文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

猫と語る(第14話) エピローグ/魂から真理へ

 

それから20年が経過した。私の髪はすっかり白くなり、腰も曲がってしまった。痛くて、真っ直ぐには伸ばせないのだ。外出する時には、ステッキを手放せなくなった。

 

漁港近くのアパートから、地方都市の中古マンションへと引っ越しもした。クルマの運転が不安になったのが、その理由である。地方都市と言っても、賑わっている場所ではない。しかし、バスを利用すれば日常生活に困ることはないのだ。引っ越し作業が終わった時点で、クルマは売却した。

 

そう言えば、ぷんぷく山を目指した猪ノ吉たちは、どうしただろう。無事にぷんぷく山へ到着して、幸せに暮らしているだろうか。時折、そんなことを思うのだが、私にはそれを知る術がなかった。仮にそうだったとしても、猪ノ吉はとっくに寿命を迎えているに違いなかった。

 

かつてはダイエットを気にしていた訳だが、私の体重は当時のそれに比べて15キロは減少した。ダイエットに成功したとか、そういうことではなく、ただ、加齢と共に筋肉量が低下したのだ。大好きだったビールも、かつて程、おいしいとは感じなくなった。

 

近所の食堂で食べる料理は、どれも脂っこく、私の口には合わなかった。しかし、探してみると私のような高齢者の好みの味で、料理を提供する場所がある。それは、老舗デパートの最上階にある食堂である。客たちのほぼ100%が高齢者で、昔ながらの料理が提供されるのだ。ビールだって、キリンのラガーである。昭和の時代を感じさせる、特別な空間である。

 

その日、私は、そんな食堂で昼食を済ませたのだった。生ビールを1杯飲み、細麺のラーメンを食べた。そしてふと、本屋を覗いてみようという気になった。何しろ老眼が進み、ここ10年は本というものを読んでいない。どうだろう。かつて私が一生懸命読んだ哲学書などは、今も置いてあるのだろうか。

 

食堂の1つ下のフロアが本屋になっている。エスカレーターで降りて、私は本屋の中を散策し始めた。かなり大きな本屋で、中央の辺りにはずらりと新刊本が並んでいた。そして、学習書があり、趣味の本があり、コミックがあり、写真集があった。奥へ奥へと進むと、西洋思想というコーナーがあった。私は、ゆっくりと近づきながらミシェル・フーコーの本を探した。それは書棚の上の方に、きちんと並べられていた。嬉しくもあり、懐かしくもあった。フーコーの遺作、「性の歴史」が1巻から4巻まで、順番通りに並べられていた。背表紙を見ながら、各巻の内容を思い出そうとしたが、思い出せることは少なかった。ただ、哲学に生涯を掛けたフーコーの人生模様が、私の脳裏をよぎった。

 

店内の静寂を破るように、コツコツと足音が聞こえた。見ると1人の女子高生が、こちらに向かって歩いてくるのだった。彼女は白いハイソックスとチェック柄のスカートを身につけていた。ショートカットの髪が、よく似合っていた。彼女は私の隣に立つと、書棚を眺め始めた。視線の先にはフーコーがあった。最近は、こんな若い人でもフーコーを読むのだろうか。そんなことを思っていると、彼女は書棚から1冊を取り出して、頁をめくり始めた。それは「言葉と物」だった。思わず、私は彼女に声を掛けたのだった。

 

- お嬢さん、お若いのに随分と難しい本に興味があるんだね。

- ええ。

 

彼女は、迷惑がる素振りを見せるでもなく、そう答えた。

 

- 余計なお世話だと思いはするが、お嬢さん、フーコーは何冊かお読みになっているのかな? 実は、あなたが手に取っているその本は、フーコーの中でも難解で有名な本なんだ。

- あら、そうなの? フーコーなんてあたし、今まで読んだことないわ。

- すると、哲学関係の本は?

- 哲学って、何だか難しそうじゃない。あたしは哲学系の本なんて、ほとんど読んだことがないの。おじいさん、哲学って何が面白いのかしら?

- うん。面白くはないかも知れないね。

- でも、おじいさんはさっきから、フーコーの本ばかりを眺めているわよね。それは何故なの?

- そうだな。そもそも、人間が当たり前だと思っていることは、実は、当たり前ではない。哲学を学ぶと、そういうことが分かるんだよ。例えば、「ソクラテスの弁明」は読んだことあるかい?

- うん。それならある。

- あれを読むと2400年前の古代ギリシャがいかに狂っていたか、よく分かるはずだ。そして、例えばここにあるフーコーの「監獄の誕生」だが、これを読むと18世紀のフランス社会がいかに間違っていたのか、知ることができる。そうすると、現代の日本社会だって、狂っていないはずがないんだ。政治も、宗教も、経済も、教育も、裁判制度も、全てが間違っている。

- でも、何故、そんなことを学ばなければいけないのかしら?

- それはね、現代文明が危機に瀕しているからさ。このまま行くと、大きな不幸がやってくるに違いないからなんだよ。その大きな不幸が何なのか、それは俺にも分からない。それは戦争かも知れないし、天災かも知れないし、環境や原発の問題かも知れない。しかし、このままではいけない。それだけは、確実だと思う。

- それじゃあ、おじいさんはどうすればいいと思うの?

- うん。何か1つの事柄を変えればいいって訳じゃないと思う。人間の文明の全てを作り直す必要があると思う。それは革命とか、そういうことじゃない。革命を起こしたって、変わるのは権力だけで、文明の基本的な構造は変わらない。必要なのは、文明のグランドデザインを新たに作り上げることだ。そのためのヒントが、哲学にあるって訳さ。例えば、この本のタイトルにはこうある。

 

そう言って、私は、「性の歴史」の第3巻を指差した。

 

- 「自己への配慮」。これはソクラテスの思想に通じている。自らの魂に配慮せよってことだ。そこから出発するべきだと、フーコーは考えていたに違いない。でも、そこに留まっていてはいけない。

- ちょっと待って、おじいさん。あたし、その話、前に聞いたことがあるような気がする。魂から真理へ。そういうことじゃなくって?

 

猫撫で声でそう言うと、彼女はいたずらっぽい眼で私を見上げた。

 

イノシシと対峙する花ちゃん

「猫と語る」おわり

猫と語る(第13話) 黒三郎の魂

 

- そろそろ、ワシらも出発するとしよう。

 

猪ノ吉はそう言って、南の方角に向けて歩き出した。黒三郎は、何も言わずに飛び立った。私は背中に花ちゃんを乗せたまま、着いていくことにした。猪ノ吉は、うり坊たちのペースに合わせて、ゆっくりと進んだ。海岸沿いにしばらく行くと、崖を登る道があった。明らかに人間が作った道だった。傾斜を緩めるために、その道はジグザグに斜面を登る格好になっていた。所々、階段状に丸太が置かれていた。

 

崖の中腹に家があったが、人の住んでいる気配はなかった。

 

一行は30分程を掛けて、崖の上に出たのだった。そこは駐車場の南端で、桜の老木の近くだった。広大な駐車場の中央に1本の街灯が立っていて、ぼんやりと辺りを照らしていた。遠くに私のクルマが見えた。猪ノ吉は立ち止まって、それぞれのメンバーの顔色を覗き込んだ。老夫婦は、少し息が上がっているようだった。

 

どこからともなく、黒三郎が舞い降りてきた。

 

- 猪ノ吉。オイラも一緒に行こう。

 

黒三郎がそう言うと、猪ノ吉は怪訝な顔をして、黒三郎の顔を見つめた。

 

- ぷんぷく山へ行くことを提案したのはオイラだし、オイラはお前らとは違って、空を飛ぶことができる。つまり、ぼたん村の人間を監視したり、ぷんぷく山へ向かう正しい道を示したりすることができる。空から見れば、そんなことは簡単なんだよ。但し、オイラが活動できるのは、昼間に限られるけどね。夜はあまり眼が見えないんだ。鳥眼だからさ。

 

猪ノ吉は、黒三郎の方に向き直って言った。

 

- それは助かる。礼を言わせてもらおう。

 

黒三郎は、気恥ずかしそうにチョンチョンと飛び跳ねた。

 

- ちょっと待ってくれ。礼には及ばない。おっと、そこに突っ立っている人間のオッサンよう。

- うん。

- あんた、しばらく前にこう言ったよな。猫にも魂があるって。

- ああ。言ったさ。

- 猫に魂があるんだったら、カラスにだって魂はあるよな。

- そうだ。カラスにだって魂はある。

- つまり、そういうことなのさ。カァー。オイラはオイラの魂の声を聞いたんだ。すると、猪ノ吉たちに着いて行くべきだって、オイラの魂がそう言ったのさ。それが正しいことだってね。もちろんオイラは、お前らイノシシを支配したり依存したり、そんなつもりはない。礼を言われたり、何かの見返りを期待したり、そんなこともない。ただ、オイラはオイラの魂の声に忠実でありたい。そう思っただけなんだ。

 

花ちゃんは、私の背中から飛び降り、黒三郎の方に駆け寄って言った。

 

- 黒三郎。いつかは、あんたの悪口を言って申し訳なかったわ。あんたはもう、冷笑主義者なんかじゃない。ちゃんと、世界との関わりを持とうとしている。にゃん。

 

私も、花ちゃんの言葉を引き継ぐように言った。

 

- そうだね、黒三郎。自分の魂の声を聞くってことは、いかなる権威にも依存しない、いかなる先入観や固定概念にも拘束されないってことなのさ。お前は成長した。

 

ミッシェルと不良青年が、私の言葉にうなずいたのだった。そして、猪ノ吉が言った。

 

- 黒三郎、それでは俺の背中に乗れ。お前は地面を歩くのが苦手だろう。

 

黒三郎は少し羽ばたいて、猪ノ吉の背中に乗った。不安定な感じではあったが、黒三郎はなんとかバランスを保つことに成功したようだった。

 

- よし、出発だ。進め、進め、カァー、カァー、カァー!

 

一行は道路を渡り、いろは山へと続く道を登り始めた。花ちゃんと私は、彼らを道路の手前で見送った。辺りはとても静かだったが、時折、黒三郎の声だけが響き渡った。しかし、その声も次第に小さくなり、やがて聞こえなくなった。

 

静まり返った駐車場に残されたのは、花ちゃんと私だけだった。

 

- おじさん。チュール持ってる?

- ああ、持ってるよ。

 

私はそう答えると、しゃがみ込んで花ちゃんの口元にチュールを差し出した。花ちゃんは上手に舌を使って、それを舐め尽くした。

 

- おじさん。

- うん。

- みんないなくなっちゃったね。

- そうだね。

- ねえ、おじさんは強く生きて。魂を燃やし尽くして。せっかく人間に生まれたんだからさ。さようなら。

 

そう言って、花ちゃんは私に背を向けて歩き始めた。

 

- 花ちゃん。また、会えるかい?

 

花ちゃんは一瞬立ち止まったが、私の問いに答えることなく、闇の中へ消えていったのだった。

 

数日後、私はにゃんこ村を訪れた。道路に面して設置されていたコンビニの看板は、撤去されていた。店内を覗くと、全ての棚をシートが被っていた。床にもシートの上にもほこりが積もっていて、長い時間が経過しているように見えた。

 

いつものベンチを探したが、それは朽ち果てていた。しばらく待ってみたが、トントン猫のトンちゃんも、三毛猫母さんも、そして花ちゃんも、誰も現れなかった。フェンス越しに崖の下を覗いてみたが、イノシシの姿はなかった。ただ、樹上にはカラスがいたので、呼び掛けてみた。

 

- おおい、黒三郎!

 

しかし、カラスはアーアーと鳴くばかりで、私の言葉を理解しているようには見えなかった。それ以来、私が動物たちと言葉を交わすことはなかった。

 

猫と語る(第12話) 真夜中の思想

 

- ぷんぷく山?

 

猪ノ吉がオウム返しにそう言った。

 

- まずは、ぷんぷく山の位置を確認してみよう。

 

私は左手で懐中電灯をかざしながら、右手で地面に道路地図を広げた。

 

- いいかい。青い部分は海だ。そして、漁港がここだから、今、俺たちがいるのはこの地点だ。黒三郎、ぷんぷく山はどこだい?

 

黒三郎はしばらく地図を眺めていたが、やがて嘴で地図をつつきながら言った。

 

- フムフム。ここだな、ぷんぷく山は。では、ルートを確認してみよう。ここから出発して、すぐそこのいろは山を越えると谷間に出る。そこまで行けば小川があるから、飲み水に困ることはない。ゆっくり行けばいいんだよ、うり坊たちも一緒だろうから。あとは小川に沿って、山を登って行けばいいのさ。そこまで行けば、ぷんぷく山はもう近い。10日も歩けば、ぷんぷく山の中腹に辿り着けるだろう。人間はやって来ないし、ドングリだって沢山あるはずさ。いっそ、こんな海沿いの崖っぷちよりは、余程ましな場所だと思う。

- 何か、問題はないのか? ブヒブヒ。

- ちょっと待て!

 

私は、目を凝らして地図を覗き込んだ。黒三郎が示したルートだと、人間の集落の近くを通らなければならないのだ。そしてその村の名は、ぼたん村というのだった。

 

- 黒三郎。そのルートだと、ぼたん村の近くを通ることになる。それは危険だ。他にルートはないだろうか?

- 確かにぼたん村の西側を通ることになる。でも、他にルートはない。ぼたん村の住民は、危険な奴らなのか。

- 危険だと思う。好んでイノシシの肉を食べる連中かも知れない。しかし、人間は昼間にしか行動しない。一晩で、つまり暗いうちにぼたん村の西側を通過することができれば良いのだが。

- それは、大丈夫だろう。カァー。

- そういうリスクがあるってことは、分かった。ブヒブヒ。しかし、他に選択肢はない。そう思わないか?

- そう思うよ、猪ノ吉。

- そう思うわ。ニャー。

- そう思うぜ。カァー。

 

猪ノ吉は、ゆっくりと立ち上がった。

 

- さて、そろそろ行かなければ。集会が始まる。

- 猪ノ吉、イノシシたちの集会は、どこで開かれるんだい?

- この下の浜辺だ。

 

猪ノ吉は吐き捨てるようにそう言うと、洞窟を出た。黒三郎は、猪ノ吉の後を追った。

 

- どうしよう、花ちゃん?

- あたしたちも行ってみようよ!

 

花ちゃんはそう言うと、私の背中に飛び乗った。洞窟を出ると、猪ノ吉が斜め右の方に向かって下りていくのが見えた。私たちは、斜め左の方角に進んだ。いずれにせよ、砂浜はもう近い。私は、懐中電灯で足元を照らしながら、ゆっくりと坂道を下った。やがて、波打ち際に辿り着き、私たちは海岸に沿って、右手の方向に進んだ。懐中電灯を消して大きな岩の影から覗くと、大勢のイノシシたちが集まっているのが見えた。彼らは興奮していて、何やら怒鳴り合っているのが分かった。

 

- この裏切り者!

- うるせえ、このクソババー!

 

そんな声が聞こえてきた。バサバサと羽音が聞こえて、黒三郎がやってきた。黒三郎は、私たちが隠れている岩のてっぺんに舞い降りた。

 

- オッサン。あんたはこれ以上、近づかない方がいい。何しろあんたは人間なんだから。

- そうだね、そうするよ。

 

私がそう答えた次の瞬間、ひと際大きく猪ノ吉のいななく声が聞こえた。

 

- ブッフォー! 静かにしろ。それでは、これから集会を始める。

 

イノシシたちは騒ぐのを止め、辺りは静まり返った。波の音だけが、静かに聞こえた。

 

- みんなが知っているように、今日、ワシたちの仲間、3頭が殺された。ここは危険だ。ワシらは、もうここに住むことはできない。そこで、提案がある。ここから西に向かうと大きな山がある。そこまで人間はやって来ない。ドングリだって、沢山落ちている。その山は、ぷんぷく山という。途中、人間たちが住んでいるぼたん村の近くを通らなければならないが、暗いうちにそこを通過すれば、問題はない。これからみんなで、出発しようじゃないか、ぷんぷく山を目指して。それがワシからの提案だ。

 

イノシシたちは、一斉にざわめき始めた。すると一頭の大きなイノシシが、猪ノ吉の前ににじり寄るのだった。

 

- シシ丸だわ。若手のリーダーよ。

 

耳元で、花ちゃんがそう言った。

 

- 猪ノ吉よ、考えてもみてくれ。今日、殺された3頭は、いずれも若者だ。人間たちが若いイノシシを狙っていることは明らかだ。オレたちは、ぼたん村になど近づきたくはない。仮にぷんぷく山まで行けたとしても、人間たちがいつやって来るか分からないじゃないか。そこで、オレからの提案がある。ここから泳いで、沖のこんぺい島を目指すんだ。こんぺい島は、無人島だ。オレたちはこんぺい島へ行って、人間に殺される恐怖から解放されるべきなんだよ!

- ちょっと待って!

 

今度は、老婆がシシ丸に詰め寄った。

 

- シシ丸! あんたは若いから知らないのかも知れないけど、沖まで泳いで行くとサメに食われちまうんだよう。死んだ爺さんが言っていた。海には入るなって。

 

シシ丸が言い返す。

 

- それじゃあ聞くが、婆さんはサメを見たことがあるかい? 他のみんなにも聞く。誰かサメを見た者はいるか? ほらみろ、誰もいないじゃないか。そんなのは迷信さ。仮にそうじゃなかったとしても、鉄砲で打たれるよりはマシさ。

 

老婆が続ける。

 

- シシ丸。あんたら若い者は、それでいいかも知れない。でも、わたしら年寄りはどうすればいい? こんぺい島まで泳いで行く体力なんて、わたしらには残っていない。わたしらの仲間うちには、うり坊だっている。うり坊たちが、そんな遠くまで泳げるはずがない。

 

シシ丸は下を向いて、しばらく考えているようだった。やがてシシ丸は空を見上げ、大きく息を吐き、そして話し始めた。

 

- 婆さん。オレたちは、自分だけで生きている訳じゃない。オレたちは、イノシシという誇り高き種族として生きているんだ。この種族を存続させるためには、誰かが生き延びなければならない。全滅だけは、避けなければいけないんだよ。うり坊たちは、置いていこう。子供なら、また作ればいいじゃないか。こんぺい島まで泳げるか泳げないか、それはやってみなければ分からない。これは、オレたち種族の存亡を掛けた挑戦なんだよ。やってみる前から、尻込みすべきじゃない。

 

重苦しい空気が流れた。再び、波が岩にぶつかる音が聞こえた。うり坊たちが、キィーキィーと鳴いた。そして、ミッシェルが言った。

 

- それじゃあ、みんなでこんぺい島へ行けばいい。わたしはうり坊たちとここへ残る。

- ミッシェル。それは駄目だ。

 

猪ノ吉だった。

 

- うり坊たちだって、やがては大きくなる。そうすれば、彼らだって人間の標的になるだろう。ミッシェル、ここに残るという選択肢はない。

 

- どうやら平行線のようだな。しかし、オレたちに時間はない。

 

そう言ったのは、いらだち始めたシシ丸だった。

 

- 猪ノ吉よ、どうだろう。オレとお前との間で決着をつけようじゃないか。決闘だ。勝った者が、本当のリーダーだ。

 

シシ丸の意見を聞いたイノシシたちは、一斉にざわめき始めた。岩の上をピョンピョンと跳ねながら、黒三郎が言った。

 

- これは大変なことになったな。カァー。オッサン、何かいいアイディアはないか?

- そうよ、おじさん。何かいい解決策はないかしら? にゃん。

 

私も一生懸命に考えたが、答えは見つからなかった。本当にどうすればいいんだろう? すると、再び、猪ノ吉が吠えたのだった。

 

- ブッフォー!

 

猪ノ吉は右の前足を岩に乗せ、話し始めた。

 

- みんなよく聞け。ワシはまだ若い者に負ける気がしない。ワシの牙とシシ丸の牙を比べてみるがいい。シシ丸の牙は、まだ小さい。

 

イノシシたちは一斉にシシ丸の顔を覗き込み、納得したようだった。

 

- でも、ワシが言いたいのはそんなことじゃない。決闘をして勝った方の言う通りにするとすれば、そこにお前たちの意志が介入する余地はない。お前たちは奴隷か? 違うだろう。違うんだったら、お前たちは自分の頭で考えて、それぞれに結論を出すべきだ。お前たちの主(あるじ)は、他の誰でもない。お前たち自身であるべきなんだ。シシ丸と一緒にこんぺい島を目指すか、それともワシと一緒にぷんぷく山を目指すか。これはとても重大な選択だ。命をかけた決断となる。

 

シシ丸は少し後ずさってから、波打ち際の方へ歩きだした。1頭、また1頭とシシ丸の後に続いた。

 

- 猪ノ吉、すごいね。ニャー。

- そうだね。まるでカントみたいだ。

- カントって誰? カァー。

- ドイツの哲学者さ。

 

膝頭まで海に浸かったシシ丸が、振り返って言った。

 

- それじゃあ、こんぺい島を目指す者は、オレについてくるんだ。夜が明ければ、また人間たちがやって来るかも知れない。いいか。口で息をしてはいけない。海面より上に鼻を突き上げて、鼻で呼吸をするんだ。それから、猪ノ吉。

- うん。

- 幸運を祈る。

- ありがとう、シシ丸。成功を祈る。

 

シシ丸は、暗い海に向けて泳ぎ始めた。若いイノシシたちが、こぞってシシ丸の後に続いた。闇の中へ、イノシシたちの列が消えていく。先ほどまでイノシシの群れで被われていた砂浜が、その姿を現した。結局、大半のイノシシはシシ丸に着いて行き、残ったイノシシはわずかばかりだった。黒三郎が、猪ノ吉の元へと飛んで行った。

 

- あたしたちも行こう。ニャン。

 

懐中電灯をつけて、私たちも猪ノ吉の元へと歩み寄った。足を取られて、砂浜は歩きにくかった。

 

残っていたのは猪ノ吉の他にミッシェルと3匹のうり坊たち、老夫婦、流れ弾に当たって肩口を負傷した者、それとどこか不良っぽい青年とミーハーな感じのする彼のガールフレンドだった。

 

不良青年が肩をいからせながら、私たちの方を向いて言った。

 

- 正義っていうのは、いつだってカッコいいものなのさ。

 

猪ノ吉は、まだ海の方を見ていた。

 

猫と語る(第11話) 希望のかけら

 

Tシャツの上に薄手のジャンバーを羽織って、私は、にゃんこ村に向けてクルマを走らせていた。気分は上々だった。花ちゃんに対するレッスンは無事に終了したし、今日は、新製品のカリカリも入手していたのだ。しかし、いつもの駐車場に着くと、何とも言えない違和感があった。先ほどまで晴れていたのに、空には黒っぽい雲が立ち込めていた。カラスたちが無秩序に飛び交いながら、気味の悪い鳴き声を上げていた。その中の1羽が羽音を響かせて、私の足元へ舞い降りてきた。黒三郎だった。

 

- てえへんだ、てえへんだ、カァー、カァー!

 

黒三郎はそう言いながら、せわしなく動き回った。花ちゃんも駆け寄ってきた。

 

- おじさん、大変なことになったの!

- 一体どうしたんだ。2人とも落ち着いてくれ。

- ニャン。実はね、今日の昼間のことだけど、鉄砲を持った沢山の人間がやってきて、イノシシたちを撃ち始めたのよ。パン、パンって、それは凄い音がしたわ。3匹の若いイノシシが殺された。ケガをした者もいる。こんなことは初めてだわ。イノシシたちは、みんな興奮している。一体、どうすればいいのかしら。

- ミッシェルや猪ノ吉は、無事だったのかい?

- 大丈夫だ、彼らは生きている、カァー。

- 実はね、最近、人間とイノシシの間でトラブルが相次いでいるんだ。食料を求めて山から下りてきたイノシシが、人間を襲う。そういう事件が続いている。ましてやここら辺は、観光地だ。事故は許されない。そこで、地元の猟友会がイノシシ狩りを決行した可能性がある。どうすればいいんだろう!

 

私は、頭を抱えて、しゃがみ込んでしまった。

 

- そうだ、逃げ道はある。ぷんぷく山へ逃げるんだよ。カァー。

- ぷんぷく山? それは、すぐそこに見えている山のことかい?

- いや、違う。そこに見えているのは、いろは山だ。ぷんぷく山は、いろは山を越えて、谷を越えて、更にその先にある大きな山だ。そこまで行けば、人間はやってこない。カァー。

- それはいい考えだ。そうだ、俺は地図を持っている。それを見ながら、作戦をたてよう。

 

私は急いでクルマに戻り、道路地図と懐中電灯を手に取った。

 

- ニャー! それじゃあ、作戦会議を開きましょう。黒三郎は、猪ノ吉を探し出して。場所は、いつもの洞窟よ!

- ガッテンだ!

 

黒三郎は、そう叫ぶとすぐさま飛び立った。

 

- いつもの洞窟って?

- おじさんは、あたしが案内するわ。ついてきて!

 

花ちゃんは、フェンスに沿って、北に走り出した。私は、懸命に彼女の後を追った。花ちゃんは、時折立ち止まり、振り返るのだった。駐車場の敷地を出て、花ちゃんは草むらの中へと入って行く。

 

- さあ、おじさん。ここよ、フェンスを飛び越えて!

 

花ちゃんはそう言うと、軽々と金網状のフェンスを越えてみせた。私は、フェンスの上部に手を着いて、右足を跳ね上げた。体が重い。もっと真剣にダイエットに取り組んでおくべきだった。それでも私は、何とかフェンスを乗り越えたのだった。にゃんこ村の深部へと踏み込んだような気分だった。花ちゃんの後を追って行くと、けもの道に行き当たった。すると花ちゃんは、私の背中に飛び乗って言ったのだった。

 

- おじさん、気をつけて。この道に沿って、しばらく下って行くの。すると小さな洞窟があるわ。それから、あたしは少し疲れちゃった。猫はね、瞬発力はあるけれど、持久力はないのよ。しばらく背中を借りるわね。

 

私は頷いて、一歩ずつ足の裏で地面を探りながら、急な斜面を下り始めた。路面はデコボコだったし、草の根っこに足を取られそうだった。あちこちに松の老木が生えていたが、どの幹も曲がりくねっていた。強い海風の影響に違いなかった。遠くに見えていた海面が、少しずつ近づいてくる。波の音も、大きくなる。膝がガクガクしてきたので、少し休もうかと思った頃だった。私の耳元で、花ちゃんが言った。

 

- 着いたわ。右手に見える松の木の根元。そこが、洞窟の入り口よ。

 

入口の付近に、雑草は生えていなかった。むき出しになった岩肌の真ん中に、ぽっかりと穴が開いているような感じだった。かがみ込むと、花ちゃんが私の背中から飛び降りた。懐中電灯で中を照らしてみた。数人の大人が横になれる程度の広さがあった。地面も平らになっていたし、雨風を凌ぐには充分な環境だと思った。中に入ると、少し湿気があった。

 

- 少し、疲れたね。

 

私は、そう言って腰を下ろした。花ちゃんも近くに座った。

 

- そうだ。忘れるところだった。今日はね、新しいカリカリを持ってきたんだ。チキン味の奴。食べるかい?

 

花ちゃんは、待ち切れない様子だった。私はムーミンの刺繍が施されたいつもの黒いショルダーバッグからカリカリを取り出して、紙の皿に盛りつけた。花ちゃんは、夢中でそれを食べた。洞窟の壁に背中をもたせ掛けて足を延ばすと、花ちゃんが私の体に乗ってきた。私の腹につかまるような格好だった。

 

- おじさんのお腹って、なんかプヨプヨだね。

 

そう言ったかと思うと、花ちゃんは寝息を立て始めた。私も花ちゃんにつられたのか、睡魔に襲われ、眠りの中へと落ちていった。

 

どれ程の時間が流れたのか、私には分からなかった。洞窟の中は、すっかり暗くなっていたが、突然、私の腹の上で花ちゃんが身構えるのが分かった。その瞬間、花ちゃんの中の野生を感じた。辺りに注意を払うと、ガサゴソという小さな音がした。そして、何とも言えない野生動物の臭いがした。急いで懐中電灯のスイッチを入れた。洞窟の外で、何かが動くのが見えた。

 

- 猪ノ吉か? だったら、入っておいで。

 

花ちゃんがそう言うと、大きな体を揺らしながら、猪ノ吉と黒三郎が入ってくるのだった。猪ノ吉は、少し汗ばんでいるようだった。私は、なるべく洞窟の中の全体を照らすような場所を探して、懐中電灯を置いた。

 

- 遅かったね。にゃん。

- カァー、カァー。ごめん。でも、大変だったんだ。急遽、辺り一帯のイノシシを集めて、今夜、集会を開くことになったのさ。それで、オイラたちカラスは、手分けしてイノシシたちに召集を掛けて回ったんだ。

- 集会って、今日の出来事を受けて、今後のことを相談するんだね。

 

私がそう言うと、猪ノ吉がうなずいた。

 

- 今日、3頭もの仲間が殺されたんだ。ワシたちイノシシにも、誇りというものがある。このまま、引き下がる訳にはいかない。見ろ、ワシの牙を。

 

猪ノ吉はそう言うと、その顔を少しだけ私に近づけた。

 

- りっぱな牙だね。

- そうだ。オスのイノシシは、何故、牙を持っていると思う? それはな、戦うためなんだ。ワシらは、仲間を殺した人間どもと戦うべきなんだ。その時がやって来たってことさ。

 

花ちゃんと黒三郎が、私の顔を覗き込んだ。

 

- 猪ノ吉。君は確かに、立派な牙を持っている。でもそれは、君自身を守るためのものでもあると思うんだ。必ずしも、敵を攻撃するためだけにある訳じゃない。落ち着いて考えてみてくれ。これは、俺が人間だから言うんじゃない。君たちイノシシが人間に立ち向かうというのは、無謀だ。それは日本が中国に戦争を仕掛けるのと同じ位、勝ち目のない戦いなんだよ。いいかい、奴らは鉄砲を持っている。君の牙が奴らの体に突き刺さる前に、鉄砲の玉が君の体を撃ち砕くだろう。

 

花ちゃんと黒三郎が、今度は、猪ノ吉の顔を覗き込んだ。

 

- 男には、負けると分かっていても、戦わなければならないときがある。今が、そのときなのだ。

- ちょっと待て、猪ノ吉。君たちの戦いは、そんなスケールの小さなものじゃない。長い時間と、広大な空間の中における、君たちイノシシの存在を賭けた戦いなんだ。そう思わないか。それに、君たちが奴らに勝つ方法が、ない訳じゃない。

 

少しの沈黙が訪れた。花ちゃんが私の膝に手を置いて、話を促した。

 

- いいかい。奴らの目的は、君たちを殺すことだ。その目的を阻止できれば、それは君たちの勝利を意味する。仮に君が奴らに戦いを挑んだとすれば、君たちの一族は壊滅するかも知れない。それは、君たち一族の歴史が終わることなんだ。そうではなくて、生き延びるんだよ、猪ノ吉。君は、君の仲間たちと一緒に、幸せに生き延びるんだ。この世界には沢山の悪がはびこっている。いちいちそれらと戦っていては、我々の命は、いくつあっても足りない。逃げるっていうのは、1つの戦略であって、決して恥ずかしいことじゃない。

- そうよ、猪ノ吉! あたしはおじさんの意見に賛成だわ! ニャー!

 

猪ノ吉は下を向いて、しばらく考え込んでいるようだった。そして、ぽつりと言った。

 

- でも、何処へ?

 

黒三郎が、間髪入れずに答えた。

 

- ぷんぷく山さ。

 

それは私たちが、ある共通する希望のかけらに手を掛けた瞬間だった。

 

猫と語る(第10話) 遥かなる真理

 

1週間が過ぎ、私は色づき始めた木々を眺めながら、にゃんこ村のベンチに座っていた。花ちゃんは私の足元にいて、黒三郎と猪ノ吉も一緒だった。

 

- 花ちゃん、それじゃあ最後のレッスンを始めよう。人間の世界を説明するに当たって、どうしても言っておきたいことがあるんだ。それは、真理についての話だ。

- 真理って何? ニャオ―。

- うん。それが、なかなか難しい。前回は、正義について話したけれど、正義っていうのは、相対的なものだ。その時々の現実に応じて、それは変化する。これに対して、真理とは絶対的なものであって、普遍的で、正しく、重要なものでなけりゃならない。絶対的な正しさ、そんなものが存在するのだろうか。そういう疑問も湧いてくる。物理学上の原理こそが真理だと考えている人もいる。万有引力の法則みたいな奴さ。でも俺は、そうは思わない。確かに、万有引力の法則は発見された。しかし、それによって人々の暮らしは楽になっただろうか。例えば、俺たち全員は、2つの眼を持っている。

- ブヒー! 確かにそうだな。黒三郎にも2つの眼がある。

 

猪ノ吉がそう言うと、一同、互いの顔を見比べるのだった。

 

- うん。そういうことはね、事実に過ぎないんだ。事実と真理は違う。万有引力の法則にしたって、それは事実に過ぎない。また、例えば正三角形の3つの辺の長さは等しい、ということもある。けれどもそれは、ただの概念に過ぎない。真理とは、もっと崇高なものであるはずだ。

- 回りくどいことを言わずに、結論を教えてくれよ。カァー。

- ごめん、ごめん。正直に言うと、俺が不勉強だからか、それとも俺が馬鹿だからか、理由は分からないけれど、俺は真理について的確に説明する言説というものに出会ったことがない。仕方がないので、自分で考えることにした。その結論とは、全ての生き物が幸せになる方法、それこそが真理だということだ。

- 全ての生き物には、カラスも含まれるのか?

- もちろんだよ。カラスもイノシシも猫も含まれる。そして、人間も。そういう世界が実現できたとすれば、それ以上、一体何を考える必要があるだろうか?

- ニャー、ニャー! あたしはおじさんの考え方に賛成だわ。みんなで幸せになろう!

- そうだね、花ちゃん。でも、真理っていうのは、とても遠くにあるんだ。

- どうして?

- うん。理由は、いくつか考えられる。俺たち生き物には、ざっくり言って40億年の歴史がある。それぞれの生物が、それぞれの進化を遂げてきた訳だけれど、それはとても長い時間をかけて、複雑なプロセスを経て、今日の形になっているんだ。人間は一生懸命、研究を続けてきた訳だけど、残念ながら、未だに身体とは何か、生命とは何か、分かっていないのさ。そして、地球はあまりにも広大だ。それは人間が理解できる範囲をはるかに超えている。だから、人間にできることなんて、本当にちっぽけなことだけなんだよ。

- それで真理は遠いってことなんだな。ブー、ブー。

- それじゃあ、真理に到達できる可能性、つまり人間に希望はないってことなの? ニャー。

- う~ん。それは、とても難しい質問だね。ただ・・・。

- ただ?

- 人間には、人間だけに許された能力ってものがある。それはね、前の世代の人々が作り上げたこと、考えたこと、知識なんかを次の世代に引き継ぐ能力のことなんだよ。例えば、10年前の猫が考えたこと、100年前のカラスが考えたこと、千年前のイノシシが考えたことを君たちは知ることができるかい?

- それはできない。ニャー。

- それはできない。カァー。

- それはできない。ブヒー。

- でもね。人間にはそれができるんだ。どうしてかって言うとさ、それは人間が文字を持っているからなんだよ。人間は、大昔から様々な事柄を文字によって、記録してきたんだ。そして、後世の人々はそれを読むことによって、先人たちの知恵を学ぶことができる。だから、人間は先人たちの知恵を受け取って、それをより良いものにして、後世の人々に受け渡すことができるんだ。バトンリレーのようなものだね。そして、あえてこの能力を言うとすれば、それは知性という言葉が適切じゃないだろうか。人間の歩みは遅い。だから、未だに真理はとても遠くにある。でも、知性によって、人間は真理に近づくことができる。

- 一体、どこへ行けば文字を読むことができるの? にゃん。

- 本屋さんとか、図書館とか。そういう所に行けば、何万冊という本が置いてある。一生をかけても読み切ることはできない位さ。

- そんなに沢山の本ってものがあるのね。ニャオ。

- そうだよ。こうしている今でも、無数の人々が文字を書き、文字を読んでいる。

- 分かったわ、おじさん。人間は文字を持っている。文字によって、人間は成長できる。その力は知性と呼ばれるもので、それは人間にしか許されていない能力なのね。だから、人間は知性によって、真理に近づくことができる。それが、人間が持つ希望だと・・・。おじさん、大切なことなの。はっきりと答えて!

- その通りだよ、花ちゃん! 俺は、そう考えている。

 

そう答えると、花ちゃんの瞳がキラリと光った。

 

- このレッスンを締め括るに当たって、最後にもう1つだけ言わせて欲しい。結局、人間の世界においては、まず、誰かが仮説を作るんだ。そして、仮説は拡大して、幻想を生む。幻想に賛同する者たちが、集団を作る。集団の中には、権力が生まれる。権力は必ず腐敗して、その集団を破滅へと向かわせる。こういう破滅志向の構造が存在する。宗教がそうだし、イデオロギーもそうだ。アカデミズムにも同じことが言える。だから、人間は共同体の中に埋没しては駄目なんだよ。そこから離れて、根本から考え直さなければ間違ってしまうのさ。その方法が、自らの魂に配慮するってことなんだ。王様は裸だ! そう主張する勇気を持たなければいけない。権力に勝るもの。それは、個々人が持つ魂以外にない。だから、いつだって人間は、魂から出発して、真理を目指すべきなんだよ。魂から真理へ!

- なんだか、今日のおっさんはカッコいいなあ。カァー、カァー、カァー。

 

それ以上、私に続ける言葉はなかった。私は、言い尽したのだった。

 

猫と語る(第9話) 幻想共同体

 

黒三郎の言葉は、私の心に重く響いた。確かにこの地球上において、人間は最低の存在なのかも知れない。しかし、それは人間がミッシェルの夫を殺害したからではない。人間だって他の動植物を食べなければ、生きてはいけない。そして人間たちは、多分、ミッシェルの夫を食べたのだろう。イノシシの肉は、しし鍋とかぼたん鍋として調理され、とてもおいしいらしい。もちろん、そんなことをミッシェルや猪ノ吉に言う訳にはいかない。そのことではなくて、私は、人間が起こす戦争について、思いあぐねていたのだった。

 

敵の肉を食べる訳でもないのに、つまり、自分たちが生きていくために必要という訳ではないのに、人間は他の人間を大量に殺戮する。しかも戦争は、同種の生物である人間同士の間で行われるのだ。何という理不尽だろう。そんなことを考えているうちに、2週間が経過していた。しかし私は、意を決して、にゃんこ村にクルマを走らせたのだった。

 

クルマを降りると、早速、黒三郎がバサバサと羽音を立てながら、舞い降りてきた。

 

- 随分、久しぶりじゃないか。オッサン。もう来ないのかと思っていたよ。

- うん。でも、俺には花ちゃんと約束したことがあるんだ。まだ、その約束を果たせてはいない。

- 知ってるよ。人間の世界について説明するっていう、例の話だろ。

- そうだ。木の上で聞いていたのか。別に構いはしないけど。

- ああ。俺が、花ちゃんを呼んできてあげよう。猪ノ吉にも声を掛けていいかい?

- 俺は構わないよ。猪ノ吉がそんな話に興味があるんだったらね。

- カァー!

 

黒三郎は一声鳴くと、空高く舞い上がっていった。そして、トンビのように空で円を描くと、崖の方に向かって舞い降りて行くのだった。

 

ベンチに座って待っていると、南の方角から花ちゃんがトコトコとやってきた。猪ノ吉は北の方から、ノシノシとやってきた。黒三郎も一緒だった。花ちゃんは、私の足元にスリスリをしてから、ベンチの上に飛び乗った。猪ノ吉は黙ったまま、地面に寝そべった。

 

- さあ、それじゃあ始めてくれ。

 

黒三郎が、そう私を促した。

 

- うん。人間はね、集団的な生き物だと言える。既に、生活共同体と利益共同体については説明した。ところが、人間が形成する共同体には、もう1つの種類があるんだ。俺は、それを幻想共同体と呼ぶことにした。そう呼ぶからには、まずは、幻想について説明しなければならない。幻想とは、仮説のことだ。例えば、世界はこうなっているのではないかとか、こうすれば人間の世界はうまくいくに違いないというようなものさ。しかし、未だにその正しさが証明された仮説は存在しない。つまり、全ての仮説は大なり小なり、間違っているってことだ。それでも、そのような仮説を自ら信じる人、誰かに信じ込まされる人は、後を絶たないんだ。そして、その仮説、つまり幻想を共有する人間集団が生まれる。仮説を立てること、幻想を構築すること、その行為自体は悪くない、と俺は思う。しかし、その幻想に執着して、自らの頭で考えなくなることが問題なんだよ。人間の世界においては、日々、多くの発見や発明がなされる。それらの新しい知識を反映させて、全ての幻想は再検証されるべきだが、実際には、そうはならない。ひと度構築された幻想は、その幻想を基盤とした権力を生むからだ。そして、権力者たちは自らの権益を守るために、幻想をそのままの形で維持しようとする。これが、幻想共同体の宿命なのだと思う。

- 幻想を構築したとして、それを少しずつ良くしていけばいいんじゃないの、ニャン。

- うん。確かに、そういう考え方はある。一般に保守と呼ばれる立場だ。悪い所があったら、少しずつ、それを修正していけばいいという考え方だ。しかし、そのような考え方が正しいという保証はない。例えば、積み木を使って、大きなお城を作ったとしよう。しかし、お城の土台を構成している1つの木片に誤りがあった。さあ、どうやって、それを取り換えることができるだろうか? たった1つの木片を交換しようとすれば、その積み木のお城全体が崩れてしまうよね。だから、少しずつ良くしよう、少しずつメンテナンスしようとしても、それは無理なんだ、という考え方がある。この立場は、フランスで論議されたエピステモロジーという思想だ。俺は、この立場の方が正しいと思う。例えば聖書には、最初の人間はアダムとイブだと書かれている。しかし、アダムもイブも存在しなかったという前提に立った場合、聖書自体が成り立たない。聖書は、その全体を書き直さなければならない。

- ブヒー!

 

猪ノ吉が、鼻を鳴らした。

 

- それでは、どうすればいいんだ?

- そうだね。人間は幻想を構築する生き物だ。しかし、未だにその正しさが証明された幻想は存在しない。そうしてみると、古い幻想を捨てて、新しい幻想を生み出すしか方法はない。1から、いや、ゼロからやり直さなければならないんだよ。1つのたとえ話がある。「シーシュポスの神話」と呼ばれる話だ。昔、神々の逆鱗に触れてしまった、シーシュポスという男がいて、彼は罰を受けることになる。彼は、大きな岩を山頂まで押し上げなければならない。しかし、山頂に達すると、その岩はたちまち山肌を転がり落ちてしまう。シーシュポスは山のふもとに戻り、また、山頂目指して大きな岩を押し上げなければならない。この作業は、永遠に続く。まさに、人間と幻想の関係を象徴するような話だと思う。

- 知らなかった。人間も大変なんだな。カァー。

- もう少し、具体的に話してみて。ニャン。

- うん。幻想共同体には3つの典型例がある。1つ目は、宗教団体だ。宗教の起源の1つは、呪術にある。古代の人間は、とてつもない困難に直面していた訳だ。医学がないから、身体的な苦痛と直接的に向き合わなければならなかった。そこで、自分の願いを叶える方法として、呪術に依存した訳だ。同じような理由で、祭祀という集団的な呪術も発達した。そして、祭祀を司るシャーマンが登場する。これがシャーマニズムと呼ばれる個人崇拝の文化だ。加えて、神話が登場する。それらを様式化して、宗教が生まれる。こうして、世界中の民族が、全ての人類が、宗教に依存して集団を形成していたんだ。だけど宗教は、幻想に過ぎない。未だに文字を持たない部族も存在するし、彼らは本気で宗教を信じているだろう。しかし、その他の、つまり文字を持つ文明圏に暮らす人々にとっては、最早、宗教が幻想に過ぎないことは、自明の理だ。それでも文明圏において宗教が存続しているのは、権力がそうさせているからだ。文明圏に暮らす人間は、そろそろ宗教を卒業するべきなんだよ。宗教団体が持つ権力構造を解体すべきなんだ。幻想共同体における2つ目の典型例は、イデオロギー集団だ。中でも最大規模を誇るのは、共産主義を標榜する集団だろう。彼らは共産主義を科学だと主張する。だから正しいのだと。しかし、そうだろうか? 彼らは人間の歴史を物と労働を基軸に考えているようだけれど、人間の歴史って、そんなに単純なものではない。文化人類学が解き明かしつつある様々な事柄の方が、余程リアリティーがあると俺は思う。物や労働ではなく、人間の歴史は魂と身体を基軸に積み重ねられてきたに違いない。だから、人間はもう共産主義を捨てるべきなんだけれど、ここでもまた、権力が邪魔をする訳さ。そして、幻想共同体における3つ目の典型例は、国家だ。

- 国家って、何? ニャー。

- 国家は、領土と、国民と、憲法によって構成されている。線引きをして土地を区切り、領土の範囲を決める。そこに住む人間をその国の国民だとする。そして、国の運営に関して権力を持つ者たちに合理的な制限を加える為に、憲法を定める。こうして、1つの国家が成立する。

- ブー、ブー。ちょっと待ってくれ。この場所は、日本だろう? イノシシであるワシだって、それ位のことは知っている。そして、日本という国は、確実に存在するのであって、それは幻想ではない。

- そうだね。そう思いたいよね。でも、現実は違う。領土については、他国との間で争いがある。国民は海外旅行をしたり、移住したりする。そして、憲法は守られない。それでも、日本という国は本当に存在しているのだろうか。国政選挙があったって、半分の国民は投票にすら行かない。本当に日本人は、日本という国家を認識しているのだろうか。この点、俺は悲観的な見方をしている。

- どうして、そんなことになるんだ? カァー。

- 1つの理由として考えられるのは、国家ではなく、別の枠組みで考える人が少なくないってことだ。例えば、国際企業に勤めている人は、国家よりも企業に対する従属意識が強いだろう。宗教団体に属している人は、そちらの方に意識が向く。共産主義者も同じで、彼らにとっては日本という国家よりも、イデオロギーに基づく階級闘争の方が大切なんだと思う。それと、日本に限って言えば、もう1つ大きな障害がある。それは、日本が独立していないってことさ。先の戦争で日本はアメリカに負けた。それ以来、日本は巧妙かつ狡猾な方法で、アメリカに支配されているのさ。言わば、日本は未成年の状態にある。自分のことを自分で決められない子供と一緒だ。個人にとっても国家にとっても、一番大切なことは、成長するってことだよ。そして成長するためには、成人として、独立していなければならない。他の国に従属している国は、無駄に時間を過ごしているだけで、一向に成長しないんだ。先の戦争から、日本はもう78年もの長い時間を無駄に過ごしてきたのさ。ふう。ため息が出る。

- ため息が出る。ニャー。

- ため息が出る。カァー。

- ため息が出る。ブー。

- そろそろ、話をまとめよう。人間が形成する集団は、大きく分けると3種類あって、それは生活共同体、利益共同体、そして幻想共同体なんだ。実際にはその複合形態や、過渡的なものもあると思うけれど、共同体が成立するための本質的な要素は、生活、利益、幻想の3種類しかない。そして、あらゆる共同体の中で、最も真理に近いと思われるもの、それは国家なんだよ。真理に近づくためには、我々はもっと国家について考える必要がある。本当の国家においては、金持ちが貧乏人を助ける、強者は弱者をいたわる、チャンスは平等に与えられる、権力は公正に行使される。そうあるべきだと思う。それらの事柄を一言で表わすとすれば、それは正義という言葉が適切だと思う。正義を実現する。人間の世界においては、そのために国家が必要なんだ。

- 人間の世界って、大変なのね。

 

花ちゃんはそう言って、どこか遠くを見つめた。

 

猫と語る(第8話) ミッシェルの悲劇

 

花ちゃんの呼び掛けに応じて、黒三郎は梢から舞い降りてきた。

 

- もちろん、オイラにも言いたいことはある。

- 何だ、言ってみろ。ニャー!

- お前らは、何故、カラスを嫌うんだ? オイラたちが、黒いからだろう。お前たちは、他の生き物を見た目で判断している。

 

黒三郎はそう言って、チョンチョンと飛び跳ねた。私も、黙ってはいられなかった。

 

- 違うよ。お前たちカラスは、人間に対して害悪を及ぼす。だから嫌いなんだ。例えば、お前たちは、人間が捨てたゴミを漁るだろう。そして、そこいら中に、ゴミをまき散らす。何でそんなことをするんだ?

- おいおい、そこのオッサン。オイラたちが好きこのんで、ゴミを漁っているとでも思っているのか。このドアホ! ゴミの中には、ほとんど腐ったものしか残ってない。そんなもの、オイラたちだって食べたい訳じゃない。本当は新鮮でおいしいものを食べたいと思っている。しかし、人間が捨てたゴミでも食べなければ、オイラたちは生きていけないんだ。オイラたちにも最低限、生きる権利はある。違うか!

 

しばし、私は考え込んでしまった。フムフム。確かに、カラスにも生きる権利はある。そう思った。

 

- 黒三郎、お前たちはいつも腹を空かせているのか?

- そうだ。カァー、カァー。

- お前は、今も腹が減っているか?

- もちろんだよ。

- カリカリならあるけど、食べたいか。

- カァー!

- 分かった。でも、この前みたいに大きな声を出して仲間を呼ぶな。そんなに沢山は、持っていないんだ。

 

私は、花ちゃんが使った後の紙皿に、カリカリを一握りほど、盛り付けてやった。黒三郎は、おいしそうにそれをついばんだ。

 

- どうだろう、黒三郎。誰にでも最低限、生きる権利はある。このテーゼから出発すれば、俺たちは1つの思想を作り出すことができる。例えば、アフリカのサバンナで、ライオンがシマウマを殺して食べる。この行為は許されるか。もちろん、腹を空かせたライオンは、シマウマを食べなければ生きていけない。どうだろう?

- 生きるために仕方がないのだから、その行為は許されると思う。カァー。

- そうだね。

 

すると、険しい表情をした花ちゃんが一歩、踏み出して言った。

 

- 黒三郎! それでもあたしは、お前たちカラスが嫌いだ。お前たちはいつだって、高い所にいて、誰かが失敗するのを見て笑っている。そして隙さえあれば舞い降りてきて、食べ物を奪っていくんだ。だから、冷笑主義者だって言われるんだよ! 猫には愛があるけど、お前たちカラスには、愛がないんだよ!

- そんなことを言ったって、それがカラスのライフスタイルなんだから、仕方がないじゃないか! 

 

黒三郎は、羽をバタつかせて、不満そうに言った。

 

- なあ、黒三郎。誰にでも冷笑主義から脱却する方法はあると思うよ。それは、自分から何かに参加してみる、自分でやってみるってことなんだ。成功すれば、それは自信につながるし、失敗したとしても、そこから何かを学ぶことができる。自分でチャレンジしない者は、成長できないんだよ。

 

私がそう言い終わるか終わらないうちに、大きな羽音をたてて黒三郎が飛び立った。そして、花ちゃんがシャーと叫んだのだった。見ると1頭のイノシシが私を目掛けて突進してくる。私は、急いでベンチの後ろ側へ身を隠した。目にも止まらぬ速さで、花ちゃんがイノシシ目掛けて飛び掛かった。花ちゃんの猫パンチが、イノシシの右頬にヒットした。しかし、それはまるで効いていなかった。花ちゃんは空中で回転した後、体操選手のように見事に着地を決めた。イノシシは面食らったのか、足を止め、肩で息をしていた。

 

- ねえ、ミッシェル。あんたの気持ちは、分かる。でも、全ての人間が悪い訳ではないの。中には、いい人間だっているのよ。このおじさんは、悪い人じゃない。

 

ミッシェルと呼ばれたイノシシの眼から、大粒の涙がこぼれた。彼女がやってきた方角からキィーキィーと鳴きながら、3匹のうり坊たちが走ってくるのが見えた。ミッシェルは踵を返して、うり坊たちの方に向かって歩き出した。

 

- ああ、驚いた。花ちゃん、それにしても日本に住むイノシシの名前がミッシェルというのは、少しおかしくないか?

- あのね、例えば赤い木の実があったとして、それをリンゴと呼ぼうが、アポーと呼ぼうが、何の問題もない。それが言語の恣意性ってものなのよ。だから、彼女の名前がミッシェルであることに問題はないの。

 

私の頭は混乱した。まさか花ちゃんは、ソシュールの一般言語学を知っているのだろうか。それにしても一体、にゃんこ村で何が起こったというのだろう。羽音が聞こえ、黒三郎が再び降りてきた。彼が見ている方角に顔を向けると、立派な体格をしたオスのイノシシがゆっくり歩いてくるのだった。彼はミッシェルよりも一回り大きい。彼の口元には、2本の長い牙が生えている。私は、身構えた。

 

- あら、猪ノ吉だわ。彼は、ここら辺に住むイノシシグループのリーダーよ。大丈夫。彼は余程のことがない限り、手荒なことはしないわ。猪ノ吉さん、こんにちは!

 

花ちゃんの呼び掛けに、猪ノ吉は小さく頷いた。

 

- 猪ノ吉さん、ここで何が起こったのか、このおじさんに話してあげて。

- うむ。しかし、この人間は信用できるのか?

- 大丈夫よ。この人はいつもここへきて、私たち猫にカリカリをくれるの。チュールも。

 

花ちゃんにならって、私も猪ノ吉に挨拶をしてみた。

 

- 君の名は、猪ノ吉っていうんだね。お会いできて光栄だ。ミッシェルは何故、俺を襲おうとしたのか、彼女の身の上に何があったのか、良かったら教えてくれないか。

 

猪ノ吉は、じろりと私の顔を見上げた。

 

- では、話をしよう。少し長くなるから、あんたはベンチに座って聞いてくれ。

 

私は、ベンチの前に進み出て、腰を下ろした。猪ノ吉も私の左前に来て、腹ばいになった。猪ノ吉は低く、威厳のある声で話し始めたのだった。

 

- 箱罠っていうものがある。これは鉄でできた檻のようなものだ。中にはイノシシが好む餌が置いてある。その餌は、とてもいい匂いがするんだ。腹を空かせたイノシシが、その檻の中に入って餌を食べるためには、どうしても檻の中の踏み板を踏むことになる。するとその瞬間、自動的に後ろの扉が落ちて、そのイノシシは閉じ込められるって寸法だ。もう何年もそんなものは、設置されていなかったが、どういう訳か最近、人間がそれを仕掛けたんだ。あれは、先週のことだった。その箱罠に、一頭のイノシシがつかまってしまった。ミッシェルの夫だ。慌てた彼は、鉄の檻に体当たりをくらわせた。ガシーンという音が響く。しかし、鉄の檻はびくともしない。身体をぶつける度に、少しずつ彼の皮膚がやぶけ、血が流れた。ワシらは、近くで彼の様子を見ていた。ミッシェルと彼女の子供たちもだ。ワシは、もう止めろと彼に言った。しかし、彼にはそうする以外、助かる道はなかったのだ。ミッシェルは、檻にすがって泣いた。彼はミッシェルに、ここにいては危ないから、子供たちを連れていつものねぐらへ帰れと言った。ワシもミッシェルにそうするように言った。やがてとっぷりと日が暮れて、夜になった。静かな夜だった。波の音だけが、ザワザワと聞こえていた。そして時折、ガシーンというあの音が、微かに聞こえてきた。夜が明けると、人間たちがやってきた。ワシは、人間たちに気づかれないよう、遠くから見ていたんだ。人間たちは鉄の棒を使って、ミッシェルの夫に電気ショックを与えた。彼は、倒れた。彼の両足がヒクヒクと動いたが、それも数秒のことだった。人間たちは、彼が死んで動かないことを確認すると、彼の体をロープで縛り、クルマの荷台に乗せて、どこかへと運んで行った。

 

猪ノ吉は私の眼を見たようだったが、私は彼の眼を見ることができなかった。

 

- 人間って、最低だな。

 

そう言い残して、黒三郎が飛び立った。