文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

文化認識論(その27) 理性と狂気

「認識の6段階」と称して、私が提示した概念モデルについて、それなりに私は自信を持っています。例えば、宗教というのは4番の概念までは行くけれども、その後の原理と論理が欠けている。そういうことが分かる。但し、ここに示した論理に至る認識方法には、どうも限界がある。新しいものを生み出すという機能に欠けている。しかし、私たち人間の社会は、常に新しい何かを生み出して来た。

 

そうしてみると、「認識の6段階」というのは、一つの認識方法を示しているに過ぎず、人間には異なる認識方法があるに違いない。では、人間が新しい何かを生み出す能力というのは、どこから来るのか。

 

このように、本稿はなかなかカッコいい書き出しで始まる訳ですが、ここで話は落ちて、味噌バターラーメンの話題に移らなければならないのです。

 

「このブログって、ラーメンの話ばっかり。少しはフレンチとかイタリアンの話は出てこないのかしら?」

 

そういう声が聞こえてきそうですが、それは私の食生活上の限界なので、ご容赦いただきたい。

 

さて、味噌バターラーメンというのは、中国の麺と、日本で生まれた味噌と、ヨーロッパのバターがミックスされたものです。以前の原稿では、この食品が持っているそれだけの時間的、空間的な広がりに着目した訳ですが、実は、このミックスするというところに新しい何かを生み出すメカニズムの秘密があるのではないか、ということを述べたいのです。

 

新しい何かというのは、通常は思いつかない何かと何かを組み合わせることによって、生まれるのではないか。ラーメンを味噌味で作るというそれだけでも、かなりな発想だと思う訳ですが、人間の試みはそこに留まらず、バターまでのせてしまう。そのような仮説に立脚して考えてみますと、いろいろな例を挙げることができる。

 

近年のヒット商品として、いちご大福というのもある。たらこ味のパスタというのは、既に定番になっているし、アボガドをわさび醤油で食べると、まぐろのような味がするらしい。

 

新型コロナの影響でマスクが不足していますが、するとキッチンペーパーでマスクを作れないか、というアイディアが出てくる。また、水着の素材でマスクを作ろうという話もあって、こちらの方は既に実現しています。ちなみに、水着素材のマスクは、洗えば何度でも使えるとか。

 

人魚姫は人間と魚のミックスだし、ケンタウロスは人間と馬を組み合わせたものです。

 

かつて欧米人は、馬車に乗っていた。そして、誰かがエンジンを発明する。すると、このエンジンと馬車の人が乗る部分を組み合わせて、クルマができる。

 

ただ、このような発想というのは、論理的な思考からは生まれません。人間の心の中には、情報から得られる知識や、経験から生まれる記憶というのがあって、それらが一度、非論理的なフィルターを経由するのではないか、と思えてくる。この「非論理的なフィルター」を、ここでは「カオス領域」と呼んでおきます。そして、上記のような考え方を哲学の歴史に照らし合わせてみますと、辻褄が合うように思うのです。

 

まず、「認識の6段階」や論理的思考というのは、静的で、理性的で、すなわち近代的なものだと思います。そして、このような立場が、憲法や法律、その他の社会システムを構築した。カントやヘーゲルは、こういう位相にあったのではないか。だからカントは理性の重要性を説いたし、ヘーゲルフランス革命によって理想的な社会が誕生すると考えた。

 

しかし、人間というのはそれ程、単純なものではない。そこで、異議を唱える人が出てくる。その1人にフロイトがいる。現代に生きる私たちは、心の中に無意識と呼ばれる領域のあることを知っている。常識と言っても良いと思います。しかし、それが私たちにどれ程大きな影響を及ぼしているのか、それはフロイトが登場するまで、人間は知らなかったのです。すなわち、カントやヘーゲルさえも、そのことを知らなかった。だから彼らは、楽観的でいられたのではないでしょうか。

 

フロイトが登場する前の人間観というのは、デカルトに負うところが大きかった。「我思う、故に我あり」という奴です。ちなみにこの訳は、あまり良くない。「私は考える。従って、私は存在する」とした方が良いのではないか。

 

話を戻しましょう。デカルトの人間観というのは、人間の本質は考えることにあるのであって、考えた通りに行動することができる、というものだった。ところが、フロイトによれば、人間はどんなに考えたって、その無意識をコントロールすることはできない。そして、人間の行動というのは、無意識によって支配されている。こうなると、コントロール可能な人間というものが、コントロール不能な存在へと変質する。

 

年代順に見ていきますと、次に、レヴィ=ストロースが登場し、続いて、フランス人の哲学者、ミシェル・フーコーが登場する。

 

フーコーは、近代の理性中心主義に強烈な異議を唱えたようです。歴史的に考察すれば、人間は精神病患者を監獄のような病院に閉じ込め、見ないようにしてきた。しかし、精神病患者が持っている狂気は、人間の本質に関わるものであって、これを積極的に認識すべきだ。そう考えたフーコーは「狂気の歴史」という本を出版し、思想界に打って出た。

 

すなわち、私が先に「カオス領域」と呼んだものをフロイトは無意識と呼び、フーコーは狂気と言ったのではないか。

 

ちょっと、上に記した文章の流れでは、書き切れなかったことを追記させていただきます。人間が発明する何かというのは、組み合わせによると私は考えています。では、組み合わせによらない、100%新しい何かは発明できないのか、という疑問があります。私は、現時点では、そういう全く新しいものを人間が発明することはできないと考えています。人間の文化というのは、それを分解していくと、最後は自然に行き着く。すなわち、純粋にオリジナルなものというのは、自然の中にあるのであって、自然が持っている要素を人間は、組み合わせて、文化を創造している。そう思っています。

 

また、「野生の思考」の中で、レヴィ=ストロースは「ブリコラージュ」ということを言っています。これは、あり合わせのものを使って何かを作り出す、という意味です。例えば、無文字社会の人たちは、身の回りにあるヤシの葉などを使って、家を作ります。これに対して、現代人は専用に開発された部品を使って家を建てる。そういう違いがある、と述べているのです。しかし、上に述べたマスクの例などを考えますと、このブリコラージュというのは、現代にも生きていることが分かります。例えば、冷蔵庫を覗いて、あり合わせの食材で何か料理を作る。そういうことを現代人だって、やっている。

 

いずれにせよ、フーコーについては、もう少し調べた方が良さそうですね。フーコーは、時代区分としてはポストモダンに位置づけられています。フーコーについて調べてみると、私のポストモダンに対する評価も、少し変わるかも知れません。

 

カントやヘーゲルは、無意識の存在を知らなかった。若しくは、不十分な知識しか持っていなかった。こういうことは、とても重要な意味を持つ。そこで、主要な思想家たちについて、その存命期間を一覧にしてみました。生まれた年の順に並べてあります。ご参考まで。

 

思想家たちの存命期間一覧

トマス・ホッブズ/1588-1679/イングランド
ルネ・デカルト/1596-1650/フランス
ジョン・ロック/1632-1704/イギリス
ジャン・ジャック・ルソー/1712-1778/ジュネーヴ共和国
イマヌエル・カント/1724-1804/ドイツ
フリードリヒ・ヘーゲル/1770-1831/ドイツ
キルケゴール/1813-1855/デンマーク
カール・マルクス/1818-1883/ドイツ
チャールズ・サンダース・パース/1839-1914/アメリ
フリードリヒ・ニーチェ/1844-1900/ドイツ
ジークムント・フロイト/1856-1939/チェコユダヤ系)
フェルディナン・ド・ソシュール/1857-1913/スイス
カール・グスタフユング/1875-1961/スイス
オルテガ・イ・ガセット/1883-1955/スペイン
レヴィ=ストロース/1908-2009/フランス(ベルギー生まれ)
ミシェル・フーコー/1926-1984/フランス
ジャック・デリダ/1930-2004/フランス