文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

猫と語る(第7話) 魂とは何か

 

- 古くは2400年も昔の古代ギリシャ人が、既にこの言葉を使っていた。日本で言えば聖徳太子の時代から、更に千年も昔のことだ。つまり、ニュアンスの違いはあるかも知れないけれど、世界中の人々が魂という共通概念を持っていたんだ。英語ではSoulと言うし、日本ではそれを魂と呼ぶ。そうしてみると魂は、人間にとって、とても普遍的な意味を持っていることが分かる。

- とても古くから、世界中の人々が、魂について考えてきたってことね。

- そうなんだ。ここから先は、少し俺自身の想像を踏まえて話してみたい。魂は、人間の死生観と深い関りを持っている。現代人には医学に関する知識がある。だから、人間の死を心臓の停止、呼吸機能の停止、そして脳死などに区分して理解する。しかし、医学なんてものが未だ世界のどこにも存在しない時代があって、その頃、人々は死とは何か、そのことを一生懸命考えたに違いないんだよ。死んだばかりの人には、まだ体温が残っている。多くの場合、死者は安らかな顔をしているし、まるで眠っているように見える。しかし、死者が眠りから覚めることはない。すると、生きている自分たちと死者との間には、何らかの差異があるはずだ。昔の人は、そう考えた。つまり、生きている自分たちには、生命の源のようなものがある。そして死者は、かつてそれを持っていたが、何らかの理由によって、それを失ってしまった。だから死んだのだ。そのような仮説が成り立つ。つまり、生きている者だけが持っている何か、生命の源、それを昔の人は魂と呼んだに違いない。

- 昔の人にとって魂は、それほど大切なものだったのね。

- うん。ここで、人間とは何かという問いに対する1つの回答が導かれることになる。つまり、人間とは魂と体によって構成されるってことさ。つまり・・・

 

人間 = 魂 + 体

 

・・・ということになる。加えて昔の人々は、魂は不滅だと考えた。だから、人間が死んだとしても不滅の魂が天国へ行ったり、地獄へ落ちたりする。この考え方にも普遍性があるような気がする。ところで花ちゃん。君は、魂と体とどちらの方が大切だと思う?

- う~ん。ちょっと難しいわね。おじさんはどう思うの?

- 俺はね、魂の方が大切だと思うよ。魂が永遠に生き続けるとは思わないけど、体が生きていても魂が死んでしまえば、それはもう人間とは言えない。それから魂は、それぞれの人が、たった1つだけ持っているものなんだ。そして魂は、誰かの魂と交換したりすることもできない。この世にたった1つしかないもの、それが自分の魂なのさ。それに・・・。

- それに?

- 人は、自らの魂と対話するとき、決して嘘をつくことができない。人間は他人に対しては平気で嘘をつくけど、自分の魂にだけは、嘘をつくことができない。だから魂っていうのは、とても純粋なものだと思う。人は一生をかけて、自分の魂を育てあげる必要がある。それがあるべき人生の形だ。ところが最近の人間は、魂のことをあまり重要視しなくなってしまった。

- どうして?

- それはね、魂を分解し始めたんだ。魂という概念から、生命の源という要素を取り払って、心というものを想定した。最初にそう考えたのは、デカルトだという説がある。つまり・・・

 

魂 = 心 + 生命力

 

人間 = 心 + 生命力 + 体

 

・・・ということになる。それ以来、人間は心が大切だと考えるようになったんだよ。そして、この考え方は、アカデミズムの進歩に貢献した訳だ。つまり、心については心理学が、そして体については医学が研究対象とすることになった。そして、現代において生命力は体の側に属するものとして認識されている。体が死ぬことと、人間が死ぬことは同じだと考えられているのさ。でも俺は、この考え方には反対だ。生命力は心の中にもあるはずだ。だから、心と生命力とを分けて考えるのはおかしい。魂がなくなれば、それはすなわち人間の死を意味するのだと思う。加えていとも簡単に、自らの魂を売り渡してしまう人が多過ぎる。お金や名誉、そして地位を確保するためにね。でも、よく考えて欲しい。ひと度、魂を売り渡してしまうと、それを買い戻すことは絶対にできない。この観点から言うと、魂とは、絶対に妥協することのできない価値観や信念であるとも言える。ついでに、もう1つ言ってもいいかい?

- うん。

- 現代人は、未だにこの魂の問題を解決することができずにいる訳だ。そこで、いつまでたっても尊厳死安楽死についての議論が進まないって訳さ。俺は、それらを肯定すべきだと思う。それと、最近はうつ病をはじめとした精神病患者が急増しているし、自殺する人も多い。今、現代人が持っている心の生命力は、危機に瀕している。それは、心と生命力を分けて考えているからじゃないだろうか。心を考える場合、それは生命力とセットで考えるべきなんだよ。つまり、魂の問題としてね。

- おじさんの言いたいことは、大体、分かったわ。ところで・・・。

- うん。

- 猫にも魂って、あるのかしら?

- う~ん。そうだなあ。・・・あると思う。

 

私がそう答えると、花ちゃんは安心したような眼で遠くを見つめた。

 

- あっ! 島が見える!

 

花ちゃんが見ている方角を眼で追うと、確かに、海の向こうに小さな島が見えるのだった。多分、天気のいい日に限って、それを見ることができるのだ。

 

- こんぺい島だよ。カァー、カァー!

 

カラスの黒三郎の声が聞こえた。木の上にいる黒三郎は、どうやら私たちの話を盗み聞きしていたようだ。

 

- そんなところにいないで、言いたいことがあれば下りてきな!

 

花ちゃんが、そう叫んだ。

 

猫と語る(第6話) 「私」の発見

 

秋の訪れを告げるような台風がやってきて、その翌日の空は高く、穏やかだった。私はにゃんこ村へ行き、いつものベンチに座っていた。私が猫たちを個体識別しているように、猫の側も人間を1人ひとり、識別している。猫おじさんである私の姿を見つけると、猫たちはどこからともなく集まってくる。三毛猫母さんが2匹の子猫を引き連れてやってきた。トントン猫のトンちゃんもやってきた。そして、私の手を負傷させたハチもやってきた。私は、ハチに不愉快な感情を抱いていたが、そんなことは大人げないと思い直していた。

 

まず、紙の皿を地面において、カリカリを注ぐ。そして、コンクリートの上に手早く何か所かにカリカリを小分けにして置いた。猫たちは、ムニャムニャと言いながら、おいしそうにそれらを食べた。

 

ところで私の目標は、5キロの減量である。既に2キロまでは、達成した。しかし、足踏み状態が続き、最近は一向に体重の減る兆しが見えない。同じことをしていては、これ以上の成果は見込めない。何か、新しいことを考えなければ・・・。

 

カリカリを食べ終えた猫たちが、1匹、また1匹と何処かへと去っていく。入れ替わりに花ちゃんが現われ、私の足元で一声、ニャーと鳴いた。私は、包装しているビニールを破き、手に持ってカツオの切り身を花ちゃんの口先へと差し出した。花ちゃんは、それをペロペロと舐め始めた。どうやら花ちゃんは、カツオをチュールと勘違いしたようだった。

 

- 花ちゃん、これはペロペロするんじゃなくて、カミカミするんだよ。

 

私はそう言って、カツオの切り身を皿の上に置き、花ちゃんの足元に差し出した。花ちゃんは顔を上下に揺らして、それをおいしそうに食べた。私は、食べ終えた花ちゃんを抱え上げ、ベンチの横に座らせた。

 

- おじさん、それじゃあ話の続きを聞かせて。

- うん。前回までで、生活共同体と利益共同体の話をしたね。生活共同体の核心は、人間の身体にある。体があって、それに食物を与える、衣服を着せる、家に住まわせる。それらの方法や考え方を中心に、共同体が成り立っている訳だ。そこに論理性は存在しにくい。理屈じゃなくて、ただ、延々と続く時間の中で、生活を営む。それが生活共同体であって、そこには必然的に同調圧力が存在する。次に利益共同体だけど、その中心にあるのは労働とその対価としての貨幣だ。そして、利益共同体は序列と分業を基本とした組織によって運営される。会社や役所は、そのような組織によって成り立っている。更に言うと、この2つの共同体を結ぶ働きが、人間社会には存在する。それが、教育なんだ。人間の社会には学校と呼ばれる機関があって、特に未成年者はそこへ通って勉強することが求められる。学校には先生がいて、実に様々なことを教えてもらえるのさ。

- それは素敵なことじゃない?

- それが必ずしもそうではないんだ。人間の子供は、様々な個性を持って生まれてくる。それは社会に適合する場合もあれば、そうでない場合もある。そんな子供たちを1人の例外もなく、社会に適合させて、会社や役所で働けるようにしようとする。それが、現在の教育システムなのさ。社会的な秩序からはずれるような個性は、痛めつけられる。そういう仕組みになっているから、学歴の高い者は、利益共同体の中で尊重されるんだ。それが、学歴主義を生む。俺は、そんなシステムは馬鹿馬鹿しいと思うけどね。正直言って、俺は学校が嫌いだった。

- 人間の世界って、だんだん嫌になってきたわ。

- そうだよね。でも、俺の話はまだ終わっていない。

- ・・・。

- ここまでで、生活共同体、利益共同体、そして教育の話をしてきた訳だけど、俺はそんな所に人間の希望があるとは思わない。でも、それらを心地よいと感じる人が多いのも事実なんだ。1つのタイプとしては、金持ちやエリートを挙げることができる。例えば、金持ちの家に生まれて、十分な教育を受けて学業エリートになる。もしくは、利益共同体の中で出世する。そんな人たちは、このシステムを維持したいと思っているに違いない。一方、貧困な家庭に育ち、エリート教育を受けることもなかった者たちは、忙しく働かなければならないので、社会システムに疑問を持ったりはしない。このような人たちを大衆と呼ぶことにしよう。そうしてみると、金持ちやエリート、そして大多数の大衆が、このようなシステムを支持することになる。特に統計がある訳ではないので大雑把な話しかできないけれど、そのように現在の社会システムを支持する人は、全体の9割程度だろうと思う。でも、残る1割の人は、このシステムの外を構想するんだ。そのことを指して、哲学の世界では「主体」と言う。そして、文学の世界では「私」と言う。例えば「私小説」といったように。

- うん。それは、個人のことなのね。

- そうなんだ。自分が所属している共同体の他にも世界がある。その世界の存在に気づいた人が、「私」という未知なる領域を発見することになる。その新たなる発見に立ち向かっていこうとする人には、必ず、何らかのきっかけがあると思う。それは、共同体の中で生きていくことへの疑問であったり、違和感であったり、挫折だったりする訳だ。しかし、それらとは異なるきっかけに出会う場合もある。

- 何かしら?

- それが、芸術だと俺は思う。芸術の本質は、現実の世界を普通とは異なる方法で、写し取ろうとする行為のことだ。例えば絵画。画家は、常に対象を独自の視点から見ようとしている。そして、その感性がどこからくるかと言えば、それは「私」の中にしかない。つまり、芸術作品を生み出そうとする努力は、自らの心に働き掛ける以外に方法がないことになる。そこで、優れた芸術作品から感銘を受けた人は、芸術家が向き合ったであろう「私」というものに共鳴するんだ。そして、その優れた芸術家と同じように、自分の中にも同じような「私」というものが棲息していることに気づく。

- 芸術っていうのは、そんなに素晴らしいものなの?

- うん。素晴らしいんだよ。そして、芸術作品というのは、必ず、人間がたった1人で取り組む孤独な作業から誕生する。画家は、1人で絵を描く。小説家もそうだ。音楽だって、最初は誰かが、たった1人で作曲するところから始まるって訳さ。

 

私は花ちゃんを膝の上にのせて、彼女の背中を撫でた。

 

- なんだか、今日のおじさんは、今までで1番元気そうに見えるわ。

- それは良かった。もう少し話を続けてもいいかい?

- どうぞ。

- この「私」というものを最初に発見したのは、古代ギリシャの哲学者だった。それから永い年月を経て、人間は近代という時代を迎える。そこで、近代的な自我というものを構想した。ところが、いくつかの事情があって、この構想は挫折したんだ。時代はどんどん複雑化して、混沌としてきた訳だ。そこで、この「私」という問題は新たな段階を迎えることとなった。というのは、共同体から放り出される人が増えたってことなんだ。まず、生活共同体の根幹は、家父長制にあった訳だ。つまり、家族の中で一番偉いのは、最年長の男性だとする制度のことなんだけど、女の側から何で男が偉いのかという疑問が提出された訳だ。そして、職業だって、選択の自由が保障されるべきだという考え方が台頭した。こうして、生活共同体が崩れて、そこから外に出て行く人が増えた。今はコンビニもあるから、必ずしも家族で同じ食事をとる必要すらなくなった。

- コンビニでは、カリカリだって売っているものね。

- そして、利益共同体については、かつての終身雇用制が崩れ、非正規雇用という形態が生まれた。非正規の人は、企業や役所から簡単にクビを切られてしまう。その共同体のインサイダーになることが禁じられる。このようにして、望んだ訳ではないのに、共同体から放り出されてしまった人たち、スポイルされる人たちが急激に増えたって訳さ。

- その人たちは、息苦しい共同体から解放されて幸せじゃないの?

- 共同体から解放されること自体は、確かに幸せかも知れない。しかし、貧困という課題が突き付けられるって訳さ。生活共同体がなければ、頼れる人がいない。利益共同体の内部に潜り込まなければ、お金を稼げない。そこで、家を持たないネットカフェ難民や、ホームレスと呼ばれる人々が急増している。みんなで労働を分担する、お金も分かち合う。そういう社会だったら、こんな問題は起きないのにね。

- 困ったわね。どうすればいいのかしら?

- うん。そこで、共同体を復活させよう、共同体に回帰しようという主張が出てくる。1つには、宗教の台頭を挙げることができる。例えば、いくつかのカルト団体は家父長制の復活を目指している。この問題は後で述べることにして、ここでは社会学という学問について、言っておきたいことがあるんだ。社会学っていうのは、多様性のもとでの共同性を探究する学問だと言われている。俺の理解としては、人間を集団として見て、そこに潜む原則を発見しようとする試みだということになる。しかし、その方法では「私」というものが視野に入ってこない。

- ちょっと、猫の私には難しい・・・。

- ごめん。でも、これだけは言っておきたい。社会学は、芸術を語ることができない。つまり、そうではなくて、俺は、新しい「私」を発見するべきだと言いたいんだ。近代的な自我がダメだとするなら、人類はもっと新しくて、しなやかで、強固な自我の確立を目指すべきだと思う。でも、この話を深めるためには、そろそろ魂について、考える必要がありそうだね。

- 魂って、何?

 

猫と語る(第5話) 利益共同体

 

翌週も、私はにゃんこ村を訪れた。いつものベンチに座って、ピーナッツを食べている。結局、かりんとうはおいしいので、食べ過ぎてしまうのだ。食べ過ぎれば、それは体重の増加につながる。ピーナッツであれば、かりんとう程食べ過ぎることはないし、食物繊維を多分に含んでいるので、健康にも良いという説がある。一度に沢山のピーナッツを口に含むと、結局、食べ過ぎてしまうのだ。そこで私は、自分に1つのルールを課すことにした。一度に食べるのは5粒以内にするということなのだ。5粒のピーナッツをよく噛んで、食べる。そうすれば、食べる総量を抑制することが可能となるはずだ。

 

ポリポリと音を立てながらピーナッツを食べていると、突然、足元に何かが触れたのだった。足元を覗き込むと、そこには花ちゃんがいた。私は、いつものように地面に紙の皿を置き、そこにカリカリを注いだ。今日のカリカリは、マグロ味だった。花ちゃんは、それをおいしそうに食べた。食べ終わると花ちゃんは、ベンチの上に飛び乗り、私の太ももに左手を置いた。肉球の感触が微かに伝わってくる。

 

- それじゃあ、始めようか。

- うん、レッスン2ね。

 

花ちゃんはそう言って、私の顔を見上げた。

 

- 前回は、生活共同体の話をしたけれど、多くの場合、人はそこに留まることができない。そこから人は、利益共同体へと移行しなければならないんだ。利益共同体というのは、人間が労働することによって成立している。会社とか、役所とか、つまり働く場所のことなんだよ。

- 働くって、どういうこと?

- いい質問だ。そう言えば君たち猫は、働かないよね。仕事もなければ、用事もない。会議をしたり、手続をしたり、そういうことはないよね。働くっていうのは、人間が体や頭を使って、何らかの価値を生み出す作業のことなんだよ。生み出された価値は、利益となる。その利益を集団で共有するのが、利益共同体っていうことなんだ。働くということは、人間の1つの特徴になっている。

- 私は働いたことがないから分からないけど、それは楽しいことなの?

- 楽しいと感じる人も少なくはない。しかし、多くの場合、それはとてもシンドイことだと思う。辛いと感じる人の方が、圧倒的に多いんだろうと俺は思うよ。

- そんなにシンドイことなのに、何故、人間は働こうとするの?

- うん。それはね、お金を稼ぐためなんだよ。お金は、何にでも交換することができる。食べ物だって、衣服だって、家だって、みんなお金があれば購入することができる。だから、みんなお金を稼ぐために働くっていう訳さ。

- ふうん。

- そこでね、1つの問題が発生する。人間が一生を暮らしていくために必要な金額は、いくらだろう。仮に1か月を20万円で暮らせるとしよう。20才までは親の世話になるとして、90才まで生きるとすると残りは70年だ。そこにクルマ代や住居費などを加算して考えると、ざっくり言って2億円が必要ということになる。つまり、20才の人間がいたとして、その人が2億円持っていたとしよう。すると、その人は働かないで、一生、遊んで暮らせるっていう訳なんだ。

- なるほどね。その人は、あたし達、猫と同じように気楽に過ごせるということね。

- そうだ。でも、そんな人間は、ほとんどいないんだよ。だから、ほとんどの人は、働くことになるのさ。でもね、ここで思考実験をしてみよう。仮に、全ての人が20才の時点で2億円持っていたとしよう。そうすると、世の中はどうなるだろうか。

- 働く人がいなくなるわね。

- そうなんだよ。元来、人間は怠け者だから、働きたくはない。そして、2億円あれば生きていけるので、働く必要がなくなる。しかし、それでは人間の社会は成り立たない。現在の社会システムを維持するだけでも、多くの人々の労働が必要だ。誰かが食料を生産する。衣服を生産する。家を建築する。物を運ぶ。それらの労働がなければ、人間の社会は1日たりとも成り立たない。

- カリカリやチュールを作る人もいるってことね。

- そうなんだよ。そこで、どのような現象が起こるか。それが問題だと思う。誰も言わないけど、俺ははっきり言おうと思う。つまり、人間の社会は誰かが働かなければ成立しない。そこで、誰かを働かせるために、人間の社会は意図的に貧困状態を作り出しているってことさ。

- 誰がそんなことをしているの?

- それは権力者であり、金持ちがそういう仕組みを意図的に作り出しているのさ。

- それって、酷くない?

- 酷いよ。本当は、みんなで必要な労働を分担すればいいんだよ。金持ちだって、働くようにすればいいのさ。でもね、このシステムは、そう長くは続かないんだよ。貧乏な人は、一生懸命働く。そうだろ? すると新しい発明がなされて、世の中はどんどん良い方向へと向かう。貧乏な人だって、少しずつ裕福になっていく訳だ。そうすると、権力者や金持ちは困る。何しろ、彼らは働きたくない訳だからさ。そこで登場するのが、税金なんだ。貧しい人々が裕福になりそうになると、彼らは税金を取り立てるのさ。そして、税金を取られた人は、働き続けることになる。

- それじゃあ、貧乏な人はいつまでたっても貧乏なままってこと?

- そうなんだ。それが、人間社会のシステムの本質だと思う。でも、それだけじゃない。もう1つ、問題がある。貧乏な人々が一生懸命働くと、供給力が強化される訳だ。道路や橋だって、いくらでも作れるようになる。しかし、道路や橋が無限に必要という訳じゃない。つまり、供給力が強化されると、いつかそれは需要を上回ってしまうんだ。そして、需要が不足すると、仕事が減ってしまう。そこで使われるのが、戦争なんだ。どこかの国が攻めて来るとか、そんな嘘をついて、軍事費を増やそうとするのさ。そして、軍事費を賄うために、更に増税するんだ。北朝鮮がそうだけど、今、日本もそうなろうとしている。本当はそんな戦争、回避することができるのにね。ひと度、戦争が始まれば、若者や貧乏人ばかりが死ぬことになる。街は破壊される。そして、新たな需要が生まれるって訳さ。新たな需要は、またしても金持ちたちの金儲けに一役買う訳さ。

- それが戦争のメカニズムなの?

- うん。そうだと思う。

 

言葉を続けることができなかった。花ちゃんも黙りこくっていた。いつしか、他の猫たちが集まってきていた。私は、駐車場の車輪止めになっているコンクリートの上に、カリカリを置こうとした。しかし、待てない猫たちが、私が持っているカリカリの袋めがけて突進してくるのだ。私は左手で猫たちを牽制しながら、右手でカリカリを置こうとするのだが、次の瞬間、右手の甲に激痛が走った。待ち切れなくなった八割れのハチが、私の手に爪を立てたのだ。本気を出したときの猫の動作はとても素早いのであって、人間である私に、それを避ける術はなかった。激痛と共に、私は、カリカリの袋を放り投げていた。手の甲からは、血が流れていた。カリカリは、地面に散乱した。

 

- この野郎、ハチ! 何をするんだ!

 

私はそう怒鳴って、ハチに対して蹴りつけるふりをした。怯んだハチは、後ずさった。すると、頭上からカラスの声が聞こえた。

 

- カー、カッ、カッ、カッ!

 

花ちゃんが叫ぶ。

 

- カラスの黒三郎め。お前はいつだって高い所にいて、誰かが困ったり失敗したりするのを見て笑っている。お前みたいな奴を冷笑主義者って言うんだよ!

 

花ちゃんが見ている先を眼で追うと、確かにそこには一羽のカラスが梢にとまっているのだった。

 

カラスの黒三郎は冷笑主義者だった

- アー、アー、アー!

 

カラスの黒三郎は、ひときわ大きな声でそう鳴いた。すると、山の方から無数のカラスが押し寄せて来るのだった。その数に圧倒された私は、思わず花ちゃんを抱きかかえ、コンビニの方へ向かって10メートル程、退避した。すると、百羽だか二百羽だかのカラスが一斉に地面へと降りてきて、カリカリをついばみ始めるのだった。

 

- まさか・・・。あいつら、カリカリも食べるのか。

- そうね。彼らは雑食だから。

 

私の腕の中で花ちゃんは、冷静にそう答えた。交錯する無数の黒い羽の向こう側に、一瞬だけ、ハチの背中が見えた

 

猫と語る(第4話) 生活共同体

 

数日後、私は再びにゃんこ村を訪れ、いつものベンチに腰かけていた。手にはかりんとうの袋を持っている。サクサクとした歯触りを楽しみ、その後にやってくる黒蜜の甘さを堪能しているのである。このかりんとうは、特蜜2度がけ製法によって作られた特別なものなのである。もう止めようと思いつつ、つい手が伸びてしまう。

 

実は、私のダイエット経験は長い。お腹をへこませようと思って、かつて自転車に凝ったことがある。10台近く乗り継いだ。ロードバイクに乗って、1日に136キロ走破したこともある。最近は便利なデジタルメーターがあって、自転車でもスピードや走行距離を計測することができるのだ。136キロも走ると、痛烈な空腹感に襲われる。そして私は、とんかつ屋へと駆け込み、自分もお店の人も驚くほど、とんかつをむさぼり食べたのだった。結果として、私のお腹は一向にへこまない。そのときの経験から、私は、運動をしてもダイエットはできないという教訓を学んだのである。

 

結局、かりんとうの袋も空になってしまった。私は立ち上がって、食べこぼしたかりんとうを衣服から払った。何となく気になったので、地面に落ちたかりんとうを眺めた。すると、小さな破片を2匹の蟻(アリ)がせっせと運んでいるではないか。彼らは協力しながら、一つの方向へかりんとうの破片を運ぼうとしている。その先には、きっと彼らの巣があるのだろう。

 

私は立ち上がって、辺りを見渡した。この広いサッカー場ほどもある場所で、私がここに来て、かりんとうを食べこぼすなどということを蟻たちが知るはずはない。すると、彼らはこの場所のいたるところにいて、何か食べ物、甘い物が落ちていないか、くまなく探しているということなのだろうか。私は、蟻たちの営みに圧倒される思いだった。

 

駐車場の南の端に、桜の老木が立っている。その方向から、一匹の猫が私の方に向かって、トコトコとやってくるのが見えた。手を振ると、その猫はニャーと声をあげた。花ちゃんだった。

 

- お腹すいているかい?

- ええ、とっても。

 

私は紙の皿を地面に置き、その上にカリカリをたっぷりと注いだ。花ちゃんは、一心不乱にそれをむさぼった。食べ終わった花ちゃんは、ベンチに飛び乗り、私の右隣に座った。私は花ちゃんの頭を軽く撫でてから、言った。

 

- それじゃあ、始めようか。人間の世界についての話。今日は1回目だから、レッスン1というところだね。

- ええ、お願い。このレッスンは、何回くらい続くの?

- さて、それは俺にも分からないけど、4~5回かな。

 

花ちゃんは頷いて、私の顔を見上げた。

 

- まず、人間が生まれると、その子は生活共同体に属することになる。生活共同体というのは、生活を共にする人間集団のことで、その最小単位は家族ということになる。多くの場合、家族は同じ家に住んでいる。親がいて、子供がいる。それが家族だ。家の中にいれば、雨や風を凌ぐことができるし、冬は暖かく、夏は涼しい。昼間は働いている人間も、夜には大体、家に帰る。そして、家族は家の中で夕食を共にする場合が多い。

- 人間の住む家というのは、そういうものだったのね。あたしたち野良猫には家がないから、とても羨ましいわ。

- うん。雨の日や風の日は、家って本当にありがたいなと思うよ。確かに家は、人間にとって必要なものだと思う。でも、家族にはいろんな問題があるんだよ。

- あら、そうなの?

- うん。子供が小さい頃はいい。その時点での親子関係は単純だ。親は子供を100%支配する。そして、子供は親に100%依存する訳だ。赤ん坊や小さな子供は、生きていく上で必要最小限の知識さえ持っていないから、それは当然のことだ。しかし、子供は急速に成長する。すぐに食べていいものとそうでないものとを識別できるようになるし、体だって大きくなる。そこで、親子関係に変化が生まれる。親の方は相変わらず100%子供を支配しようとするけど、子供の方は親への依存度を減らしていくわけだ。そこで、「敵対性の否認」という問題が発生するんだよ。

- 何それ? あんまり難しい話はやめてよ。何しろ、あたしは猫なんだからさ。猫でも分かるように説明して!

- 分かった、大丈夫だよ。やさしく説明するから。まず、敵対性というのは、利害関係が一致しないことなんだよ。例えば、親は子供に家業を継がせたいと思う。子供は家業ではなく、別の仕事に就きたいと思う。こうした場合、親子の間で利害関係は対立していることになるよね。この利害関係の対立のことを敵対性という訳だ。次に、否認ということだけれど、これはある事柄が実際には存在しているのに、それを認めようとしないことなんだ。つまり、敵対性の否認というのは、実際には利害関係が対立しているのに、その対立を認めようとしないという意味なんだ。よく「お母さんはあなたのためを思って言っているのよ」という発言があるけど、これは典型的な敵対性の否認ということになる。

- なるほど。それは分かったけれど、そんなことばっかり言うと女性から嫌われるわよ。

- 忠告、ありがとう。でも、この話はね、政治学者の白井聡さんの説なんだよ。文句がある人は、白井さんに言って欲しい。

- あら、随分と逃げ腰なのね。それで、敵対性の否認を回避するためには、どうすればいいの?

- それはね、子供が成長するように、親も成長すればいいんだ。それができない、つまり親が成長できない事例において、問題が発生すると思う。これは俺自身の考え方だけれどね。子供は成長するにつれ、親への依存を低めていく。それと同じように、親は子供への支配を低めていく必要がある。やがて子供は大人になる。その時点では、支配や依存という関係は解消されていなければならない。誰かを支配しようと思ってはいけない。誰かに依存しようと思ってもいけない。誰かのために生きようと思ってはいけない。自分のために生きなければいけないんだ。

- ふうん。人間の世界も、結構、大変なのね。

- 猫の場合は、子供がある程度大きくなると、母猫が子猫を突き放すよね。それって、人間の場合よりも自然の摂理にかなっていると思うよ。

- そうかもね。でも、成長するっていうのは、どういうこと?

- それはね、同じ場所に留まらないってことだと思う。A地点からB地点へ移動する。同じ考え方ばかりしていては、人間は成長しない。過去の自分を否定しなければ、成長はできない。例えば、毎日、カンナを使って柱を削っている大工さんがいたとしよう。昨日と同じように削ろうと思っていては、その大工さんは成長しない。昨日のやり方よりも、きっともっといいやり方があるに違いない。そう思って、新しい技術を目指している大工さんであれば、成長できるってことなんだ。

- 分かったわ。でも、少し疲れた。

- そうだね、レッスン1はここまでにしておこう。

 

私はそう言って、花ちゃんの背中を撫でた。

 

猫と語る(第3話) にゃんこ村の不思議

 

- 花ちゃんは、人間の言葉を話すことができるんだね! せっかくだから、あそこのベンチに座って、少し話さないか?

 

花ちゃんはうなずくと、ベンチに向かって歩きだした。私が先にベンチに腰を下ろすと、花ちゃんはベンチに飛び乗り、私の右隣りに座った。

 

- そうね。あたしたちには、話さなければいけないことが、沢山あるみたい。まず、にゃんこ村のこと。

- にゃんこ村?

- そう。ここら辺は、にゃんこ村という場所なの。それは、動物の世界と人間の世界が交錯する場所なのよ。だからあたしたちは、こうして話すことができているの。でも、実はあたしも驚いたのよ。

- ・・・と言うと?

- あたしは今まで、何人もの人間に話しかけてきたわ。でも、あたしの言葉を理解してくれたのは、おじさんが初めて。

 

少しの間、花ちゃんは黙った。私は彼女の背中を撫でた。花ちゃんは、気持ちよさそうに眼を細めた。

 

- もしかすると、おじさんの前世は、猫だったのかも知れないわね。

- えっ、俺の前世が・・・。

- そう。だって、見るところおじさんは猫背でしょ。それが証拠。

- ちょっと待ってくれよ、花ちゃん。確かに俺は、若い頃から姿勢が悪い。でも俺は、前世だとかそういうことは、信じないたちなんだよ。

 

花ちゃんは、私の膝に手を置くと、爪を伸ばして引っ掻いた。

 

- おじさん。1つだけ守ってもらいたいルールがあるの。ここ、にゃんこ村ではあらゆる先入観や固定観念は捨てること。思い込みがいかに馬鹿馬鹿しいか、おじさんはそのことを知ってるんじゃないの? 第一、猫であるあたしと人間のおじさんが、現にこうして会話をしている。そのこと自体、説明がつかないでしょ。でも、そんなことって、実は沢山あるのよ。おじさん、だから心を開いて。

 

私は、返す言葉が見つからなかった。花ちゃんの言う通りだと思った。世界は広く、神秘に充ちている。人間はまだ、ほんの少ししか知らないのだ。

 

- 分かったよ、花ちゃん。できるだけ、努力してみる。約束するよ。

 

花ちゃんは、私の膝から手を離して、言った。

 

- 分かってくれて嬉しいわ。ところで、おじさん。チュール持ってない。

 

私は、急いでムーミンの刺繍がほどこされた黒のショルダーバッグを開いた。そこには猫グッズが詰まっている。通常、このバッグにはカリカリ、チュール、紙の皿、ゴミ袋、そしてセロハンテープを入れている。花ちゃんがスリスリをしてくれるのは嬉しいのだが、すると私のジーンズに花ちゃんの体毛がべったりと付着してしまうのだ。黒のジーンズをはいているときには、特に目立ってしまう。帰宅後にそれを掃除機で除去しようとしたこともあったが、なかなか取れない。そこで私は、セロハンテープをぺったんぺったんとやって、花ちゃんの体毛を除去する方法を考案したのである。

 

私が差し出したチュールを花ちゃんは、舌を素早く動かして、舐め取っていく。花ちゃんの舌の動きに合わせてチュールを絞り出していくと、チュールはあっという間になくなってしまう。丁寧に絞っていくと、最後に花ちゃんの舌が私の指先に触れるのだった。ザラッとした感触があった。

 

- おいしかったかい?

- ええ、とっても。実は、おじさん・・・。おじさんにお願いがあるの。

- 何? 何でも言ってごらん。

- あたし、人間の世界がどうなっているのか知りたいのよ。人間が住んでいる世界がどうなっているのか、あたしに教えて欲しいの。

 

人間の世界。私は一瞬、返事をためらった。簡単なようで、それをどう説明すればよいのか、思いあぐねたのである。でも私は、それを説明する漠然としたイメージを持っていた。

 

- 分かった。いいよ。説明してあげる。でも、それは簡単なことじゃないし、少し時間のかかることなんだ。それでもいいかい?

- いいわ、ありがとう。

- でも、花ちゃん。どうしてそんなことを知りたいの?

- 実はね。あたしの来世のことなんだけれど。あたしは、人間に生まれ変わるための秘密の呪文を知っているのよ。死ぬ前にその呪文を唱えれば、あたしは来世において、人間に生まれ変わることができる。もう一度、猫として生きるか、来世は人間として生きるか、迷っているのよ。

- へえ、そうだったんだ。でも、どうして人間になんか興味を持ったんだい?

- だって、人間はチュールを持っているでしょ。カリカリだって。それを猫は持っていない。人間から与えてもらうだけ。だから、あたしは人間の世界を知りたいの。

- 分かったよ、花ちゃん。少し考えて、今度会ったときから、少しずつ説明させてもらうよ。

 

そう言って、私は花ちゃんに別れを告げた。立ち去ろうとする私を、花ちゃんはいつまでも見送っていた。

 

立ち去る私を見送る花ちゃん

 

猫と語る(第2話) 出会い

 

猫を撫でたときのあの感触が忘れられなくて、私は事あるごとに海辺のコンビニへ通うようになった。西の方角から説明すると、まず、山の斜面がある。斜面の縁に沿って、道路が走っている。道路に面して、コンビニがある。コンビニの裏手、すなわち東側が駐車場になっている。駐車場の広さは、サッカー場と同じ位だ。駐車場の端に、古びた茶色のベンチがあって、そこからは東に広がる海を見渡すことができる。ベンチの数メートル先には緑色のフェンスがあって、その先は崖になっている。ベンチの位置と海面との間には50メートルほどの落差がある。

 

コンビニへ行く度に、私は猫を探した。猫はコンビニの入り口付近よりも、むしろ広大な駐車場のどこかに潜んでいることの方が多かった。追いかけると猫は逃げて行く。むしろしゃがんで、つまり猫と目線の高さを合わせて、猫が近づいてくるのを待つ方が、彼らと仲良くなれるのだった。猫たちの多くは、物欲しそうな眼で私を見た。何が欲しいのだろうと思う訳だが、答えは簡単だった。彼らはいつも空腹なのだ。何か、食べる物が欲しいに違いない。そう思って、最初、私は食べ残したパンの切れ端を与えてみたが、猫はそれを食べなかった。煮干しだったら食べるだろうか。そうも思ったのだが、私は煮干しをどこで買えば良いのか知らなかった。思いあぐねて、コンビニの棚を丁寧に確認していくと、猫の餌が置いてあることに気づいた。猫の主食であるカリカリと、おやつとしてのチュール。そして少し高価だが、カツオの切り身もあった。これは、人間が食べてもおいしそうだった。

 

早速、カリカリを購入して、足早に駐車場へと向かう。カリカリの袋をこれみよがしにかざしていると、どこからともなく猫が寄ってくる。どうすれば良いのか分からず、当初、私はカリカリを地面に直接置いてみた。猫はそれを食べたが、それでは猫に失礼だと思った。反省した私は、後日、コンビニで紙の皿を買った。これには底の浅いものと深いものとがあるが、猫が食べやすいのは底の深い方の皿である。私は、猫も人間と同じように、唇や歯で食物を挟んで食べるのだろうと思っていたが、そうではなかった。猫は舌を使って、食物を絡め取るのである。

 

猫が1匹しかいない場合、カリカリの皿は1枚で足りるが、複数の猫がいた場合、カリカリの奪い合いになる。その場合、体の大きな猫がカリカリを独占してしまう。それでは小さい方の猫が可哀そうなので、このような場合、私はカリカリをコンクリートの縁などに小分けにして置くことにした。そうすれば、何匹いても猫たちは仲良く食事を楽しむことができるのだ。

 

 

猫たちがいて、私がいて、両者を繋ぐカリカリがある。こうして、私は急速に猫たちとの距離を縮めていった。

 

当初、私は漠然と猫がいるとしか認識していなかったが、見慣れてくるとそれぞれの猫に個性のあることが分かってくる。白黒模様で、額の辺りが八の字に割れている者がいる。一般にハチワレと呼ばれるタイプで、私はその猫を「ハチ」と名付けた。2匹の子猫を連れている三毛猫もいた。私は彼女を「三毛猫母さん」と呼んだ。黒猫もいた。彼はいつも1人でいて、孤独を愛しているようだった。しっぽの付け根辺りを叩くと喜ぶ猫もいた。一般にこの行為は「腰トントン」と呼ばれるもので、その辺りには猫の神経が集中しているらしい。「おしりポンポン」と言う人もいるが、私は彼女をトントン猫の「トンちゃん」と名付けた。

 

やがて、1匹の猫が特に私になつき始めた。私を発見すると彼女は私の足にまとわりつき、体をスリスリと寄せてくる。ときには、頭を私の足にぶつけてきたりする。かわいい。私は、当時ファンだった女子プロレスラーの木村花さんにちなんで、その猫を「花ちゃん」と名づけた。

 

たまに野良猫に話しかけているおばさんを見かける。そのような女性を猫界隈では「猫おばさん」と呼ぶ。一体、何を話しているのだろうと思っていた訳だが、いつか私も花ちゃんに話しかけるようになっていた。私はもう、正真正銘の「猫おじさん」になったのである。

 

- 花ちゃんさあ、花ちゃんの尻尾ってシマシマだね。

- ニャー。

- そうだ、花ちゃん。ジャンケンして遊ぼうか。あ、でも無理だね。だって、花ちゃんはグーしか出せないからさ。

- ニャー、ニャー。

- ところで花ちゃんさあ、三味線って知ってる?

- ニャオ。

- ああ、やっぱり知らないんだ。でもさ、いいんだよ。そんなこと知らなくて。

 

 

ある日のことだった。私は、いつものように花ちゃんに語り掛けていた。

 

- 花ちゃんさあ、一昨日だったかな。酷い雨が降ったよね。そのとき、花ちゃんはどこにいたの?

- あそこの軽トラの下。

- へえ、そうなんだ。・・・えっ!

- ほら、あそこに白い軽トラがいつも停まっているでしょ。その下にいて、雨を凌いだのよ。

 

花ちゃんはそう言って、私の顔を見上げた。

 

猫と語る(第1話) 夏の終わりに

 

クルマを走らせて、いつものコンビニへ行ったのだが、そこではある物を買うことができなかった。ある物とは、かりんとうのことだ。何を隠そう、最近、私はこれにはまっている。サクサクとした歯触りがあって、その後、口の中にほんのりと広がる黒糖の甘み。これがたまらない。いわゆるビール腹になってしまった私は、ダイエットに挑戦中である。ダイエット中なのだから、甘い物は控えた方が良いのは分かっている。しかし、かりんとうのあの味が忘れられない。ネットで調べてみると、ダイエット中でも食べ過ぎなければ良いとのこと。そうだ、食べ過ぎなければ、かりんとうを食べても良いのである。

 

どうしよう。しばらく迷ったあとで、私は、別のコンビニを目指すことに決めた。

 

海岸沿いに車を走らせると、左手に漁港が見えてくる。多くの漁船が泊まっている。但し、そのほとんどは既に漁を止め、観光客相手の釣り船として使用されているらしい。かつては、呆れるほどイカがとれたのだが、最近は、めっきりとれなくなった。昨年、港の中にある市場の面積も半分に縮小されてしまった。

 

エアコンを止めて、窓を開けてみる。心地よい潮風が、頬を撫でる。

 

海水浴シーズンだと、この辺り一帯の道路は酷い渋滞に悩まされる。しかし、お盆の時期も過ぎた今は、快適なドライブを楽しむことができる。右手に神社を見て更に進むと、トンネルに差し掛かる。そこからしばらく登り坂が続く。2つ目のトンネルを過ぎると、突然視界が開け、左手に大海原が広がって見える。ここは絶景スポットと言える場所で、元旦には初日の出を見ようと、何台ものクルマが集まるのである。

 

曲がりくねった道を更に進むと、真新しいコンビニの看板が目についた。走り慣れた道だが、初めて見るコンビニだった。裏手にはだだっ広い敷地があって、その全てが駐車場になっていた。停まっているクルマは、まばらだった。

 

コンビニの中は、全てがピカピカだった。天井も床も、そして所せましと陳列されている商品の全てが、光り輝いているように見えた。私はかりんとうを2袋購入した。レジを済ませて表に出ると、少女の声が聞こえた。

 

- あっ、こんな所に猫がいる!

 

見ると、コンビニの壁の近くに猫がうずくまっている。猫の近くにしゃがみ込むと、少女はためらうことなく猫の背中を撫で始めた。

 

- ママ、この猫、連れて帰りたい!

- だめよ。誰かの飼い猫かも知れないでしょ。

- ちぇっ。つまんないの。

 

親子連れが立ち去ると、そこには猫と私だけが取り残された。私は、猫の背後に立っている。猫が私の存在に気づいているのかどうか、それは分からない。近寄ってみると、その猫は熱心に自分の手を舐めているのだった。

 

私は、ふと猫の背中を撫でてみたいと思った。先ほどの少女は、いとも簡単にそれをやってのけたのだ。私にできないはずはない。しゃがみこんで、掌を猫の背中にそっと当ててみる。何という感触だろう! 少しざらざらしていて、暖かい感じがした。肩の辺りを触ると、うっすらと猫の骨格を感じた。何よりも驚いたのは、その猫が私に撫でられていることに全く頓着のないことだった。自分よりも十倍は大きな人間という動物に触られているというのに、その猫は全くそんなことを気にすることなく、ただ、自分の手を舐めているのだ。

 

その日から、私は何となく猫に惹かれ始めたのだった。