文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

反権力としての文明論(その4) 権力についての試論 - 方針変更

 

権力とは何か。それを考えている訳だが、少し苦しくなってきた。例えば、私たちの身近には、常に水がある。私たちは、毎日それを飲んでいるが、水について考えることには困難が伴う。科学的なアプローチがあって、それに従えばH2Oということになる。しかし、そのような記号を用いたからと言って、私たちが水について理解したことにはならない。私たちは肉眼で水を見ることができるが、決して、水本来の形を見ることはできない。権力も、同じように身近にあるものだが、私たちがその形を見ることはできないのかも知れない。

 

前回までの原稿で、権力の種類とチェック項目を提示した訳だが、本当は、そんなことは無意味なのかも知れない。そう思えてきた。例えば、権力者がいて、その被害者がいる。当初私はそう考えたが、権力者も、その被害者も、時と場合に応じて変化し続けるのではないか。

 

例えば、ストックホルム症候群ということがある。これは、長時間に渡って監禁された被害者が、次第に加害者に好意的な感情を抱くという現象のことだ。もっと身近なところでは、「バイトリーダー」ということが言われている。これは、バイト仲間の中で、誰かが雇い主に有利になることを率先してやろうと主張し、その者が雇い主からリーダーに選ばれることを言うらしい。他のバイト仲間からは「ウザイ奴」と思われているに違いない。

 

権力は、人間と人間との間に存在するある種の「差異」が生むものだろうと思う。そうやって生まれた権力が弱者に行使されたとき、人間は不平等だと感じるのではないか。そうしてみると、この問題、かなり以前に研究した人がいることになる。ルソーである。彼は「人間不平等起源論」を残している。

 

また、ストックホルム症候群に似た現象を記した著作としては、ボエシの「自発的隷従論」がある。

 

これらの文献を再読した上で、私の権力に関する試論を再構築してみる必要がありそうだ。

 

ここまでお読みいただいた諸兄には誠に申し訳ありませんが、少し方針を変更させていただきます。