文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

ソクラテスの魂(その1)

 

現在、日本はコロナ禍に見舞われ、その対策にことごとく失敗している。それにも関わらず、東京五輪を強行しようというのだから、呆れるという他はない。日本の民主主義は瀕死の状態だと言いたいところだが、冷静に考えてみると、この国において本当の意味での民主主義が実現されたことなど、一度もないのではないか。一体何を間違ってしまったのだろうと思う訳だが、政治も教育も社会制度も、その全てを間違えているに違いない。

 

人間集団の大きさをベースに考える場合、国家があって、個人があって、その中間の集団があるという区分けが簡便である。この区分けに従って、まず、中国の現状を考えてみて、その後、日本と比較してみたいと思う。

 

1党独裁とか、集団的指導体制と呼ばれるように、中国は強い国家権力によって統制されている。それはコロナ対策を見ても明らかだろう。国家権力を背景として、中国は迅速にロックダウンを行い、コロナの封じ込めに成功した。中国の人口は14億人を少し超える。日本の10倍以上である。それでも中国におけるコロナの死者数は約4千6百人であって、日本の死者数1万3千人(いずれも5月末時点)をはるかに下回る。経済においても国家による統制が功を奏して、GDPの成長率は高いレベルを維持し続けている。中国が日本のGDPを抜いて、世界第2位の地位を確保したのは2010年のことである。

 

次に中国における中間集団の状況はどうか。思うに、中国は中間集団を徹底的に弱体化してきたのではないか。少数民族を弾圧し、香港における人権問題も深刻さを増している。宗教団体も迫害され、国家に対する分派的な集団は、その存在を否定されるのだ。

 

では、中国の個人に対する施策を考えてみよう。

 

中国においては、中間集団が弱体化されているので、個々人に対しては目が届きにくくなる。

中間集団が存在すれば、その内部の同調圧力や密告制度を使って個人に圧力を掛けることができるが、そもそも人口の多い中国においては、それが困難だったのではないか。そこで登場したのがデジタル監視ということだろう。既に顔認証システムが犯罪者を追い詰め、個々人の信頼度に関するスコア化が進んでいる。このデジタル監視という手法の特徴は、人間を集団で見るのではなく、個別に識別するところにある。

 

中国のシステムをまとめてみよう。

 

国 家・・・・強い

中間集団・・・弱体化

個 人・・・・デジタル監視

 

では、中国人は幸福だろうか。もちろん、多くの富裕層がいて、彼らは幸福なのかも知れない。また、国家が強いのでコロナウイルスからは守ってもらえるし、他国から侵略される怖れもない。しかし、一般人のことを考えると、答えはネガティブだ。思想、信条、表現の自由なくして、人間の幸福は実現し得ない。日本人である私の目には、そう映る。中国人は国家を信用していない。そこで彼らは、親族関係を尊重するのだ、という説もある。この強固な親族関係が、例えば海外においては華僑としてのネットワークを構成する。

 

日本に目を転じてみよう。

 

まず、日本という国家はとても弱い。アメリカからはポンコツ兵器を買わされ、ワクチンの獲得競争に敗れ、最近ではIOCのぼったくり男爵にさえ馬鹿にされている。既に日産自動車外資に買収され、配当金という形で利益を吸い上げられている。最近ではアトキンソンという悪い奴がいて、日本の中小企業が狙われているらしい。敗戦という歴史的経緯があるにせよ、日本が弱い1番の理由は、日本という国家全体の利益を考える人間がほとんどいないからではないか。切りがないのでここら辺にしておくが、私たち現代の日本人は、あたかも国家を持たない流浪の民のようだとさえ思えてくる。

 

次に、日本の中間集団について見てみよう。これは国家全体の利益を追求するのではなく、個々の集団の利益を追求するので、概ね、利権集団と言い換えても良い。こちらの方は、雨後のタケノコのように乱立している。

 

政権与党は、党利党略に注力している。国家や国民全体の利益など、まるで考えていない。一部の野党も、事情は変わらない。国会議員は多額の収入を得られるので、その地位にしがみつく。そして、新たな政治団体の新規参入を防ぐために、供託金をはじめとする高い障壁を設置しているのである。官僚も同じで、自らが属する省庁の既得権や、天下り先の確保ばかりを気にしている。メディアにも真実を伝えようという気概は、ほとんど感じられない。そもそもメディアの使命は、情報を伝えることなのだろうか。例えば、コロナの感染者が何人だった、というのは情報である。確かにメディアは、正確な情報を伝えている。しかし、情報をどう読み解くか、ということの方が余程大切ではないだろうか。ところが情報を分析した後に抽出されるロジックや意見について、日本のメディアは御用学者やお笑い芸人に言わせるのである。かつて、日本の知性とはビートたけしであるという説があった。今も事情は、大して変わらない。

 

結局、現在の日本において権勢をふるっているのは、これらの中間集団、利権集団なのだ。

 

では、日本人を個人ベースで見た場合、幸福だろうか? 答えはまたしてもネガティブである。労働人口の約4割が非正規で不安定な雇用環境に置かれているし、そこへ消費増税とコロナ禍が襲ったのだ。結果として、特に女性の自殺者数が増加した。福島第1原発についても一向に終息の兆しは見えないし、検察によって巨悪が暴かれることもない。結局、日本人の認識能力は低下したのだ。そのことによって、持つべき価値観は崩壊し、拝金主義が横行するに至った。人々は希望を失い、大衆はルサンチマン反知性主義に埋没したのである。

 

では、日本の状況をまとめてみよう。

 

国 家・・・・弱い

中間集団・・・利権集団の乱立

個 人・・・・価値観の崩壊

 

結局のところ、中国と日本とでは国家の体制が大きく異なるものの、どちらも成功してはいないのだ。私は、「民主的で強い国」が理想だと考えているが、それは青臭い理想主義に過ぎないのだろうか。

 

話は変わるが、私は、ミシェル・フーコーの思想に魅了されてきた。例えば、「自己への配慮」という文献がある。この言葉は不思議な響きを持っている。誰だって、自分が大切だし、エゴイズムを持っている。多くの場合、それは人間の行動原理とさえなるものだ。それにも関わらず、そのような自己へ配慮せよ、というのである。もちろん、「自己への配慮」とはエゴイズムを推奨するという意味ではない。もっと深い意味で、自己とは大切な人間なのだから、その自己を成長させよ、という意味である。また、この言葉は、自己を2つに分割しているようにも思える。すなわち、配慮する自己と、配慮される自己ということだ。

 

それにしても、この不思議な言葉は、誰の言葉なのだろう。そう思って「自己への配慮」の頁を繰ってみるのだが、そこに明確な記述はない。ただ、次の一節があった。

 

- しかも『ソクラテスの弁明』では、ソクラテスは自分の裁判官たちにたいしては、まさしく自己への配慮にかんする達人として自分を紹介しているのである。神によって委託されたのでソクラテスは人々に、配慮すべきは自分の富でも自分の名誉でもなく、自己自身について、自分の魂についてであることを思い起こさせる、という訳である。(P. 61)-

 

そこで私は、「ソクラテスの弁明」に目を通してみた。本棚にあった30年も前の文庫本である。(ソクラテスの弁明/プラトン/山本光雄訳/角川文庫)そこに、次の一節を見出すことができた。

 

- (前略)君は知恵と力とにかけては最も優れていて、最も評判のよい国、アテナイの民でありながら、金銭のことでは、どうすればできるだけたくさん君の手に入るかということに、また評判や栄誉のことに心掛けるのに、英知や真理のことに、また魂のことでは、それがどうすればいちばん優れたものになるかということに心掛けもせず、工夫もしないのが恥ずかしくはないか(後略)(P. 79)-

 

上に引用したソクラテスの思想は、「魂への配慮」とも呼ばれている。「自己への配慮」とは少し違うが、それが翻訳上の差異なのかどうか、私には分からない。しかし、その本質的な意味は同じなのであって、フーコーソクラテスの思想について検討していたことは間違いないのだ。

 

続く

 

追記: 所要があって、今日、街に出かけた。数か月ぶりのことだ。久しぶりに本屋へ立ち寄ってみると、驚くことにミシェル・フーコー「性の歴史」の第4分冊が出版されていた。「肉の告白」というタイトルだ。ネット上ではかねてより幻の第4分冊が出版されるとの噂があったが、既にそれが現実となっていたとは!

 

カオス、統合、分化

 

樹木から離れたリンゴは真下に落ちるし、水は摂氏0度で氷結し、100度で気化する。このように自然界には規則性があるが、人間の世界はそう単純ではない。かつて狩猟採集を生業としていた時代があった訳だが、ある部族は平和に暮らし、別の部族は戦闘的だったのではないか。例えば、雷鳴がとどろいた場合、ある部族はそれを吉兆だと考え、反対にそれを不吉な印だと思う部族だって存在したに違いない。かつて、人類は現実世界の出来事と夢の中の出来事とをうまく区別して認識することができなかった。そのような世界をカオスと呼んでいいだろう。

 

人類の歴史とは、カオスから始まったのである。

 

やがて、人類は秩序化に向かった。理由の1つには生活技術の進展を挙げることができる。衣服を作り出す技術、家を建築する技術などが誕生すると、人々は誰かの発明を真似たに違いないのだ。そして、部族単位で、同じような衣服を身にまとい、同じような家に住み始めたのである。例えば、縄文時代の日本人は皆、竪穴式の住居で暮らしていたのである。しかし、人類が秩序化に向かった理由は、そればかりではない。2つ目の理由は、祭祀から始まり宗教に至る一連のプロセスを挙げることができる。宗教は、人々のメンタリティや価値観を統合した。秩序化と言ってもいい。

 

すなわち、人類の歴史はカオスから統合へと進展したのである。

 

統合の進んだ人類の文明は、ある意味、国家という形で結実したのではないか。かつて、人類は国同士で戦った。世界の主要な国々において、それは第2次世界大戦まで続いたのである。日本も例外ではなく、国家という秩序を基礎として、敗戦へと突き進んだのである。

 

この統合して行こう、秩序化して行こうという文明は、戦後も続いたに違いない。それは、学校や企業において顕現した。この秩序に支配される多くの人間は、ある場所に隔離され、時間的に拘束されるのだ。生徒は制服を着て、囚人は囚人服を、勤め人は作業服を着せられて。

 

それがいつ始まったのか、まだ私に言い当てることはできないが、明らかにこの統合、秩序化という文明は変化を遂げた。今日の文明は枝分かれし、細分化が進んでいる。それを複雑化と表現する人もいるだろう。人々は思い思いの衣服を着て、住みたい住宅のスタイルを模索し、好みのゲームに興じている。経済と科学は目覚ましい進展を遂げ、グローバル化も進行している。最早、国家という枠組みで社会を統制することすら、困難な時代になったのかも知れない。

 

つまり、人間の文明はカオスから始まり、統合化を目指す段階を経て、現在、分化の途上にあると言えよう。

 

これからどうなるのか? それは誰にも分からない。このまま分化が進むのか、新たな秩序が生まれるのか、破滅するのか、それとも大いなるカオスに帰ってゆくのか・・・。

 

生命力の衰退

 

ミシェル・フーコーの遺作「自己への配慮」の中に、こんな一節がある。

 

- 驢馬を棒切れで打つことは、人々を治める仕方ではない。何が役立つかを、われわれに明らかにしつつ、われわれを理性の持ち主として治めよ、そうすれば、われわれは従うであろう。何が有害であるかを明らかにしてくれ、そうすれば、われわれはそれから遠ざかるだろう。きみのような人柄でありたいと、われわれが熱心に望むように努めてくれ(中略) これをなすべし、これはなすべからず、そうでなければ牢獄にぶちこむぞ、これでは理性ある人々を治めるやり方ではない。 (P.123)-

 

これは古代ギリシャの哲学者、エピクテトスの言葉である。このような言葉に接すると、国も時代も異なるが、私は、現代の日本に思い至るのである。

 

私たちは、驢馬のように打たれていないだろうか?

 

私たちは、理性の持ち主として、充分な説明を受けているだろうか?

 

日本の総理大臣は、私たちがそのような人になりたいと望むような人格を備えているだろうか?

 

私たちは、ただ、これをしろ、あれはするなと言われていないだろうか?

 

ところで、政治学界隈で使われている用語に、実は同じような意味を持っているものが存在することに気づいた。以下に列記してみよう。

 

反知性主義・・・知的権威やエリートに対し懐疑的な立場をとる。

 

ルサンチマン・・・弱者が強者に対して抱く恨み、妬み、嫉み。

 

パターナリズム・・・強い立場にある者が、弱い立場にある者の利益のためだとして、本人の意志は問わずに介入、干渉、支援すること。

 

上記の用語は、いずれも大衆の心理を表わしている。つまり、大衆の心の中には知的権威に対する強烈な反感があり、嫉妬があり、そして大衆は上から目線で意見されることを極端に嫌うのである。これらの心理的な傾向を総称して、ここでは反知性主義と呼ぶことにするが、政権側はこれを利用して愚民政策を推進しているに違いない。知性など持つ必要はない、テレビを見てスポーツを楽しんでいればいいのだという政策を推進することによって、大衆は洗脳されていく。

 

では、知的権威を尊重する知性主義が正しいかと言えば、そうとも言えない。私だって、学歴や弁護士資格などをひけらかす人には反感を覚えるし、現在、コロナ対策に関して政府に助言している分科会のメンバーにだって、嫌悪感を覚える。彼らは、PCR検査を拡充する必要はないと主張した感染症ムラの住民たちなのだ。

 

最近の世論調査の結果で、国民の多くがスガ総理は嫌いだが立憲の枝野はもっと嫌だ、というものがあった。さもありなん、である。

 

政党支持率に関する世論調査の結果は、調査機関次第で大きなバラつきがあるものだが、1つ共通しているのは、最大多数を占めるのは常に「支持政党なし」なのである。知性の感じられない自民党は嫌だが、上から目線で物を言う立憲はもっと嫌いだ、ということではないか。こんな国が、コロナに勝てるはずがない。

 

いや、そもそも日本という国家は存在しているのだろうか?

 

確かに私たちの国には、日本という立派な名前がついている。国土もあるし、主権者である国民も1億2千万人ほど暮らしている。しかし、この国に本当の政府はあるのだろうか。本当の政府とは、国民全体の利益を追求する国民の代表者である。もしこの国に本当の政府が存在すれば、オリンピックを強行したりはしないのではないか。コロナの問題だって、PCR検査を拡大し、無症状の感染者を隔離したはずではないのか。水際対策だって、現在のように精度の低い抗原検査ではなく、PCR検査を実施したのではないか。そして国民には、せめて他国並みの経済補償を行ったはずではないのか。

 

結局、民主主義を基盤とする強い国家を成立させるための条件は、主権者たる国民の生命力にあるのではないか。何がなんでも生きたいと願い、行動すること。そのような強い生命力があればこそ、人間は思考するに違いないのだ。そのような生命力の延長線上に、たった一度しかない人生を精一杯生きようとする活力が生まれるのだ。

 

最近、私は高齢者の仲間入りを果たした。しかし、まだ生きたいと思っている。コロナなんかで死にたくはないのだ。そう思うから、コロナの問題に関心を持つ訳だ。もちろん、放射能で死ぬのも嫌だ。だから、原発には反対なのだ。私が思考する原動力、それは私の生命力そのものだと言っていい。このように個人の生命力から出発すると、それは国家に至るのである。逆もまた真なのであって、つまり、民主的で強い国家があれば、その国の住民たちの認識能力は強化され、生命力も強化される。このように「民主的で強い国」と「国民の生命力」は相関関係にあるに違いない。

 

今、日本人の生命力は衰退しつつある。

 

生命力の前で、右も左も関係はない。知的権威を振りかざす知性主義も、それに嫌悪する反知性主義も正しくはない。生き延びようとする意志、その中にこそ正義が宿るのだ。

 

文化系のコロナ論

 

いつ終わるとも知れぬコロナとの戦い。医療現場は疲弊し、一般国民のメンタルも限界に近づきつつある。日本における死者数は1万人を超えたが、これは中国の死者数よりも多い。既に、台湾、ニュージーランド、オーストラリアなどの島国においてコロナの問題は終息し、イスラエル、英国、米国などのワクチン大国においては、希望が見え始めている。東アジアにおいては日本の1人負けで、それは今後の経済復興段階においても暗い影を落とすに違いない。

 

そもそもリスクマネジメントを行う際には、複数の手立てを講じておく必要がある訳だが、PCR検査の拡充を拒否し、水際対策を徹底せず、医療体制の整備を怠ってきた日本に残された手立ては、最早、ワクチンしかない。万一、このワクチンがインド由来の2重変異株に対抗し得なかった場合のことを考えると、ぞっとすると言う他はない。

 

コロナ禍を概観してみると、それはまず人間の身体における現象として認識される。それが統計的な処理などが加えられ、情報として扱われる。この情報は、例えば、数字によって表現される。感染者数、死亡者数、陽性率などがそれだ。この数字による情報は、巷に溢れかえっている。それはもう、充分なのだ。また、政府やメディアは断片的な情報も多く提供している。バーベキューによっても感染するとか、お札にもウイルスは付着しているなどというもの。

 

もちろん、情報は大切だ。しかし、情報から何を読み取るのか、情報を分析すると何が分かるのか、という点になると、日本の現状はお粗末と言う他はない。情報を吟味することによって、原理を発見するべきなのだ。例えば、コロナウイルスはどのようなメカニズムで感染するのか、ということ。この点、従来の説明は接触感染と飛沫感染が中心的なものだった。しかし、最近発表された論文によると空気感染の方が、はるかにリスクが高いとのこと。

 

そして、最近の主なクラスター発生場所は、介護施設、病院、職場、学校などである。空気感染が主要な感染ルートだと想定すると、これらクラスターの発生場所との関連にも、納得がいく。人が声を発し、充分な換気が困難で、その場所に長時間、人が留まるのである。従って、これらの場所における対策こそが重要なのではないか。現在、政府が取り組んでいる対策のポイントは飲食店に対するものだが、飲食店におけるクラスターの発生率は、とても低いとの報告がある。

 

ある程度、原理が見えてきたら、そこからどのような対策を講ずるべきなのか、論理的な帰結を導き出さなければならない。コロナの例で言えば、感染の原理は、接触感染、飛沫感染、空気感染の3種類だとして、それぞれの対策を設定する必要があるのだ。しかし、政府やメディアはそのような説明をせず、「夜の街」が悪いと言い、飲食店を目の敵にし、最近では路上飲みをする若者たちを敵視している。そんな緊急事態宣言を何度繰り返したとしても、コロナ禍は終息しない。リスクマネジメントの用語の中に「リスク・フォーカス」というものがある。これは、リスクを直視し、そのリスクに焦点を絞って対策を講じろ、というものだ。その観点から言えば、対策はクラスターの発生場所、すなわち介護施設医療機関、職場、学校などに集中すべきなのである。最低限、これらの場所に行かざるを得ない人々に対しては、毎週でもPCR検査を実施すべきだし、その費用は国が負担すべきだ。

 

このように、文化系の私としては、政府の対応や大手メディアの報道に対し、失望している。

 

コロナ禍に関する政府の対策が何故かくもお粗末なのか、その権力構造をよく説明している人に、ジャーナリストの佐藤章氏がいる。佐藤氏は、ほぼ毎日、一月万冊というYouTube番組に出演している。昨晩の番組のリンクを以下に貼っておこう。まだの人は、是非、ご視聴いただきたい。

 

一月万冊 佐藤章氏

https://www.youtube.com/watch?v=BOch7T-mB3c

 

ところで権力者たちは、何が何でも五輪を開催しようと躍起になっている。そして、五輪を開催するためには、コロナを終息させる必要がある。当然のことだ。しかし、日本政府はコロナ対策に懸命に取り組んでいるとは思えない。これは、驚くべき事実だ。この点を少し、考えてみたい。

 

まず、与党の政治家はコロナに興味がない、という説がある。しかし、コロナの成り行きは、政治家にとっては選挙の得票率に直結するものなので、興味は持っているに違いない。

 

次に、与党の政治家は、コロナを意図的に放置しているという説もある。その証拠にコロナ禍に乗じて、火事場泥棒的な事柄を次々に決定しているというのだ。確かに、福島第一原発における汚染水の海洋放出、国民投票法案の採決などが、推進されている。しかし、何が何でも五輪を開催したいと考えている与党の政治家が、意図的にコロナ禍を放置しているとも考えにくい。

 

そこで、第三の説を提唱したくなる。つまり、権力者たちは、自らの属する利権集団にとっての利益のみを追求し、国家の利益、国民全体の生命や健康のことについては配慮していない可能性がある、ということなのだ。そして政府は、それら利権集団を統率する能力を失いつつあるのではないか。

 

厚労省、医系技官、感染研などは利権集団としての「感染症ムラ」を構成している。この点は、前記の佐藤章氏の説明が詳しい。彼らはひたすらPCR検査を抑制し、予算の取得や天下り先の確保に躍起となっている。だから、コロナ対策はうまくいかないのだ。

 

原子力ムラ」の住民たちは、コロナ禍を機に汚染水の海洋放出を押し進めようとしている。

 

「五輪貴族」たちは五輪の開催に躍起となっている。もちろん、そこにも利権が絡んでいる。電通パソナは中抜きを目論み、背後には「ぼったくり男爵」と呼ばれるバッハ会長がいる。

 

ついでに財務省はコロナ後を睨み、増税を仕掛けてくる可能性がある。

 

だから、政策の整合性は取れないのである。日本という国家を一人の人格として見た場合、この人物は多重人格であると言わざるを得ない。また、日本をクルマに例えてみると、それぞれの部品は、結構、優秀だと言えよう。タイヤは高性能だし、見掛けだって悪くない。しかし、このクルマにはハンドルがない。誰かがクルマを右に行かせようとしても、このクルマはそう簡単に操作できないのだ。複数の利権集団がひたすら「経路依存性」に基づき、直進を続けるのである。

 

日本という国家の最大の危機が、ここにあるのではないか。最早、総理大臣ですら、この国を統治することができないのではないか。

 

何故、世界的に見ても稀だと思われるこのような現象が、日本で起きてしまったのか。それは多分、政治家、エリート官僚、大衆などの多くの人々から、経験の多様性が失われてしまったことに原因があるのではないか。多様な経験が、人間の想像力を育むのだ。多様な経験を積まないと、人間の想像力は育たない。実際、誰かに殴られた経験のある人であれば、人間が殴られたときの痛みを想像することができる。貧困を経験した人であれば、たとえその人が貧困から脱した後であっても、貧困の過酷さを想像することができる。そして、想像力があれば、そこから論理を組み立てることができるのだ。

 

日本の政治家の多くは、2世、3世である。子供の頃から政治の世界ばかりを見てきた人が、多様な経験を積んでいるとは考えにくい。エリート官僚も同じである。子供の頃からあまり遊ばず、塾に通っていたのでは、想像力は育たない。大衆にも同じことが言える。生まれ育った場所で職に就き、単調な仕事を日々繰り返し、テレビばかり見ていては、想像力を働かせることは困難だろう。このように考えると、権力者と大衆の共謀関係の謎を解くことができる。彼らは、多様な経験を積んでいない。だから、想像力が働かない。想像力がないので、論理的に思考することが困難なのだ。このようにして、権力者、エリート、大衆は、同じパターンに陥っているのである。

 

(想像力と論理的な思考との関係については、パースのアブダクションに基に考えている。このブログでは既に何度か述べたので、ここでは繰り返さない。)

 

現時点での情報によれば、どうやら五輪は開催する方向のようだ。そこで何が起こるのか、コロナ禍はどうなるのか、私たちは、今こそ学ぶべきなのだ。そうでなければ、それこそ次の世代に申し訳ない、と私は思う。

 

ご挨拶

ようやく春めいて来ましたが、皆様におかれましてはいかがお過ごしでしょうか。また、様々な形でこのブログにご協力をいただきました皆様、このブログを読んでくださった皆様、本当に有難うございました。とても励みになりました。

 

さて、「領域論」ですが、前回の原稿をもちまして、終了致しました。思えば、これは摩訶不思議な主張であって、仮にここに記したことが正しいとすれば、私たちは、歴史、宗教の成り立ち、芸術の本質、人間のタイプ、政治などについて、理解することができます。反面、「領域論」はある種の毒をも含んでいます。「領域論」をもってすれば、人間の発展段階を評価することが可能となるからです。仮にそんなことを面と向かって誰かに告げたとすれば、その人は怒り出すに違いありません。この点、ご留意いただきたく、宜しくお願い致します。

 

日本国憲法によって、私たちは男女の間に、人種の間に、境界線を引くことができなくなっています。それは正しいことだと思います。しかし、区別をしなければ私たちは認識することができません。そこで私は、「領域論」において新たな境界線を引いてみた訳ですが、それは新たな差別を生む危険を孕んでいるのかも知れません。

 

思えばこのブログは2016年7月に始め、その後、約4年半が経過したことになります。山登りにたとえますと、「領域論」において私は、山の頂上に至ることができたように思っています。もっと高い山、もっと険しい山の登頂に成功した人は、沢山おられることと思います。それらの人々に、私は敬意を払いたいと思います。しかし、私はこのブログと共に成長したのであり、「領域論」を書くことによって、私は強くなったのだろうと思います。その意味で、私はとても満足しています。私は、私が登りたいと思った山の頂上に立つことができたのですから。但し、「いかに書くか」という点から評価致しますと、これははなはだ完成度の低い結果となってしまいました。何しろ、途中で基本方針を変更したことが少なからずあったのですから。また、例えば「生存領域」とは言わずに「生活領域」とした方が、分かりやすかったのではないか、など反省点は少なくありません。

 

そこで、このブログの今後の運営方針を考える訳ですが、現時点では白紙です。1つのアイディアとしては、「領域論」に至る思索の全てを捨て去り、新しい山の登頂を目指すという方法が考えられます。但し、それは年令的に、私には無理なような気がします。(私は、来月で65才になります。)そうしてみると、「領域論」を新たに全面的に書き直すということが考えられます。バージョンアップさせるということです。原稿を書き上げた上で、推敲を重ね、完成度の高いものをブログにアップさせる。この場合、1年か、2年か、その程度の年月が必要になるような気がします。(重ねて申し上げますが、必ず完成させると約束できるものではありません。)

 

そこで、今更ながらという気もしますが、私のメールアドレスを公開することに致します。もし、「領域論」に対する批判的なコメントがありましたら、お気軽にお寄せください。

 

メールアドレス: yamakawa9356@gmail.com

 

2021年3月15日

山 川  哲

 

領域論(その21) 領域と自由

 

<主体が巡る7つの領域>

 

喪失領域・・・境界線の喪失、カオス、犯罪、自殺、認識の喪失

生存領域・・・自然、生活、伝統、娯楽、共同体、パロール

原始領域・・・祭祀、呪術、神話、個人崇拝、動物

秩序領域・・・監獄、学校、会社、監視、システム、階級

認識領域・・・哲学、憲法、論理、説明責任、エクリチュール

記号領域・・・自然科学、経済、ブランド、キャラクター、数字

自己領域・・・無意識、知識、経験、記憶、コンプレックス、夢、狂気

(主 体)・・・意識、欲望、恐怖、想像力、意志、身体、言葉

 

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人間は、その置かれている環境を認識しなければ不安でたまらないし、適切な判断を下すこともできない。だから、時間を認識するために時計があり、場所を認識するために地図があるのだ。そして、認識するということは、同一性と差異を明らかにして、識別することを意味している。別の言い方をすれば、認識するということは、境界線を引くことに他ならない。そして、ここにお届けした「領域論」とは、人間の世界に境界線を引いてみる1つの試みだったのだ。

 

哲学者のオルテガは、「私は私と私の環境である。この環境をも救わないなら私をも救えない」と述べた。かつて、私はこの意見に賛同した。しかし、今は心境の変化が生じたことを認めざるを得ない。私たちが生きている現在の世界にはコロナウイルスが蔓延しているし、原発からは放射性物質が漏れ続けている。権力者の嘘や横暴が止むことはなく、困窮者は増え続けている。理不尽な出来事や犯罪が報道されない日はない。それらの全てに関わっていては、心の平静を維持することができない。

 

そこで私は、私にイクスキューズを与えることにしようと思う。まず、様々な出来事と私との距離を計測するのである。例えば、南米のアマゾンで森林伐採が続いている。このことに私は、心を痛めている。しかしこの出来事は、私から遠い所で発生しているし、そのことに私が関与できる可能性は、ほぼ皆無なのである。このように現在の私が関与できないこと、それは諦めるしかない。

 

他方、現在の私にも関与できることはある。例えば、選挙。確かに私が投票しようがしまいが、選挙の結果に及ぼす影響は微小である。しかし、私には投票権があるし、何よりも私は選挙に関与することが可能なのだ。従って、私は選挙に対し、懸命に関与していこうと思う。沢山の情報を収集し、正しい選択を心がけよう。一球入魂ならぬ、一票入魂である。

 

ここで、たとえ話「荷車を曳く人」に戻ってみよう。

 

「ある人が荷車を曳いているとしよう。荷車は、リヤカーと言い換えても良い。荷車には沢山の荷物が積んである。それを曳くのは、難儀だ。特に上り坂では。」

 

以前の原稿にも書いたが、この荷車を曳く人を救済する方法は2つだ。1つには、荷車に積んでいる荷物を軽くすること。これは、仏教的な発想だろう。仏教の修行に籠山行というのがある。何年もの間、山に籠って、世間から離れるのだ。座禅にしてもそうだが、仏教の方法は、外界を認識することを諦めてしまうところに特徴がある。そして、ひたすら自己の内面と向き合う。信者は、釈迦なり僧侶を信じ、自ら思考することを断念する。その本質は、他力本願と言って良いだろう。それで救われる人は、それでいいと思うが、私にはとても無理だ。外界を、世界を認識しなければ、不安で仕方がない。但し、荷車を軽くするために、何かを断念する、いっそのこと忘れてしまう、荷物を捨てるという方法については、賛成である。

 

他方、どこまでも認識しようと努める立場もある。例えば、66種類の記号が存在すると主張したパースなど。どちらの立場が正しいのだろうと思う訳だが、この問題を2者択一で考える必要はないのだ。つまり世界を、7つの領域を認識するよう努め、その上で、不要な荷物を捨てれば良いのではないか。それが成長するということであり、強くなる方法であり、自由に生きる秘訣なのではないか。

 

「荷車を曳く人」は、主体と自己領域の関係、すなわち「私」について述べたものだ。私にとって、この世で最も大切な人間、それは「私」なのであって、だからこそ私は「私」を大切にする必要がある。また、私たちは誰か他の人間を支配したりコントロールしたりすることはできないが、ただ1人、私自身についてはそれが可能なのである。ミシェル・フーコーが最後に述べたかったのは、そのことなのだろうと思う。

 

フーコーの「自己への配慮」から一文を引用してみよう。

 

- 自己への回帰はまた、一つの道程でもある。その道程のおかげで人は、全ての依存関係とすべての隷属関係を脱して、ついには自分自身に復帰するのである。暴風雨を避ける港のように、あるいは城壁に守られている城塞のように。(P. 86)-

 

私は、この心の中に城を築くという話に魅了されている。思えば、その城は既に存在するのだ。

 

中に入ると、そこにはとても広いロビーがある。床は大理石で、窓には美しいステンドグラスが張られている。壁には、様々な絵画が掛けられている。ゴッホの向日葵やゴーギャンの「いつお嫁に行くの」もある。正面の壁にはポロックの「ブルー・ポールズ」がある。モディリアーニの裸婦もあるし、キスリングの「女道化師」もある。もちろんウォーホルの作品など、1つもない。

 

奥に進むと、そこはライブ・ハウスになっている。昨晩は、マイルス・デイビス五重奏団が演奏したし、今夜はジミ・ヘンドリックスバンド・オブ・ジプシーズが出演予定だ。

 

上の階には、応接室がある。ソファーは革張りで、床の絨毯はペルシャから取り寄せた特注品だ。私はこの部屋にユングやパース、そしてフーコーを招いて、お互いの人生について語り合うのが好きだ。

 

この城の中には、貨幣というものがない。そもそも、数字という記号すら存在しないのだ。

 

時折、金や権力の亡者たちが尋ねてくる。しかし私は、そのような者を決して城内に入れてはならないと、門番たちに強く言い渡している。この城は、いつだって私が帰っていく唯一の場所なのだから。

 

「領域論」おわり

領域論(その20) 領域と人格

 

<主体が巡る7つの領域>

 

喪失領域・・・境界線の喪失、カオス、犯罪、自殺、認識の喪失

生存領域・・・自然、生活、伝統、娯楽、共同体、パロール

原始領域・・・祭祀、呪術、神話、個人崇拝、動物

秩序領域・・・監獄、学校、会社、監視、システム、階級

認識領域・・・哲学、憲法、論理、説明責任、エクリチュール

記号領域・・・自然科学、経済、ブランド、キャラクター、数字

自己領域・・・無意識、知識、経験、記憶、コンプレックス、夢、狂気

(主 体)・・・意識、欲望、恐怖、想像力、意志、身体、言葉

 

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世間には、「この道一筋」に生きている人々がいる。彼らは幸せそうに見えるし、彼らの生き方を否定するつもりはない。私が敬愛しているジェイムス・コットンはブルース一筋の人生だったし、サックス・プレイヤーのソニー・スティットは生涯、ビバップを演奏し続けた。どちらも優れたミュージシャンである。彼らにとって、それは天職だったに違いない。しかし、天職などというものに、ついぞ巡り合うことのない人生もある。例えば、私のように。私は、多くの物事に挑戦してきたが、不幸にも才能というものを持ち合わせていなかった。また、現役時代は37年にも及ぶサラリーマン人生を過ごしたが、それが私の天職だと思ったことは、ただの1度もない。しかし、複雑化した現代社会においては、私のような人生を歩む人の方が、むしろ普通なのではないだろうか。

 

ところで、今回の原稿のポイントを予め述べておこう。人間の人格は、領域を超えたときに変容する。領域を超えることによって人間は成長する、ということなのである。

 

分かりやすい例として、まず、れいわ新選組山本太郎さんの半生を考えてみよう。

 

太郎さんは、高1のときに「元気が出るテレビ」に出演する。全身にオイルを塗って、海パン一丁で踊った。これはメロリンQと呼ばれ、芸能界にデビューするきっかけとなった。これは娯楽で、すなわち「生存領域」である。

 

やがて太郎さんは、俳優として本格的な映画に出演したり、舞台に立ったりするようになる。これは、原始領域である。

 

そして、2011年の東日本大震災が発生し、福島第一原発メルトダウンが起こる。ショックを受けた太郎さんは、まず、それまで政治に興味を持たず、選挙にも行かなかった自分を反省する。ここで、自己領域に目覚めた訳だ。

 

その後、危機感を持った太郎さんは原発の勉強を始める。また、芸能事務所を退社し、政治家に転身する。しかし、反原発について呼び掛けるよりも、人々はもっと身近な生活に興味を持っていることに気付く。そこで太郎さんは、経済の勉強を始め、現在の反緊縮という経済論に至る。そして、生存領域に基軸を置くれいわ新選組を立ち上げる。

 

喪失領域・・・

生存領域・・・メロリンQ、れいわ新選組

原始領域・・・俳優、役者

秩序領域・・・

認識領域・・・

記号領域・・・原発の勉強。経済学の勉強。

自己領域・・・東日本大震災を契機に反省。

 

このように、ある人の経歴を見ていくと、その人の人格を構成する主要な要素を見て取ることができる。また太郎さんは、領域を超える度に、成長している。そのことに反対する人は、いないのではないか。

 

辛口のコメントをさせていただければ、太郎さんには認識領域の経験がない。従って、経済には滅法強いが、法律はダメなのである。演説(パロール)は天才的だが、文章(エクリチュール)は今一つなのだ。ここら辺に、かつて私が違和感を持った理由があるに違いない。しかし、完璧な人など存在しない。彼は今、好きなお酒も断って、努力している。また、積極財政を掲げる政党は、れいわ新選組しかない。私は、これからもれいわ新選組を応援しようと思っている。

 

画家に転身する前、ゴーギャンは株式仲買人だった。これは、記号領域である。そこからゴーギャンは一気に原始領域へと向かった。そしてゴーギャンの才能は、南海の孤島において開花したのである。余談だが、ゴッホは画家になる前、牧師のような仕事をしていた。これは原始領域。しかし、ゴッホは困った人に自分のコートをプレゼントして、今度は自分が困ってしまうというようなことがあったのだ。周囲の人たちが見かねて、ゴッホは牧師の仕事をクビになってしまった。思えばゴッホにおいては、すべてが過剰だったに違いない。その感情が、情熱が、そして狂気が。もしゴッホゴーギャンの助言に従って、原始領域へと移行することができていたならば、ゴッホはあのピストル自殺を回避できたのではないか。原始領域には、人を癒す力があるのだから・・・。

 

他の黒人と同様に、マイルス・デイビスも差別を受けていた。若い頃、ジャズ・クラブに出演していたマイルスは、休憩時間にクラブの外に立っていた。すると白人警官がやって来て、どこかへ行けと言う。マイルスは、ただ、休憩しているだけだと答えた。すると白人警官は、マイルスに暴行を働いたのである。最近、この時の写真をネットで見たのだが、マイルスの着ている白シャツの胸の辺りが血に染まっており、私はショックを受けたのだった。

 

この黒人差別という問題は、マイルスの自己領域を構成する重要な要素となっていたに違いない。実際マイルスは、黒人でボクシングの世界ヘビー級チャンピオンになったジャック・ジョンソンの記録映画において、サウンドトラックを担当した。また、南アフリカアパルトヘイトに反対するSUN CITYというアルバムにも楽曲を提供している。但しマイルスは、自らのバンドには、多くの白人ミュージシャンを雇い入れた。この点、他の黒人から批判もあったが、マイルスはミュージシャンの能力と肌の色は関係がない、と主張した。つまり、白人に対する憎しみという自己領域の問題を、人種差別に反対するという認識領域の問題に昇華させて、決着を図ったのである。

 

このように、人間は領域を超えたときに成長するのである。では、どのようなときに、人は領域を超えることができるのか。それは、何らかの出来事を経験したときに、可能となるに違いない。但し、これらの経験だけで、領域を超えるという現象は、発生しない。その経験を受け入れるだけの心理的な柔軟さが必要だと思う。3.11の原発事故があったにも関わらず何も反省しない人だって、沢山いるのだ。そのような人々には、心の柔軟さが欠けているに違いない。英語で言うと、Open Mindということだろう。原発事故があって、更に太郎さんにはこのOpen Mindがあった。だから変われた、成長できたのである。

 

もう1つ言えるのは、芸術の力だ。芸術に慣れ親しんだ人は、それとなく自分にとっては未知の領域の存在を察するに違いない。最初はその意味を理解することが困難であっても、繰り返し、永い時間を掛けて芸術作品に接していると、次第にその魅力を理解する能力が養われる。そして、そのような時期は、若い頃に経験しておいた方が良いだろう。若い頃に芸術作品に接するか否か、それは人生の分かれ目だと言える。

 

「人は領域を超えたときに成長する」という原理は、人間集団にも当てはまるはずだ。ある集団があって、その構成メンバーがどんどん成長していけば、その集団自体が成長するに違いない。

 

この観点から言えば、現代の日本社会は、未成熟だと言わざるを得ない。その理由を考えてみよう。

 

1つには、歴史的な事情がある。第2次世界大戦に敗れた後、ドイツは大いに反省した。ナチズムに対する批判が世界中から浴びせられ、ドイツの国民は深く考えたに違いない。他方、日本はA級戦犯だった者がGHQによって重用され、総理大臣にまでなってしまったのである。反省する間もなく朝鮮戦争が始まり、日本は復興を果たした。加えて、アメリカでは2大政党制が定着しており、一定の期間内に必ず政権交代が起こる仕組みになっている。他方、日本では小選挙区制が採用され、確かに2度程それは起こったが、今日においても相も変わらず自民党の1強体制が続いている。日本の民主主義は、明らかに未成熟だと言えよう。

 

次に、経験の多様性が欠落しているという点を挙げることができる。日本社会においては、政治家のみならず医者や学者、魚屋から八百屋に至るまで、世襲制が浸透している。これでは、多様な経験を期待することはできない。

 

3つ目の理由としては、再チャレンジが許されない社会風土ということがある。官僚になったり、大企業に就職したりしようと思ったら、コースをはみ出ることは許されないのだ。高校、大学と受験戦争を勝ち抜き、新卒のタイミングで就職しなければならない。就職後も自制し、上司におべっかを使わなければ、出世は難しいのである。一度、ドロップアウトすると元のコースに戻るのは至難の業である。その観点から言えば、エリートの方が経験の幅が狭く、成長しないという傾向があるに違いない。

 

4つ目の理由として、日本においては芸術が未成熟なのではないか。絵画で言えば、日本はフランスに及ばないし、ジャズで言えば、東京はニューヨークに及ばない。芸術を育成しようとする文化が、日本には不足している。確かに、芸術は生きていくために必要ではない。しかし芸術は、文明を成熟させるためには、必要不可欠なのだ。

 

心の機能ということを先人たちは、真剣に考えてきた。その中で1番重要なのは想像力だと、今の私は思う。想像力が欠如していては、他人の痛みを理解することすらできない。想像力が不足していては、明日という日を切り開くことすらできない。そして、人間の想像力を培うものは何かと言えば、まず、現実の経験があって、次に、疑似的な経験とでも呼ぶべき芸術があるのだ。また、記号領域や認識領域を理解するためには、本を読む必要がある。(野生動物と触れ合うことも大切だ。)すなわち、これら経験などの多様性が確保されなければ、その文明は成熟しないのである。

 

日本においては、権力やシステムが強過ぎるに違いない。現在の日本社会は硬直化し、文明を成熟させるだけの余地が失われている。