文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

構造と自由(その11) 権力とは何か

 

権力とは、他者の意思に反して、当該他者を拘束し、支配しようとする力のことである。権力は、個人的なレベル、中間集団のレベル、国家のレベルにおいて、それぞれ存在する。権力の主要な構成要素は、暴力(軍事力)、経済力、思想(統制力)の3つである。

 

権力は、「知」によって生み出される。権力を生み出す「知」には、呪術的なもの、宗教的なもの、伝統的なもの、自然科学によるものなど、様々なバリエーションがある。但し、哲学上の「知」は、権力に反対し、若しくはそれを制限しようとするものである。従って哲学の本質は、反権力、反秩序だと言える。

 

また権力は、「知」に通じた内部者が作り出し、それに頼ろうとする依存者によって増幅される。

 

権力や秩序は、人間社会に必要なものだ。例えば、ドロボーを取り締まる警察権力がなければ、社会秩序を維持することはできない。しかし、権力は常に腐敗し、暴走する。そして、権力を持った者は、過去、幾度となく戦争を始めてきたのである。

 

権力は「知」によって生み出されるのではあるが、究極的なことを言えば、それらの「知」は全て真理とは程遠いのである。幻想と言っても良い。例えば、現在、日本の権力者は岸田という人である。選挙で選ばれたのだから、彼は正当な権力者だと考える人がいるかも知れない。では、彼を選出した日本の選挙制度は、正しいものだろうか。国政選挙に立候補するためには、多額の供託金を納めなければならない。つまり、この時点で貧乏人の被選挙権は制限されているのだ。更に、国会運営は正しくなされているだろうか? そこで、政治家や官僚たちは、国民に伝えるべき情報を正しく伝えているだろうか。もちろん、答えはNOだ。

 

かつて、欧州には王権神授説というものがあった。王様の権利は、神が授けたものだという説である。しかし、本当のことを言えば、神などどこにも存在しないのである。つまり、王権神授説とは、幻想に過ぎないのである。

 

世の中には、権力を持ちたいと願う者が、後を絶たない。そして、秩序を構築するために、権力は必要悪だとも言える。そこで、人類は永年に渡って、権力を正当化しようとする努力を重ねてきた。民主主義ですら、その試みの1つに過ぎない。しかし、未だかつて人類は、権力を正当化できる真理、「知」というものに辿り着いた試しがないのである。その基盤とする「知」が幻想なのだから、その上に成り立つ全ての権力も、幻想に過ぎない。

 

では、腐敗し暴走しようとする権力に対抗するにはどうすれば良いのだろう? 権力は暴力(軍事力)、経済力、思想(統制力)によって構成されているのだから、それらのうちのどれかを、若しくは全部を否定することができれば、権力に勝つことが可能となる。暴力(軍事力)の分野で権力に勝とうとすれば、それは暴力革命若しくは戦争となる。しかし、それでは誰かの人権が侵害されることになる。経済力か? 既にガチガチに凝り固まった既得権者を防御するシステムに対抗するのは、至難の業だ。残るは思想(統制力)しかない。これとて、困難を極めることに違いはないが、結局、それしかないのではないか。

 

歴史の中から、2つの例を提示したい。

 

アメリカの独立宣言(1776)。ここには、示唆に富んだ立派なことが書かれている。では、この思想はどこから来たのか。それはジョン・ロック(1632-1704)の哲学から来ているのだ。

 

フランスの人権宣言(1789)。ここにも素晴らしいことが書かれている。この思想は、どこから来ているのか。それはジャン・ジャック・ルソー(1712-1778)の哲学に由来している。

 

戦争リスクと経済危機の時代にあって、私たちは明るい未来を切り開けるだろうか? 仮にその可能性があるとすれば、それは思想、哲学の力によって、権力に対抗する以外に方法はないように思える。