文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

領域論(その9) 認識領域 / 国家の統治と企業の統治

 

原始領域と生存領域において、「知」は開示されない。それはむしろ、隠されることによって、一つの権力と結びついている。例えば、祭祀における「知」は、シャーマンが持っていたのだ。呪術においては、呪術師や占い師がその「知」を持っていた。神話における「知」は、神話を書く者、若しくは神話を書かせる者が隠し持っていたに違いない。個人崇拝になると、崇拝される個人が「知」と権力を独占することになる。

 

生存領域においては、師匠や親が「知」を持っているのであって、それはノウハウと呼んでも良いだろう。ノウハウというのは、ちょっとしたコツのようなものだ。料理人や大工などの職人は、このノウハウを持っていて、それは少しずつ弟子に引き継がれる。但し、それが体系的に説明されることは稀だと思う。全てが体系的に開示されてしまうと、その時点で師弟関係は終了する。

 

ところが、この「知」を開示しようという動きが、歴史の中に登場する。それを私は「認識領域」と呼ぶことにしよう。

 

認識論はギリシャ哲学に起源を持ち、法律学古代ローマに由来する。そして、マルティン・ルターから始まったプロテスタンティズム。概ね、この3つの流れが合流して、「社会契約論」に至ったのではないか。

 

主に哲学は文字によって書かれ、本という媒介をもって流布されてきたに違いない。法律も文字によって書かれる。ルターが提唱したのは、文字によって書かれている聖書を尊重せよということだった。この認識領域において「知」は文字によって書かれ、かつ、それが開示されるべきなんだという前提を持っている。認識領域において注目されるべき記号は、エクリチュール(書き言葉)である。

 

社会契約論は、トマス・ホッブズジョン・ロックジャン・ジャック・ルソーによって確立された。ちなみに、その後登場するカントはジョン・ロックの思想を継承しているので、社会契約論は哲学の本流に位置づけられるのだと思う。

 

第2次世界大戦に敗れた日本において、敗戦の翌年、すなわち1946年に日本国憲法が制定される。この憲法は、GHQが1週間で書き上げたと言われているが、その基底をなす思想は、前述の社会契約論にある。

 

日本国憲法の3本柱は、平和主義、国民主権基本的人権の尊重にあると言われている。私がここで強調したいのは、「平等主義」である。日本国憲法の第14条①項には、次のように書かれている。

 

- すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。 -

 

この平等主義は、3本柱の中では「基本的人権の尊重」の1種類であると解釈されているのだろう。

 

日本国憲法は、制定から75年が経過するが、その間、改正されたことは1度もない。我が国において憲法は、顧みられることなく、ないがしろにされてきたのだ。ではその間、憲法の持つ偉大な精神や、ここで述べようとしている認識領域がその歩みを止めてきたかと言えば、そんなことはない。残念ながらその動きは日本国内で起こったのではないのだが。

 

実際問題として、アメリカにおける黒人差別がなくなった訳ではないだろうが、少なくとも表面上、それは厳しく規制されるようになった。黒人という表現は禁止され、African Americanと呼ばなければならない。そして、ポストモダンの思想を経て、ジェンダーの問題がクローズアップされてきた。それは言葉の問題にまで遡り、最近ではbusinessmanとさえ言わず、busines personと言うのが普通になっている。

 

長い間、私は「差別はいけないが、区別は必要だ」と考えてきた。例えば、力仕事は男が行い、女はそのような義務を負うべきではないと思ってきた。これは、差別ではなく区別だ。しかし、現代アメリカの動向を勘案するに、その背景には「そもそも、区別するから差別が生ずるのだ」という思想を見て取ることができる。つまり、区別すら許さない、ということになる。

 

同一性と差異に着目して認識する方法については、「識別」と呼ぶのが適当だろう。上のロジックに従えば、アメリカに限らず、先進諸国においては既に男と女を「識別」することすら許さない、という状況にあるのだ。

 

加えて、LGBTの問題がクローズアップされてきた。私は長い間、「欧米には同性愛が多く、日本では少ない」と思ってきた。しかし、それは間違いなのであって、日本においても概ね13人に1人がLGBTであるという統計がある。日本においてLGBTが少なかったのではなく、日本の息苦しい社会が、彼らのカミングアウトを阻んできたに過ぎない。

 

平等主義は、このように人間の識別方法までも一変させるに至ったのである。最早、民族や肌の色、そして性差によって人間を識別することすら許されないのである。このように社会が持つ常識や価値観、すなわちエピステーメーは、急速に変化する。その変化を日々確認することは困難だが、変わるときには一気に変わると言う他はない。

 

次に、日本国憲法には、三権分立という考え方が定められている。これは、はなはだ不完全なもので、現実には内閣総理大臣の独裁を許している。どうにかならないものかと思う訳だが、同じような話が、会社を取り巻く法規制の分野において、目覚ましい進化を遂げている。しかもそれは、株主至上主義とでも呼ぶべき、資本主義の最前線で起こったのだ。

 

事の発端は、相次ぐ企業の不祥事だった。大規模な公害案件、独占禁止法違反、横領など、企業の不祥事が相次ぐ時代があった。このような不祥事があると、企業価値が大幅に棄損され、株主が損失を被る。経営者の責任を追及すると、彼らは口を揃えて「自分は知らなかった」と言い訳をする。これでは投資できない。

 

そこで、コーポレート・ガバナンス(企業統治)ということが言われ始める。企業は、不祥事を起こさないような態勢を作れ、そしてその情報を公開せよ、と言う主張がそれだ。情報公開を十分に行わない企業の株は買わないぞ、という訳だ。

 

日本において、この論議を活性化させた「大和銀行ニューヨーク支店事件」と呼ばれる裁判があった。企業側の対応に業を煮やした株主が、訴訟を提起したのである。そして、日本の最高裁は、次のように判決を下した。「リスク管理の大綱は、取締役会においてこれを決することを要す」。つまり、リスク管理の基本方針を取締役会で決議せよ、その内容が充分であった場合、取締役(個人)は責任を負わないけれども、不十分であった場合、取締役(個人)全員が、連帯して会社に対する賠償責任を負う、というのだ。何しろ、会社が被る損害は莫大なもので、それを各取締役が個人の資産をもって会社に賠償するというのだから、彼らは震え上がったのである。

 

この論議はやがて、会社における権力論に及ぶ。何しろ、コーポレート・ガバナンスは「暴走するワンマン社長を抑止する」ことが目的なので、社長の権力を分散させようという議論に至るのは、当然の帰結だった。そして、社長から後任の役員を指名する人事権と役員に支払われる報酬額の決定権を奪う、という考え方に至る。欧米ではいち早くこのような仕組みが確立されていたが、日本も会社法の制定と共に、そのような企業構造を推奨するようになったのである。

 

従来の日本企業においては、概ね、取締役会があってそれを牽制する監査役会があった訳だが、監査役というのは社長に対するイエスマンが就くポジションであり、体を張って社長に意見をするような人はいない。これに対して、欧米型の企業構造は、取締役会の中に指名委員会、報酬委員会、監査委員会を設置するのである。組織は複雑になるが、確かにこの体制であれば、ワンマン社長も暴走し難い。但し、日産のカルロス・ゴーンの事件などを見ていると、人間のすることなので完全ということはないような気もするが・・・。

 

いずれにせよ、情報を開示せよ、権力を分散させよ、という論議は、憲法とは別の所で進展しているのである。現在、東京五輪組織委員会森喜朗が暴言を吐き、問題となっているが、上のような事情を知っていれば、理解しやすいのではないか。

 

この分野で、アメリカから流入してきた言葉を並べてみよう。

 

disclosure → 情報開示

accountability → 説明責任

transparency → 透明性

compliance → 法令順守

internal control → 内部統制

 

どれも素晴らしい概念だと思うが、日本人が発明したものが1つもないのは、はなはだ残念である。

 

最後に、1つ言えるのは、企業統治に関する論議が目覚ましい進展を遂げているにも関わらず、国家統治に関する論議、すなわち憲法に関する論議は停滞しているということだ。何故、停滞しているかと言えば、それを妨害する権力が存在するからだと思う。

 

領域論(その8) 生存領域

 

原始領域は、人間が何らかの危機に瀕したときに生まれた領域だ。例えば、アイヌの歴史を考えた場合、彼らはかつて、精神的な危機に瀕したのだろうと思う。彼らは熊を重要な食糧源としていた。食べなければ、彼ら自身が飢えてしまう。しかし、殺すとき、熊は血を流し泣き叫ぶだろう。食べなければならない。しかし、殺したくないという二律背反に彼らの精神がさいなまされたであろうことは想像に難くない。この二律背反の課題を解決するために、「知」が生まれたに違いないのだ。物語による概念の創出である。熊は肉体の他に魂を持っていて、それをアイヌの人々はカムイと呼んだ。熊を殺すとカムイは、天空のどこか、カムイが住む場所に帰っていく。だからアイヌの人々は、熊のカムイを慰霊するための祭祀を繰り返したのである。そのような「知」によって、アイヌの人々は精神的な危機を脱し、生きるための「強さ」を獲得したに違いない。

 

他方、人間には危機に瀕していない平穏な時期もあった訳だ。その平穏な時期なり空間において生まれたのが、生存領域である。従って、原始領域と生存領域とは、パラレルの関係にある。

 

まず、自然があった。そして人間は、自然に働き掛けることによって、その恵みを享受してきた訳だ。自然とのインターフェイス。それが、人間が今日まで生き続けてきた活力の原点である。それは、1日たりとも絶えることなく、今日まで繰り返し続けられてきた人間の営みなのであって、この領域の中にこそ文化を構成する中核的な要素が潜んでいる。

 

ある時、人間は家を作るようになった。そして人間は、家に家族単位で居住するようになる。結婚という家族制度は、人間が家を建てるようになった後に生まれたのではないだろうか。日中、家の外に出かける男たちは、様々な職業に就いた。職業は次第に分化され、やがて物々交換の時代を経て、貨幣経済へと向かう。一方、家の中に留まることの多かった女たちは、家の中での文化を生み出す。例えば、子守歌を歌ってきたに違いない。幸い私たちは、アイヌ女性の素晴らしい歌声を、今でも聞くことができる。

 

イフンケ 安東ウメ子 9分37秒

UMEKO ANDO - Ihunke (excerpts) - YouTube

 

イフンケというのは、アイヌ語で「子守歌」という意味だ。この歌を聞くと、人間の長い歴史において歌い続けてきたのは女たちだと、しみじみ思う。

 

同じことを繰り返す日々の暮らしの中から、伝統が生まれる。例えば、日本の豊かな食文化を育て上げてきたのは、その生存領域においてである。食事は、栄養の配分も大切だが、その味も大切だ。サンマは新鮮なうちに焼いて食べるのが良い。アジは開きにして、カマスはみりん干しにする。そういう知恵が、庶民の中で育っていく。塩は世界共通だろうが、日本人は、味噌や醤油という独自の調味料を発明した。21世紀の今日においても、和食の調味料として、この2つは健在だ。この習慣は、今後とも長く続くに違いない。

 

ただ、日本人はおいしく食べるということに飽き足らず、そこに美を求めるようになる。日本で陶器などの文化が発達したのは、日本の土がそれに適していたという事情もあるだろう。そもそも、岩盤の多いヨーロッパにおいて陶器を焼くのに適した土を見つけるのは困難ではないか。和食の店は、その暖簾から、板前の服装や一挙手一投足に至るまで、洗練されている。使う包丁だって、その用途に応じて何種類にも分けられている。魚を美しく切り分けるためには、すなわち刺身の角を鮮明に残したままで切り分けるためには、良く研がれた長い包丁が必要であるに違いない。このような文化の体系というのは、一朝一夕に出来上がるものではない。

 

すなわち、美は生存領域の中で、その長い伝統の中でこそ、生まれるものなのだ。

 

単調な毎日を彩るためには、娯楽も必要だ。娯楽の多くは、原始領域から流入してきたのだと思う。「祭祀」から宗教色を除外したものが夏祭り、盆踊りなどの行事ではないか。歌があり、踊りがあり、そして私たちのカレンダーには、祝祭日が設けられている。結婚式があり、葬式があり、学校には入学式や卒業式がある。いずれも、その起源は「祭祀」にある。

 

この人間の生活の基礎をなす領域において、人々は、緩やかな集団を形成した。それが共同体である。村落共同体と言ってもいい。どこか懐かしい響きを持つ「共同体」という言葉ではあるが、そこは決して楽園ではない。

 

共同体には、法律や国家権力が介入しづらいという事情がある。法律ではなくて、慣習や風習が支配的な力を持っている。そこでは、法律に代わって、同調圧力が支配的な力を持つ。皆がこうしているのだから、若しくは、自分がこうしているのだからお前もそうしろ、という訳だ。

 

ある地方において、コロナに感染する人がいた。するとその人の家の玄関に、真っ赤なスプレーで「コロナ」と落書きされたという話があった。誰かがコロナに感染すると、その情報がメールで拡散されるという話まである。自分はコロナに気を付けているのだから、お前もそうしろ、といことだろう。コロナに感染した人が共同体を離れざるを得なくなったという話も、少なくない。

 

そして、法律が行き届きにくい生存領域においては、セクハラやパワハラがまかり通り、家の中ではDVが発生するのである。

 

さて、この生存領域における支配的な記号は何か。それは、パロール話し言葉)だと思う。人々は他人の噂話から、翌日の天気や、物価の動向に至るまで、ペチャクチャと話し合っているに違いない。

 

次に、生存領域における「知」について考えてみよう。これは主に、師匠から弟子へ、親から子へと受け継がれているに違いない。そして、この「知」の特徴は、直接的には開示されないという原則を持っている。弟子は師匠のやり方を見て、少しずつ技術を習得するのだ。親も子供に対して体系的に「知」を伝授することはない。日々の暮らしの中で、それとなく教えているのだ。

 

さて、このように考えると、文化の所在を指摘することができる。すなわち、文化とは原始領域と生存領域に存在するのだ。そして、この2つの領域において、「知」が体系的に開示されることはないのである。

 

では、キーワードを並べてみよう。

 

領域論/主体が巡る7つの領域

原始領域・・・祭祀、呪術、神話、個人崇拝

生存領域・・・自然、生活、伝統、娯楽、共同体、パロール

認識領域・・・

記号領域・・・

秩序領域・・・

喪失領域・・・

自己領域・・・

 

領域論(その7) 原始領域 / タイプーサム(Thaipusam)

 

ヒンドゥー教の聖地の1つが、マレーシアの首都、クアラルンプールの近くにある。バツーと呼ばれる巨大な洞窟がそれだ。その場所で年に1回、ヒンドゥー教の祭典が盛大に開催される。ネットで調べた断片的な情報をつなぎ合わせると、その概略は、概ね次のようなものとなる。

 

祭の日、信者たちは家族連れでバツー洞窟へやって来る。入口付近で、身を清めるために頭髪を剃る人がいる。中でも信仰心の強い人は、シャーマン(祈祷師)を訪ねる。家族の代表者である男は、そこでシャーマンの力を借りて、トランス状態に入る。その後、シャーマンは信者の身体に「鋼の矢」を突き刺す。信者の男は、痛みを感じないし、出血することもない。身体に無数の「鋼の矢」を突き刺した男は、大きな伽藍を背負ったまま、2百数十段の階段を上り、洞窟の内部を目指す。洞窟から戻った信者は、再びシャーマンの元を訪れ、「鋼の矢」を抜いてもらう。シャーマンにトランス状態を解いてもらい、日常生活に戻っていく。

 

探してみると、YouTubeにその詳細に渡る画像があった。身体に「鋼の矢」を刺すシーンなどが含まれています。心臓の弱い方は、閲覧しないでください。

 

マレーシア バツ―洞窟 タイプーサム Festival 14分

MUST SEE EXTREME HINDU FESTIVAL [ Thaipusam ] in Kuala Lumpur, MALAYSIA - YouTube

 

タイプーサムは、世界の先進都市、シンガポールでも行われている。新しいものと古いものが、同居しているのだ。

 

シンガポール タイプーサム 2014 14分

Singapore Thaipusam 2014 - YouTube

 

これらの画像においては、信者たちが太い葉巻のようなものを口にするところが繰り返し撮影されている。それらは多分、何らかの麻薬なのだと思う。麻薬の力を借りて、信者たちはトランス状態に入っているに違いない。

 

それにしても、信者たちは何故、かくも過酷な自傷行為を行うのだろう。1つには、自分と家族たちの幸福を願っているに違いない。2つ目としては、自傷行為を行ってみせることによって、自らの勇気や信仰心の強さを証明しているのだと思う。そして3つ目としては、ヒンドゥー教の強さを誇示することによって、民族や信者の結束を呼び掛けているのではないか。

 

次に、これらの映像に映し出された人々の姿を見て、そこにカオスを見るのか、それとも秩序を認めるかという問題があろう。

 

もちろん私は、そのような自傷行為を行いたいとは思わないし、信者の方々だって、止めた方がいいと思う。それはとても痛そうだし、傷口からバイキンが入って破傷風にならないか心配だ。また、歩いているうちにトランスが解けて、急に痛み出すことだってあるのではないか。余計なお世話に違いないが、私は、そう感じるし、それはあなたも同じではないだろうか。

 

しかし、タイプーサムは永く続いてきた祭典であろうし、ヒンドゥー教徒の人々にしてみれば、それは自らが信仰する世界観に、自分の身を処して参加する行為であるに違いないのだ。私には理解できない様々なルールや伝統が、タイプーサムを支えているはずだ。あれだけ膨大な人々が、莫大なエネルギーを投入しているにも関わらず、そこで暴動が起こる訳ではない。人々は整然と、洞窟へと向かう階段を上っている。すなわち、そこに私たちはカオスではなく、秩序を見るべきなのだと思う。

 

つまり、文化が生まれる以前の状態。それこそがカオスだったのだ。そして人間は、トランスという1つの狂気から出発して、祭祀を構成し、秩序を得るに至った。タイプーサムは、そのプロセスを今日に伝えているに違いない。

 

原始領域において人々は、「何が正しいか」ということなど、考えていなかったのだろう。ただひたすらに想像力を駆使して、世界観を構築したのだ。それは間違っていたが、それでも人々は安らぎ、来世を信じて今世を生き、団結し、自然災害や疫病などの危機を乗り越えてきたのではないか。

 

どうやら、1つの結論めいたものに辿り着いたような気がする。今回の原稿をもって、原始領域に関する記事は、終わることとしよう。進捗を確認するためには、キーワードを用いて、適宜、次のように記すのが分かりやすいように思う。

 

領域論/主体が巡る7つの領域

原始領域・・・祭祀、呪術、神話、個人崇拝

生存領域・・・

認識領域・・・

記号領域・・・

秩序領域・・・

喪失領域・・・

自己領域・・・

 

以上

領域論(その6) 原始領域 / 文化の起源は祭祀にあり

 

現代においても、多くの人々が歌ったり、踊ったり、劇を演じたりしているというのに、人々は何故、その起源を考えないのだろう? その起源はもちろん、古代にある。本稿では、それを原始領域と呼び、その文化形態を祭祀とか呪術、若しくはシャーマニズムなどと表現している訳だ。

 

人々が考えようとしない理由は、いくつかある。例えば、文化人類学の衰退を挙げることができる。文化人類学は、無文字社会の人々に密着して、その生活様式を報告するという方法に準拠してきた。フィールドワークと呼ばれる作業である。しかし、研究が進み、解明されていない部族が、少なくなってきたという事情がある。研究し尽くしてしまったというのだ。その割に、解けていない謎が多いのは、この学問の方法、すなわち時間軸に従った見方(通時態)を否定した所に理由があるに違いない。

 

但し、理由はそれだけではないだろう。私のような見方をすると、どの段階にあるかは別として、宗教はどれも同じだという結論に至る。実際、私はそう思っている。これは、一神教の信者にとっては、不都合であるに違いない。そればかりではない。私の説に従えば、アフリカでジャンベのリズムに合わせて踊っている黒人と、欧米でネクタイを締めている白人が、本質的には何も変わらないという結論に至る。むしろ、植民地政策を推進し、奴隷制を支持してきた白人の方が、余程、野蛮だという結論になりかねない。

 

実際、ヨーロッパにおいては魔女狩り錬金術などに関わる歴史があるにも関わらず、これらは覆い隠される傾向にあったという説がある。事情は、日本国内でも変わらない。現在、シャーマンとか呪術師と呼ばれる人は、東北のイタコと沖縄のユタ位しか存在しないが、18世紀までは、日本本土の各地にも存在したという説がある。何故、彼らは日本本土から消えたのか。仏教徒が駆逐したに違いないのだ。

 

キリスト教徒は、激しいリズムやトランスを抑圧し、法律によって麻薬の使用を禁じてきた。しかし、そうして出来上がった現代文明は袋小路に入り込んでしまった訳で、現代において、原始領域を見直そうと考える人々は少なくない。先進諸国において、マリファナ解禁の動きが出ているのもそうだし、スピリチュアルと呼ばれる新しい世界観を構築しようとする試みも、事情は同じだろう。

 

ところで人間は、記号を通じてしか、対象を認識できないという原理がある。

 

人間 - 記号 - 対象

 

この原理に照らして考えると、「祭祀」は人間が認識しようとしていた現実世界を記号化したものではないか、という考えが浮かぶ。そこには動物がいて、人間がいて、物語がある。祭祀とは、人間が作り出した現実世界のミニチュアなのではないか。

 

人間 - 祭祀 - 現実世界

 

但し、祭祀が生まれる以前にも人間の歴史がある訳で、一体、どこから先を文化と呼ぶべきかという問題もある。文化と呼ぶには、ある程度、繰り返されるものであって、様式を伴うものである必要があるだろう。してみると文化の起源は、やはり祭祀にあると言って良いと思う。

 

では、因果関係を軸にした私の歴史観を以下に記してみよう。但し、これは相当程度、私の想像力に依拠している。そんなものに興味はない、という人もいると思うので、私がこのブログを始める直前に作成した「人類年表」と題した文書を末尾に添付することにしよう。こちらは、文献に基づいて作成している。

 

なお、黒呪術についてだが、例えばアフリカのブードゥー教は、黒人奴隷が作ったという説がある。権力に虐げられた人々が現実世界において復讐することは、叶わなかったに違いない。そこで黒呪術(黒魔術)が生まれたと考えるのが良いと思う。これは、アメリカの黒人奴隷がブルースを作ったのと同じ原理だ。

 

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私の歴史観

 

・森林にサルが住んでいた。

・気候変動によって、樹木が消失した。

・サルは大地に降り立った。

・サルは、両手の機能を確保するため、立ち上がり、2足歩行を始める。

・立ったことによって、気道が拡張し、様々な音声を発することが可能となる。

・動物の鳴き声を真似ているうちに、言葉が生まれる。

・動物の動作を真似て、踊りが生まれる。

・踊りからリズムが生まれる。

・リズムに合わせて踊り続けることによって、人間はトランスを経験する。

・トランスによって、人間は動物の世界へ接近することができると考える。

・人間と動物が織りなす世界を演じることによって、「祭祀」が生まれる。

・祭祀によって病気の治療が可能であると考え、「呪術」が生まれる。

・物を見ていた男たちが、表意文字象形文字)を生み出す。

・歌っていた女たちが、表音文字を生み出す。

・口頭伝承されていた「神話」が、文字によって表記されるようになる。

・神話が様々な概念と権力を生み出す。

・動的な要素を求めた人間は、「個人崇拝」を始める。

・権力に虐げられた人々が、「黒呪術」を生み出す。

 

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2016年6月22日

 

人類年表

 

・138億年前: ビッグバンによって、宇宙が誕生する。(Wikipedia

・46億年前: 地球ができる。(文献1)

・38億年前: DNAを持つ簡単な生物が誕生(文献1)

・700万年前: 人類はチンパンジーとの共通の祖先から別れ、進化してきた。初期猿人の時代。(文献2)

・400万年前: 猿人は森林から草原へ。2足歩行が可能になる。猿人の時代。(文献2)

・200万年前:アフリカで原人が誕生。脳が拡大し、知能が発達。本格的に道具を作成し、狩りを行うようになる。原人の時代。(文献2)

・180万年前: ホモ属の奥歯小さくなる。よって、この頃から、火を使い始めたものと考えられる。(文献1)

・60万年前: 中・大型動物の狩猟が発達。旧人の時代。(文献2)

・数十万年前: ネアンデルタール人旧人)が、生まれる。西アジアとヨーロッパに棲息。(文献2)

・20万年前: アフリカでホモ・サピエンスが誕生。新人の時代。(文献2)

・9万5千年前:埋葬が始まる。イスラエルのカフゼー洞窟で、30体の人骨が発見される。(文献3)

・7万年前(遅くとも): 抽象的な思考や文法を持つ言語が発生。(文献3)

・7万年~6万年前: 出アフリカ。(文献2)

・4万年前: ホモ・サピエンスが、ヨーロッパへ移住。(文献2)

・3万年前: ネアンデルタール人が、滅びる。

・1万5千年前: フランス、ラスコー洞窟において、壁画が描かれる。(Wikipedia

・1万年前: 農耕と牧畜を開始。(文献2)

・4万年~3万年前: 縄文人が日本列島に渡来。

・1万5千年前: 縄文文化発生。(文献2)

・6千400年前: メソポタミア文明エジプト文明において文字が発明される。(文献3)

・2千300年前: 弥生人が日本列島に渡来。(文献2)

 

・50億年後: 太陽が燃え尽きる。(文献1)

 

(参考文献)

文献1: 私たちはどこから来て、どこへ行くのか/森達也筑摩書房/2015年

文献2: 面白くて眠れなくなる人類進化/左巻健男PHPエディターズ・グループ/2016年

文献3: 人類はどこから来て、どこへ行くのか/エドワード・O・ウィルソン/科学同人/2013年

 

領域論(その5) 原始領域 / 内向する知

 

「真善美」という言葉があるが、思想が、私が、いや、もしかしたら私たちが目指しているのは、そういうことなのだろうか。真、善、美。これらの言葉はとても崇高で、気高く、毅然とした何かを表わしている。しかしそれらは、何処か遠い所にあるような気がしてならない。

 

私たちが目指しているもの。それはもっと身近な、ある「強さ」のようなものではないのか?

 

仏教用語に「四苦八苦」というのがある。そのうちの四苦とは、生老病死を意味している。生きる苦しみ、老いる苦しみ、病む苦しみ、そして死ぬ苦しみ。そういうものから、人は逃れることができない。例えば、病気になる。現代社会においてはその原因を探究し、薬や外科手術や、最近では患部にレーザー光線を浴びせることによって、病に対抗しようとする。但し、現代医学をもってしても、老いと死に立ち向かうことはできない。ましてや、生きることの苦しみということを考えると、現代のあらゆる知性を総動員しても、これを解決することは出来ていない。

 

生老病死。これらの宿命とも言える課題を、それらに立ち向かうのではなく、自らの心身の内部において解決しようという試みを、人間の歴史の中に見て取ることができる。

 

比叡山延暦寺などで1200年に渡って行われてきた千日回峰行。これはひたすら山中を歩く修行である。本を読んだり、何かのレクチャーを受けたりという現代のアカデミズムが採用している方法とは、根本的に異なる。ひたすら自己と向き合う。内向するのである。そして、自らの身体を死に近づける。死への近接を経験することによって、死に対する恐怖を克服しようとする試みなのではないか。生老病死における最大の恐怖、それは死であって、それを恐れない強い心身を作る。それが、この修行の目的なのではないか。

 

もし、仏教上の悟りというものがあるとすれば、それは生老病死をも恐れない強い心身を持つこと、そのような心境に至ることを意味しているのではないか。だとすれば、元来、言葉によって思考することを旨としていない修行者に対し、それを言葉で説明せよというのは、少し、酷かも知れない。

 

このように内向するという「知」の形は、一見、東洋的だと思われるが、実は、古代ローマの哲学者、セネカ(紀元前1世紀頃)も、似たようなことを考えていたのである。フーコーの著作、「自己への配慮」から抜粋してみよう。

 

- 毎月「架空の貧困生活」についてささやかな実習を行うべきであり、その実習期間中は、三日もしくは四日間、「極度の窮乏状態に」自発的に身を置いて、粗末なベッドと粗悪な衣服と一番ひどいパンを経験する。(中略)ある期間、わが身を不自由の状態に置くのは、将来、手の込んだ上等のものをいっそうよく楽しもうとするためではなくて、最悪の不幸に直面しても必要不可欠なものに事欠くことがなく、時たま耐え忍ぶ力を発揮できた事柄を今度はつねに我慢できる点を確信するためである。(P. 80)-

 

- 「貧しいことがどんなに苦しくないことであるかが分かるなら、豊かな者は、いっそう自分の心が安んじるのを感じるであろう」。(P. 81)-

 

富める者は、自分が貧困状態に陥ることを恐れている。しかし、貧困に陥った状態を予め経験しておけば、それに対する心理的な耐性が生まれ、穏やかな気持ちで暮らすことができる。すなわち、恐れる貧困にあえて近づくことで、より強い自己を確立できるだろう、という訳だ。これなども、「内向する知」の一種だと言えよう。

 

フーコーは「快楽の活用」の中で、哲学と「強さ」の関係について言及している。

 

- 哲学が明らかにできるものというと、実際それは人が「自分より強いもの」になることであり、人がそうなってしまうと今度はさらに哲学は、他の者よりまさる可能性を与えてくれる。(P. 268)-

 

思想によって、より強い自己を確立する。思想とか修行というのは、そのようなものではないか。私は宗教に対して批判的な立場を採ってきたが、少し、変化が生じたことになる。但し、「内向する知」においては、他者が登場しない。自分が理解できない、理解することが困難な他者が登場しないので、自ずとその「知」には限界がある。例えば今、話題の「男女平等」とか、そのような概念に到達することはない。

 

領域論(その4) 原始領域 / 祭祀、呪術、神話、そして個人崇拝

 

誠に恐縮ながら、少し、修正させていただきます。

 

この原始領域を説明するには、冒頭に記した通り、祭祀、呪術、神話、個人崇拝の4段階に分けて考えるのが良いのではないか。過去の原稿との重複を避けながら、説明させていただきたい。

 

祭祀の構成要素としては、リズムがあり、動物信仰があり、人間のトランス状態ということがある。特にアフリカで打楽器が叩き出すとても速く、強烈なリズムに合わせて激しく踊っている人々を見ていると、これはもうそれだけで行為が完結しているように思える。すなわち、トランス状態を目指して、踊る。それ以外の目的はないように思える。

 

対して人間がトランス状態に入ること自体ではなく、他に目的を持っている行為類型がある。その目的とは、医療であり、悪霊払いであり、鎮魂などを措定することができる。

 

具体的なイメージを持っていただくために、少し古い文献から引いてみよう。(シャーマニズムの世界/桜井徳太郎 編/春秋社)

 

・太鼓、鈴、笛などの楽器が用意される。

・特殊な服装を身にまとったシャーマンが登場する。

・呪文などが唱えられ、音楽が演奏される。

・シャーマンは身体的変調を示す。

・シャーマンは動物的挙動を示したり、動物の鳴き声や精霊の音声を発したりする。

・シャーマンの錯乱状態が高まる。

・シャーマンは錯乱の極致に達し、失神状態に陥る。その際、特殊な言明や表明を行う。これが託宣(オラクル)と呼ばれるものだ。

・シャーマンはしばらく眠りにつき、その後、普通の人間に立ち返る。

 

上の事例において、シャーマンはトランス状態に入り、かつ、何らかの目的を持っていることが分かる。その目的は、託宣によって達成される。また、この事例において登場するシャーマンは、言わばプロフェッショナルなのであり、必要な時に意図的に自らをトランス状態へ誘導する技術を確立していると言えよう。

 

参考までにトランス状態に入っている人物の映像を紹介しよう。

 

トランス状態 45秒

アジアのシャーマン - YouTube

 

やがて、トランス状態に入ることなく、何らかの目的を達成しようとする行為類型が登場する。段階を経て、祭祀は呪術へと移行するのだ。そのステップを検討する際のチェックポイントは、トランスと行為の目的である。

 

ステップ1: トランス状態に入ること自体を目的とする。

ステップ2: トランス状態に入るが、他の目的も存在する。

ステップ3: トランス状態に入らず、他の目的を達成する。

 

目的を重視した場合は、ステップ1と2の間に線を引くことができる。反対にトランス状態を重視した場合、ステップ2と3の間に線を引くことになる。そこは考え方次第だが、ここでは、トランス状態を重視する立場を採ることにしよう。例えば、恐山のイタコとか沖縄のユタの場合、彼女たちはトランス状態には入らない。すなわち、ステップ3になるので、その行為類型は呪術であることになる。(古くはイタコもトランス状態に入っていたが、暫く前からそれを止めているらしい。)

 

ステップ1・・・祭祀・・・アフリカの事例など

ステップ2・・・祭祀・・・文献から引用した事例

ステップ3・・・呪術・・・イタコ、ユタなど

 

前回の原稿で、呪術の本質は「超越的因果関係」にあると述べた。例えば、お百度参りをすると願いが叶うなど。これはとてもシンプルな発想であることが分かる。そして、祭祀と呪術であれば、それは文字がなくても成立し得る点に注目すべきだろう。

 

次に、因果関係に注目する文化形態として、「神話」を挙げることができる。これも口頭によって伝承されたものはシンプルだが、文字によって書かれたものは、高度に複雑性を帯びて来る。また、書かれた神話においては、抽象的な概念が登場する。例えばギリシャ神話には愛と美と多産の女神であるアフロディテが登場する。愛とか美というのは、概念である。そして、神も。つまり、因果関係のみに着目する呪術に対し、そこに抽象概念を加えた神話が登場するのだ。こう言っても良いだろう。すなわち、文字が概念を生んだのだと。

 

呪術・・・因果関係

神話・・・因果関係 + 概念

 

そして、神話が権力の基盤を形成するようになる。ある国に王がいる。大衆は何故、彼が王なのか、疑問を抱く。すると王は誰かに依頼して、神話を作成させる。その神話に出てくる神の子孫が、自分だと主張する。このパターンは、西洋にも存在したし、日本の古事記や日本書記にも同じことが言えるのではないか。

 

ただ、神話というのは天上の物語なので、一般庶民からしてみれば、それは遠い所に存在する抽象的な話だ。もっと身近なところに、具体的な心の拠り所を求める。それは自然なことではないか。また、神話は1つの権力を創造しはするものの、発展性はない。換言すれば神話というのは静的であって、社会はもっと動的な何かを求めたのではないか。

 

そこで、個人崇拝という新たな宗教形態が登場したと考えるのはどうだろう。キリスト教を例に考えれば、まず、神話としての旧約聖書がある。そして次に、イエス・キリストをモチーフとした新約聖書が誕生したのではないか。

 

仏教はどうだろう。まず、古代のインドにバラモン教があった。これが後にヒンドゥー教へと変わる。そこら辺の事情は定かではないので、ここではヒンドゥー教に表記を統一しよう。ヒンドゥー教においては、動物の神が存在する。象の神様は、ガネーシャと言う。現在でもインドの人々がトランス状態に陥っている様子は、YouTubeで確認できる。すなわち、ヒンドゥー教も、動物信仰、シャーマニズムなどによって構成される「祭祀」から出発したに違いない。加えて、インドにおいても無数の呪術が存在するのは明らかだ。ネットで「インド・呪術」と検索すれば沢山の記事がヒットする。

 

ヒンドゥー教においても、無数の経典が存在する。それらの経典に何が書かれているのか私は知らないが、多くの神話を含むであろうことは想像に難くない。そして現実問題として、インドにはヒンドゥー教をベースとした階級制度、すなわちカースト制が存在する。カースト制の起源については、概ね、こういう事情があったらしい。インド地方には、先住民と新たな侵略民族が住んでいた。そしてある時、疫病が流行る。先住民は免疫を持っていたが、侵略民族は、それを持っていなかった。そこで、隔離政策が取られる。

 

ここから先は私の想像だが、単なる隔離政策であれば、そこは平等な、水平の区分であるはずだ。しかし、実際のカースト制はタテの、支配・被支配の関係である。それを支配される側の人々に納得させるため、神話が利用されたのではないだろうか。神話は後付けで、いくらでも書くことができる。そして、この神話において、輪廻転生という概念が用いられる。すなわち、人間は何度も生まれ変わるのであって、前世、今世、来世がある。前世の行いが悪かった者は、それが原因で低いカーストに位置づけられているのだ。そして、今世の行いが良ければ、来世においてはより高いカーストに位置づけられる。

 

やがて、ブッダ(釈迦)が登場する。ブッダカースト制には反対したが、輪廻転生という考え方は踏襲した。ブッダの教えは中国へ渡り、日本に渡来する。ブッダの発言を記したものが仏教の経典である。ブッダ自身は厳しい修行を積んだが、晩年、それを否定した。しかし、日本において、その修行が復活するのである。有名な所では、比叡山延暦寺において行われている千日回峰行ではないか。これは比叡山の峰々を千日に渡って歩き回り、8日程度、飲まず、食わず、横にもならないという厳しい修行のことだ。これは命がけで行われるが、それを達成した者には大阿闍梨という僧侶としては最高峰の役位が与えられる。

 

何が言いたいかと言えば、ヒンドゥー教の長い歴史においても、大きな流れとしては、祭祀(動物信仰)から始まり、呪術があり、神話が生まれ、ブッダに対する個人崇拝があり、崇拝の対象となる大阿闍梨(個人)を繰り返し生み出す「修行」というプロセスがあるということなのだ。

 

領域論(その3) 原始領域 / 呪術

 

呪術の本質は「物に願いを込めること」だと、かつて私は、このブログに書いたことがある。しかし、いくつかの事例に照らし合わせて考えてみて、そうではないことに気づいた。お詫びして訂正いたします。

 

呪術の本質は、「超越的因果関係論」にあるのではないか。

 

例えば、夜空に輝く星座の動きと、人間の運命の間に何らかの因果関係がある。そう考えて生まれたのが占星術だ。生まれた月日によって、星座が決まる。あなたはさそり座だとか、牡羊座だ、という具合に。そして、その星座によって運命判断がなされる。星座の動きと人間の運命。両者の間に因果関係など、存在するはずがない。この存在するはずのない因果関係をあえて認定する。存在するはずがないので、それは「超越的」と言う他はない。それが呪術の本質ではないか。

 

言うまでもなく、星座の動きも人間の運命も「物」ではない。私が旧説を訂正する理由がここにある。

 

北米の先住民であるプエブロ・インディアンは、自分たちが祈るから、東の空から太陽が登ってくると考えていた。従って、自分たちが祈るのを止めると、太陽がやって来なくなり、この世は闇となる。祈るという行為と、太陽の動き。

 

ナバホ・インディアンは、夜中にテントの中で様々な色の砂を用いて絵を描いた。そして、夜が明ける前にそれをかき消す。そうすることによって、病気が治ると考えていた。砂絵と、病気の治癒。

 

日本人は、成田山でお守りを買うと交通安全に役立つと思っている。勝負師はゲンをかつぐし、数字の7はラッキーで、13は不吉だとされる。その他にも手相、顔相、血液型による恋占いまである。

 

きりがないのでこれ位にしておくが、いずれの場合も合理的な因果関係というものは、存在しない。しかし、この「超越的因果関係論」を唱える者は、呪術師、妖術師、占い師などと呼ばれ、その数は決して少なくない。

 

この呪術と呼ばれる1つの認識方法は、何故、生まれたのだろう? その主な理由の1つには、やはり病気を治すということがあったのではないか。

 

次に、先の原稿で述べた祭祀と呪術との関係を考えてみよう。祭祀の場合は、動物信仰が基底にあり、トランス状態に陥ることが必須条件だった。他方、呪術の場合、その双方は存在しない。また、祭祀の場合は部族、民俗の結束を高め、その幸福を願うのが目的だったように思う。そこに、「個人」は登場しない。他方、呪術の場合はあくまでも個人的な願望なり、利益を目標としている。すなわち、呪術の段階においては、自我の芽生えを認めることができるのだ。従って、原則的には、祭祀よりも呪術の方が後に発生したものだろうと思う。

 

ところで、呪術には白呪術と黒呪術とがある。誰かの幸運を願うのが白呪術で、反対に誰かの不幸を願うのが黒呪術である。魔術にも白と黒とがあって、事情は同じだ。では、白と黒のどちらが先かという問題があるが、私は、白呪術の方が先だと思う。

 

祭祀の段階では、まだ、権力というものが存在していない。私有財産という概念も未発達で、原始共産制が採用されていた。そして、祭祀と白呪術とは類似する例がある。例えば、病気の治療を目的とした行為をトランス状態に入って行うなど。

 

やがて、社会に権力が生まれるが、それは次の原稿で述べる予定の「修行型」においてだと思う。権力が生まれて、人々は思うように願望を叶えることができなくなった。復讐することができなくなったのだ。そこで、反権力としての黒呪術や黒魔術が生まれたのではないか。

 

祭祀型 → 白呪術 → 修行型 → 黒呪術

 

そのような順序で考えるのが、合理的だと思う。

 

超越的因果関係論というのは、まったくもって奇妙な認識方法である。ただ、無数にある野草と病気の治癒ということを結び付けて考えた人がいて、それが後に漢方薬という体系を生んだ可能性があるし、更には、西洋において錬金術が生まれ、それが科学のベースとなったという説もある。あてずっぽうに試してみる、仮説を立ててみる。そういう認識方法があって、今日の私たちの社会があるのだ。