文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

領域論(その19) 領域と政治

 

それぞれの領域を古いものから新しいものへ、並べ変えることはできないだろうか。そこで、次のように考えてみた。

 

喪失領域・・・かつて人間は、境界線のないカオスの中で生きていた。

生存領域・・・やがて人間は家を作り、人間らしい生活を始める。

原始領域・・・衝動を昇華し危機を克服するために祭祀を始め、それは宗教に至る。

秩序領域・・・人間は監獄、学校、会社、軍隊などを作り、戦争を始める。

認識領域・・・戦争への反省から、平和主義が誕生する。

記号領域・・・先進国同士の戦争はなくなり、人間は科学と経済に専念する。

 

この順序の方が、分かりやすくないだろうか? 誠に恐縮ながら、例の一覧の記載順も、上の通りに変更致します。但し、記載内容に変更はありません。

 

<主体が巡る7つの領域>

喪失領域・・・境界線の喪失、カオス、犯罪、自殺、認識の喪失

生存領域・・・自然、生活、伝統、娯楽、共同体、パロール

原始領域・・・祭祀、呪術、神話、個人崇拝、動物

秩序領域・・・監獄、学校、会社、監視、システム、階級

認識領域・・・哲学、憲法、論理、説明責任、エクリチュール

記号領域・・・自然科学、経済、ブランド、キャラクター、数字

 

自己領域・・・無意識、知識、経験、記憶、コンプレックス、夢、狂気

(主 体)・・・意識、欲望、恐怖、想像力、意志、身体、言葉

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

ふと思ったのだが、トランスを目指す祭祀には、人間が根源的に持っている狂気や衝動を発散させる、昇華させる目的があったのではないだろうか。部族内の秩序を保つ。そのための知恵が、祭祀を支えていたのかも知れない。

 

さて、上のように歴史的時間軸に沿って各領域を並べ変えてみると、新しい発見がある。人類には長い歴史があり、その最先端に立つ現代という時代は、とても複雑であるということ。また、今日の日本に暮らす多くの人々が立脚する領域は「記号領域」なのであって、それには歴史的な理由がある。わずか30年で世の中は一変したのだ!

 

さて、今回の原稿では、領域論の立場から、現在の日本における政治状況について、考えてみることにする。まず、政治権力の変遷について。

 

政治的な権力の起源は、「原始領域」にあった。邪馬台国で権力を持っていたのは、女性シャーマンの卑弥呼だった。そして、聖徳太子の時代になると、武力を背景として持つ豪族が登場した。その後、永い時間を掛けて権力は緩やかに組織や軍隊へと、つまり「秩序領域」へと移行したに違いない。現在は更に、「記号領域」へと移行しつつあるのだと思う。

 

原始領域 → 秩序領域 → 記号領域

 

「記号領域」と権力と言うと、ちょっとイメージしづらいかも知れない。しかし、原発がその象徴だと考えてみてはどうだろう。科学の力で、原発を造る。それは電力会社に多大な、経済的な利益をもたらす。そして原発は、巨大な利権構造を作っている。科学と経済と権力。これが現代社会における最新の権力構造なのではないか。

 

現在の日本においては、最早、戦時中のように召集令状を発行して、若者を戦場に駆り立てるようなことはできないだろう。しかし、見えにくくなりはしたが、権力は確実に存在する。

 

様々な見方があるだろうが、ここでは税金を起点に権力構造を考えてみよう。

 

政府は国民から、高額の税金を徴収している。そしてそれは、財務省の管轄となる。財務省はこれを予算として、各省庁に分配する。ここに財務省の権力が発生する。各省庁は、これを特定の産業や地方、個別の施策などに割り振る。この段階で政治が介入し、利権が生じる。地方の政治家や企業は、その分配にあずかろうと手を尽くす。補助金を有難いと思わせるためには、地方や国民を貧しくさせておく必要がある。すなわち、現在の権力にとって国民は、貧しく、政治のことなど考える暇がないほどに忙しく、そして税金を支払ってくれる存在である必要があるのだ。

 

政府と官僚組織、司法や検察、そしてマスコミまでもが共犯関係にあるに違いない。加えて、記号領域のメンタリティは、広告代理店が仕掛けるイメージ戦略に弱い。この点を理解しない限り、政権交代などあり得ないと思う。

 

従来の右翼という立場を「秩序領域」に、そして左翼を「認識領域」に当てはめてみると分かりやすいと思う。左翼がいくら正しいことを主張し、一生懸命「秩序領域」と戦ったとしても、そこに権力の中枢はないのである。

 

認識領域・・・左翼、立憲民主党

秩序領域・・・右翼、宗教団体など

記号領域・・・権力の中枢。自民党経団連など。

 

では、「記号領域」に対抗できる領域はどこなのか。それは、「生存領域」ではないか。「生存領域」が政治に対抗した例としては、百姓一揆を挙げることができる。イデオロギーではない。もうこれでは食えないという切実な現状があって、そこから立ち上がるのが「生存領域」の抵抗なのである。

 

この「生存領域」に立脚する政治勢力はと言うと、まず、「国民の生活が第一」をモットーとする小沢一郎を挙げることができる。れいわ新選組を立ち上げた山本太郎もこの立場だ。立憲民主の中にも、4割程度はこの立場を支持するメンバーがいるらしい。この勢力が拡大すれば、もしかすると政権交代が起こる可能性が出てくるのではないか。彼らには、論理的なバックグラウンドとしてのMMT(Modern Monetary Theory)があるのだから。

 

領域論(その18) 領域と芸術

 

<主体が巡る7つの領域>

原始領域・・・祭祀、呪術、神話、個人崇拝、動物

生存領域・・・自然、生活、伝統、娯楽、共同体、パロール

認識領域・・・哲学、憲法、論理、説明責任、エクリチュール

記号領域・・・自然科学、経済、ブランド、キャラクター、数字

秩序領域・・・監獄、学校、会社、監視、システム、階級

喪失領域・・・境界線の喪失、カオス、犯罪、自殺、認識の喪失

自己領域・・・無意識、知識、経験、記憶、コンプレックス、夢、狂気

(主 体)・・・意識、欲望、恐怖、想像力、意志、身体、言葉

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

人間の世界には7つの領域があり、そして、各領域を代理するように、それらを分かりやすい形で示す芸術があるのだ。別の言い方をすると、7つの実体的な領域があって、それらを表象する、代理する、記号としての芸術作品がある。従って、私たちは芸術作品を通じて、人間世界に存在する7つの領域を認識することができるに違いない。

 

既に領域と文学、領域と音楽の関係については述べた。残るは美術ということになる。美術の世界は主に、2次元の絵画と、彫刻やブロンズなど3次元の分野に分かれる。但し、この3次元の世界に存在する「物」ということを考えると、その起源は祭祀に使う道具としての祭具にまで遡ることになろう。私は、楽器も祭祀に使用するために作成されたのではないかと思っており、この話を始めると祭祀から呪術、そして大量生産による「商品」までを記述する必要が生じる。よって、ここでは美術とは言わず、絵画に限定して、また、過去の原稿との重複を避けながら、まず、領域と絵画の関係について述べてみたい。

 

ゴッホから始めよう。ゴッホが描いたのは、向日葵、麦畑などの自然である。加えてゴッホは、身の回りにいる市井の人々の肖像も描いた。郵便配達夫や、ガシェ医師など。従って、ゴッホはその軸足を「生存領域」に置いていたと言える。加えてゴッホは、自画像も描いている。自ら耳を切り落とした後で、包帯でぐるぐる巻きになった自画像が有名だろうか。ゴッホは、自分の中に潜む狂気とも戦っていたのである。これは「自己領域」に該当する。

 

ゴッホと同棲生活を送っていたゴーギャンは、「想像力で描け」とゴッホに助言した。実際、ゴッホはそう試みたが、うまくはいかなかった。このゴーギャンの助言は、何を意味していたのか。それは、その後、ゴーギャンが描いた作品を見れば分かる。ゴーギャンの作品には、野生動物や呪術師、死霊などが登場する。すなわち、ゴーギャンは想像力を駆使して「原始領域」を描いたのである。このように考えると、2人の画家の相違は明白だ。

 

では、本稿において未だ説明していない、領域と絵画の関係について見てみよう。

 

認識領域・・・日本人画家の中には、広島の原爆や沖縄戦の惨状を描く画家がいる。世界的には、ピカソゲルニカが有名だろう。これは、反戦のシンボルだと言われている。

 

記号領域・・・マリリン・モンローの肖像や、トマトスープの缶詰を描いたアンディー・ウォーホルがいる。これらは、ポップアートと呼ばれている。面白い作品を描くので、当時、メディアや評論家はこぞってウォーホルにインタビューを申し入れたそうだ。斬新な芸術論を期待してのことだろう。しかし、ウォーホルからそのような話を聞くことはできなかった。多分、ウォーホルに思想などなかったに違いない。空っぽなのである。

 

秩序領域・・・記録として、若しくは英雄などを賛美する目的で描かれた戦争画がある。また、権力者の肖像画なども少なくない。

 

では、領域と絵画の関係を一覧にまとめてみよう。

 

原始領域・・・ゴーギャン

生存領域・・・ゴッホ

認識領域・・・ゲルニカ反戦のシンボル)

記号領域・・・ポップアート、アンディー・ウォーホル

秩序領域・・・戦争画、権力者の肖像

喪失領域・・・ジャクソン・ポロック

自己領域・・・自画像

 

ここまで考えると、宗教と芸術の差異について説明することができる。

 

まず祭祀があって、その様式化が進む。そして、神話と結びついたのが宗教である。それは文字によって書かれているが故に、変化することを許さない。宗教においては、その人的な集団を維持し、活性化させるために、新たな刺激を求めた。そこで、個人崇拝へと向かったのだ。神とは抽象的な概念で、大衆が認識するには遠い存在である。釈迦にも同じことが言える。もっと身近な、実在する人間を信仰の対象とする必要が生じたに違いない。すると、ここに序列が生まれる。キリスト教で言えば、神が上で、その下にイエスが位置づけられる。仏教で言えば、釈迦が最上位にいて、その下に親鸞とか最澄などの宗祖が位置づけられることになる。やがて宗教教団においては、階級が細分化されてゆく。階級は、権力を生む。このように考えると、宗教は今日においても原始領域に留まり続けているが、それは人類がやがて秩序領域を生み出す、その必然性を内包していたに違いない。

 

芸術は、宗教と同じように祭祀を起源とする。しかし、芸術は宗教とは別の道を歩んだ。芸術は宗教より、もっと人間の根源的な所に留まり続けたのだ。つまり、もっと感動的な話はないか、もっと心を癒してくれる音楽はないか、もっと魅力的な絵は描けないか。そのような人間の欲望や、悲しみや、希望に寄り添い続けてきたのが芸術なのである。確かに、戦時中の軍歌のように、芸術も権力に屈することはあった。しかし、芸術家の側から権力を欲したことは、多分、ない。すなわち、芸術は権力者のものではなく、それは大衆の中から湧き上がってくるものなのだ。

 

領域論(その17) 領域と音楽

 

<主体が巡る7つの領域>

 原始領域・・・祭祀、呪術、神話、個人崇拝、動物

生存領域・・・自然、生活、伝統、娯楽、共同体、パロール

認識領域・・・哲学、憲法、論理、説明責任、エクリチュール

記号領域・・・自然科学、経済、ブランド、キャラクター、数字

秩序領域・・・監獄、学校、会社、監視、システム、階級

喪失領域・・・境界線の喪失、カオス、犯罪、自殺、認識の喪失

自己領域・・・無意識、知識、経験、記憶、コンプレックス、夢、狂気

(主 体)・・・意識、欲望、恐怖、想像力、意志、身体、言葉

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

音楽の起源は、リズムにある。そしてリズムの起源は、人間の心臓の鼓動にあるのではないか。グズっている赤ん坊を若い母親が優しく揺らすと、赤ん坊は泣き止むのである。赤ん坊は、胎内で感じていた鼓動を感じて、安心するのだろう。本質的に、リズムは人に共感させる力を持っているに違いない。

 

やがて祭祀が生まれ、人々はリズムに合わせて踊り始める。リズムに合わせて、動物の鳴き声を真似て声を出してみる。若しくは、リズムに合わせて何かを話してみる。そして、歌が生まれる。歌の歌詞は、それだけを取り出すと「詩」になる。

 

歴史的な時間軸で考えると、コード(和音)が生まれたのは、最近のことであるに違いない。コード進行の基本は、スリー・コードと呼ばれるもので、西洋音楽やブルースはこの原理に従っている。コードは沢山あるだろうと思われるかも知れないが、基本はこの3つで、それらに音を加えたり、代理させたりすることによって、様々なコードとその進行スタイルが生まれているに過ぎない。

 

簡単な例で言うと、スリー・コードとは、ドミソ、ドファラ、シレソのことである。この中にいくつの音が含まれているかと言うと、ドレミファソラシの7つである。つまり、最低限7つの音を同時に出すことができなければ、スリー・コードは成立しない。

 

しかしながら、例えばアイヌの楽器、トンコリには5本の弦しかなく、しかも、ギターとは違って、フレットというものがない。つまり、トンコリを用いて同時に出せる音の数は、5つである。

 

これでは、前述のスリー・コードを奏でることはできない。

 

どうするのだろう。そう思って、アイヌユーカラや、安東ウメ子氏の歌を聞いてみると、使用されるコードは1つ、または2つなのである。そんなことを考えながらアイヌの音楽を聴くと、感慨もひとしおである。

 

さて、文学と同じように7つの領域は、それぞれ独自の音楽を持っている。では、順に見ていこう。

 

原始領域・・・強烈なリズムとそれを叩き出す打楽器なくして、祭祀は成立しない。これに麻薬が加わると、人々は容易にトランス状態に入るのだ。それを嫌ったキリスト教徒は、原始的な祭祀を禁じてきたのである。多分、仏教徒も同じことをしたのではないか。ところが、人間の歴史においては、不思議なことが起こる。1960年代後半の欧米において、祭祀が復活したのである。ロックミュージックの誕生だ。1969年にはアメリカのウッドストックにおいて、40万人の聴衆集め、3日間に渡るコンサートが開催されたのである。これは人類史上、最大規模の祭祀だったに違いない。聴衆はマリファナを吸い、トランスを楽しんだ。ステージ上には次々とミュージシャンが登場した。そして彼らは、祭祀におけるシャーマンの役割を担ったのだ。中でもジミ・ヘンドリックスは、立派にその責任を果たした。ロックミュージックの歴史的な意義が、ここにある。トランスを目指す。それがロックミュージックの本質である。

 

生存領域・・・平穏な生活と共に育まれてきた音楽も、少なくない。民謡、童謡、子守歌などを挙げることができる。黒人のブルースも、その起源は労働歌である。

 

認識領域・・・戦争に対する反省から生まれた思想があり、それを音楽にしたのが、反戦歌である。

 

記号領域・・・音楽の世界における主たる記号とは、音符である。音を音符に置き換えて、科学的に音楽を構成したのが、クラッシック音楽だと言えよう。この音楽においては、楽器の持つ音域やその可能性と、人間が習得できる技術の限界を追求したに違いない。ジャズもその影響下にある。

 

秩序領域・・・組織に対する忠誠心を要請する音楽も存在する。軍歌、社歌、校歌など。

 

喪失領域・・・フリージャズ。1970年前後のマイルス・デイビス。晩年のジョン・コルトレーンなど。

 

自己領域・・・私的な事柄や自らの経験に根差した音楽も、存在する。ラブソングは概ね、作曲家が自らの経験を音楽にしているのではないか。また、後期のジョン・レノンは典型的に、この領域に属すると思う。ジョンは、ストレートに女房であるヨーコや、息子のショーンを賛美する歌を作った。

 

では、まとめてみよう。

 

原始領域・・・祭祀と共に演奏される打楽器、ロック

生存領域・・・民謡、童謡、子守歌、歌謡曲、労働歌、ブルース

認識領域・・・反戦

記号領域・・・クラッシック、ジャズ

秩序領域・・・軍歌、社歌、校歌

喪失領域・・・フリージャズ、プログレッシブ・ロック

自己領域・・・ラブソング、後期のジョン・レノン

 

 

ところで、文学の世界にドストエフスキーという領域を超えた大作家がいたのと同じように、音楽の世界にも複数の領域を股にかけて活動した天才、マイルス・デイビスがいる。

 

マイルスも最初は、楽器を練習するかたわら、楽譜の読み方を勉強した。更に、音楽理論を勉強するために名門ジュリアード音楽院にまで進学する。しかし、夜な夜なチャーリー・パーカーとのセッションを行い、ドラッグに耽溺していったマイルスは、ジュリアードを中途退学する。この時代の音楽は、ビバップと呼ばれるが、これは「記号領域」にあると言って良いだろう。コード進行に合わせて、早いフレーズを吹きまくるというスタイルだった訳だ。その後マイルスは、クールジャズ、モードジャズ、エレクトリックへと演奏スタイルを変えていく。やがて、フリージャズが流行したことも影響してか、マイルスもその方向へと進む。1970年の作品で「Live Evil」というのがあるが、これはフリージャズだと言って良いだろう。多分、相当ジャズを聞き込んだ人でなければ、その魅力を理解するのは困難だと思う。ここへ来て、マイルスは「喪失領域」へと移行したのだ。この音楽は、正に混沌としている。

 

その後マイルスは、1972年に問題作「On The Corner」を発表する。この音楽は、一体、何なんだろうと、私は永年疑問に思ってきた訳だが、実はこれ、最近アフリカ音楽に似ていることに気付いた。良かったら、さわりだけでも聞いて欲しい。

 

マイルス・デイビス / オン ザ コーナー

Miles Davis - On The Corner (1972) - full album - YouTube

 

アフリカン ヴードゥ ドラム ミュージック

African Voodoo Drum Music - YouTube

 

どちらも打楽器が中心で、そこにコード進行はない。すなわち、マイルスはここへ来て、原始領域へと移行したのである。

 

体調を壊したマイルスは、1975年に一線から退く。そして、1981年にカムバックする訳だが、それ以降マイルスは、シンデイ・ローパーやマイケル・ジャクソンの楽曲を取り上げて、ポップチューンへと回帰した。こちらは、生存領域である。

 

上に記しただけでもマイルスは、以下の領域を渡り歩いたことになる。

 

記号領域

喪失領域

原始領域

生存領域

 

ここまで考えると私は、私があるパラドックスに陥っていることに気付くのだ。すなわち、私は、ドストエフスキーやマイルスのように、7つの領域の全体を見るべきだと思っている訳だが、他方、対象範囲を限定した方が、人間の認識能力は高まる(相撲は土俵の中で成立する)のである。どちらが正しいのか? この問題は本稿「領域論」の中で、決着をつけたいと思っている。

 

領域論(その16) 領域と文学

 

<領域論/主体が巡る7つの領域>

 

原始領域・・・祭祀、呪術、神話、個人崇拝、動物

生存領域・・・自然、生活、伝統、娯楽、共同体、パロール

認識領域・・・哲学、憲法、論理、説明責任、エクリチュール

記号領域・・・自然科学、経済、ブランド、キャラクター、数字

秩序領域・・・監獄、学校、会社、監視、システム、階級

喪失領域・・・境界線の喪失、カオス、犯罪、自殺、認識の喪失

自己領域・・・無意識、知識、経験、記憶、コンプレックス、夢、狂気

(主 体)・・・意識、欲望、恐怖、想像力、意志、身体、言葉

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

上の一覧に記した通り、本稿では7つの領域について見てきた。これは、私が見る世界の全体図である。それぞれの領域は特徴的で、独立している。これらの領域を歴史的な時間軸に従って並べてみることも可能だろうと思うし、ある領域は他の領域の反作用として生まれたに違いない。但し、7つの領域に共通して、それらを貫く、人類が生み出したある営為の形があるのだ。その1つが、文学である。別の言い方をすれば、人類は原始領域を生み出して以来、片時も忘れることなく、言葉によって各領域を表現しようと努めてきたことになる。

 

文学と言うと、多くの人は近代以降の文字によって書かれた小説を思い浮かべることだろう。しかし、言葉によって物語を紡ぐという営為の歴史は、もっと古くから存在するのであって、ここではそれらを含め、文学と呼ぶことにする。

 

また、例えば川端康成を例に考えてみると、「眠れる美女」のように喪失領域を描いた作品がある一方、「伊豆の踊子」や「雪国」のように日本の風俗、すなわち生存領域を描写した作品も存在する。従って、以下の分類は作家単位で考えるべきではなく、あくまでも作品単位で考えるべきことを予め、確認しておきたい。

 

では、各領域と文学の類型について、検討してみよう。

 

原始領域・・・典型例として、神話を挙げることができる。無文字社会の人々も、多くの神話を持っているのであって、それらは口頭によって伝承されてきたのである。また、宗教はどこかの段階で個人崇拝へと移行する。抽象的な概念としての「神」だけでは、人々は信仰を維持することが困難なのだ。長く信仰心を維持するためには刺激が必要なのであって、もっと身近で、もっと具体的なイメージを必要とするのである。キリスト教であれば、神はその代理人とでも言うべき、イエスへと変容を遂げたし、ヒンドゥー教には予言者が出現する。日本の仏教で言えば、法然親鸞空海最澄などのビッグネームが登場し、それぞれの物語が作られる。歴史的に見ると、この辺りから「偉人伝」が生まれる。アメリカのインディアンにおいては、勇敢に白人と戦ったアパッチ族のシャーマン、ジェロニモの物語が語り継がれている。やがて、白人から差別を受け続けた黒人奴隷の間で、黒魔術が生まれる。それは、アフリカのブードゥー教などにおいて、その傾向が顕著となる。他人に不幸をもたらすことを神にお願いするのは気が引けるだろうし、神がそのような願いを聞いてくれるとも思えない。多分、そこで悪魔が誕生したのだ。また、既存の宗教が地獄を描く手段として、鬼、仁王、幽霊などの概念を作ったのだろう。いずれにせよ、人々に恐怖心を抱かせる存在が登場する訳で、それらを描いた怪談や怪奇小説が生まれたに違いない。

 

生存領域・・・語り部によって伝承された、民話が存在する。民話を子供向けにアレンジすると童話になる。生存領域においては、人々の暮らしに役立つ文化が生き永らえるのだ。童話は、子供たちに対する教育的な効果を持っているだろうし、それは、子供を寝かしつけるために語られたのかも知れない。日本の「桃太郎」は、親の男の子に対する元気に育って欲しいという願いを、それとなく表現しているのではないか。それを聞いた男の子の方も、親のそのような願いを、この童話を通じて、察してきたのではないか。ちなみに、アフリカのマサイ族においては、村はずれで老婆が子供たちに童話を語る習慣があるようだ。YouTubeで、一人の老婆を十数人の子供たちが取り囲んでいる映像を見たことがある。どの子供たちの表情も、真剣そのものだ。童話には、多くの動物が出てくる。そして、童話を通じて子供たちは動物の名前や特徴を学習するのである。

 

認識領域・・・戦後の文学は、戦争や核兵器がもたらす悲惨さを描いた。そもそも、社会契約論は宗教戦争に対する反省から生まれたのであって、戦後、日本に平和憲法がもたらされたのも、その流れに沿っている。

 

記号領域・・・自然科学は驚異的な発展を遂げているが、それに伴いSF(サイエンス・フィクション)という小説ジャンルが誕生した。また、因果関係を論理的かつ科学的に検証する推理小説も登場する。また、記号が実体を凌駕するという観点から言えば、村上春樹の作品は、このジャンルだと言えよう。そこには、大金持ちや哲学に熟達した者などが登場するが、それら登場人物の内実は、外観に比して貧弱なのである。空っぽと言っても良い。では、どこが空っぽなのかと言うと、それは主体と自己領域、すなわち「私」が空っぽなのだと思う。

 

秩序領域・・・平和主義とは反対で、戦争を賛美するような文学も存在する。戦国時代の武将を美化するものや、戦時中の国策に沿った文学もある。また、組織内部の人間模様を描くサラリーマン小説というジャンルもある。堺屋太一など。

 

喪失領域・・・前回の原稿で紹介した「眠れる美女」や「金閣寺」など。これらを純文学と称して問題はないだろう。また、マルキド・サドや谷崎潤一郎が描いた異常性愛小説も、この領域に属する。

 

自己領域・・・自らの体験を綴る私小説は、この領域を示す典型例だろう。その他にも教養小説と呼ばれるものがある。これはインテリジェンスを問うものではない。主人公が内面を見つめながら、いくつかの出来事に直面していくのだ。決して主人公は社会的な成功を収めたりはしない。しかし物語を通じて、主人公は成長を遂げるのである。日本では、「次郎物語」など。

 

では、一覧にしてみよう。

 

<領域と文学>

原始領域・・・神話、偉人伝、怪奇小説

生存領域・・・民話、童話、恋愛小説

認識領域・・・戦後文学

記号領域・・・SF、推理小説

秩序領域・・・戦記もの、サラリーマン小説

喪失領域・・・純文学、犯罪小説、異常性愛小説

自己領域・・・私小説教養小説

 

しかしながら、全ての領域を描くというスケールの大きな作品も存在する。そのような作品を描いたのは、私の知る範囲においては、ドストエフスキーだけだ。左側に領域を、右側に「罪と罰」のあらすじを書いてみよう。

 

(主 体)・・・主人公であるラスコーリニコフは、

記号領域・・・金貸しの老婆を

喪失領域・・・殺害する。

認識領域・・・罪の意識に苛まれたラスコーリニコフは、

生存領域・・・家族のために身体を売っているソーニャに、

原始領域・・・聖書を読んでもらう。

自己領域・・・ラスコーリニコフは、ソーニャの勧めに従い自首をし、

秩序領域・・・監獄に入る。

 

上の記述は、少し短絡的に過ぎるかも知れない。しかし、このような見方をすると、ドストエフスキーは私と同じように、人間世界の全体を再現して見せる、「世界を記述する」ことを目指していたように思う。

 

また、「罪と罰」と三島の「金閣寺」を比較してみると、面白い発見がある。どちらも犯罪を扱っているが、小説の構成としては、決定的な差異がある。作品のハイライトとなる犯罪行為の描写、その位置が違うのだ。罪と罰において、主人公であるラスコーリニコフは、小説の冒頭で金貸しの老婆を殺害する。対して、金閣寺の方は作品の最後で、主人公である溝口が金閣寺に火を放つ。この差は、何だろう。

 

金閣寺の場合、主人公の置かれた状況と、そこに生きる主人公のあり様が描かれる。そして、犯罪行為に向けて、主人公のメンタリティは一直線に進むのだ。それは、純化されていく、と言っても良いだろう。但し、別の言い方をすれば、主人公は、領域を超えないのである。金閣寺の主人公は喪失領域の中で生きていて、小説自体も金閣寺に放火するという犯罪行為においてそのピークを迎える訳だが、喪失領域の外に出ることがない。

 

反面、罪と罰ラスコーリニコフは、金貸しの老婆を殺害した後、考えを巡らし、様々な人々と出会い、領域を超えていくのである。これは教養小説に似ていて、主人公は各領域の間にある境界線を超えて、他の領域に移動することによって、成長するのである。この自己の成長、自己の陶冶を図るという点は、ミシェル・フーコーがその遺作「自己への配慮」の中で述べていたことと共通するのであって、多分、そのメカニズムの中に自己の救済という哲学の目標が、人生の謎を解く鍵が、隠されているに違いない。

 

作品の総合性という観点からしても、自己の成長という観点からしても、2つの作品を比較した場合、罪と罰の方に軍配を挙げざるを得ない。金閣寺は三島31才の作品であって、これを世界の文豪と比較するのは酷かも知れない。しかし、ここに三島の限界があるのではないか。普遍化して言えば、そこに日本文学の、日本が持つ文明の、限界を見て取ることができるのではないか。

 

領域論(その15) 自己領域 / 私とは何か

 

長い道のりを経て、とうとう私も、この永遠の問いとで言うべき論題に辿り着いた。その論題とは、「私とは何か?」という単純な設問のことである。

 

この話、一体どこから始めればいいのか私にもよくは分からないが、とりあえず「時間」について、記述してみることにしよう。まず、過去の時間というものがある。それは、138億年前のビッグバンまで遡る訳で、これはもう想像を絶するほど永い。確かにそれはとても永いが、しかし、昨日という日もあった訳で、その延長線上で考えれば、理解できないこともない。また、未来という時間もある。それがどれだけ続くのか、それは誰にも分からない。しかし、こちらも明日という日があって、それがずっと続くと考えれば、分からないでもない。しかし、時間にはもう1つの概念がある。それは、「現在」である。138億年も続いてきた過去という時間と、ほとんど永遠とも思える未来という時間がせめぎ合うその瞬間が、現在なのである。そして、私たちは常にこの現在という時間を生きている訳だ。これほど不思議なものはない・・・と私は思う。

 

そして、「私」の中には、この摩訶不思議な現在という時間に付き合っている部分がある。それを意識と呼んでもいいと思う。私たちは常に現在という時間の中で、何かを欲し、何かを恐れ、近未来に起こるであろう何かを想像しながら生きている。私たちは毎日、食欲を満たそうとしているし、例えば、地面がグラッと揺れるとそれを地震だと認識し、更に大きな揺れが来るかも知れないと想像し、怖れる訳だ。

 

そして、私たちは現在という時間の中で、何かをやってみようとか、何かを捨てようとか、意志することもある。私であれば、この領域論なる原稿を書いてみようとか、ロックバンドをやってみようとか、そういうことだが、意志を決定するに際しては、過去の経験などに拘束されることになる。このブログにおいて、私は、既に3千枚を優に超える原稿を掲載してきたし、それは私にとって左程、苦痛を伴うものではなかった。従って、この領域論を書き上げることができるであろうという自信があったので、始めたのである。他方、私が今からロックバンドをやれるかと言えば、それは過去の経験からして、とても無理だという結論になる。曲を書いて、バンドで練習してという作業には、膨大なエネルギーが必要なのである。そのことを経験上、私は知っているし、現在の私にそのようなエネルギーは残されていない。このように、現在を生きる意識や意志は、過去に拘束されているに違いない。

 

ここで理解を助けるために、一つのたとえ話をしよう。これをちなみに、「荷車を曳く人」と名付ける。

 

ある人が荷車を曳いているとしよう。荷車は、リヤカーと言い換えても良い。荷車には沢山の荷物が積んである。それを曳くのは、難儀だ。特に上り坂では。

 

短くて恐縮だが、「荷車を曳く人」は、以上である。

 

この話における荷車を曳いている人とは、現在の意識である。そして、荷車に乗っている重い荷物とは、現在の私を拘束する過去の遺物のことである。そして、それらの総体が、すなわち「私」なのだ。荷車に乗っている過去の遺物、それを無意識と言い換えても良い。

 

そもそも、「私」が「私」について考えるとは、どういうことなのだろう。主体と客体が同一なので、この仕組みを理解することは困難だと思う。しかし、「荷車を曳く人」になぞらえて、荷車を曳いている人が振り返って、荷車に積載されている重い荷物について考える、という風に考えてみればどうだろう。これで、主体と客体を分離することができる。

 

蛇足かも知れないが、このように考えると次のことが分かる。つまり、「荷車を曳く人」を救済するには、2つの方法があるということだ。1つには、荷物を軽くするという方法だ。これを目指すのが、1つには、宗教だと言えるのではないか。もう1つの救済方法は、荷車を曳く人自身の足腰を鍛えるという方法である。その方法の1つが、すなわち哲学である。

 

ちなみに、「主体」という言葉を哲学用語辞典で調べてみると「主体とは行為や意志の発動者」であると記されている。上の例で言えば、荷車を曳く、その人自身を「主体」と呼ぶことになる。

 

それでは、まとめてみよう。主体とは、現在を認識しようとする意識のことであって、そこには常に欲望や恐怖がある。また、主体は想像力によってあらゆる記号を認識しようと努めているに違いないのだ。主体は、何らかの行為について意志決定を下す。そして主体は、身体と共にあると思う。西洋の思想においては、身体と精神とは別だと考えるようだが、他方、東洋の思想においては、これらを同一視する傾向が強いように思う。私は、東洋思想の方が正しいと思う。意識と共に、私の体は振り向いたり、立ち上がったりするのだから。

 

加えて、主体を構成する重要な要素として、「言葉」を挙げることができる。これは内心を構成するのであって、発話されるとは限らない。従って、パロール話し言葉)とは異なる。また、内心の言葉は記述される訳でもない。従って、エクリチュール(書き言葉)とも異なる。まさに、「言葉」と言う他はない。

 

次に、荷車に載った重い荷物であって、無意識に属する事柄を、ここでは「自己領域」と呼ぶことにしよう。そこには、膨大な知識があり、過去の経験や、経験に基づく記憶が潜んでいる。過去に失敗した経験などが、コンプレックスとして主体に影響を及ぼしている。そして、眠ると人は無意識に影響された夢を見る。その領域を更に掘り下げていくと、そこには狂気が潜んでいるに違いない。

 

さて、うまくできたかどうかは別として、これで7つの領域と「主体」について、定義することができた。すなわち私たちは、8つの積み木の木片を手に入れた訳だ。これを組み合わせることによって、様々な、形を作ることができるだろう。主体があって、その主体が7つの領域を巡る。これは、私たちの人生の、私たちの文明の、私たちが生きている世界のメカニズムであるはずなのだ。

 

 

<領域論/主体が巡る7つの領域>

原始領域・・・祭祀、呪術、神話、個人崇拝、動物

生存領域・・・自然、生活、伝統、娯楽、共同体、パロール

認識領域・・・哲学、憲法、論理、説明責任、エクリチュール

記号領域・・・自然科学、経済、ブランド、キャラクター、数字

秩序領域・・・監獄、学校、会社、監視、システム、階級

喪失領域・・・境界線の喪失、カオス、犯罪、自殺、認識の喪失

自己領域・・・無意識、知識、経験、記憶、コンプレックス、夢、狂気

(主 体)・・・意識、欲望、恐怖、想像力、意志、身体、言葉

 

領域論(その14) 喪失領域

 

人間を集団で見た場合の5つの領域については、既に述べた。しかし、それだけではどうしても説明し切れない現象が、人間の世界には存在する。それを私は、「喪失領域」と呼ぶことにした。この領域においては、境界線というものが失われるのだ。善と悪、生と死、永遠と刹那。これらの間の境界線が失われるということは、すなわち認識するということ自体が消失するのであって、その状態はカオスと言って良い。

 

アフリカのサバンナや南米のジャングルにおける野生動物の生態を見ていると、彼らの世界に境界線を見つけることは困難だ。そこは弱肉強食の世界であって、生と死は隣接している。そこにあるのは動物たちが発するエネルギーだ。彼らは、必死に生きようとする。何の境界線も存在しないそのような世界の中で、ただ、エネルギーだけが存在するのだ。人間もかつてはサルだった訳で、そのようなカオスの中で生きていたに違いない。すなわち、この喪失領域は、原始領域よりも古くから存在するはずなのである。そしてそれは、今日においても生き続けている。

 

では、人間社会のどのような場面において、この喪失領域がその姿を現出させるかと言えば、それは、芸術の世界において、と言うことができる。

 

絵画の世界で言えば、例えばジャクソン・ポロックの作品にそれは描かれている。そこに美しい自然は存在しないし、人間も登場しない。形すら姿を消し、もっぱら色彩と線だけが描かれている。作品には、画家が投じた鮮烈なエネルギーが投影されており、そこに秩序を見出すことはできない。

 

 

f:id:ySatoshi:20161216170751j:plain

 ジャクソン・ポロック / ブルー・ポールズ

 

 

音楽の世界で言えば、フリージャズと呼ばれたオーネット・コールマン、後期のジョン・コルトレーン、1970年前後のマイルス・デイビスなどの演奏を挙げることができる。

 

喪失領域は、文学の世界にも登場する。川端康成の「眠れる美女」という作品を取り上げてみよう。随分と昔に読んだ作品だが、記憶を辿ってみることにする。舞台は、会員制秘密クラブを運営する旅館である。特殊な睡眠薬を飲んだ若い女性が、布団で眠る。そこへ会員となっている老紳士がやってきて、添い寝をするのである。行為に及ぶことは、禁じられている。そのことを保証するために、会員になるにはそれなりの高齢者で、紳士であることが要件とされている。添い寝をする老紳士は、舐めるように眠れる美女を見つめる。そして、美女が眠りから覚める前に立ち去らなければならない。なんという淫靡な作品であろう。

 

通常、眠っている美女と老紳士という組み合わせは、成立しない。その両者の間の境界線を取り払った所で、この作品は成立している。とても反道徳的な作品だとは思うが、作品の中でそのようなことは、一切語られない。善も悪もないのだ。

 

「境界線の喪失」という観点で言えば、それは三島由紀夫の「金閣寺」にも描かれている。これは吃音に悩む若い僧侶が、金閣寺に放火するという事件を描いた作品である。金閣寺は圧倒的な美を誇る文化遺産であって、人に触れられることを拒絶するだけの崇高な美を誇っている。この金閣寺と若い僧侶との間には、目には見えない強固な境界線が引かれていたに違いない。その境界線を、主人公である僧侶は火を放つという行為によって、超えてみせたのである。若い僧侶という個別的な存在と、金閣寺という普遍的な象徴とが交錯するのだ。そして作品の最後は、主人公が煙草を吸いながら「生きようと思った」という一文で締め括られる。そこに合理性は、存在しない。認識することを拒絶した主人公の生き様が、描かれているに過ぎない。

 

上に述べたような境界線を喪失した領域は、ごく稀にではあるが、現実世界においても登場する。そもそも「金閣寺」自体、現実に発生した犯罪事件に着想を得たものだし、今日においても理由の分からない犯罪事件は、新聞の3面記事において、紹介され続けている。通り魔と言えば、お分かりいただけるだろう。犯行の動機について犯人たちは「誰でもよかった」などと言うのである。そこに合理性はない。認識不可能なのである。犯人自身にとっても、私たちにとっても。

 

時間と空間とがあって、そこにエネルギーだけが存在する。そのような領域を記してきた訳だが、エネルギーさえもが消失した世界も存在する。自殺である。理由の判然とした自殺も存在するであろうが、多くの場合、合理的な理由をそこに発見するのは困難なのではないか。自分が何故、自殺をするのか。その理由を合理的に記した遺書が発見された、という話は聞いたことがない。もしそれを論理的に記そうとすれば、原稿用紙100枚でも足りないのではないか。そして、そのような遺書を書くことのできる人は、そもそも自殺などしないような気がする。理由の分からない自殺。その瞬間、彼らは生と死、永遠と刹那の間にある境界線を越えるのである。

 

さて、これで7つの領域のうち6つまでを記述したことになる。これら原始領域から喪失領域までを総称して、「文明」と呼んでいいと思う。

  

<領域論/主体が巡る7つの領域>

原始領域・・・祭祀、呪術、神話、個人崇拝、動物

生存領域・・・自然、生活、伝統、娯楽、共同体、パロール

認識領域・・・哲学、憲法、論理、説明責任、エクリチュール

記号領域・・・自然科学、経済、ブランド、キャラクター、数字

秩序領域・・・監獄、学校、会社、監視、システム、階級

喪失領域・・・境界線の喪失、カオス、犯罪、自殺、認識の喪失

自己領域・・・

 

領域論(その13) 秩序領域

 

権力が、秩序をもたらす。そのことを端的に示すのが、この「秩序領域」である。

 

その外観に注目して、人間は植物図鑑を作った。そして、それぞれの機関が持っている機能に注目し、人間は動物図鑑を作った。そのようにして、ある総体を要素に分解することによって、人間は認識能力を向上させてきたのだ。それは、主に自然科学の分野で成果を挙げたに違いない。しかし愚かな人間は、その手法を人間自身にも適用させようとしたのではないか。そして、監獄が生まれる。その経緯は、フーコーの「監獄の誕生」に詳しい。

 

人間はまず、働くことが可能か否か、という点で区分けされたのである。そして、監獄のシステムが誕生する。これはまず、囚人を1か所に集める所から始まり、次に時間割に従って、囚人を訓練するのだ。すなわち、空間、時間の双方において、人を管理するのが監獄システムだと言える。そこでは厳しい規律が定められ、監視される。そして、規律に従わなかった囚人には、処罰が加えられる。

 

18世紀の中頃、イギリスで産業革命が起こり、工場で働く労働者が急増する。やがて、工場労働者の生産性や技術はテストされることになる。テストで優秀な成績を収めた者の賃金は上昇し、そうでない者は落ちこぼれていく。軍隊や学校、そして企業も同じだろう。どれも似たようなシステムによって管理されている。

 

これらシステムの内部において、人間は階級によって認識される。集団やシステムにとって都合の良い尺度でテストが行われ、その結果に応じて、階級が決定されていく。このような集団を組織と呼んでもいいだろう。組織には組織の論理があるのであって、個々人の主体性は排除されていく。上意下達なので、個人の思想が醸成されることは、ほとんどないだろう。集団が認識する自己(階級)が、自己認識となる。階級が、主体を凌駕する訳だ。

 

この監獄システムは今日においても生きていて、それは政党、官僚組織、企業、大学の運動部、自衛隊などにおいて採用されている。統一されたルールを定め、その中で人間を戦わせる。そして、序列を決めるという点において、オリンピックはこの監獄システムの一例だと思う。そこに、個人の自由や主体の独立性は認められない。

 

これはどう考えても、人間にとって過酷なシステムであるに違いない。既に、様々な組織においてそのほころびが見え始めている。自民党においては、老害が顕在化している。官僚組織においては、離職率が上がっている。企業においては、フレックスタイム制が導入され、現在はコロナの影響で在宅勤務が浸透しつつある。自衛隊においても、採用が難しくなりつつある。

 

また、監獄システムは別の理由によっても変容を遂げているに違いない。工場労働を例にとって考えると、まず、人間が機械を操作し、その人間を監督者と呼ばれる他の人間が監視していた訳だ。やがて、オートメーション化が進み、原則的には何でも機械が行えるようになる。すると、人間は、機械が正常に作動しているか、それを監視すればよくなる。更に時代が進むと、工場に大量のロボットが導入される。ロボットの構造は複雑なので、人間にはこれを監視することが困難である。そこで、コンピューターがロボットを監視する。

 

人間 → 人間

人間 → 機械

コンピューター → ロボット

 

こうして、工場労働者の人員は、急速に減少していった。

 

多くの労働者は、第2次産業から第3次産業へと移った。今日の現状を見ると、そこには更に進展したシステムを見ることができる。宅配便の配達員は、小荷物を抱え、いつも走っている。労働者の4割が、非正規雇用となった。現代の労働者は、見方によっては、監獄システムよりも過酷な監視下に置かれているのではないか。

 

今日的なシステムの例として、フランチャイズがある。多くのファミレスやコンビニを運営するシステムのことである。まず、ブランドを所有する巨大企業がある。この巨大企業がブランド戦略、商品戦略、物流管理などの一切を決定し、個々の店舗を運営する個人事業主を募る。そして、ブランドを所有する巨大企業と、個人事業主が契約を締結する訳だが、ここに問題がある。契約書は小さな文字でびっしりと書かれている。契約に関する知識の少ない個人事業主は、これにサインする訳だ。大企業の方は、法律の専門家を使って、法律に適合するギリギリの条件を契約書に定めている。一度サインすると、後戻りすることは困難である。このようにして個人事業主は、大企業側に有利な条件を飲まされることになる。

 

最近、この問題が顕在化したのは、コンビニの24時間営業という業務形態である。365日、24時間営業では、休む暇がない。バイトの学生を沢山雇えば、個人事業主の負担は軽減するが、それでは利益が圧迫される。バイトの学生を常時雇えるかと言えば、そうではない。地域差もあるだろうし、時期的な問題だってあるだろう。そこで、外国人労働者を雇い入れることになる。

 

個人事業主も年と共に年令を重ねる訳で、深夜から早朝にかけての時間は、休業したいと思う。そう申し出ると、大企業の方はそれを拒絶する訳だ。結果、過労死する個人事業主まで出ている。この問題は、れいわ新選組の三井よしふみ氏が取り組んでいる。

 

このフランチャイズと前述の監獄システムを比較した場合、明らかな差異がある。監獄システムの方は、誰が権力者なのか、その人の顔を見ることができる。監獄であれば看守が、企業であれば社長が、学校であれば教師が、権力者なのである。他方、フランチャイズの場合、権力者の顔が見えない。それは、ブランドやシステムを保有している大企業であるのは確かだが、その会社はアメリカ企業であったりする訳だ。個人事業主が、大企業の日本法人を飛び越えて、英語でアメリカの本社と交渉することなど、不可能である。

 

昨年10月、みずほ銀行が驚くべき発表を行った。週休3日、4日制を導入するというのだ。一瞬、うらやましく思ったものだが、現実は甘くない。働く日数に応じて、給料も減少するというのだ。そもそも同行は、第一勧銀、富士銀行、日本興業銀行という日本を代表する3つの銀行が合併して誕生したのだ。合併とは、言うまでもなくリストラ策である。そこで、相当な人員削減が行われたに違いない。加えて今回の週休3日、4日制の導入である。これはワーク・シェアリングである。つまり、少ない仕事量を従業員の間で分配しようという施策である。いよいよ、日本もここまできたか、という感慨がある。

 

在宅勤務と言えば、それはとても良いことのように思えるが、多くの場合、残業代のカットを伴う。既に、副業を容認する企業も出始めている。

 

今日的な意味での「システム」においては、人間不在なのである。そこに人間的なぬくもりはなく、ただ、システムだけが膨張を続けている。私には、そう思えてならない。そして、この社会現象を究明するような学者、学説というのは、まだ出現していないのではないか。急速な変化に、学問が追いつかない。これも悲劇であるに違いない。

  

領域論/主体が巡る7つの領域

原始領域・・・祭祀、呪術、神話、個人崇拝、動物

生存領域・・・自然、生活、伝統、娯楽、共同体、パロール

認識領域・・・哲学、憲法、論理、説明責任、エクリチュール

記号領域・・・自然科学、経済、ブランド、キャラクター、数字

秩序領域・・・監獄、学校、会社、監視、システム、階級

喪失領域・・・

自己領域・・・