物」出版。

 

1969年(43才)                  「知の考古学」出版。

 

1970年(44才)                  コレージュ・ド・フランス教授に就任。初来日。

 

1975年(49才)                  「監獄の誕生」-監視と処罰- 出版。

 

1976年(50才)                  「性の歴史I-知への意思」出版。

 

1978年(52才)                  2度目の来日。

 

1984年(58才)                  「性の歴史II-快楽の活用」出版。

                                                  「性の歴史III-自己への配慮」出版。

             6月25日、フーコー死去。

            (誕生日前なので、享年は57才。)

 

反逆のテクノロジー(その27) 快楽の活用

ミシェル・フーコーの遺作となった「性の歴史」は3部作となっており、今回取り上げるのは、2番目の作品である。

 

性の歴史I   知への意志

性の歴史II  快楽の活用 ・・・今回はコレ

性の歴史III  自己への配慮

 

物事には、因果関係というものがある。原因があって、結果がある。但し、原因を遡るとそれは限りがないのであって、結果の方にも同じことが言える。例えば、風が吹けば桶屋が儲かる、といった具合に。フーコーの文章は、この原因に向かう「何故ならば」という接続詞と結果に向かう「従って」という接続詞が多用されているように感じる。(「何故ならば」という言葉は、翻訳文においてはしばしば「というのも」という表記が用いられている。但し、これは翻訳上の問題に過ぎない。)こうして、因果関係の流れを原因系に向かったり、結果系に向かったりしながら、彼が重要だと考えるポイントに収斂させていくのだ。それはあたかも精密機械のようなものであって、その緻密さを再現することなど、誰にもできはしない。

 

その上で簡単に述べると、この作品が主題としているのは紀元前5世紀から3世紀はじめ頃のギリシャにおける哲学者たちが、性の問題をどのように考えていたか、という点にある。ざっくりと言って、今から2400年も昔の話なのである。フーコーがそんな昔のことに何故、興味を持ったかと言えば、簡単に言うと次の事情がある。(・・・と私は推測する。)

 

まず、フーコー自身がゲイだった。それはフーコーの人生に多大な影響を及ぼした。しかし、フーコーが生きた時代の価値観は、キリスト教の影響を色濃く受けており、その価値観は、同性愛を否定するものだった。そこでフーコーの思想的な探究は、「それではキリスト教が発生する以前はどうだったのか」という点に向かう。そして行き着いたのが、古代ギリシャだった。

 

古代ギリシャには政治に参加できる自由人と、奴隷がいた。そして、その社会には男女の結婚という制度があったが、同時に男同士の同性愛が容認されていたのだ。その形は、成人した男性と未成年の若者との間で成立していた。そういう社会にあって、ギリシャの哲人たちは、思考したのである。

 

まず、自分たちの強い性欲について考える。それは道徳的にいいとか悪いとか、そういう観点ではなく、性欲の強さに彼らは着目した。そして、性欲に負ける者とそれに打ち勝つ者という対立関係を措定する。性欲に負ける者は、自らを統治できないのであって、そのような弱い男は家庭を管理することができないし、ひいては国家を統治することもできない。そのような男は、性欲に支配されているのであり、自由を獲得しているとは言えない。反対に、自ら持っている強い性欲を統治できる者は、家庭や国家をも統治することのできる真の自由人なのだ、と考える。

 

そもそも、セックスの後には強烈な疲労感があるのであって、これは健康に影響があるに違いない。そのような観点から「養生術」に至る。例えば、セックスに適している季節と、そうでない季節があるに違いない。

 

- 愛欲の営み(アフロディジア)に専念すべきは冬であって、夏ではない。しかも春と秋には、きわめて控え目におこなうべきである。さらにいうと、それはどんな季節においても骨の折れることであり、健康に悪い。(P.151)-

 

そんなことを考えていたらしい。21世紀に生きる私たちからしてみれば、誠に馬鹿馬鹿しい話ではあるが、前にも述べたように、これは2400年も昔の人が考えたことなのだ。当時、医学は存在していなかったし、現代人以上に、人々は自らの健康に留意する必要があったのだろう。

 

更に古代ギリシャの哲人たちは思考する。男女間の結婚よりも、男たちの同性愛の方が、事情は複雑なのである。支配的なのは成人男性であって、若者は女性的な、被支配的な役割を果たす。しかし、若者たちもやがては成人して自由人となり、政治に参加するようになる。すると、同性愛において男たちが取るべき態度はどうあるべきか、という問題に行き当たる。更に突き詰めて行くと男たちの「真の恋」とは何か、という課題に到達するのだ。

 

すなわち強い性欲、快楽と言っても良いが、そこから出発して自由を獲得し、それを突き詰めて真理に至る。ギリシャの哲人たちは、そのような思想を構築したのである。本文献のタイトルである「快楽の活用」という言葉の意味は、快楽という人間にとっては厄介なものがあるが、そこから出発して、それを逆手に取って、真理に至る思想を形成する、という意味だと思う。

 

もちろんフーコーは、「セックスは冬にしろ」というようなことを言いたかった訳ではない。身近にある単純なことからでも出発して、とことん考えろ、例えば古代ギリシャの哲人たちは、このように考えたんだよ、俺たちだって考えるべきなんだ、ということを言いたかったに違いない。

 

主題とは離れるが、本文献には哲学について述べたフーコーの言葉が記されている。

 

- 哲学が明らかにできるものというと、実際それは人が「自分より強いもの」になることであり、人がそうなってしまうと今度はさらに哲学は、他の者よりまさる可能性を与えてくれる。哲学はそれ自体の力によって支配の原理である、というのは哲学こそは、ひとり哲学こそは思考を指導する力をもつからである。(P.268)-

 

この箇所を読んだとき、私は「葉隠」を思い出した。「武士道と言うは、死ぬことと見つけたり」という、あれのことだ。当時、時代は平和だった。平和な時代にあって、武士たちは堕落したのである。いざというときには、自らの命を投げ出さなければならない。それが、武士という職業の宿命だった。しかし誰だって、死ぬのは怖い。その恐怖から出発して、その恐怖を逆手に取って、「死んでしまえ」という美学を唱えたのが「葉隠」である。古代ギリシャの思想に通ずるところがある。

 

ところで、本文献の末尾において、訳者は「遺書」という言葉を用いている。私の推測を言えば、フーコーはこの「快楽の活用」を執筆した当時、既に自らの死期が近いことを知っていた可能性がある。むしろ、知っていたと考えるべきだろう。「快楽の活用」と「自己への配慮」が出版されたのは1984年だが、同年の6月にフーコーは死去している。また、自らが、未知のウイルス(エイズ)に侵されていることをフーコーは早い時期から知っていたとの情報もある。その意味で「快楽の活用」は、そこに記された思想という客観的な意味と、フーコー自身にとっての個人的な意味の双方を持っていると言えよう。

 

(参考文献)

文献11: 快楽の活用/ミシェル・フーコー/新潮社/1984

 

コロナと自然科学

 

結局、現在、コロナウイルスがどのようなメカニズムによって感染しているのか、誰にも分かっていないのではないか。

 

基本的なことを言えば、1)飛沫感染、2)物を経由した感染、3)空気感染 の3種類があると思う訳だが、現在の主流は「空気感染」にあるのではないか。そうでなければ、百人を超えるようなクラスターが発生している現状に対し、説明がつかない。では、この空気感染は屋外で、すなわち外気の中でも発生するのだろうか。多くのクラスターは、医療機関、老人ホーム、学校などの「屋内」で発生している。しかし、屋外における空気感染についての論議が一向に報道されない所を見ると、分かっていないに違いない。

 

感染経路についても、その詳細は分かっていない。

 

そもそも、現在、日本国内に蔓延しているコロナは、何型なのか。コロナウイルスの変異は、武漢型、東京・埼玉型、欧米型とあった訳だが、最近、イギリス型と南アフリカ型が出て来て、昨日あたりから更にその変異型が日本に流入しているという報道がある。

 

では、現在、日本に蔓延しているコロナウイルスに対して、有効なワクチンはあるのか。この点、アメリカ製のワクチンは、イギリス型にまでは有効であろうという予備的な研究結果が発表されているようだが、その研究のスポンサーは2社のワクチンメーカーである。とても信じられるような代物ではない。

 

結局、現代の自然科学のレベルは、はなはだ不十分なのだ。ジグソーパズルに例えてみよう。7つのピースを正しく組み合わせると1つの絵が完成するとしよう。自然科学は、そのうち4つのピースを提供することができる。しかし、残る3つのピースを提供することができない。従って、自然科学に頼っていては、永遠にこの絵を完成させることができない。

 

では、残る3つのピースを探す方法について考えてみよう。

 

1つ目は、組み合わせだ。人間の直観力と言ってもいい。古代人が病を治すために片っ端から、様々な草木を煎じて飲んで、漢方薬を探し当てたのと同じ方法で、現代人は今、コロナに有効な物質を探している。抗エイズ薬はどうかとか、実は紅茶が効くのではないかという話があった。今日になって、ある日本メーカーの薬品が有効だという説が出てきた。何かが発見されることを祈るばかりだ。

 

次は、想像力だと思う。リスクマネジメントの世界では、よく、最悪の事態を想定せよと言われる。但しこれを英語で言うと、Worst Case Scenarioということになる。すなわち、最悪の事態に陥る道筋(シナリオ)を考えろ、という意味だ。では、私なりに想像力を働かせて、最悪のケースを描いてみよう。

 

既に日本には新型のコロナウイルスが蔓延している。その感染力は、強大だ。従って、感染者数は指数関数的に増え続ける。また、ウイルスは進化を続け、世界中で次々に変異種が発見される。そして、それらの変異種に対して、現在、日本政府が導入を予定しているアメリカ製のワクチンは効力を持たない。医療は既に崩壊しているが、更に医師や看護師の退職が止まらず、営業を止める病院が出てくる。自宅や路上で死亡する「変死者」が増加する。医療が崩壊すると、介護や学校へとその影響が連鎖する。やがて、地下鉄が止まり、東京の首都機能が失われてゆく。

 

嫌な気持ちにさせて申し訳ないが、リスクマネジメントというのは、現実を直視することによってしか成り立たない。また、上記のシナリオを阻止するために現在すべきことは何か、それを考えることが大切だ。感染拡大を防止できないのであれば、感染してしまった後の対応体制を強化する以外に方策はない。換言すれば、それは病院を、医療従事者を守ることではないか。彼ら、彼女らの要望を聞き、即座に対応していく。そういうことを政府はやるべきなのだ。防護服が足りないのであれば、政府は全力を挙げてこれを提供すべきだ。一律100万円のボーナスだって、支給すればいい。

 

3つ目のピース。それは言葉の力だと思う。リーダーが持つ言葉の力によって、人々の心をまとめ、総力を挙げて困難を克服していく。人間には、そういう歴史があるはずだ。ドイツのメルケル首相のように、日本のリーダーも国民に対し語り掛けるべきなのだ。最近、スカ総理の会見とか、NHKの番組などを見たが、あきれるばかりだった。質問には答えず、予め準備した原稿を読み上げる。私は、失望しか感じなかった。人々を感動させる言葉というのは、考え抜いた者だけに許されているのだ。考えていない人間の言葉は、軽い。最近、スカ総理は馬鹿なのか、それとも馬鹿のフリをしているのかという論議があるが、私は前者の方だと思う。

 

まとめよう。最近、科学万能主義とも呼ぶべき風潮がはびこっていて、私は、これに異議がある。

 

「科学的根拠を示せ!」

エビデンスはあるのか!」

「データーを出せ!」

 

こういう人たちの気持ちは、分からないでもない。しかし、現代の自然科学のレベルは、ある意味、とても低いのだ。科学では解決できない困難に直面している現在、科学万能主義は機能しない。そして、私としては、直観力、想像力、言葉の力によって、自然科学では解明できない課題に立ち向かうべきだと考える次第だ。

 

休日中は、PCR検査の件数が少ない。よって、休日明けの初日に検査数が増える。その結果は、3日後に判明する。こういう原理がある訳で、すると現在の3連休明けの翌日に検査数が増え、その結果は、次の金曜日(1月15日)に出ることになる。とんでもない数値が出ないことを祈っている。もう、手遅れなのかも知れないが・・・。

 

#スガは辞めろ

#尾身も辞めろ

#小池も辞めろ

 

コロナが襲った呪術の国

昨日、東京都の感染者数は1591人で、全国ベースでは約6千人だった。メディアもこの話題で持ち切りだが、私にはいくつかの不満がある。

 

まず、感染の原理についての解説が少ないことだ。素人ながら思うに、人間の発声、咳、くしゃみなどによって飛沫が拡散し、それが 1)直接他人を感染させる、2)物を介して感染させる、3)空気を通じて感染させる、という3種のパターンがある。すると、マスクの着用が重要なのであって、マスクをしていない時には声を出さない、声を出すのであれば、必ずマスクを着用する、というモラルを徹底することが重要ではないのか。例えば、ビジネスパースンたちのランチは、重大なリスク要因となっているのではないか。ネット上では、食後に彼らはマスクもせずに大声で歓談しているとの指摘もある。

 

次に、アビガン。コロナの初期症状には、アビガンが有効だという話があった。そして、日本はアビガンを大量に他国へ供与したのではないか。しかしその後、政府はアビガンを認可しなかった。そうは言っても、自宅療養を余儀なくされるケースは増加しており、その際、何の薬も使用できないよりは、アビガンを利用できるようにすべきではないのか。実際、多くの病院で、既にアビガンを使用しているのではないか。まさか、アメリカ製のワクチンを大量に使用するため、日本製のアビガンを抑制しているということはないと思うが・・・。

 

GoToキャンペーンもはなはだ、疑問である。これ、昨年の12月27日までは実施されていた。冬になって気温が下がれば、コロナの感染が広がるということは、素人でも分かる。旅行に行けば、旅行先で食事をする。GoToキャンペーンがコロナを全国に拡散させたのではないか。

 

最後にオリンピック。そんなもの、できるはずがない。

 

ところで、人間の世界を「生存領域」と「認識領域」に分けるという考え方だが、簡単に述べてみたい。

 

かつて人間は、狩猟・採集を生業としていた。集団で暮らし、その空間が全てだった。狩猟・採集から、農耕・牧畜へと転換していく途中の段階で、人間は「家」を発明する。家ができたことによって、私的領域が生まれる。同じ家で暮らす者、それが家族だとも言える。反射的効果として、家の外に職業領域が生まれる。分業が進むにつれ、職業領域は分化して行ったに違いない。そして、哲学から分岐した科学が生まれ、学問が発達する。それらを子供たちに教育しようということになり、学校ができる。子供たちを秩序化しようということで、狩猟の際に用いていた人間の身体能力を体系化し、スポーツが生まれる。貨幣が流通し、経済領域が拡大する。ざっと述べると、こんな所ではないか。

 

<生存領域>

・私的領域

・職業領域

・科学領域

・教育領域

・スポーツ領域

・経済領域

 

次に、生存領域から「認識領域」が分化する。

 

まず、人間は遊び始める。遊びとは、自らルールを決めるのであって、その点がスポーツとは本質的に異なる。遊びが体系化されると呪術が生まれる。(呪術:物に願いを込める行為)呪術が発展すると芸術が生まれる。芸術が更に発展すると宗教となる。宗教、特にキリスト教から、近代の思想が生まれる。(キリスト教と思想の結節点は、ジョン・ロックである。)

 

<認識領域>

・遊び領域

・呪術領域

・芸術領域

・宗教領域

・思想領域

 

西洋の歴史を鑑みるに、認識領域というのは上記の流れを持っている。では、日本はどうだろう。正月になれば神社へおまいりをし、お札をもらう。それは交通安全祈願だったり、安産や受験に関する祈願だったりする。鏡餅を飾り、門松を置く。そういう人は減りつつあるかも知れないが、これは日本伝統の習俗であって、その本質に変わりはない。すなわち、上の一覧で言えば、「呪術」の段階にある訳だ。

 

日本の食文化は素晴らしいが、言ってみれば、これは「生存領域」にあるのであって、そこから芸術として十分に分化を果たしていない中間的な領域だと言えよう。着物もそうだし、陶芸も同じだ。西洋の絵画は、「生存領域」とは切れていて、そこに実用性はない。他方、日本の屏風絵や襖絵などは、生活空間の中に存在するものであって、「生存領域」から分化を果たしているとは言えない。

 

このような見方をすると、日本人の「認識領域」の水準は「呪術」にあることが分かる。宗教と言っても、それは生活習慣に密着してはいるが、思想性はないのである。結婚式は教会で挙げ、葬式は仏式で、お札は神社へ行ってもらうのである。宗教について、真剣に思考する日本人は、稀だと言っていい。

 

呪術の国。それは日本なのだ。

 

結局、明治維新があって、日本人は西洋の文化を必死に学んだのだろうが、それは模倣を試みたに過ぎないのであって、その本質を理解してはいないに違いない。「認識領域」における日本人の水準は、多分、江戸時代から進化していないのだ。天皇陛下は神様で、総理大臣はお殿様だと思っている。多くの日本人は、芸術、宗教、思想などに興味は持っていない。憲法など、どうでもいいのだ。資本主義や社会主義も、どうでもいいに違いない。そんなことはどうでもよくて、ただ、ひたすらに日々の生活と経済に向き合っている。日本人は徹底的に「生存領域」で生きていて、そこでは世界的に見ても目を見張る技術を持っているのだが。

 

そこに、コロナが襲ってきたことになる。

 

コロナがターゲットにしている領域は、「生存領域」である。これは大変だ。日本人がメインで生きている領域が、今、コロナによって脅かされている。そこでやっと、メディアも政権に対する批判を始めることになったのだ。コロナに襲われて、日本人はやっと重い腰を上げ、思考し始めたに違いない。

 

宇宙、生命、人間、そして文化

宇宙の成り立ちについて、何かの本で読んだ話はこうだった。

 

まず、点があった。その点の中には、全宇宙を構成する質量とエネルギーが存在していた。どこにあったのか。それは、言えない。何故なら、未だ、空間が存在していなかったのだから。いつからあったのか、それも言えない。何故なら、未だ、時間が存在してなかったのだから。

 

そして、その点が大爆発を起こす。ビッグバンだ。その爆発と共に、空間と時間が生まれる。その爆発の影響は今日においても続いていて、宇宙は膨張を続けている。以前は、万有引力の法則があるので、やがて宇宙の膨張は止まると考えられていた。すると、宇宙空間は収束に向かう。一つの点に回帰して行くのだ。面白いのは、宇宙が収束に向かい始めると、時間が逆行するはずだ、と科学者たちは考えていたことだ。時間が、遡る?

 

しかし、その仮説は間違っていることが判明した。宇宙の膨張は今日も続いているが、そのスピードは増加しているのだ。すると宇宙は、永遠に膨張を続けることになる。永遠に膨張を続けるとどうなるかと言えば、宇宙空間の密度は低下する。そして、最後は無に帰するらしい。宇宙がなくなるのだから、もちろん人類は滅びる。但し、そのずっと前に太陽が燃え尽きるので、その時点で人類は滅びるに違いない。

 

この現象を3段階で記すと、最初に点のようなものがある。これをここでは、「起点」と呼ぼう。そして、「起点」が拡散する。最後に、全てが消失する。この3ステップということになる。

 

次に、生命の誕生にまつわる話はこうだ。昔、海底にマグマの噴出する場所があった。そこで、科学反応が起きて、偶然、たった一つの細胞が生まれる。その細胞が分裂を繰り返し、地球に生命体が誕生する。全ての生命体の起源は、偶然生まれたたった一つの細胞だと言われている。魚だって鳥だって、皆、2つの目と鼻と口を持っている。祖先を遡れば、人間と同じだったはずだ。幸い、人類は未だ生き延びているが、既にマンモスや恐竜は死に絶えた。いずれ人類だって、死に絶えるだろう。その時期は、きっと太陽が燃え尽きるよりもずっと前であるに違いない。起点としての細胞があり、それが拡散し、最後は絶滅するのだ。

 

人間はどうか。細胞が分裂して、生命体が生まれ、恐竜の時代にネズミのような動物がいた。このネズミのような動物が進化を繰り返し、サルが生まれる。サルは樹上で生活していたが、気候変動によって、ある時、森が消失する。そして、地上に降り立ったサルが2足歩行を始めたという説がある。サルは原人となり、旧人へと進化を遂げる。そして20万年前に、アフリカのある村で、突然変異が起こる。そして、ホモサピエンスが登場する訳だ。現在、地球上に70億人いると言われる我々ホモサピエンスも、元をただせばわずか数十人の村人に過ぎない。ホモサピエンスは、6万年程前にアフリカ以外の地域へと拡散を始める。ヨーロッパに向かった者は、そこでネアンデルタール人を滅ぼした。ユーラシア大陸へと向かった者は、そこでヒマラヤ山脈の北側ルートに向かった者と、南側ルートに向かった者とに分かれる。そして両者は、アジアで再会を果たす。ホモサピエンスは更に移動を続ける。当時は地続きだったベーリング海峡を越え、北米に渡り、南米大陸へと到達する。

 

ここでも、アフリカのある村を起点として、その後、拡散するという原則を見て取ることができる。人類は、未だ、消滅はしていなのだが。

 

このような原則は、実は、文化にも当てはまるのではないか。

 

ある起点のようなものがあって、それが枝分かれし、拡散していくのだ。そして、拡散すればする程、その密度は低くなり、やがて消失する。先の原稿にならって、人間が生きていくために必要な領域を「生存領域」とし、それ以外の人間が仮説をたて、それを実践し、何かを認識しようとする営みを「認識領域」とするならば、その傾向は特に「認識領域」において、強固なのだと思う。

 

では、認識領域の起点はどこにあったのか。この点は、アイヌ文化において「呪術的仮装舞踊劇」なるものが存在したという事実に出会った時、私は、これだと直観したのであるが、実は、和人の文化においても同じようなものの存在することが分かった。「神楽」(かぐら)である。笛や太鼓が奏でる音楽に合わせ、仮面を被った者が、劇を演じる。ちなみに神楽は、神に捧げる儀式として演じられていたという説もある。してみると、神楽には音楽があり、信仰やアニミズムがあり、コスプレの原点があり、物語(文学)があり、美術があるのだ。芸術や宗教を取り巻く全ての要素が含まれているのである。これを起点として、様々な分岐や拡散を通じ、後の芸術や宗教へとつながっていったに違いない。

 

神楽は日本に固有のものだが、中国文化には「京劇」があり、シャーマニズムは世界各地に存在していることが分かっている。

 

サルと人間の違いはどこにあるか、という問題がある。この点、いくつもの説がある。火の取り扱い、二足歩行、言語など、多くの相違点を挙げることができよう。ただ、私の立場からすれば認識領域を持つのが人間で、それを持たないのがサルだ、と言えるように思う。そして認識領域というのは、バーチャルな世界を作り出す所から出発しているのだ。あくまでも現実世界を模倣し、そこに想像力を加味し、虚構の世界を作り出す。そうやって、人間は世界を認識しようとしてきたに違いない。

 

そもそも、真理は存在するのか。多くの哲学者たちが、この問題を議論してきたに違いない。しかし、議論をするのであれば、その前に真理とは何か、それを定義する必要がある。あいにく私はその定義を知らないし、自ら定義する能力をも持ち合わせていない。ただ、原理は存在すると思っている。ある原理があって、その原理に従って世の中は動いているのだし、人間も行動しているはずなのだ。宇宙の原理と文化の原理を結び付けるのは、いささか強引に過ぎるだろう。しかし、起点があって、それが拡散し、やがて消滅するという原理は、文化の世界にも当てはまるように思う。私たちが意識していないだけで、実は、多くの文化が既に死滅しているに違いない。

 

遅くなりました。

 

明けましておめでとうございます。本年も宜しくお願い致します。

 

この世は宴

 

人生とは、路上のカクテルパーティーである。

 

ミック・ジャガーは「シャタード」という曲の中で、そう歌った。(Life is a cocktail party on the street.) なるほど、うまいことを言うものだ。人間は無から生まれ、無に帰ってゆく。その間、無数の人々と出会い、別れ、1人で死んでいく。その間の一瞬の人間の営みは、宴に似ている。だから、誰かが歌ったり、隠し芸をしたり、面白いことを言ったりする方が良い。そうでなければ、宴は盛り上がらない。黙って座っているより、何かを発信した方がいい。宴を盛り上げることとは、文化を前進させることに他ならないのだ。

 

ところで、物事には様々な見方がある。特に、人文科学が対象としている分野については、無数の見方があるのであって、未だ、これと言った決定版は生まれていないように思える。例えば、「人間の歴史とは、秩序化の歴史である」と主張する人がいる。確かに、そうだろう。道路を見れば良い。全てのクルマは左側を走り、赤信号の前で人々は立ち止まる。一方私は、「人間の歴史とは、個別化の歴史である」と言いたいのだ。かつて人々は、集団で行動していた。寝る時も、狩りをする時も、人々は群れをなしていたはずだ。ところが現代において、人々は狭く区切られたコンクリート製の住居を好み、ほとんどの人間が自分の部屋を持つに至った。職業にしても、考え方にしても、着るものから食べ物の好みに至るまで、現代人は千差万別なのだ。

 

「秩序化」と「個別化」。一見、相矛盾するこれらの指摘は、どちらも正しいに違いない。若しくは、どちらも部分的には正しいが、総体としては間違っている、と言った方が正確だろうか。ここら辺が、数学のように割り切れない難しさである。

 

例えば、私はこのブログに「文化領域論」と称する原稿を掲載した。これは文化の領域を想像系、身体系、記号系、物質系、競争系の5種類に分類するというものだ。私は、今でもこの考え方を支持しているし、そんなことを考えたのはこの世で私だけなのだから、それは今でも誇らしく思っている。

 

その後、私はミシェル・フーコーの思想に影響を受け、権力やシステム、「知」ということを考え始めた。加えて、日本の伝統や美についても気に留めるようになった。すると、5つの文化領域の中の一体どこに、それらが存在するのか説明できないことに気づく。

 

つまり、私の「文化領域論」も「秩序化」や「個別化」と同じであって、一面、それは正しいのだが、総体を表わしてはいない、ということではないか。これは困った。

 

困った時には、人間の原点に遡って考えるのが、私の思想の特徴だ。いや、もっと遡ってみよう。人間がまだ、サルだった時代にまで。

 

サルは集団で移動しながら、小動物や木の実を食べて生活している。時折、他の集団とメスを交換したりしながら、その集団の中で暮らしている訳だ。食べることと、子孫を残すための生殖活動だけなのだ。ある意味、サルの生活はとても合理的だと言える。無駄なことは一切しない。自分が生きて、子孫を残す。この必要不可欠な行動領域を仮にここでは「生存領域」と呼んでおこう。

 

しかし、サルが人間になるにつれ、変化が訪れる。古代人は、一見、生活に必要だとは思えない行動を取り始める。古代のヨーロッパ人は、洞窟の壁に狩りの絵を描いた。かつてアイヌの人々は、「呪術的仮装舞踊劇」なるものを演じ始める。これらの行動は、明らかに「生存領域」に属するものとは異なる。その目的は呪術や慰霊にあった訳だが、そこから人間は、この世界を認識しようと努力し始めたのだ。動物たちの世界はどうなっているのだろう、死んだ先にはどのような世界があるのだろう。そのような疑問が、人々をこれらの試みに導いたに違いない。この一見、人間が生存し続けることに対しては意味をなさないと思われる行動の分野を、ここでは「認識領域」と呼んでおこう。

 

つまり人間の歴史には、まず、生存に必要不可欠な「生存領域」というものがあって、そこから、一見、必ずしも必要とは思われない「認識領域」が分岐したのだ。

 

やがて「生存領域」は、衣食住に関わる文化を生む。そこに美の発見があり、伝統が生まれる。貨幣が作られ、経済の発展へとつながる。

 

他方、「認識領域」は芸術を生み、宗教に発展する。哲学から分岐した科学が発展を遂げる。時代の価値観を主導する「知」は、この領域に存在する。

 

そして、複雑化した現代社会も、実は上記2つの領域をベースに成り立っていると考えられないか。まだ、アイディアの段階だが、この考え方を発展させれば、私の文化論とフーコーの哲学を融合させることができるに違いない。

 

ところでこのブログですが、フーコーについては「快楽の活用」と「自己への配慮」を検討した上で、原稿を掲載する予定です。その後、上記の考え方を発展させることができれば、新しいシリーズ原稿に取り組みたいと思っております。来年も、宜しくお願い致します。

 

それでは皆様、どうかコロナにはお気をつけいただき、良い年をお迎えください!