文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

領域論(その14) 喪失領域

 

人間を集団で見た場合の5つの領域については、既に述べた。しかし、それだけではどうしても説明し切れない現象が、人間の世界には存在する。それを私は、「喪失領域」と呼ぶことにした。この領域においては、境界線というものが失われるのだ。善と悪、生と死、永遠と刹那。これらの間の境界線が失われるということは、すなわち認識するということ自体が消失するのであって、その状態はカオスと言って良い。

 

アフリカのサバンナや南米のジャングルにおける野生動物の生態を見ていると、彼らの世界に境界線を見つけることは困難だ。そこは弱肉強食の世界であって、生と死は隣接している。そこにあるのは動物たちが発するエネルギーだ。彼らは、必死に生きようとする。何の境界線も存在しないそのような世界の中で、ただ、エネルギーだけが存在するのだ。人間もかつてはサルだった訳で、そのようなカオスの中で生きていたに違いない。すなわち、この喪失領域は、原始領域よりも古くから存在するはずなのである。そしてそれは、今日においても生き続けている。

 

では、人間社会のどのような場面において、この喪失領域がその姿を現出させるかと言えば、それは、芸術の世界において、と言うことができる。

 

絵画の世界で言えば、例えばジャクソン・ポロックの作品にそれは描かれている。そこに美しい自然は存在しないし、人間も登場しない。形すら姿を消し、もっぱら色彩と線だけが描かれている。作品には、画家が投じた鮮烈なエネルギーが投影されており、そこに秩序を見出すことはできない。

 

 

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 ジャクソン・ポロック / ブルー・ポールズ

 

 

音楽の世界で言えば、フリージャズと呼ばれたオーネット・コールマン、後期のジョン・コルトレーン、1970年前後のマイルス・デイビスなどの演奏を挙げることができる。

 

喪失領域は、文学の世界にも登場する。川端康成の「眠れる美女」という作品を取り上げてみよう。随分と昔に読んだ作品だが、記憶を辿ってみることにする。舞台は、会員制秘密クラブを運営する旅館である。特殊な睡眠薬を飲んだ若い女性が、布団で眠る。そこへ会員となっている老紳士がやってきて、添い寝をするのである。行為に及ぶことは、禁じられている。そのことを保証するために、会員になるにはそれなりの高齢者で、紳士であることが要件とされている。添い寝をする老紳士は、舐めるように眠れる美女を見つめる。そして、美女が眠りから覚める前に立ち去らなければならない。なんという淫靡な作品であろう。

 

通常、眠っている美女と老紳士という組み合わせは、成立しない。その両者の間の境界線を取り払った所で、この作品は成立している。とても反道徳的な作品だとは思うが、作品の中でそのようなことは、一切語られない。善も悪もないのだ。

 

「境界線の喪失」という観点で言えば、それは三島由紀夫の「金閣寺」にも描かれている。これは吃音に悩む若い僧侶が、金閣寺に放火するという事件を描いた作品である。金閣寺は圧倒的な美を誇る文化遺産であって、人に触れられることを拒絶するだけの崇高な美を誇っている。この金閣寺と若い僧侶との間には、目には見えない強固な境界線が引かれていたに違いない。その境界線を、主人公である僧侶は火を放つという行為によって、超えてみせたのである。若い僧侶という個別的な存在と、金閣寺という普遍的な象徴とが交錯するのだ。そして作品の最後は、主人公が煙草を吸いながら「生きようと思った」という一文で締め括られる。そこに合理性は、存在しない。認識することを拒絶した主人公の生き様が、描かれているに過ぎない。

 

上に述べたような境界線を喪失した領域は、ごく稀にではあるが、現実世界においても登場する。そもそも「金閣寺」自体、現実に発生した犯罪事件に着想を得たものだし、今日においても理由の分からない犯罪事件は、新聞の3面記事において、紹介され続けている。通り魔と言えば、お分かりいただけるだろう。犯行の動機について犯人たちは「誰でもよかった」などと言うのである。そこに合理性はない。認識不可能なのである。犯人自身にとっても、私たちにとっても。

 

時間と空間とがあって、そこにエネルギーだけが存在する。そのような領域を記してきた訳だが、エネルギーさえもが消失した世界も存在する。自殺である。理由の判然とした自殺も存在するであろうが、多くの場合、合理的な理由をそこに発見するのは困難なのではないか。自分が何故、自殺をするのか。その理由を合理的に記した遺書が発見された、という話は聞いたことがない。もしそれを論理的に記そうとすれば、原稿用紙100枚でも足りないのではないか。そして、そのような遺書を書くことのできる人は、そもそも自殺などしないような気がする。理由の分からない自殺。その瞬間、彼らは生と死、永遠と刹那の間にある境界線を越えるのである。

 

さて、これで7つの領域のうち6つまでを記述したことになる。これら原始領域から喪失領域までを総称して、「文明」と呼んでいいと思う。

  

<領域論/主体が巡る7つの領域>

原始領域・・・祭祀、呪術、神話、個人崇拝、動物

生存領域・・・自然、生活、伝統、娯楽、共同体、パロール

認識領域・・・哲学、憲法、論理、説明責任、エクリチュール

記号領域・・・自然科学、経済、ブランド、キャラクター、数字

秩序領域・・・監獄、学校、会社、監視、システム、階級

喪失領域・・・境界線の喪失、カオス、犯罪、自殺、認識の喪失

自己領域・・・