文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

No. 195 集団幻想という考え方

 

ある日、イワム族の村長が「我々の祖先はバナナである」と発言しました。今後もこの村長について言及することがあれば、「バナナ村長」と呼ぶことにします。

 

思えば上記村長の発言も、仮説だと思うのです。では、この仮説はその後、どのような道筋を辿ったのか。何しろ、村長の発言ですから、一般の村民としてはこれを無視できない。村民たちは、この仮説を受け入れたのです。そして、「我々の祖先はバナナである」ということは、村民共通の認識となった。このように、集団によって受け入れられた仮説を「集団幻想」と呼ぶことにします。

 

集団幻想は次第に定着し、規範力を持つようになる。例えば、親が子供にこう教育する。「あんた、バナナを食べたらダメだよ」という風に。しかし、やがて村長は死に、集団幻想に疑問を持つ者が現れる。「隣村の連中は、バナナをおいしそうに食べている」。そう思った誰かが、こっそりバナナを食べてみる。やはり、おいしい。これは、集団幻想に対する異議ということになります。そして、バナナを食べた者は、こっそりそのことを友人や家族に打ち明ける。バナナを食べたけれども、特段の災厄は生じない。そして、バナナはとてもおいしいと述べる。それじゃあ食べてみようという人たちが現われ、やがてバナナに関する仮説は否定される。この段階を一覧にしてみます。

 

1. 仮説
2. 集団による仮説の受容
3. 集団幻想の確立
4. 規範力の発生
5. 異議

 

では、コペルニクスの地動説はどうでしょうか。

 

何しろ、太陽は東から登って、西に沈む。これは天空が動いているに違いない。そういう仮説が生まれる。そして、多くの人がこの仮説に賛同し、この仮説は集団の中で受容され、集団幻想となり、規範力を持ち始める。天動説に異議を唱えたりして、世の中をいたずらに混乱させるのはけしからん、という訳です。そこへコペルニクスが現われ、地動説を唱える。後年、ガリレオなどがこの地動説を支持する。科学が進展し、地動説が正しいということが、観測され、実証される。実証された地動説は、もはや仮説ではありません。それは知識となる訳です。知識が集積され、科学となる。そうしてみると、文化の反対概念は、科学ということになるのかも知れません。

 

上記の例などにより、人間は無数の仮説を考案し、それを集団的に信じてきた歴史のあることが分かります。集団的に受け入れられた仮説、すなわち集団幻想というのは、科学的な観測や実験によって、証明されていない。だから、往々にして、誤っている。

 

では、今話題のジェンダーは、どうでしょうか。ちなみに英語では肉体的な性をセックスと言い、性に関するメンタリティーをジェンダーと呼ぶようです。

 

古代から、女性は経血を流すので不浄であるという考え方がありました。これなど、典型的な集団幻想であるということになります。また、日本の戦時中のことを考えますと、男の兵隊さんは、大変な境遇にあった。特攻隊に出されて、死んでしまう。そこで、様々な仮説が立てられた。お国のために死んだ兵隊さんは、英霊となり靖国神社に祀られる、というのもその一つでしょう。その反動として、女性の地位は下げられた。坂口安吾の「堕落論」には、戦争未亡人が再婚するのは堕落だという社会的な風潮があったと記されている。確かに夫は大変な思いをして戦死した訳ですが、だからと言って、夫はもうこの世に存在していない。残された戦争未亡人が再婚しようがどうしようが、それは彼女の勝手ではないか。私は、そう思います。しかし、戦後のメンタリティーとしては、すなわち集団幻想としては、圧倒的に男尊女卑であった。

 

男尊女卑という集団幻想は、昭和の演歌にも現れていると思います。

 

着てはもらえぬセーターを、寒さこらえて編んでます~♪♪

 

これは都はるみさんの歌ですが、女とは男に尽くすもので、それが女のあるべき姿だ、というニュアンスがうかがわれます。しかし、今どきそんな女性はいないと思うのですが、いかがでしょうか。やはりこれは現実に反しており、幻想である。

 

あなたの決してお邪魔はしないから、おそばに置いて欲しいのよ~♪♪

 

こちらは確かピンカラ兄弟の歌だったと思うのですが、今どきこんな歌を歌ったら「女性蔑視だ!」と批判されるのではないでしょうか。

 

そして、財務省高官などによるセクハラ問題が起きました。そもそも、男尊女卑という集団的に受容された仮説は、未だにその正しさは立証されていない訳で、そもそも男らしさ、女らしさということにも疑問が提起されています。これはとても大きな問題で、ちょっとやそっとでは解決しない。異議を唱えるだけでは、中々、過去の集団幻想を克服することはできない。科学的に証明することも困難だ。すると、この問題を解決するためには、新たな仮説、すなわち文化を創造する必要があるのではないか。すなわち、あるべき男らしさとはこうで女らしさとはこうだ、という新たな仮説が必要ではないでしょうか。更に、そんな男と女のあるべき恋愛の姿も提示する必要がある。LGBTの方々に関する問題も含めて考えますと、そもそも人間とはどうあるべきなのか、再定義が必要ではないでしょうか。ここは、人類学者、哲学者、文学者、芸術家、女性、LGBTの方々など、総力を挙げて新たな仮説を構築する必要があるように思います。

 

集団的に受容された仮説、すなわち集団幻想ということを考えますと、思い当たることは無数にあります。祖先崇拝、霊魂の存在、カーストなどの身分制度原発安全神話など、枚挙にいとまがありません。科学的に証明できることはいいのですが、そうでない事柄については、文化の力によって克服していくしかない。そもそも、想像系の文化というものは仮説から始まる。仮説だから、当然、過ちを起こす。しかし、その過ちを正すのもまた、文化だと思うのです。そうやって、人間は進化を続けていく。

 

ところで、このブログについてですが、今後、タイトルを「文化領域論」に変更しようと思います。そして、あたかも一冊の本のように、まず序文があって、目次があって、という体裁をとりたいと思います。体系づけられた思想としての文化論を展開したいということです。自信はありませんが、チャレンジしてみようと思っています。準備のため、このブログの更新は、しばらく(2週間程度?)お休みさせていただきます。