文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

領域論(その7) 原始領域 / タイプーサム(Thaipusam)

 

ヒンドゥー教の聖地の1つが、マレーシアの首都、クアラルンプールの近くにある。バツーと呼ばれる巨大な洞窟がそれだ。その場所で年に1回、ヒンドゥー教の祭典が盛大に開催される。ネットで調べた断片的な情報をつなぎ合わせると、その概略は、概ね次のようなものとなる。

 

祭の日、信者たちは家族連れでバツー洞窟へやって来る。入口付近で、身を清めるために頭髪を剃る人がいる。中でも信仰心の強い人は、シャーマン(祈祷師)を訪ねる。家族の代表者である男は、そこでシャーマンの力を借りて、トランス状態に入る。その後、シャーマンは信者の身体に「鋼の矢」を突き刺す。信者の男は、痛みを感じないし、出血することもない。身体に無数の「鋼の矢」を突き刺した男は、大きな伽藍を背負ったまま、2百数十段の階段を上り、洞窟の内部を目指す。洞窟から戻った信者は、再びシャーマンの元を訪れ、「鋼の矢」を抜いてもらう。シャーマンにトランス状態を解いてもらい、日常生活に戻っていく。

 

探してみると、YouTubeにその詳細に渡る画像があった。身体に「鋼の矢」を刺すシーンなどが含まれています。心臓の弱い方は、閲覧しないでください。

 

マレーシア バツ―洞窟 タイプーサム Festival 14分

MUST SEE EXTREME HINDU FESTIVAL [ Thaipusam ] in Kuala Lumpur, MALAYSIA - YouTube

 

タイプーサムは、世界の先進都市、シンガポールでも行われている。新しいものと古いものが、同居しているのだ。

 

シンガポール タイプーサム 2014 14分

Singapore Thaipusam 2014 - YouTube

 

これらの画像においては、信者たちが太い葉巻のようなものを口にするところが繰り返し撮影されている。それらは多分、何らかの麻薬なのだと思う。麻薬の力を借りて、信者たちはトランス状態に入っているに違いない。

 

それにしても、信者たちは何故、かくも過酷な自傷行為を行うのだろう。1つには、自分と家族たちの幸福を願っているに違いない。2つ目としては、自傷行為を行ってみせることによって、自らの勇気や信仰心の強さを証明しているのだと思う。そして3つ目としては、ヒンドゥー教の強さを誇示することによって、民族や信者の結束を呼び掛けているのではないか。

 

次に、これらの映像に映し出された人々の姿を見て、そこにカオスを見るのか、それとも秩序を認めるかという問題があろう。

 

もちろん私は、そのような自傷行為を行いたいとは思わないし、信者の方々だって、止めた方がいいと思う。それはとても痛そうだし、傷口からバイキンが入って破傷風にならないか心配だ。また、歩いているうちにトランスが解けて、急に痛み出すことだってあるのではないか。余計なお世話に違いないが、私は、そう感じるし、それはあなたも同じではないだろうか。

 

しかし、タイプーサムは永く続いてきた祭典であろうし、ヒンドゥー教徒の人々にしてみれば、それは自らが信仰する世界観に、自分の身を処して参加する行為であるに違いないのだ。私には理解できない様々なルールや伝統が、タイプーサムを支えているはずだ。あれだけ膨大な人々が、莫大なエネルギーを投入しているにも関わらず、そこで暴動が起こる訳ではない。人々は整然と、洞窟へと向かう階段を上っている。すなわち、そこに私たちはカオスではなく、秩序を見るべきなのだと思う。

 

つまり、文化が生まれる以前の状態。それこそがカオスだったのだ。そして人間は、トランスという1つの狂気から出発して、祭祀を構成し、秩序を得るに至った。タイプーサムは、そのプロセスを今日に伝えているに違いない。

 

原始領域において人々は、「何が正しいか」ということなど、考えていなかったのだろう。ただひたすらに想像力を駆使して、世界観を構築したのだ。それは間違っていたが、それでも人々は安らぎ、来世を信じて今世を生き、団結し、自然災害や疫病などの危機を乗り越えてきたのではないか。

 

どうやら、1つの結論めいたものに辿り着いたような気がする。今回の原稿をもって、原始領域に関する記事は、終わることとしよう。進捗を確認するためには、キーワードを用いて、適宜、次のように記すのが分かりやすいように思う。

 

領域論/主体が巡る7つの領域

原始領域・・・祭祀、呪術、神話、個人崇拝

生存領域・・・

認識領域・・・

記号領域・・・

秩序領域・・・

喪失領域・・・

自己領域・・・

 

以上