文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

反権力としての文明論(その1) はじめに

 

国内において、犯罪が多発しては困る。だから、犯罪者を取り締まる警察権力が必要だ。国の外に目を向ければ、沢山の外国があって、どこかの国が攻めてくるかも知れない。だから、国民は一致団結して、強い権力を持った国家を設立する必要があるのだ。そう主張したのは、トマス・ホッブズだった。

 

しかし、本当にそうだろうか?

 

人類史上、最初に権力を作り出したのは宗教である、というのが私の意見だ。そして、権力はどこまでも自己増殖を繰り返し、膨張し、腐敗するのである。従って、宗教は権力と共に腐敗する宿命にあるに違いない。また、科学は権力に取り込まれる性質を持っている。権力を凌駕する科学など、稀にしか存在しない。つまり、宗教も科学も、原則的には権力に勝つことができないのだ。

 

ところで、フーコーの哲学を構成する要素は3つあって、それをフーコー三角形と呼ぶ。その要素は、権力、知、主体である。このように、フーコーが権力の問題を重視していたのは間違いない。しかし、フーコーの権力論は未完に終わったという説がある。フーコーは遺作となった「性の歴史」の第1巻、「知への意志」で権力論に取り組んだが、その後、つまり第2巻以降、興味の対象がギリシャ哲学の方へ移ってしまったというのが、その理由らしい。

 

例えば私は、こう考えている。普遍的な真理とは「全ての人々が幸福になるための方法」のことだ。そして、この普遍的な真理に到達した人はいない。到達することが可能なのか否か、それすら分からないのである。従って、全ての思想は未完なのだ。フーコーといえども、事情は変わらない。仮にフーコーがあと5年生き永らえたとしても、彼の権力論は未完であったに違いない。

 

そうしてみると、私がこのブログに何を書こうと、その原稿は未完であるし、普遍的な真理に到達することはないのである。しかし、だからと言って思考することを止めてしまってはいけない。思考せよ、知への意志を持て、というのがギリシャ哲学の、そしてフーコーの主張であったはずだ。思考すれば、私にとっての真理、すなわち個別的な真理に到達することは可能かも知れない。

 

現在、私は、本稿の羅針盤を持っている訳ではない。若干のアイディアがあるだけだ。例えば、現代の文明を見ていくと、権力や知の及ばない領域があるのではないかと思うのだ。それは、遊び、芸術、文化などに関わる領域のことである。権力のシステム化が進み、息苦しくてたまらない現代社会ではあるが、それでも私たちには、ほっとできる文化領域とでも呼ぶべき時空間が残されているように思う。例えば、田舎の子供たちは、今でも自然の中で遊んでいるのではないか。例えば、私たちには和食という貴重な文化があって、醤油を付けて刺身を食べるとき、私たちはほっとしていないだろうか。

 

してみると、フーコーが考えた権力や知という要素に、この文化という要素を加えて検討してみれば、何か、新しい主張が生まれるかも知れない。

 

権力 - 知 - 文化

 

権力によって権力を倒したとしても、新しい権力を生むだけである。それでは、権力に勝ったことにはならない。権力を倒すには、権力の存在価値、それ自体を否定することではないか。そのような意味で、私は「反権力」という言葉を使用したいと思っている。

 

上に記した発想をベースに、このブログに若干の原稿を掲載していきたいと思う。