文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

ソクラテスの魂(その1)

 

現在、日本はコロナ禍に見舞われ、その対策にことごとく失敗している。それにも関わらず、東京五輪を強行しようというのだから、呆れるという他はない。日本の民主主義は瀕死の状態だと言いたいところだが、冷静に考えてみると、この国において本当の意味での民主主義が実現されたことなど、一度もないのではないか。一体何を間違ってしまったのだろうと思う訳だが、政治も教育も社会制度も、その全てを間違えているに違いない。

 

人間集団の大きさをベースに考える場合、国家があって、個人があって、その中間の集団があるという区分けが簡便である。この区分けに従って、まず、中国の現状を考えてみて、その後、日本と比較してみたいと思う。

 

1党独裁とか、集団的指導体制と呼ばれるように、中国は強い国家権力によって統制されている。それはコロナ対策を見ても明らかだろう。国家権力を背景として、中国は迅速にロックダウンを行い、コロナの封じ込めに成功した。中国の人口は14億人を少し超える。日本の10倍以上である。それでも中国におけるコロナの死者数は約4千6百人であって、日本の死者数1万3千人(いずれも5月末時点)をはるかに下回る。経済においても国家による統制が功を奏して、GDPの成長率は高いレベルを維持し続けている。中国が日本のGDPを抜いて、世界第2位の地位を確保したのは2010年のことである。

 

次に中国における中間集団の状況はどうか。思うに、中国は中間集団を徹底的に弱体化してきたのではないか。少数民族を弾圧し、香港における人権問題も深刻さを増している。宗教団体も迫害され、国家に対する分派的な集団は、その存在を否定されるのだ。

 

では、中国の個人に対する施策を考えてみよう。

 

中国においては、中間集団が弱体化されているので、個々人に対しては目が届きにくくなる。

中間集団が存在すれば、その内部の同調圧力や密告制度を使って個人に圧力を掛けることができるが、そもそも人口の多い中国においては、それが困難だったのではないか。そこで登場したのがデジタル監視ということだろう。既に顔認証システムが犯罪者を追い詰め、個々人の信頼度に関するスコア化が進んでいる。このデジタル監視という手法の特徴は、人間を集団で見るのではなく、個別に識別するところにある。

 

中国のシステムをまとめてみよう。

 

国 家・・・・強い

中間集団・・・弱体化

個 人・・・・デジタル監視

 

では、中国人は幸福だろうか。もちろん、多くの富裕層がいて、彼らは幸福なのかも知れない。また、国家が強いのでコロナウイルスからは守ってもらえるし、他国から侵略される怖れもない。しかし、一般人のことを考えると、答えはネガティブだ。思想、信条、表現の自由なくして、人間の幸福は実現し得ない。日本人である私の目には、そう映る。中国人は国家を信用していない。そこで彼らは、親族関係を尊重するのだ、という説もある。この強固な親族関係が、例えば海外においては華僑としてのネットワークを構成する。

 

日本に目を転じてみよう。

 

まず、日本という国家はとても弱い。アメリカからはポンコツ兵器を買わされ、ワクチンの獲得競争に敗れ、最近ではIOCのぼったくり男爵にさえ馬鹿にされている。既に日産自動車外資に買収され、配当金という形で利益を吸い上げられている。最近ではアトキンソンという悪い奴がいて、日本の中小企業が狙われているらしい。敗戦という歴史的経緯があるにせよ、日本が弱い1番の理由は、日本という国家全体の利益を考える人間がほとんどいないからではないか。切りがないのでここら辺にしておくが、私たち現代の日本人は、あたかも国家を持たない流浪の民のようだとさえ思えてくる。

 

次に、日本の中間集団について見てみよう。これは国家全体の利益を追求するのではなく、個々の集団の利益を追求するので、概ね、利権集団と言い換えても良い。こちらの方は、雨後のタケノコのように乱立している。

 

政権与党は、党利党略に注力している。国家や国民全体の利益など、まるで考えていない。一部の野党も、事情は変わらない。国会議員は多額の収入を得られるので、その地位にしがみつく。そして、新たな政治団体の新規参入を防ぐために、供託金をはじめとする高い障壁を設置しているのである。官僚も同じで、自らが属する省庁の既得権や、天下り先の確保ばかりを気にしている。メディアにも真実を伝えようという気概は、ほとんど感じられない。そもそもメディアの使命は、情報を伝えることなのだろうか。例えば、コロナの感染者が何人だった、というのは情報である。確かにメディアは、正確な情報を伝えている。しかし、情報をどう読み解くか、ということの方が余程大切ではないだろうか。ところが情報を分析した後に抽出されるロジックや意見について、日本のメディアは御用学者やお笑い芸人に言わせるのである。かつて、日本の知性とはビートたけしであるという説があった。今も事情は、大して変わらない。

 

結局、現在の日本において権勢をふるっているのは、これらの中間集団、利権集団なのだ。

 

では、日本人を個人ベースで見た場合、幸福だろうか? 答えはまたしてもネガティブである。労働人口の約4割が非正規で不安定な雇用環境に置かれているし、そこへ消費増税とコロナ禍が襲ったのだ。結果として、特に女性の自殺者数が増加した。福島第1原発についても一向に終息の兆しは見えないし、検察によって巨悪が暴かれることもない。結局、日本人の認識能力は低下したのだ。そのことによって、持つべき価値観は崩壊し、拝金主義が横行するに至った。人々は希望を失い、大衆はルサンチマン反知性主義に埋没したのである。

 

では、日本の状況をまとめてみよう。

 

国 家・・・・弱い

中間集団・・・利権集団の乱立

個 人・・・・価値観の崩壊

 

結局のところ、中国と日本とでは国家の体制が大きく異なるものの、どちらも成功してはいないのだ。私は、「民主的で強い国」が理想だと考えているが、それは青臭い理想主義に過ぎないのだろうか。

 

話は変わるが、私は、ミシェル・フーコーの思想に魅了されてきた。例えば、「自己への配慮」という文献がある。この言葉は不思議な響きを持っている。誰だって、自分が大切だし、エゴイズムを持っている。多くの場合、それは人間の行動原理とさえなるものだ。それにも関わらず、そのような自己へ配慮せよ、というのである。もちろん、「自己への配慮」とはエゴイズムを推奨するという意味ではない。もっと深い意味で、自己とは大切な人間なのだから、その自己を成長させよ、という意味である。また、この言葉は、自己を2つに分割しているようにも思える。すなわち、配慮する自己と、配慮される自己ということだ。

 

それにしても、この不思議な言葉は、誰の言葉なのだろう。そう思って「自己への配慮」の頁を繰ってみるのだが、そこに明確な記述はない。ただ、次の一節があった。

 

- しかも『ソクラテスの弁明』では、ソクラテスは自分の裁判官たちにたいしては、まさしく自己への配慮にかんする達人として自分を紹介しているのである。神によって委託されたのでソクラテスは人々に、配慮すべきは自分の富でも自分の名誉でもなく、自己自身について、自分の魂についてであることを思い起こさせる、という訳である。(P. 61)-

 

そこで私は、「ソクラテスの弁明」に目を通してみた。本棚にあった30年も前の文庫本である。(ソクラテスの弁明/プラトン/山本光雄訳/角川文庫)そこに、次の一節を見出すことができた。

 

- (前略)君は知恵と力とにかけては最も優れていて、最も評判のよい国、アテナイの民でありながら、金銭のことでは、どうすればできるだけたくさん君の手に入るかということに、また評判や栄誉のことに心掛けるのに、英知や真理のことに、また魂のことでは、それがどうすればいちばん優れたものになるかということに心掛けもせず、工夫もしないのが恥ずかしくはないか(後略)(P. 79)-

 

上に引用したソクラテスの思想は、「魂への配慮」とも呼ばれている。「自己への配慮」とは少し違うが、それが翻訳上の差異なのかどうか、私には分からない。しかし、その本質的な意味は同じなのであって、フーコーソクラテスの思想について検討していたことは間違いないのだ。

 

続く

 

追記: 所要があって、今日、街に出かけた。数か月ぶりのことだ。久しぶりに本屋へ立ち寄ってみると、驚くことにミシェル・フーコー「性の歴史」の第4分冊が出版されていた。「肉の告白」というタイトルだ。ネット上ではかねてより幻の第4分冊が出版されるとの噂があったが、既にそれが現実となっていたとは!