文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

秩序の正体

 

ここに言う「身体」とは、人間生活の中核をなすものであって、健康や性に関わる身体技術や食文化などの生活技術を含むものとしよう。また、生活することを人生の基本とする人々を指す。これは、人類史における最古の領域だとも言える。

 

やがて、身体を否定する形で、ある種の「知」が生まれた。

 

ここで久しぶりに、例のバナナ村長に登場してもらおう。

 

昔、ある部族の村長が言った。

 

- 我々の祖先は、バナナである。また我々は、我々の祖先に敬意を払わなければならない。従って、今後、バナナを食べることを禁止する。

 

この話には、ほとんど人類最古ではないかと思われる身体と対立する「知」の誕生をみることができる。身体の側の要請は、当然、バナナを食べたいという欲望にある。そして、その欲望を禁ずるところに、「知」の成立基盤が存在しているのだ。また、このように何かを食べないという規制は、世界各地に存在している。例えば、イスラム教徒はブタ肉を食べない。また、イスラム教、ヒンドゥー教、仏教などには断食の習慣がある。

 

古代ギリシャの哲人たちは禁欲的だったし、それに続くキリスト教も性を抑圧した。つまり、身体に対するアンチテーゼとして、「知」を確立してきたのだ。

 

そして、バナナ村長の発言の最後の部分、すなわち、「今後、バナナを食べることを禁ずる」という部分に権力の萌芽を見ることができる。権力は、行使されるから存在する。このように、最初に身体があって、身体を否定する形で「知」が生まれ、「知」が権力を生む。

 

もちろん、人間の「知」には永い歴史があるし、その種類も様々だ。ちなみに、人類が火を使い始めたのは、180万年前だとする説がある。もう少し最近の話で言うと、まず、呪術的な「知」というものがあった。これは融即律と言っても良いだろう。やがて、それらが体系化され、宗教的な「知」へと発展する。更に、複雑なプロセスを経て、自然科学(以下、単に「科学」という)が誕生する。

 

科学の特徴は、人間の身体が成し得ないことを実現するという点にある。元来、人間は空を飛べないが、飛行機がそれを可能にした。生身の人間は、一度に多くの人間を殺せないが、爆弾がそれを可能にしたのである。身体を超越するのが、科学の目的だと言える。

 

宗教的な「知」にせよ、科学にせよ、それが生まれると人間は集団を組成する。それは人間の本能かも知れないし、若しくは「知」が何らかの利益をもたらすからだとも言える。宗教的な「知」は教団を作り、科学は会社を作る。そして、集団ができると、そこに権力が生まれる。

 

権力は、行使されることによって、その存在が誇示される。権力を誇示しない権力者は、少ない。権力が反復継続して行使されると、規範力が生じ、やがてそれが秩序となる。この秩序は、構造と言い換えても良い。

 

秩序が生まれると、人々はそれに従うと共に、依存するようになる。例えば、クルマの製造技術が生まれると、自動車会社が誕生する。自動車会社は多くの従業員を抱え、大量のクルマを製造する。自動車会社には必ず社長がいて社内を統轄する訳だが、それと同時にクルマの製造技術に関する膨大な特許権等の知的財産権を保持する。これも1つの権力だと言えよう。もう何十年もの間、日本国内で新たな自動車会社が設立されたことはない。それはこの特許権が壁になっているからに違いない。自動車会社の従業員は、会社に勤務することによって給与を得るし、ユーザーはクルマを使用することによって、様々な便益を得る。こうして、クルマに依存する社会が生まれる。

 

クルマならまだいいが、永年日本を支配している自民党にも同じことが言える。自民党が頑なに守っている「知」とは、米国の言いなりになっていれば良い、という暗黙知だと思う。そして、それは秩序となり、その秩序から利益を享受している者が多く存在する。地方の住民は、自民党に頼んで地方交付金をもらう。大企業は、法人税を減税してもらっている。官僚は天下り先を確保できるし、宗教団体は税金を納めなくて済む。テレビ局は放送権を確保し、新聞社も同じ秩序の中にある。

 

自民党や政府は庶民に対しては増税ばかりする訳だが、一体、誰が自民党に投票するのだろう? 私は、永年そんな疑問を持っていたが、答えは簡単だ。税金は、どこかに使われているのであって、そこから利益を得る者がいて、彼らが自民党に投票しているのである。これはもう日本政治の秩序なのだ。

 

身体→ 「知」→ 集団→ 権力→ 秩序→ 依存

 

このような秩序があるのだから、何回選挙をやっても自民党が勝つのである。そこから何の恩恵も得ていない私などは、もう絶望するしかないし、実際、ほとんど絶望している。このような現実を前にして、哲学や思想は無力なのだろうか。

 

しかし、人類の歴史には、秩序に反旗を翻した例がない訳ではない。例えば、14世紀にイタリアで勃興したルネッサンスである。

 

ルネッサンスとは・・・

 

- 教会の伝統的権威に対抗して、(中略)神中心の伝統的世界観からぬけだし、人間性を信頼しつつこれを充実・発展させようとする生活態度であった。(世界史/山川出版)-

 

・・・ということなのだ。

 

つまり、「知」が生まれる以前の段階まで戻って、人間性、私の言葉で言えば「身体」の段階まで戻って、そこから再スタートを切るべきではないか。この身体から生まれてくる価値観、それを私は仮に「身体感覚」と呼びたい。

 

例えば「身体感覚」から、理屈ではなく、次のように主張することが可能ではないか。

 

木を切るな!

 

コオロギなんて食わせるんじゃねえ!

 

原発なんて危ないものは止めろ!

 

戦争に近づくな!

 

税金は下げろ!

 

この原稿には、多くのことを詰め込み過ぎたかも知れない。