文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

文化認識論(その25) 認識能力の限界

今回は、以下の記事の続きを書いてみたいと思います。

 

記号から論理へ(その20)
https://www.bunkaninsiki.com/entry/2020/02/02/183224

 

前回同様、次の6項目を用いて考えることにします。便宜上、これを「認識の6段階」と名付けることにしましょう。

 

1. 記号
2. 情報
3. 因果関係
4. 概念
5. 原理
6. 論理

 

少しややこしい話なので、上記の記事と若干重複するかも知れませんが、もう一度、「認識の6段階」について、説明致します。

 

記号というのは、人間が五感によって認知するシグナルのようなものです。例えば、部屋にいてピンポンとチャイムが鳴る。このピンポンという音が、記号です。すると、私の部屋に誰かがやって来たことが分かる。チャイムの音とは、そういうものだということを私は、予め理解している。この能力がなければ、記号の意味を理解することができません。この能力のことをパースは、interpretative thought of a sign(解釈思想)と呼んだ訳です。

 

チャイムの音に続いて、インターホンから声が聞こえてきます。向こう側から、人の声が聞こえて来ます。向こう側で、誰かが言葉をしゃべっている。この言葉も記号です。例えば、こんな言葉が聞こえて来る。

 

「宅急便です」

 

すると私は、チャイムの音と言葉によって、すなわち複数の記号を組み合わせることによって、私宛の荷物があって、それを運ぶ人が玄関まで来ていることを認識する訳です。これが情報です。

 

情報を記憶すれば、それは知識となります。そして、この知識の量を競い合うのがクイズ番組であったり、学校のテストだったりする訳です。私の説、すなわち「認識の6段階」に従って考えますと、知識というのは極めて原初的なステップであって、これをいくら増やしたとしても、たいしたことはありません。

 

知識は、経験によっても得ることができます。例えば川があって、そのある場所でよく魚が釣れる。あそこで釣りをすれば、よく魚が釣れる。そう思う訳ですが、それは情報に過ぎません。しかし、魚を沢山釣りたいと思っている人は、そこで想像力を発揮する訳です。何故、あの場所で魚が釣れるのか。そこで、観察してみると、ある種の水草を発見する。すると、魚はあの水草を食べているのではないか。そのために魚があの場所に集まって来るに違いない。そういうことが分かってきます。沢山魚を釣りたいという欲望があって、疑問があって、因果関係を認識することになる。

 

ただ、人間にはなかなか理解できないこともあった。かつて人間は火を見て、これはどこからやって来たのだろうと考えた。そうだ、その昔、火というのはトキイロコンドルが持っていたに違いない。何しろ、トキイロコンドルの赤いくちばしは、炎のように見える。そして、人間が火をトキイロコンドルから盗んだのだ。だから今、我々は火を使うことができる。このようにして、人間の想像力が神話を生んだ。神話というのは、人間が外界を認識するために作った因果関係に関する仮説ではないでしょうか。

 

様々な因果関係についての仮説、すなわち神話を組み合わせていくと、やがて概念が生まれる。そして、人間は神、天国、地獄などの概念を生み出した。それが宗教となる。やがて、人間は文字を発明し、因果関係や概念について記した聖書や経典というものが登場する。これらは文字で記載されているが故に、柔軟性を欠いた。勝手な解釈は許されない。文字で記載されたことだけが真理なのだ。そう考えた宗教家たちの思考は、そこで停止する。

 

しかし、神話から宗教へと向かった系譜とは別に、現実の世界を直視しようとする思想が古代ギリシャに生まれていた。それが哲学になった。やがて、哲学から自然科学が分岐していく。それでも哲学の世界に留まった者たちの関心は、人間に向けられた。人間とはどのような存在なのか、人間はどのように認識しているのか。そして彼らは、原理に辿り着く。

 

原理とは物事を決定づける法則なので、これが分かれば普遍的な認識を得ることができる。例えば、権力は必ず腐敗する。これは、現在の安倍政権に限ったことではなく、古今東西の権力者に共通して見られる原則であって、つまり原理だと言える。では、どうすれば良いのか。そこで、論理的な思考が登場する。こうすれば良い。こうすればうまくいくはずだ、という思想が生まれる。これを私は、論理だとか、論理的な思考と呼んでいる訳です。例えば、権力が必ず腐敗するのであれば、三権分立にすれば良かろう、ということになる訳です。

 

ちなみに、現在、世界の先進諸国において施行されている法律には2つの系統があります。一つは英米法で、コモンローとも呼ばれますが、過去の判例に従って現在の事例を判断しよう、というものです。もう一つは大陸法と呼ばれるもので、制定法とも呼ばれます。こちらは、法律は予め条文にまとめておこう、というものです。フランスの法律を真似た日本は、こちらの制定法を採用しています。そして、英米法も大陸法も、その起源は古代のローマ法にある。このローマ法を近代化したのも、哲学者たちだった。

 

さて、ここまでの話をまとめてみましょう。

 

1. 記号
2. 情報 ・・・・ 知識(記憶力)
3. 因果関係 ・・ 神話(想像力)
4. 概念 ・・・・ 宗教
5. 原理
6. 論理 ・・・・ 法律

 

人文科学の世界における人間の認識能力について、私は、概ね上記のように考えています。また、あくまでも情報の段階に留まるクイズ番組や、現代日本の教育制度などについては、はなはだ遺憾だと思っている訳です。その先へ進むべきだ。そして、最終的には論理の段階まで到達しなければならない。

 

しかし、本稿の主題がそこにある訳ではありません。どうやら第5段階の原理や、第6段階の論理においても、そこには限界があるのではないか。前置きが長くなって申し訳ないのですが、ここからが本論です。以下、構造主義、リスクマネジメント、憲法の3点について検討していきます。

 

構造主義

 

構造主義の元祖であるレヴィ=ストロースは、未開人の社会にも隠された構造があって、それは近代西洋文明にも匹敵するものだ、と主張した。構造とは変わらない要素と、変動する要素から成り立っているもので、それを彼は神話群のテクストや未開人の親族構造から読み解いたのでした。すると、人々には疑問が湧いてくる。

 

それが一体、何なのさ?

 

誰だって、そう思いませんか? とても長くて難解な論文を読まされて、こうなっている、こういう構造がある、と言われても「だからどうした?」と言いたくなる。

 

レヴィ=ストロースの場合には、その答えがあった。「だから、ヨーロッパ中心主義や植民地支配は間違っているのだ!」ということになった。これで、当時の人々は納得したに違いない。そこで、構造主義は大ブームを引き起こしたらしいのです。つまり、柳の下の2匹目の泥鰌を求めて、多くの思想家たちが「これこそが隠された構造だ!」と主張し始める。しかし、彼らも同じ疑問に晒される。

 

それが一体、何なのさ?

 

その先を説明できなかった構造主義者たちは、批判されたようです。つまり、構造主義における構造というのは、あくまでも原理の段階にあった。その先の「こうするべきだ」という論理的な主張を用意できたのは、レヴィ=ストロースだけだったのではないか。そこで、ポスト構造主義が誕生する。そういう経緯が、「ポスト構造主義」(キャサリン・ベルジー岩波書店/2003)という本に書いてある。

 

構造主義の限界が、ここにある。

 

こういう話を知ってしまうと、構造主義に対する興味も色あせてしまいますね。ちなみに、ポスト構造主義者であるジャック・デリダの「エクリチュールと差異」という本には、彼の論文が11本収録されています。中には、こういう論文があるのです。

 

小説家Aが書いたBという小説を、構造主義者である批評家のCが論評する。その論評をデリダが批判する。浅学の私などは、AもBもCも知らない。すると、デリダが何を言っているのか、さっぱり分からない。せめて、夏目漱石志賀直哉の作品を扱ってくれれば、少しは分かると思うのですが。これはもう、文化的基盤の違いとしか言いようがない。そういう事情もあって、構造主義というのは日本ではあまり注目されなかったのではないでしょうか。

 

<リスクマネジメント>

 

未だ発生していない損害を予測して、予め、対策を打っておくのがリスクマネジメントです。これは、人間の認識能力を総動員しなければならないとても複雑な取り組みだと思います。当然、自然科学の知見も関わってきます。リスクマネジメントの中で、特に、深刻な損害に対応するのが危機管理です。新型コロナウイルスの問題は、正に危機管理の問題ですね。

 

リスクマネジメントにも、いろいろな理論があります。ただ、漠然とリスクを恐れていても、埒があきません。そこでまず、クライシスポイントを認識する。新型コロナの問題に照らして言えば、「ウイルスへの感染」がそれだと思います。そして、クライシスポイントの前段階での対策を考える。すなわち、感染への予防策を講じるということがあります。そして、クライシスポイント以後の対策を考える。すなわち、感染してしまった後の対処策を講じるということです。

 

他に、「達成すべき目標」を設定する、という理論もあります。そして、目標達成の阻害要因をリスクとして認識し、個別のリスクに対処していくという方法です。こちらの理論によれば、対策はトータルパッケージで行わなければなりません。新型コロナの例で考えますと、一つには、「日本国内での感染を防止する」ということが目標の一つになるはずです。するとまず、感染者を特定して、感染者を隔離する必要がある。次に、潜在的な感染者からの感染にも対処する必要があります。政府はとりあえず、学校を休みにすることを決めたようです。賛否両論あるようですが、私は、やらないよりはやった方がマシだと思います。しかし、対策はトータルパッケージで行わなければ、効果を望むことができません。満員電車はどうするのか、集会はどうするのか。濃厚接触が避けられない介護の現場では、どうするべきなのか。マスクをする意味はあるのか。また、感染してしまった場合には、どうすれば良いのか。最低限、これらの情報を政府は積極的に開示すべきですが、いかがでしょうか?

 

人類が直面する「認識論」は、新たな段階を迎えているように思います。

 

いずれにせよ、リスクマネジメントというのは、リスクが顕在化する以前に対処しておくべき課題です。事が起こってから、慌てふためいても、手遅れです。現在の日本では、マスクが品薄となり、トイレットペーパーやティッシュまでもが売り切れとなっている。不安に思った私は、本日、近所のスーパーに行ってみたのですが、既に、トイレットペーパーの在庫は一つもありませんでした。こんな日本に誰がした!

 

ちょっと落ち着いて、本論に戻りましょう。

 

認識論の最先端の形態、それがリスクマネジメントだと思う訳ですが、この理論にも限界がある。例えば、リスクマネジメントの理論によって、新型コロナに対処できる新薬というのは、発明できない。

 

例えば、構造的に倒産しそうな会社があったとします。リスクマネジメント理論によっても、この会社を多少は延命させることができる。しかし、抜本的な解決策を示すことはできません。その会社を再生するためには、新商品を開発するか、新たなビジネスモデルを構築するなどの方策が必要な訳です。このような課題を前にした場合、リスクマネジメントに代表される論理や論理的思考というのは、無力だと言わざるを得ない。

 

これが、リスクマネジメントの限界だと思うのです。

 

もう少し普遍化して言いますと、論理や論理的思考というのは、新しい何かを生み出す力が弱いのではないか、ということです。人間が持つそのような力は、論理ではなく、むしろ直観だと言った方が当たっているのではないでしょうか。

 

少し、長くなってしまいました。憲法の限界については、次回にて。