文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

構造と自由(その1) はじめに

 

近ごろ、ミステリーとかサスペンスと呼ばれるテレビドラマを見ながら、晩酌をするのが習慣になった。最近この手の番組は、あまり流行っていないらしいが、BSで再放送をやっているので、それらを録画して見ている。「温泉若女将の殺人推理」とか「駅弁刑事(デカ)」など、あまりシリアスではないものが、私の好みである。

 

連日、見ていると、どうやらこれらの番組にもパターンのあることが分かってくる。まず、驚くべき殺人事件が起きる。そして、被害者の身元が判明する。これが分からないと、物語は進行しない。次に、被害者の人間関係が明かされる。大体、そこで浮上した人物の中に、真犯人がいる。主人公である刑事や探偵は、様々な仮説を立ててみる。犯行動機を持っているのは誰か、事件発生時のアリバイはあるのか。最後に、凶器や殺害方法に関わる謎を解き、真犯人に辿り着く。

 

このような発見のプロセスは、米国の記号学者であるパース(1839-1914)が提唱したアブダクションという思考方法に似ている。まず、驚くべき事実がある。その事実を解明するために仮説を立てる。その仮説によって、驚くべき事実を説明することができれば、その仮説は正しいことになる。但し、この思考方法には限界がある。ある事実があって、その事実を解明する仮説AとBが同時に成立する場合があるからだ。仮説Aが正しければ、仮説Bは間違っていることになる。

 

しかしながら、私たちが生きている世界には、この仮説によって思考する以外に方法がない事柄、不確実な領域が存在する。1つには、原始時代に関することだ。考古学が物的な証拠によって解明できる過去は、せいぜい1万年程度ではないか。しかしながら、私たちホモサピエンスには20万年の歴史がある。2つ目としては、未来に関する事柄である。例えば、ウクライナ戦争において勝利するのは、ウクライナかロシアか。誰にも分からない。3つ目としては、政治や経済に関する事柄だ。最近、日本政府は米国からトマホークというミサイルを400発も購入することを決めたようだが、これは、まったくもって驚くべき事実だと言う他はない。何しろ、このミサイルは米国が1970年代に開発した古いもので、その速さは戦闘機よりも遅いらしい。何故、このようなポンコツミサイルを購入するのか、国会で質問されても、政府はまともに答えようとはしない。

 

現代社会においては、何かと言うと、事実に基づいて主張しろとか、数字で示せという風潮があるように思うが、私はそのような合理主義には懐疑的なのである。私たちが事実として認識しているのは、社会の表層に過ぎない。様々な事実を総合して、そこから仮説を導く力の方が、より重要ではないか。

 

次に、私が今日の日本に対して抱いている危機感のうち、重要なものを3つ程挙げておきたい。それは、戦争、貧困、原発である。私は、日本人がこれらの危機を乗り越えることを願っている。

 

最後に、この原稿のタイトルである「構造と自由」について、その趣旨を述べておきたい。

 

まずヘーゲルがいて、彼は弁証法を提唱した。これは対立するAとBとがあったとして、それが上の段階において、つまり止揚して、Cとして融合するという考え方である。この原理に従えば、歴史的に見ると人間社会は進歩することになる。この考え方を批判的に継承したマルクスは、行き詰った資本主義の次に共産主義が来ると主張した。更に、人間は自由であるということを前提としたサルトルが、実存主義を唱えた。サルトルは、マルクス主義に傾倒していた。ヘーゲルマルクスサルトルの3人の思想の側面をまとめると、次のようになる。

 

1 人間社会は、進歩する。

2 文明人は、無文字社会の人々よりも優れている。

3 人間は、自由である。

 

そこで、構造主義レヴィ=ストロースが登場する。彼は、無文字社会にも文明国にも構造があり、どちらの構造も同じであると主張した。つまり、歴史的な時間軸で見た場合でも、構造に捕らわれている人間社会は、進歩しないということになる。彼の立場を上記の観点に従って記すと、次のようになる。

 

A 人間社会は、進歩しない。

B 文明人も無文字社会の人々も、本質的には同等である。

C 人間に自由は・・・?

 

問題は、上記のCなのだ。それでは、構造の中に生きている人間に自由はないのだろうか? 仮に、自由はないという前提に立つと、困ってしまうのだ。例えば、現在の日本にも権力構造がある。そしてそれは、更に大きな米国が主導する権力構造の一部をなしている。米国には軍産複合体というのがあって、戦争をしたがっている。ウクライナの次は、台湾有事だろう。そうなった場合、日本は中国との戦争の矢面に立たされる可能性がある。もし、人間に自由がないとするならば、私たち日本人にこのような事態に対処する方法はなく、ただ、思考を停止し、成り行きに身を任せる以外に方法はないことになる。本当にそうだろうか?

 

私はこの問題、すなわち構造と自由の関係について、納得できる説明を聞いたことがない。従って、本稿において、この問題を検討してみたいと思う。

 

ちなみに、サルトル以降の主要な思想家の一覧を記してみよう。

 

ジャン・ポール・サルトル/1905-1980/フランス

レヴィ=ストロース/1908-2009/フランス(ベルギー生まれ)

ロジェ・カイヨワ/1913-1978/フランス

ルイ・アルチュセール/1918-1990/フランス

ドゥルーズ/1925-1995/フランス

ミシェル・フーコー/1926-1984/フランス

ジャック・デリダ/1930-2004/フランス

 

全員がフランス人である。ざっくりと彼らを「20世紀のフランス人」と呼びたい。もちろん、彼らには彼らの時代的な背景があったのであって、それは21世紀に生きる日本人が抱える問題とは大きく異なる。私は、21世紀に生きる日本人として、思考したいと思う。