文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

イノベーションの終焉

 

それがいつの頃から始まったのか、私は知らない。多分、その答えは資本論に書いてあるのだろう。

 

資本家が出資して、会社を作った。会社は多くの労働者を雇用し、何かを製造し始める。会社が製造したものを消費者が購入する。しかし、そのためには消費者がある程度の資金を持つ必要がある。そこで、会社は賃金を上昇させて、人々に商品を購入するための資金を提供した。最初にそれをやったのは、米国のフォードだと言われている。こうして、会社が成長すると共に、中産階級が生まれた。ハッピーエンドである。

 

しかし、この話には続きがある。人々が欲しがる商品、象徴的にここではクルマだとしよう。当初、人々は車を持っていなかった。だから、上の例に従って言えば、フォードのクルマは飛ぶように売れたのである。何年か、若しくは何十年かそんなことを続けていると、一通り、人々にクルマが行き渡ることになる。すると、クルマの販売量は減少する。新規需要は急減し、代替需要に依存するようになる。会社は儲からず、消費者も困窮する。供給過多、需要不足の状態に陥る訳だ。この状態を解消するためには、新たな需要を探す必要がある。そこで、侵略戦争が始まる。武力で他国を制圧し、植民地化する訳だ。

 

多分、こうして2度に渡る世界戦争が繰り広げられたのだ。しかし、すぐに世界的な規模で戦争をする訳にはいかなくなった。核兵器が登場したからだ。核兵器はまたたく間に世界中に拡散した。需要不足は深刻度を増す訳だが、最早、世界戦争もその解決策にはなり得なくなった。こうして、人類、とりわけ先進諸国は困り果てたのである。

 

この構造的な需要不足を解消するための手段として、グローバリズムが登場する。自国内で需要を掘り起こすことが困難になった先進諸国は、他国への輸出に頼ろうとしたのである。そのために貿易のルールなどを一元化し、輸出入の手続を簡素化した。このルールに乗じて、最初に台頭したのは日本だった。日本は高品質、低価格のクルマを大量に作って、米国に輸出した。Japan as No. 1とまで言われた時代のことである。慌てた米国は、日本を叩き始めた。1つには1985年のプラザ合意があり、2つ目としては1989年に開始された日米構造協議がある。こうして日本のバブルは1990年頃にはじけたのである。以後、日本の経済は30年以上に渡って、停滞を続けている。

 

日本の次に台頭したのは、中国である。中国は外国資本を積極的に取り入れ、膨大な国内需要と低賃金を梃子に、急成長を遂げた。経済分野に留まらず、軍事力においても中国は急拡大を続けており、これが現在の米中対立を生んでいる。敗戦国である日本は簡単に米国の圧力に屈したが、中国は強気の姿勢を崩していない。仮に中国が勝った場合、世界の秩序は急変するだろう。

 

さて、需要不足をいかに解消するか、という問題に戻ろう。もう1つの方策、それはイノベーションである。思えば日本の高度成長期(1955-1973)を支えたのは、科学技術が生み出す新商品ではなかったか。洗濯機や冷蔵庫、テレビや電話などが普及したのはこの時期だ。次々に生み出される新商品が、新たな需要を創出したのである。余談だが、洗濯機が登場する以前は、洗濯板というものを使っていた。今の若い人は、そんなもの見たこともないだろう。

 

それらのイノベーションについて思い浮かべてみる訳だが、最新のそれは、IT技術だと思う。Windows 95の登場が、ビジネスを一変させた。もう28年も前の話だ。それ以降、私たちの実生活を急変させるようなイノベーションは、起こっているのだろうか? 答えはノーだと、私は思う。率直に言えば、あらゆる面においてイノベーションとは、20世紀に起こった出来事であって、21世紀の今日においては、最早、起こり得ない夢に過ぎないのではないか。

 

福島第1原発メルトダウンは、12年も前の出来事である。当時は、フランスの会社が対応技術を持っているのではないかとか、ロボットを使って燃料棒を取り出せるのではないか、などという議論がなされたが、いずれも実現していない。ただ、ひたすら水を掛けて冷やし続けているのである。結果として大量の汚染水が生まれた訳だ。政府や東電は、これを処理水と呼べと主張しているようだが、そんなもの、汚染しているに決まっている。更には、汚染水を海に放出する計画だというから、驚く他はない。

 

原発に代わる自然エネルギーへの期待も高まっているが、結局のところ、太陽光発電風力発電も環境を破壊することに変わりはなく、一向に有力な手段は出て来ない。

 

クルマについて言えば、環境に優しいという謳い文句で電気自動車が脚光を浴びているが、そこで使われる電気だって、結局のところ、原発によって発電されているのだ。

 

文化系の私が言うのもなんだが、結局のところ、地球上に存在する物質の種類には限りがあるのであって、自然科学が無限に発達するということはなく、どこかで限界に達するのだ。そして、その限界は20世紀に迎えたのではないか。

 

では、21世紀に生きる私たちは、どうすべきなのか。持続可能性(sustainability)という尺度で科学技術を選別し、持続不可能なものを切り捨てていく必要があると思う。

 

ついでと言ってはなんだが、ここで基軸通貨について記しておこう。戦後まもなく、国際取引に用いられる基軸通貨は、米ドルとすることになった。例えば、途上国などが破綻した場合、その国が発行する通貨の価値はなくなるので、危険だ。そこで、最も信用できる通貨を各国で共に使おうじゃないか、ということになる。そして、外国から何らかの物品を輸入したいと考える国は、米ドルを取得する必要に迫られたのである。米ドルを取得するためには、市場でドルを購入するという方法もあるが、そのための資金を準備するのは大変だ。手っ取り早く米ドルを入手するには、米国に物品を輸出し、米ドルで代金を払ってもらうことになる。こうして、各国は競って米国への輸出に務めたのである。一方、米国はいくらでもドル紙幣を印刷することができる。こうして、世界中の富が米国へと流れ、米国民は贅沢の限りを尽くすことができたのである。誰が考えたのかは知らないが、世の中にはずる賢い人間がいるものだ。

 

このような仕組みによって、現在、日本は100兆円を超える米ドルを保有している。中国も同程度の米ドルを保有している。

 

しかし、米国が独り勝ちする仕組みも、長くは続かない。ある程度、各国の米ドル保有残高が積み上がってくると、それ以上、米ドルを取得する必要がなくなるからである。それにも関わらず、米国がドル紙幣を刷り続けると、今度はドルの価値が下落し、ドルの信用が失われる危険が生ずる。

 

また、米ドル離れという現象も起こり始めている。例えば、EUがそうだ。ヨーロッパを1つの経済圏とし、共通通貨であるユーロを使い始めた。最近では、戦争中のロシアが油や天然ガスの取引にはルーブルを使えと主張した。

 

こうして、米国は軍事的にも経済的にも凋落の一途を辿っているのである。

 

時代が動くとき

 

        権力

       |

身体 ――――|―――― 「知」

       |

       主体

 

上の図を眺めていると、これによって過去の思想家たちのポジションをある程度、理解することが可能だということに気づく。

 

まず、トマス・ホッブズ(1588-1679)。ホッブズは、人間には自然権、すなわち生きる権利があると考えた。その帰結として、死刑囚には看守の目をかいくぐって絞首台から逃げる権利があると主張した。これは、国家権力と主体との対立関係を説いている。

(権力 ― 主体)

 

次に、啓蒙思想ならびにカント(1724-1804)。理性主義者であったカントは、大衆(身体)よりも理性(「知」)を上位に位置付け、大衆のレベルを引き上げるべきだと考えた。

(身体 ― 「知」)

 

マルクス(1818-1883)の場合は、自ら共産主義という「知」を提唱し、労働者による階級闘争を勧めた。労働者とは身体であり、闘争の対象は権力である。

(「知」 ― 身体 ― 権力)

 

サルトル(1905-1980)は、人間は自由な存在だと考えて、これを権力と対比させた。自由な存在としての人間とは、主体のことである。

(主体 ― 権力)

 

レヴィ=ストロース(1908-2009)は、人間は構造の中に生きていると考え、ヨーロッパ中心主義や人間の自由、すなわち主体を否定した。

 

そして、ミシェル・フーコー(1926-1984)が登場する。フーコーの思想は複雑で、それを簡略化して述べることには、危険が伴う。しかし、ある仮説の成り立つことに気づく。例えば、フーコーは「監獄の誕生」において、人間の「知」そのものを否定、若しくは相対化したのだ。そして、「性の歴史」においては、同性愛を禁止するキリスト教的な価値観が登場する以前の古代ギリシャを描くことによって、「知」の以前に身体が存在することを証明しようとしたのではないか。身体と「知」の関係を基軸に置くという点で、フーコーの立ち位置は、啓蒙思想やカントに類似する。しかし、カントらが「知」を身体よりも上位に位置付けたのに対し、フーコーはその逆で、身体を「知」よりも上位に置いたのだと思う。なんと先鋭的な思想だろう!

 

しかし、今日の選択的夫婦別姓同性婚、その他LGBTQに関する論議を見ていると、フーコーがいかに正しかったのか、その証左を見るような気がする。男と女が結婚をして、家庭を作り、もって社会の秩序となすべきだという「知」があり、それを根底から覆そうという運動が、身体の側からなされているのだ。

 

フーコーは鮮やかに人間の「知」を否定してみせたのであって、ある意味、それは哲学の終焉を告げる号砲となった。しかし、この解釈はフーコーの真意を表わしていない。フーコーはそれでも思考せよと述べているのであって、彼は、身体から出発して「知」を再構築せよ、と言っているのだと思う。そしてその時にこそ、時代が動くのではないか。

 

権力についての試論

 

ボールペンで書いた一見シンプルなこの図をデスクマットの下に置いて、私は毎日、それを眺めている。

 

        権力

       |

身体 ――――|―――― 「知」

       |

        主体

 

人間の文明を構成要素に分解すると、上の図における4つの要素に還元されるのではないか。そして、文明が大きく変化するとき、これら4つの要素の関係も、大きな変化を遂げるに違いない。(その他の要素として、記号を挙げることができる。但し、記号は全ての領域に、すなわちどこにでも存在すると、私は考えている。)

 

ところで、世の中には星の数ほどの学問がある。例えば、心理学だけをとっても、その数は優に40を超える。社会心理学犯罪心理学、児童心理学、分析心理学・・・。しかしながら私は、「権力学」という学問の存在を聞いたことがない。何故だろう? アカデミズム自体が、権力に敗北しているからではないだろうか。

 

もちろん人間の「知」は日々、変化しているのであって、また、個人の思想、すなわち主体も新たに誕生し続けている。つまり、文明は変化しなければならない訳だが、現実は、そうなっていない。変化を拒む勢力がある。それが権力だと思う。

 

では、変化を拒む権力とは何か、それを研究する学問があってしかるべきではないか。仮に、権力とは他人の、若しくは人々の自由や権利を拘束する力のことだと言えないか。

 

童話「桃太郎」に登場する鬼は、暴力を背景とした権力を持っていた。これが、権力の起源かも知れない。例えば、江戸時代の権力者も同じだっただろう。暴力と言うよりは、もう少し体系化された武力と言った方がいいかも知れない。つまり、権力にはそのよって立つ基盤、背景というものが存在する。これが1つ目の原則である。例えば、明治憲法の第1条には、次のように書かれている。

 

大日本帝国万世一系天皇之を統治ス」

 

当然、この憲法によって、天皇の権力が生まれた訳だ。しかし、これは暴力や武力を背景としておらず、これはある意味で「知」を背景としていると言えよう。このように、権力は変化する。

 

次に権力は、その攻撃対象を持つということが挙げられる。「桃太郎」における鬼は、不当に村人たちが保有する財物を盗んだ。すなわち村人たちの生活(身体)に対して攻撃を加えたのである。では、明治憲法の第1条は、何を攻撃対象にしたかと言えば、それは個々人の内心(主体)である。個々人は、様々な思想を持ち得るが、それを許さず、天皇こそが主権者であって、その考え方に反する思想は許さない、という意味なのだ。

 

権力について考える上で、もう1つ重要な要素がある。それは、権力が重層的な構造を持っているということだ。例えば家庭の中で、父親が威張っているとしよう。しかし、その父親も会社に行けば、部長に頭が上がらない。部長は社長に頭が上がらず、社長は株主に頭が上がらない。

 

  • 権力は、何らかの背景を持っている。
  • 権力は、何らかの攻撃対象を持っている。
  • 権力は、重層的な構造を持っている。

 

以上の観点から分析をすれば、権力とは何か、それを考えることができるのではないか。

 

童話「桃太郎」における構造

 

どうやら、私たちが生きているこの世界には、構造がある。哲学の世界においても構造主義が一時期流行ったようだが、やがてそれは衰退した。その理由は意外と単純で、構造が判明したからと言って、それではどうすればいいのか、という問いに答えを提供できなかったからだろう。この批判は、構造主義に続くポスト構造主義にも妥当する。

 

勝手なことを言わせていただければ、私は、歴史主義的構造主義者である。レヴィ=ストロースの支持者は、そんな構造主義はないと言うだろう。しかしながら、人間の世界にもそれを動かしている原理や構造は存在するのであって、それは長い歴史的な時間の中で生み出されたのだと、私は思う。そして構造は、私たちにある地図のようなものを提示してくれるのではないか。構造を解明した後で、その地図を眺めて、それではどの方向に向かうべきか、考えることができるのではないか。

 

私の考えるその地図、構造とは、次のようなものだ。

 

        権力

       |

身体 ――――|―――― 「知」

       |

        主体

 

文字を持つ以前の人間社会においては、身体を中心に置く生活領域と、そして「知」の2つしかなかったのだと思う。当時の「知」とは、例えば、我々の祖先はバナナだったとか、オオトカゲだったとか、そのようなものであったはずだ。そのような「知」は、権力を生まない。やがて、暴力が権力を生み、権力に対するアンチテーゼとして、主体が生まれたに違いない。主体は、西欧における近代において、特にその姿を鮮明にした。そのような主体は、近代的自我と呼ばれた。

 

この構造は、例えば、童話の「桃太郎」においても妥当する。

 

まず、おじいさんは芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行く。これは村人たちの生活、すなわち身体を表わしている。そこに桃太郎が登場し、彼は元気に育つ。ある日、鬼が現われ、村人たちの財産を強奪する。実際、かつては盗賊が跋扈していたのかも知れない。この盗賊が童話では鬼として描かれているのだと思う。鬼は、暴力を基盤とする権力である。そして、権力に対抗すべく桃太郎の主体が覚醒し、桃太郎は鬼ヶ島へ鬼退治に赴くことを決意する。その際、おばあさんは桃太郎に日本一のキビ団子を授ける。この童話における重要な意味が、このキビ団子に秘められている。これは桃太郎が食べるためのものではなく、道中出会った猿、キジ、イヌに与えられる。その見返りとして、動物たちは桃太郎の家来となり、共に鬼と戦う。すなわち、このキビ団子こそが「知」を表わしている。もちろん、動物たちの助けがあってこそ、桃太郎は鬼退治に成功した。

 

       鬼

       |

村人 ――――|―――― キビ団子

       |

      桃太郎

 

こうして物語はハッピーエンドを迎える訳だが、そこに教訓めいた事柄を見ることができる。まず、村人たちは誰も桃太郎について行こうとはしなかったということだ。大衆は弱い存在なのであって、権力者に勝つことはできない。この童話は、そのことを暗示しているように思う。権力に対抗できるのは大衆ではなく主体、すなわち桃太郎なのである。また、桃太郎であっても、鬼に勝つためには「知」の、すなわちキビ団子の力を借りる必要があった訳だ。

 

日本人の無意識が生み出し、語り継がれたこの童話においては、人々の現実認識と希望とが語られている。人々は、自分たちを救ってくれる英雄、すなわち桃太郎の登場を願っているに違いない。そしてこのことは、昔も今も変わらないのである。

 

経験としての芸術

 

人間は実に多様なのであって、互い理解し合える人など、まず、いない。長年つきあった友人や恋人であっても、事情は変わらない。何故だろうと思う訳だが、理由の1つに経験の違いということがある。生まれた時代が違う。場所が違う。性の違いによっても、経験の差異は生じるだろう。

 

元々、持って生まれた性格のようなものもあるかも知れないが、その考え方を推し進めるとヒトラーの優性思想に繋がったりする。私はその立場を採るつもりはない。生まれた時点で能力や性格の差異があるのか、それは多分、現代の科学をもってしても、解き明かすことは不可能なのだと思う。

 

そこでシンプルに、経験が人格を形成すると考えるのが良いと思う。経験の多様性が、人格の多様性を生む。但し、ある程度の年令になると、自分の置かれた立場を自覚するようになる。そして、人は自らの立場をベースに価値判断を行うようになる。例えば、金持ちの家に生まれた子どもは、自民党を支持するようになる。

 

そうは言っても、人間の人格形成の基礎にあるのは、やはり経験だと思う。

 

経験には2種類あって、その1つ目は実体験である。これは、自分が現実世界において実際に経験することだ。私のような高齢者になると、それなりに多くの経験を積んでいる。しかし、それはあくまでも「私」が起点になっている訳だ。私の属性は、現代人であり、日本人であり、男である。そうしてみると、この実体験がいかに幅の狭いものであるか、理解することができる。世の中には、そうでない人の方が圧倒的に多いのだから。

 

経験に関するもう1つの類型は、追体験である。これは、自分以外の誰かが経験したことを後からなぞるというものだ。つまり、この追体験において私は、現代人ではなく、日本人でもなく、男でもない人の経験を学習することができる。そう考えると、追体験が人格形成に果たす役割の大きさを理解することができる。

 

そして、この追体験を可能とするもの、それが芸術だと言えよう。例えば私は、このブログにアイヌ文化のことを多く書いてきたが、その根底には、子供の頃に読んだ「コタンの口笛」(石森延男作)という小説がある。小説を読むと、その主人公に対する感情移入が生じる。小説を読んでいるとき、私は、和人から差別を受けているアイヌの少女になり切っていたのである。そしてこの追体験は、老齢に達した今も、私の記憶に残っている。私の人格の一部を形成していると言っても過言ではない。

 

私を魅了した最初の画家は、ゴッホだった。何かの雑誌の付録だったと思うが、「向日葵」の複製があって、私はそれを自室の壁に貼り、毎日眺めていた。興味が湧いて、画集も買った。画集の末尾には画家に関する解説文がついている。そこにはゴッホゴーギャンの物語が記されていた。ゴッホを捨てたゴーギャンは悪い奴だな、などと2人の人生に思いを馳せた。(注:ゴーギャンは最後まで、ゴッホに手紙を送り続けたのであって、本当は悪い奴ではなかった。)

 

音楽の世界で言えば、私は、マイルス・デイビスを尊敬している。何故かと言うと、マイルスは新しい音楽のスタイルを作っては、自らそれを否定し、更に新しい音楽を生み出し続けたからだ。生涯を通じて、前進することを止めなかった。過去の自分を超えることの難しさと大切さ、それを私はマイルスの人生から学んだのである。ちなみに私は、マイルスに関する伝記をあきれる程、持っており、その全てを通読している。私は黒人差別に反対の立場を採っているが、その理由は、私がマイルスの人生を追体験しているからである。そう言えば、ある黒人が書いた小説がきっかけとなり、黒人差別に反対する気運が生じたという話があった。

 

哲学の世界では、よく「利他」ということが言われる。「利他」とは利己の反対で、自分以外の誰かの利益を尊重しようというメンタリティのことだ。人々を利他に向かわせる原動力は、思想にはなく、芸術にある。

 

芸術とは、文明を構成する4要素、すなわち身体、「知」、権力、主体の中では、主体に属すると思う。民主主義は多数決で決まるので、結局、多くの人々が、その人格を向上させる以外に、改善の糸口はない。現在、特に権力者や、マジョリティを構成する大衆に、芸術の経験が不足している。

 

芸術には、世の中を直ちに変革する力はない。しかし芸術は、文明をその根底から揺り動かす本質的な力を持っている。そこに、わずかでも希望を見出すことはできないだろうか。

 

そう言えば、こんな話を聞いた。日本の童話がフランス語に翻訳され、同国の子供たちが読んでいるらしい。

 

私の歴史観

 

太古の昔から、人間には生活があった。いや、人間がまだサルだった時代から、生活は存在していたに違いない。生活の中心は、身体にある。何かを食べて、セックスをする。出産して、子育てをする。衣服を着る。住居を作る。最近の事例で言えば、グルメや健康オタクなどというブームまで存在するが、いずれもその中心には人間の身体がある。スポーツも同じだ。1人で生きていくことは、なかなか大変なので、人間はこの生活というものを共同体の中で営む。このような営為を象徴させるため、ここでは「身体」という言葉を用いる。

 

やがて、この身体に象徴される生活や共同体に異議を唱える者が登場する。その理由は様々だろうが、共同体の内部においては支配や依存の関係が存在し、そのような煩わしさからの逃避を求める者がいたであろうことは、容易に想像がつく。ある者は山に籠り、またある者は書斎や研究室に閉じ籠って、共同体からの離脱を試みる。そして多くの場合、身体を否定し共同体を離脱した者は、何らかの「知」の創造へと向かう。例えば古代ギリシャにおいては、生活に関わる煩雑な仕事は奴隷に任せることができたので、「知」へと向かう市民が少なくなかった。こうして、ギリシャ哲学が生まれた。

 

「知」には様々な種類がある。宗教的なもの、数学や自然科学に関わるもの、そして人間や人間社会に関するものなどを挙げることができる。

 

新たに創造された「知」は、数字や文字によって記述される。すると、それらの「知」は規範力を持ち始める。すなわち記述された「知」は自らの正当性を主張し、他の考え方を排斥するからだ。そして、人間の社会に「権力」が生まれる。つまり、「知」が権力を生むのだ。例えば、聖書が書かれ、教会という権力が誕生する。共産主義という「知」が生まれ、共産党という権力組織が生まれる。法律学という「知」は、刑法や刑事訴訟法、そして警察法を生む。そして、警察権力が担保される。原子力発電に関する技術という「知」が確立されると、それが利権を生み、原子力ムラという権力を誕生させるのである。権力が支配する状態を「秩序」と呼んでもいい。

 

権力に依存する者は、そこに利益の源泉を求めるのであって、決して、それを手放そうとはしない。こうして、世の中には既得権者がはびこり、社会の変化を拒絶するのである。

 

しかしながら、権力がそのバックボーンとしている「知」をソクラテス風に言えば、たかだか「人間並みの知恵」に過ぎず、真理とは程遠い。バックボーンとしている「知」が不完全なのだから、権力が正しいはずがない。

 

そこで、権力に抵抗し、反逆を試みる個人が登場する。ここでは、このような個人を「主体」と呼ぶ。

 

一見、主体が社会の中でその姿を現すことは稀である。しかし、例えば、新聞の3面記事を見るがいい。そこには、様々な人間の行為が記されている。法律によって担保されているはずの人間社会において、法律が想定し得ない人間の行為が、ときには犯罪という形を取って顕現する。犯罪の多くは理不尽な動機に基づくが、中には止むに止まれぬ理由によるものもある。例えば、老々介護が招く子による親の殺害。冤罪事件もある。原発事故によって、故郷を追われた人もいれば、理不尽な国防政策によって戦争リスクの最前線に立たされる沖縄の人々もいる。組織犯罪を知り得た者による、内部告発も増えている。こうして、権力や秩序と主体との緊張関係は、日々、増しているに違いない。

 

身体を中心とした生活に基盤を置く素朴な人々を指して、大衆と呼ぶことができる。また、「知」の世界の住人を知識人と呼ぶこともできるだろう。大衆は、自らの理解を超えた存在である知識人を憎む。また知識人は、心のどこかで大衆を馬鹿にしているのではないか。こうして、身体と「知」の対立関係が存在する。

 

また、「知」が生み出す権力と主体との間にも対立関係がある。

 

要約してみよう。私の歴史観としては、まず、生活に基軸を置いた身体があって、そこから離脱した「知」が登場する。「知」は権力を生み、権力に対抗して主体が登場する。この4つの要素の中で、身体は「知」と対抗し、権力は主体と対立する。更に言えば、「知」を憎む身体、すなわち大衆は、権力に迎合する。これが、民主主義の正体だと思う。

 

<対立関係>

身体 vs. 「知」

権力 vs. 主体

 

<共犯関係>

権力 & 身体

 

これが文明の基本構造であって、人間はこの構造から逃れられずにいる。

 

ちなみに、フーコー三角形と呼ばれる基本概念は、権力、「知」、主体の3つである。但し、これは研究者が言っていることであって、フーコー自身が述べたことではない。私は、この3つの概念では説明し切れないと思い、そこに身体という概念を追加した。

 

少し生意気なことを言わせていただければ、私は、共時態で思考したレヴィ=ストロースに反対の立場であるが、通時態で思考する構造主義者なのかも知れない。

 

世界観について

 

文明論的動物ファンタジーと称して「猫と語る」という作品を掲載してきて、先日、脱稿した。その評価を含め、あとがきのようなものを書こうと思ったのだが、どうも書けない。現時点では、私自身、この作品を評価できないのだ。私史上、最高作であるような気もするし、愚作であるような気もする。何年かたって読み返してみたら、そのときにはある程度、客観的に評価できるのではないだろうか。

 

さて、元来、民話や童話は、人々によって語り継がれてきたものであって、そこには人間の無意識が潜んでいる。そう思うと興味は尽きないし、高齢になった私ですら魅力を感じている。そして童話には、市井の人々が子供たちに伝えようとしたメッセージが含まれているような気がしてならない。その1つに、世界観ということがある。

 

「昔々、ある所におじいさんとおばあさんが住んでいました。」

 

これは、誰もが知っている典型的な童話の書き出しだが、短いこの一文に、世界観を見ることができる。「昔々」というのは時間で、「ある所」は空間を意味し、「おじいさんとおばあさん」は人間である。そして、そのことを言葉、つまり記号で表現しているのである。時間、空間という外的な環境があって、私たち人間がその中で生きている。そして、人間は記号を通じて外界を認識しようとしている。時間、空間、人間、そして記号。世界を構成している要素とは、この4つに尽きるのではないか。

 

芭蕉の俳句になると、もう少し複雑になる。

 

古池や 蛙飛び込む 水の音

 

古いというのは時間に関わる概念であって、池は空間の中に存在している。そして、水の音は記号である。このように考えると、芭蕉のこの句には人間が登場しない。そこで私は、はたと立ち止まるのである。本当にそうだろうか? もしかすると、この句に登場する蛙とは、人間を指しているのではないか。人間を、とりわけ「私」を、蛙になぞらえて表現しているのではないか。そう仮定してみると、この句の意味は、大きな変容を遂げる。つまり、「私」が生まれてくる前にはとても長い静寂があって、そこに蛙としての「私」が登場する。「私」が池に飛び込み、ポチャンという音が一瞬だけ、静寂を破る。そして辺りは再び、長い静寂へと帰っていくのである。「私」の一生はかくも短く、儚い。

 

私は、俳句に関する知識をほとんど持っていない。ましてや、松尾芭蕉について学んだことなど1度もない。従って、上に記した解釈は、深読みであるかも知れない。しかし、このように解釈してみると、この句の深淵を覗くことができるような気がする。ああ、わびさびの世界だなあ、空しいなあと感じる人もいるだろう。しかし、私は逆に励まされるような気がするのだ。つまり、芭蕉のような歴史に名を残した人でさえそうであるならば、私のような凡人が、無力で愚かな人生を送ったとしても、それは当然のことなのだ。人生において、成し遂げなければならないことなど、何もないのである。人間のすることなど、所詮、蛙が池に飛び込む程度のことでしかない。そう思うと、気が楽になるのである。