文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

お知らせ

 

本ブログは「反権力としての文明論」を掲載中でしたが、これを断念することに致しました。以下にその理由を説明させていただきます。

 

まず、文化と文明の関係について。このブログはそのタイトルにあるように、「文化」という枠組みで検討してきた訳です。しかし、検討を進めるに従い「文化」という枠組みでは捉え切れない問題に直面し、世界全体を表現する用語として「文明」という用語を用いることにしました。

 

私たちが「文化」という言葉を用いるとき、それは歴史的な蓄積のあるもの、伝統的な風習などをイメージしているものと思います。「文化」は「文明」の中にあり、その深い所に位置していると言えるでしょう。従って、「文明」について検討するということは、「文化」について検討することを含む訳です。このスタンスは、変わりません。

 

問題は、「権力」にあります。当初私は、「文明」が適切な方向に向かわない根源的な理由を「権力」にあると見ていたのですが、次第に疑念が湧いて来ました。もっと大きな仕組みなり原理があって、権力はその一部として作用しているに過ぎないのではないか。その仕組みなり原理を「システム」と呼ぶべきかも知れませんが、この言葉、明確な定義がないように思うのです。そこで、私はそれを「秩序」と呼ぼうと思っています。

 

文明は、秩序を持っている。そして権力は、秩序を構成する1つの要素に過ぎない。

 

また、このブログに掲載してまいりました幾多の原稿は、文化なり文明を分析し、理解しようという試みだった訳です。言い換えれば、そこに主張はなかった。では、どうすればいいのか、どうすべきなのか?

 

この点、突き詰めて行くと、私は、芸術こそが文明を救うのではないかと思うに至りました。旧態依然とした秩序を打破し、我々の文明を前進させる力。それは芸術の中にある。但し、それは古き良き時代を懐かしむというものではありません。芸術の起源は古代にある訳ですが、人間は今日まで、一瞬たりともそれを手放したことはないのです。たった今、この瞬間においても、世界中で人々は絵を描き、歌い、言葉を紡いでいるのです。そこに希望がある。

 

上記の考え方は、ミシェル・フーコーの思想と重なるものではありません。但し、枠組みとしてはポストモダンにあります。

 

ポストモダンの芸術論。

 

私が今、構想しているのは、そういうことなのです。近日中に、着手したいと思っています。

 

お詫びとご報告まで。