文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

私の個人主義/夏目漱石

 

夏目漱石が生まれたのは明治維新の前年、1867年のことだった。すなわち漱石は、明治という時代と共に成長したのであり、文明開化の申し子だったとも言えよう。漱石の名は「坊ちゃん」などの小説によって有名になった訳だが、彼が日本人に愛され続けているのには、他にも理由がありそうだ。明治という時代には、とかく優れているのは西洋であって日本は遅れている、という認識が広がっていたのである。急激な変化とコンプレックスに悩まされていた日本人に対し、漱石は何をどのように考えるべきなのか、その指針を示すと共に、疲弊した日本人を励ましていたのである。例えば漱石は、「模倣と独立」という講演の中で、次のように述べている。

 

- 自分のオリヂナリテーを知らずに、あくまでもどうも西洋は偉い偉いと言わなくても、もう少しインデペンデントになって、西洋をやっつけるまでには行かないまでも、少しはイミテーションをそうしないようにしたい。芸術上ばかりではない。私は文芸に関係が深いからとかく文芸の例を引くが、その他においても決して追っ着かないものはない。-

 

では、表題の通り漱石の「私の個人主義」と題された講演について見てみよう。

(参考文献: 私の個人主義夏目漱石講談社学術文庫

 

英語が得意だった漱石は、英国留学のチャンスを得る。当時のことだから、それは大変名誉なことだったに違いない。周囲の期待を一身に背負い、漱石は英国へと渡り、そこで英文学を学ぶのである。いや、正確に言えば、英文学を学ぼうとしたのだった。漱石は、本件講演の中で次のように述べている。

 

- 私はこの世に生まれた以上何かをしなければならん、といって何をして好いか少しも見当が付かない。私はちょうど霧の中に閉じ込められた孤独の人間のように立ち竦んでしまったのです。(中略)私はこうした不安を抱いて大学を卒業し、同じ不安を連れて松山から熊本へ引越し、また同様の不安を胸の底に畳んでついに外国まで渡ったのであります。(中略)しかしどんな本を読んでも依然として自分は嚢(ふくろ)の中から出るわけに参りません。この嚢を突き破る錐はロンドン中探して歩いても見付りそうになかったのです。-

 

- この時私は始めて文学とはどんなものであるか、その概念を根本的に自力で作り上げるより外に、私を救う途はないのだと悟ったのです。-

 

こうして漱石は、予定の留学期間を早めに切り上げて、帰国する。漱石がこのように悟ったのは、ロンドンでのことだった。その前提で計算すると、漱石は遅くとも36才の時点では、かかる境地に至ったこととなる。36才と言えば、私などは何も知らず、ただ生活の糧を得るために仕事に励んでいた時期であり、恥じ入る他はない。

 

西洋の文化なり文学は、それを作り上げるに至った西洋の歴史を基礎としているのであって、そのような歴史を持たない日本に、そのままの形で持ち込んだとしても、そこには無理が生ずる。漱石が主張した第1の原則は、ここにあった。しかし、そのことを更に推し進めて考えると、そもそも他人の考えたことが自分にも当てはまるとは限らないのであって、第1の原則は個人のレベルにも当てはまることになる。漱石は、次のように述べている。

 

- どうしても、一つ自分の鶴嘴(つるはし)で掘り当てる所まで進んで行かなくっては行けないでしょう。行けないというのは、もし堀り中(あ)てることが出来なかったなら、その人は生涯不愉快で、始終中腰になって世の中にまごまごしていなければならないからです。-

 

- どんな犠牲を払っても、ああここだという掘当てる所まで行ったら宣かろうと思うのです。(中略)貴方がた自身の幸福のために、それが絶対に必要じゃないかと思うから申上げるのです。-

 

「私の個人主義」と題された講演における1番目の主題は、概ね、以上の通りだ。そしてこの講演は、2番目の主題へと移っていく。こちらについて漱石は、自ら箇条書きにして説明している。

 

第一、自己の個性の発展を仕遂げようと思うならば、同時に他人の個性も尊重しなければならないという事。

 

第二、自己の所有している権力を使用しようと思うならば、それに附随している義務というものを心得なければならないという事。

 

第三、自己の金力を示そうと願うなら、それに伴う責任を重んじなければならないという事。

 

上記3点のうち、今日においてとりわけ重要なのは、第一の「他人の個性を尊重せよ」という主張だろう。最近、流行っている「同調圧力」などもっての外ということになる。

 

私の印象としては、漱石の講演録を見る限り、右翼思想と左翼思想の分化が見られない。この点は、トマス・ホッブズの思想に似ているような気がする。また、漱石の講演録には反戦思想というものが登場しない。漱石は戦争というものをある程度許容していた可能性がある。若しくは、日清・日ロ戦争に勝利した後の軍国主義に向かっていた日本の政治状況にあって、漱石としても反体制的な言論を控えざるを得なかったという事情があるのかも知れない。いずれにせよ、21世紀を生きる私たちと漱石とでは、100年に及ぶ時代の相違がある。

 

奥日光にて

さて、本稿の本題に入ろう。漱石の主張の中で私が最も注目している点は、西洋からの借り物ではなく、また、他人の受け売りではなく、人はオリジナルの思想を持たなければならない、という点なのだ。この点を考えていると、私はフロイトユングの関係を思い出すのである。

 

フロイトユングはある時期、互いに協力しながら心理学の研究を進めていた。しかしその後、ユングフロイトと袂を分かつことになる。そして、両者は全く異なる理論を構築したのだ。2人とも、借り物ではないオリジナルの思想を築いたと言っていい。(アドラーにも同じことが言える。)何故、だろう? 簡単に言えば、フロイトフロイトの、そしてユングユングの人生を背負っていたのである。ユングは自ら統合失調症を患いながら、分裂病患者の治療に当たっていた。一方、フロイトが向き合っていたのは、神経症の患者だった。つまり、フロイトにとっての真理と、ユングにとっての真理とは、異なるものだったのである。2つの真理は異なっているのであって、今日においても、どちらが正しいと軽々には言えない。すなわち、これらの真理は普遍的ではなく、個別の真理だと言わざるを得ないのだ。そのように考えると、西洋の思想は西洋人にとっては真理であったとしても、日本人にそのまま当てはまることはない、とする漱石の思想に通ずる。

 

自分自身にとっての個別の真理に到達するためには、簡単に言えば、「自分の頭で考えなければならない」のである。では、どうすれば自分の頭で考えることができるかと言うと、カント風に言えば、いかなる権威にも依存しない、ということになる。その権威とは、政治的な権力や社会の同調圧力のみならず、宗教やアカデミズムを含むことになる。昨今、メディアでは専門家だとか大学教授という肩書が重宝されているが、彼らの言うことを頭から信じてはいけない。彼らは、私たちが考える前提条件や参考情報を提示してくれはするが、そこから私たちを真理に導いてくれるようなことはないのである。どんなに分厚い本も、どんなに偉い先生であっても、私たちが1番知りたい「私」にとっての真理を教えてくれることはない。そこへ到達するには、自分の頭で考える以外に方法はないのだ。

 

この摩訶不思議な原理から、私たちは絶望を感じるべきなのか、はたまた希望を見出すべきなのか。私は、その答えを知らない。しかし、人間にとっての真理が個別的であるが故に、新しい哲学が生まれるのだ。偉大な先人がいたとしても、いや、私はこう考える、と主張する余地があるので、新たな哲学が生まれ続けるのである。換言すれば、自分の頭で考える人がいる限り、哲学は進化し続けるのである。

 

また、人生において普遍的な真理に到達することができなかったとしても、「私」にとって最も重要な私自身の、個別的な真理に到達すれば、それで良いとも言える。今の所、我々ホモサピエンスは絶滅していない。今後とも、暫くは生き続けるだろう。しかし、「私」の寿命はそれ程永くはない。その限られた時間の中で、例えば漱石のように、個別的な真理に到達することができれば、それだけで良い人生を送ったと言えるのではないか。そして、個別的な真理を求めること、自分の頭で考えることによって、人は成長するのである。

 

自分の頭で考えろということを、ソクラテスは「自らの魂に配慮せよ」という言葉に込めたのだろう。そしてソクラテスは、人間が到達し得る個別的な真理のことを「人間並みの知恵」と呼んだに違いない。更に、個別的な真理とは決して普遍的なものではないので、第三者に押し付けてはいけない、謙虚でなければならない、更に上を目指せ、という意味を込めて「不知の自覚」という言葉を用いたのではないか。

 

今年も、4月27日がやってきた。この日は、紀元前399年にソクラテスが毒杯をあおって死んだ日だ。ソクラテスの功績を称え、4月27日は「哲学の日」として定められている。あなたも、あなた自身の真理に思いを馳せて欲しい。

 

奇しくも4月27日は、私の誕生日でもある。私は、66才になった。漱石と比べると随分遅咲きではあるが、そろそろ私も私自身が必要とする個別的な真理を手に入れたと考えても良いのではないか。これが「主体」に関わる哲学上の解答なのだ。

 

野蛮からの脱出

 

ウクライナ戦争について、1つ確実に言えることがある。それはこの戦争が、人類の戦争史上、最も撮影された戦争であるということだ。言うまでもなく、それはスマホとドローン技術によってもたらされた。そして、それらの技術がブチャで繰り広げられた惨劇を映し出したとき、この戦争に対する国際世論は、大きな転換点を迎えた。拷問、殺人、レイプ、略奪。ロシア軍が行ったこれらの蛮行は、人類が築き上げてきた文明を根本から否定するものだった。そして、これらの蛮行は、世界中の国々に対して、またその事実を知る全ての人々に対して、困難な課題を投げ掛けたのである。各国は、そして私たち自身は、どう向き合うべきなのか。かつてナチズムを生んだドイツは、ウクライナに対し攻撃型の兵器を供与すべきか否か、悩んでいる。フィンランドスウェーデンは、NATOに加盟すべきか否か、思いあぐねている。義勇兵としてウクライナに入国した人もいれば、反対にウクライナから脱出した人もいる。国家に絶望し、フィンランドやトルコへ逃げ出したロシア人も少なくない。一体、どうすべきなのか。この問いは、人類の思想史に突き付けられた刃なのだ。

 

人類は、何故、このような惨劇を繰り返すのか。そこには、メカニズムがあるはずだ。例えば、経済的な貧困から出発して考えてみよう。

 

ロシア兵の多くは、貧しい地域から派兵されている。例えば、彼らがウクライナの民家から略奪した物品の中には、洗濯機が含まれている。それ程に彼らは貧しい。貧困は、教育を受ける機会を奪う。そして、教育から疎外された者は、単純労働に従事することになる。彼らは、自分たちよりも複雑で高度な仕事に従事し、高い収入を得ているエリートが存在することを知っている。そこで、彼らは強烈なコンプレックスと嫉妬心を持つことになる。すると彼らの心の傷を癒す民族主義、宗教、国家主義などが彼らに忍び寄る。(自らの国家を愛することは間違っていないと思うが、自分の国が他国よりも優れていると考えるのは誤っており、ここではその誤った国家主義を差している。)

 

こうして野蛮な社会が醸成される。野蛮な社会は、例えばウクライナで繰り広げられた蛮行に加担するような野蛮人を再生産する。野蛮人の特徴は、自らのアイデンティティーを自らに求めないところにある。自分が何故、自分なのか。自分の特徴は何か、ということを考えない。自分は、優秀な○○民族であるとか、自分は真理を体現する××教の信者だとか、自分はとても強い△△国の国民だとか、そう考えることによって自尊心を保つ訳だ。つまり野蛮人は、自分の頭では考えないのだ。ソクラテス風に言い換えると、野蛮人とは、自らの魂に配慮しない愚か者のことなのだ。また、野蛮人は決して反省などしない。野蛮人は、自らが取り付いている妄想に固執する。プーチンも妄想に取り憑かれている可能性がある。それはロシア正教ロシア帝国主義であるかも知れない。または、自らをロシアの皇帝であると錯覚している可能性すらある。何と野蛮なことだろう。思えばドストエフスキーが描いた「罪と罰」においても、主人公であるラスコーリニコフは妄想に取り憑かれ、金貸しである老婆を殺した。妄想など、抱いてはいけない。そのことをソクラテスは、「不知の自覚を持て」という言葉に込めたのではなかったか。

 

野蛮人の集団は、その中から独裁者を生む。そして、独裁者は必然的に集団の利益よりも自らの利益を優先する。そのことが公表されると困るので、独裁者は必ず、嘘をつくのである。そして、独裁者は自らの嘘を隠蔽するために恐怖政治を行う。内部のメンバーを粛清したりする訳だ。この恐怖政治が始まると、他のメンバーは自発的に隷従するのである。これはボエシが指摘している。また、独裁者は自らの嘘が暴露されそうになると、集団を構成するメンバーの興味をそらすため、外に敵を作る。この敵は、仮装敵国と呼ばれる。元来、この敵国は架空のはずだが、独裁者が嘘をつき通すためには、実際に戦いを挑む羽目に陥ることも少なくない。冷静に考えれば、ロシアがウクライナに攻め入る必要など、どこにもなかったのである。こうして侵略戦争が始まり、それがジェノサイドへと発展する。

 

概ね、私は上記のように考えているが、このメカニズムについては、私よりも上手に、かつ詳細に説明できる人は、いくらでもいるに違いない。いずれにせよ、この「野蛮のメカニズム」の中にいる限り、戦争やジェノサイドを回避することはできないし、野蛮な社会の住民が、幸福になることはない。そうしてみると、哲学者が採るべき立場も見えてくる。つまり、どうやって野蛮人を文明人に変革していくか、いかに野蛮からの脱出を試みるべきか、その道筋を示すのが哲学者の使命なのである。

 

野蛮人 → 文明人

 

何とシンプルなテーゼだろう! これなら小学生でも理解できそうだ。同じようなことは、カントも言っている。但し、カントの説は私の意見よりも複雑で、かつ普遍的であるかも知れない。

 

カントはまず、未成年という用語を次のように定義する。

 

- <未成年>という語によって、彼(カント)が理解するのは、理性を使用するのが妥当な領域において、私たちが活動するときに、誰か他人の権威を受け入れてしまうような、私たちの意志の状態のこと -

 

そして、人は未成年である状態から「脱出」したときに、成人となるのである。では、どのように「脱出」するかと言えば、それが「啓蒙」なのである。

 

- 啓蒙は、したがって、ひとびとが集団的に構成するプロセスであると同時に、また個人的に実行すべき勇気の行為である -

 

- (啓蒙とは)人類が、いかなる権威にも服従することなく、自分自身の理性を使用する時(モーメント)である -

 

・・・ということになる。なかなか難しい訳だが、簡単に言うと、啓蒙によって人は未成年から成人へと成長(脱出)することができる、ということだろう。

 

未成年 → 成人

 

そして、ミシェル・フーコーは、「現代の哲学とは何か」という問いに対して、次のように答えることもできるだろう、と述べている。

 

- 現代の哲学とは、二世紀前に、かくも不用意に投げ掛けられた問い「啓蒙とは何か」、に答えようと試みる哲学である -

 

さて、高尚な文章を引用した後で恐縮ながら、私のシンプルな説を補足させていただきたい。哲学を中核とする人間の思想は、現実世界の出来事に立脚すべきだろう。そうでなければ、机上の空論になってしまう。そして、プーチンという狂気の独裁者が登場した以上、そのことを無視した思想は、意味をなさないように思う。その文脈で考えると、やはり如何に野蛮を脱して文明へと向かうのか、そのことを考えるべきではないだろうか。

 

そのためには、まず、貧困をなくそう、という主張も成り立つだろう。但し、上に記した「野蛮のメカニズム」が永く作動し続けると、当然の帰結として、特権階級が生まれ、特権階級に属する人間もまた、野蛮な状態に陥るのである。フランス革命のときに「庶民には食べるパンがないのです」と言った臣下に対し、マリーアントワネットは「パンがないのであればケーキを食べればいいじゃない」と答えたという話がある。これは作り話だそうだが、如何にもありそうな話ではある。つまり、貧困をなくすだけでは、本質的な解決にならないのだ。生活困窮者が陥る野蛮、特権階級が陥る野蛮、その双方に共通するのは、経験の不足ではないだろうか。人は経験から学ぶ。実体験のみならず、本を読んだり、芸術作品に接したりすることも経験の一種だと思う。この間接的な経験は、「追体験」と呼ぶべきかも知れない。1人の人間が経験できることの範囲は、あまりにも狭い。その幅を広げるためには、やはり追体験が重要であるに違いない。

 

マルクス以後の思想界における収穫の1つには、無意識の存在を提唱したフロイトの心理学がある。これによって、人々の人間観は一変した。また、文化人類学によって、私たちは無文字社会のあり方を学んだのである。そこに構造を見出したのがレヴィ=ストロースだった訳だが、むしろ私たちは文化人類学を通じて、手探りながらも芸術の本質を発見しつつあるように思う。

 

思考するためのピースは、揃っているのではないか。それらを組み立てれば、新しい哲学を生み出すことができるはずだと思う。それは是が非でも必要なのだ。私たちが野蛮から脱出するために。

 

参考:フーコー・コレクション6 / ちくま学芸文庫

 

秩序化としての戦争

 

人間の歴史のある側面を捉えると、それは秩序化の歴史だったと言える。簡単に述べよう。まず、人数の少ない部族で集まり、それが次第に人数を増やし、民族という概念に至る。民族で集まろう。同じ民族同士で仲良くしよう。それが、民族主義である。しかし、これはやがて行き詰まる。その1つの要因としては、近親相姦を回避しなければいけないという生物学的な理由を挙げることができる。どの民族にも女がいる。そして、その女はなるべく血のつながりの少ない他の部族へと嫁がせる必要があるのだ。つまり、民族を超えた交配が進むことになる。すると、一体、自分の民族の範囲はどこからどこまでなのか、分からなくなる。歴史を遡れば、我々ホモサピエンスは、ネアンデルタール人とさえ、交配を繰り返したのである。

 

ロシア民族は、他の民族よりも優れているとプーチンは考えているのかも知れないが、そんなことはない。どの民族も、その能力に差異など存在するはずがないのだ。

 

さて、やがて人類は文字を発明し、神話を記述するようになる。そして記述された神話をベースに、宗教が確立されてゆく。すると今度は、同じ宗教を信ずる者同士で仲良くしよう、ということになる。これも秩序化の1つだ。全人類が同じ宗教を信仰すれば問題はないが、そうはいかない。何故なら、人類には新たな宗教を生み出す潜在的な能力が備わっているからである。その証拠に今日においても、無数の新興宗教が生まれ続けているではないか。また、自然科学という宗教に対立する「知」が生まれ、宗教を信仰しない者まで登場したのである。

 

更に時間が経過すると、人間は地図を発明する。これは地球上の地理を理解するためにはとても便利だが、何と人間は、この地図の上に線を引き始めたのである。そこに居住する人々の民族、言語、宗教、歴史などを一切無視して、ただ線を引き、その線を国境と呼ぶことにしたのだ。こうして出来上がったのが、近代国家である。島国である日本に住んでいるとそのような感覚は希薄だが、例えば、アフリカの地図を見て欲しい。なんと直線の多いことだろう。人間が定規を使って、直線を引き、それを国境にしたのだ。そうやって出来上がった国家を単位として憲法や法律を定め、秩序を作り出そうというのが国家主義である。

 

民族主義の下においては、民族間の紛争があった。宗教の全盛期には宗教戦争があり、そして国家主義の下においては、国家間の戦争が繰り返されている。人類が築いてきた文明には数千年の歴史があり、それは、上に記したように秩序を求める歴史であったとも言える訳だが、その試みはことごとく失敗し続けている。私はこのように考えているので、民族主義と宗教と国家主義には反対なのである。そもそも、秩序化を求めるから失敗するのだ。そうではない別の道を進むべきだと思う。

 

このブログにおいて繰り返し述べてきたことだが、私は、文明を次の3要素に分けて考えている。

 

主体領域 - 文化領域 - 秩序領域

 

これを時間軸に従って並べ替えてみると、次の通りとなる。

 

文化領域 → 秩序領域 → 主体領域

 

まず、衣食住と性を含めた人間の身体の取り扱いに関する文化領域が生まれた。そこから、上に記したように民族主義、宗教、国家主義などの秩序領域が立ち上がってきたのだ。そして、秩序領域が生み出す最大の悲劇は、戦争である。そこから、戦争の非合理性、矛盾などに気付いた人々が、平和を唱え始める。反戦。それは、秩序に対する異議なのだ。この秩序に対して異議を唱える力は、どこからやって来るのか。それは、主体領域から生み出されるのだと思う。周囲の人々がいかに戦争に加担しようと、私だけは戦争に参加したくない。人を殺したくない。そのような意思は、自らの魂の中にしか存在しない。つまり、秩序領域に対するアンチテーゼとして、主体領域は育まれるのだと思う。その方向性は、ソクラテスが唱えた「自らの魂に配慮せよ」という主張や、晩年に「主体」の問題へと回帰したミシェル・フーコーの思想が指し示している。日本人である私たちにもっと身近な存在で、分かり易くこの問題を論じたのは夏目漱石である。漱石の「私の個人主義」という講演は、今から108年も前に行われたものだが、そこから学ぶべき事柄は少なくない。いや、全体主義化、右傾化の恐れが強まっている現代であればこそ、私たちは漱石個人主義とは何か、それを再び学ぶべきではないだろうか。

 

ちなみに「私の個人主義」は、以下の文庫本で読むことができる。

文献1: 漱石文明論集/岩波書店/800円 税別

文献2: 私の個人主義講談社学術文庫/660円 税別

(文献2の内容は1つの講演録を除き、文献1にも掲載されている。どちらか1冊を買うとすれば、文献1の方がおススメ。)

 

個人主義、自立した個人。そのような概念を基調にしたのは、近代思想だと言えよう。例えば、漱石の時代のことである。しかしながら、人類は2度に渡る世界大戦を経験し、無力感に捕らわれたのである。そこで、個人主義に対する懐疑が生まれた。

 

- 「強い個人」を前提にした議論として、その「息苦しさ」、抑圧性を指摘する批判が、少なからず寄せられてきた。 (中略) 西洋諸社会で、近年、「個人主義」という言葉が懐疑的、さらには否定的含意で使われることが多くなっている。-

(抑止力としての憲法樋口陽一岩波書店

 

上に引用した部分が、概ね、ポストモダンの思想だと言えよう。確かにそれは分かる。しかし、それではどうやって戦争を防止することができるのだろう? その答えが見つかっていない以上、それがどんなに息苦しいことであったとしても、私は、もう一度、個人主義に立ち返るべきだと思う。別の言い方をすれば、私たちは21世紀にふさわしい、新しい個人主義を確立すべきだと言うべきかも知れない。

 

ポストモダンの思想家としては、デリダ、ドゥールーズ、フーコーの3人が有名だ。どうやらドゥールーズは、加速主義に向かったらしい。しかし、フーコーは近代思想を批判しながらも、ギリギリ踏み止まり、主体の問題へと回帰したのである。

 

独裁者は民主主義を恐れる

 

ひとたび戦争が始まると、その地域や国に住んでいる人々が永年に渡って育んできた文化やその成果物は、破壊される。それは歴史的な建築物や優れた芸術作品に限ったことではない。例えば、あるお婆さんがいて、彼女はとてもおいしいシチューを作ることができたとしよう。そのシチューを作るためのちょっとしたコツとか、そのノウハウは彼女の子供や孫たちに伝承されるべきなのだ。一見、平凡に見える市井の人々といえども、ある程度の年令になれば、何らかの文化的な創造力を兼ね備えているに違いない。文化とはそのような些細なことの集積で成り立っているのであって、そのお婆さんが爆撃によって死んでしまった場合、その文化的な価値は喪失するのである。

 

戦争が始まると人々の思考能力は低下する。人間の思考能力は、静かな環境の中で本を読んだり、芸術作品に触れたりする時、とりわけ1人で過ごす時間の中で発揮されるのだ。生きるか死ぬかという過酷な状況下にあって、人間は思索に耽ることができない。

 

子供は年を重ねるのに比例して、心身共に成長する。それと同じで国家や社会も少しずつ成長し、成熟していくべきだと思うが、戦争が始まるとそのような成長は止まる。むしろ国家や社会の年令は、退行すると言うべきだろう。

 

それにしても極悪非道の独裁者プーチンは、何故、この戦争を始めたのだろう? 東方へと拡大を続けるNATOの軍事力を恐れたのだろうか。しかし、そうであればNATOとの融和を目指すべきであって、自らNATO諸国との軍事衝突を招くリスクを高める必要はない。結局、プーチンNATO諸国をはじめとする西側諸国が持つ民主主義を恐れたのだろうと思う。旧ソビエト連邦に加盟していた諸国は、次々と民主主義を採用し、NATOへの加盟を果たした。その勢いは、国境を挟んだウクライナにまで届き始めた。仮に民主主義がロシア国内にまで浸透すれば、独裁者プーチンは失脚する。失脚した独裁者の末路は哀れなもので、自殺に追い込まれるか、暗殺されるか、死刑判決を受けるのだ。それが嫌で、つまりプーチンは自分が民主主義に殺されるのが嫌だから、この戦争を始めたのだろう。プーチンには、正義のかけらもない。

 

正義は、自由と民主主義の側にある。独裁は悪だ。確かに私もそう思うが、正義を振りかざして戦争に加担すれば、それは瞬く間に世界中に広がる。2度に渡って繰り返された世界大戦が、そのことを証明している。敵の敵は味方。ただ、それだけの原則に従って、世界は2つに分かれ、血で血を洗う殺戮を繰り返したのである。そこから学ぶべき教訓は、戦火を拡大してはならない、ということだろう。他方、独裁者プーチンの狂気によって、ウクライナの人々の命が失われてゆくという現実もある訳だ。戦争に加担すれば戦火は広がる。しかし、戦争に参加しなければ、ウクライナに住む無辜の人々が命を失う。これは二律背反だと言わざるを得ない。では、どうすれば良いのか。残念ながら、人類は未だその答えを持ち合わせていない。人間の理性に重きを置いた近代思想は、言わばこの問題を解決できないために行き詰ったのではないか。そして、ポストモダンが生まれる訳だが、残念なことにポストモダンも、解決策を示すことはできていない。

 

もう少し、具体的に考えてみよう。日本のウクライナ戦争に対する関わり方には、いくつかの段階があるのであって、それはグラデーションになっているに違いない。関与の薄い方から、順に記してみよう。

 

人道支援 - 意見の表明 - 経済制裁 - 武器供与 - 戦争への参加

 

ウクライナに対する人道支援。これは大いにやるべきだし、反対する人はいないだろう。次に、国連などの場を通じて、ロシアに対する意見を表明すること。これもいいだろう。ロシアに対する経済制裁はどうだろうか。これはプーチンに対して停戦に向かうインセンティブを与えるものである。私は、ここまでは実施すべきだと思う。しかし、仮に日本がウクライナに対して武器を供与した場合、それは日本が間接的に参戦することを意味するのではないか。よって、ここで線を引くべきだと思うのだ。武器供与は止めておいた方が良いと思う。

 

つまり、左の方(関与が弱い方)であれば、戦争に参加することにはならず、日本人の安全は守られる。但し、ロシア軍の砲撃からウクライナの人々を守ることはできない。反対に右の方(関与が強い方)に進めば、多少なりともロシア軍の砲撃からウクライナ人を守ることはできるだろうが、日本がロシアから攻められるリスクが発生する。だから、この問題は、二律背反だと思うのである。

 

ところで、国家の運営システムについては、独裁制と民主制の間に寡頭制(かとうせい)というものがある。独裁制は、独裁者1人による支配であって、寡頭制とは少人数による支配形態を言う。これは独裁制と民主制の中間に位置する制度だと言えよう。

 

独裁制 - 寡頭制 - 民主制

 

では、日本はどの制度を採用しているのだろう? 私は、寡頭制だと思う。この問題について語ると長くなるので、別の原稿に記すことにしたい。

 

中立ということ

 

2月24日にロシアがウクライナへ侵略して以来、私は、憂鬱な毎日を過ごしてきた。21世紀の今日において、このような侵略戦争が勃発したことに驚くと共に、一体、何をどう考えれば良いのか、思いあぐねていたからである。両国を中心に人的な被害は拡大する一方で、原発や核爆弾に関わるリスクまで取り沙汰されている。

 

しかし昨晩、ゼレンスキー大統領はウクライナを中立化させる可能性について言及したのである。ネットで「ウクライナ 中立化」というキーワードで検索するといくつかの記事がヒットする。私は、この案に賛成したい。ロシアはもちろん、米国やトルコなども含めて、ウクライナに対する不可侵条約を締結するという案である。ロシアは酷い国だと思うし、既に数千人のウクライナ人が殺害された訳だが、今、大切なのは一刻も早く被害の拡大を止めることであろう。そのためには、悪魔とでも取引をする必要があるに違いない。既にロシア軍は、3方向からウクライナの首都キーウ(キエフ)を取り囲んでいる。ロシア軍がキーウに攻め込むという事態、すなわち首都決戦だけは、絶対に回避すべきなのだ。兵力で言えば、ロシア軍の方が圧倒的に優位だし、加えて米国が率いるNATOは、ウクライナを本気で救うつもりはないのである。

 

では、私がウクライナの中立化を支持するに至った思考のプロセスについて、少し述べてみたい。

 

まず、悪いのは誰なのか、と考えてみる。ロシアが悪い。単純に考えれば、そうなるだろう。しかし、ロシア国民の中にも反戦を訴えて逮捕される人々が後を絶たない。従って、全てのロシア国民が悪いということにはならない。そこで、狂気の独裁者プーチンが悪い、と考えてみる。しかし、プーチンにも言い分はあるし、プーチンを支える権力者たちもいる訳だ。ロシアの権力者には、まずシロビキと呼ばれる軍属や情報機関の連中がいる。そう言えば、プーチン自身もKGBの出身である。次に、オリガルヒと呼ばれる新興財閥も力を持っている。但し、オリガルヒの中にも親プーチンと反プーチンがいる。事情は、かなり複雑なのである。

 

では、誰が正しいのか。米国が率いるNATOだろうか? 少し歴史を振り返ってみると、東側の軍事同盟として、ワルシャワ条約機構があった。しかし、これはソ連の解体と共に解散したのである。その時点で、NATOも解散するか、もっと文化的な団体へと変貌を遂げるべきだったのではないか。しかし、NATOは今日まで、軍事同盟として存続している。困ったロシアは、自分たちもNATOに加盟させて欲しいと頼んだことがあったそうだ。理由は分からないが、ロシアのNATO加盟は実現しなかった。そして、NATOの加盟国は増え続け、東の方向へ、つまりロシアに近接する国々へと拡大を続けたのである。遂にはウクライナまでもがNATOへの加盟を希望するに至り、ロシアが暴発したという見方もできる。

 

自由と民主主義を標榜する西側諸国と言えば、聞こえはいい。しかし、私は日本に原発を投下し、ベトナム枯葉剤を撒き、ありもしない大量破壊兵器を理由にイラクを攻撃した国など、とても信用する気にはなれない。

 

そもそも人間は、AとBの2項対立関係を措定し、どちらかが正しく、他方が間違っていると考えやすい。しかしこれは、明らかに間違いである。例えば、暴力団同士の抗争を考えてみると良い。AもBも悪いのである。また、理論的には、どちらも正しいというケースもあり得る。更に考えると、どちらが正しいのか分からない、というケースだって存在する。妊娠中絶、同性婚マリファナの使用、尊厳死など、世界各国で賛否が分かれているが、正義がどちらにあるのか、それは誰にも証明することができないのだ。

 

整理してみよう。AとBの2項対立があった場合、どちらが正しいのか、その答えには次の5つのパターンがある。

 

パターン1: A・・・〇  B・・・×

パターン2: A・・・×  B・・・〇

パターン3: A・・・×  B・・・×

パターン4: A・・・〇  B・・・〇

パターン5: どちらが正しいのか、分からない

 

更に厳密に考えると、Aが正しいのは分かるが、Bについては分からないというケースだって存在する。例えば、今回のロシアとウクライナの関係で言えば、私は、ロシアは誤っていると確信しているが、勉強不足なのでウクライナについては判断しかねているのである。そのようなケースまで含めると、私の計算によれば、パターンは13存在することになる。(訂正: 3×3=9 9通りが正解ですね。お詫びして訂正します。)

 

次に、誰が正しいのか、という設問自体の正当性についても考える必要があろう。本件で言えば、ロシアは正しいのか、という設問自体が妥当なのか否かという問題である。明らかにロシアのウクライナ侵略は、間違っている。しかし、今日までのロシアの行為の全てが誤っているかと言えば、そんなことはないだろう。どんな悪人だって、何か1つ位は良いことを行なっているものである。そうしてみると、ロシアという行為主体を検討の対象とすること自体に、あまり意味のないことが分かる。検討すべきは行為の主体、人格ではなく、行われた行為の方なのである。「罪を憎んで、人を憎まず」という諺があるが、その通りだと思う。罪とは行為のことであって、人とは行為主体や人格のことである。

 

そもそも、戦争とは何か。その答えは無数にあるだろう。無数にある中の1つの答えとして、それは「とても理解することが困難な出来事である」という点を指摘しておきたい。例えば、野球の試合であれば、1回の表から始まって、9回の裏で終わる。これは時間軸に対応する限界設定である。また、野球の試合は多くの場合、野球場の中で行われる。こちらは空間に対応する限界設定である。このように、時間と空間に限界を設定した場合、そこで展開される出来事は、とても理解しやすくなる。他方、これらの限界が設定されない出来事は、理解することが極めて困難なのだ。そして、戦争にこの限界は設定されていない。例えば、時間軸で言えば、ロシアとウクライナにはとても永い歴史があって、その全てを理解することは不可能である。また、関係国まで含めると、空間的な広がりも広範なのであって、それは日本や米国までをも巻き込んでいる。情報戦が繰り広げられ、国際的ハッカー集団のアノニマスまでもが参加している。

 

このように、理解することが不可能であるか、若しくは極めて困難なのが、現代の戦争なのだ。では、そのような戦争に対して、どう向き合うべきだろうか。私は、「中立」の立場を採るというのが、緩衝国(小さな国)に許された1つの知恵だと思う。ウクライナの問題にしても、根本的な対立構造は、NATO対ロシアにあるのであって、ウクライナはその狭間で苦しんでいる。そして、NATOにもロシアにも、過ちを犯した歴史がある。どちらか一方につけば、他方を敵に回す。従って、中立という立場を採るのが、ウクライナにとっては、最も安全な選択肢なのではないか。揺れ動きつつあるが、スイス、フィンランドスウェーデンが中立の立場を維持している。今後とも、そうあるのが得策だろう。

 

正義を貫いて戦い続けるのか、それとも現実的な損害を回避するために停戦交渉に臨むのか。私は後者の方が、正解だと思う。首都決戦の前に、停戦交渉が成立することを切に願う。

 

なお、本稿を記す際し参考にさせていただいたYouTube動画のリンクを貼っておきます。鮫島タイムス!

 

ウクライナの教訓〜日本列島が軍拡競争で米中対立の主戦場に?非核三原則を見直して核兵器の国内配備して大丈夫か? - YouTube

 

救済としての芸術(その8) エピローグ

 

森友学園事件。時の総理大臣を守るために、財務省は公文書を改ざんすることにした。改ざん作業を命じられた赤木俊夫さんは、良心の呵責に苛まれ、精神のバランスを崩し、自殺した。夫の死の真相を知りたいと願った妻、赤木雅子さんは国を相手取って、1億700万円の損害賠償を求める訴訟を提起した。すると証人尋問を開催する前の段階で、国側は突然全面敗訴を自ら認める(認諾)として、訴訟は打ち切られた。結果として、この訴訟において、赤木俊夫さんが死に追いやられた真相が明らかになることはなかった。

 

上記のケースにおいて、国側で訴訟対応に当たった官僚は、財務省法務省である。これらの役人の側に正義があるのか、それとも正義は赤木さんご夫妻の方にあるのか。私は、後者の方だと思う。確かに官僚たちは、訴訟対応において違法なことをした訳ではない。法的には、官僚たちが取った行動は適法なのである。しかし、法律には限界がある。法律を守ることは、確かに大切だ。しかし、それだけでは不十分なのだ。もっと大切なことは、自らの良心を鍛え上げることに他ならない。私だったら、財務省法務省の役人たちに、こう言いたい。君たちに魂はないのか!

 

このように、秩序(法律)と主体(赤木さんご夫妻)は、対立するのである。

 

私たちは、秩序を批判する能力を持つべきなのだ。批判とは、ただ悪口を言うことではない。批判とは、限界を見定める認識能力のことである。例えば、裁判官は偉い人なのだろうか。確かに彼らは、一流大学を出ているかも知れない。司法試験にだって、合格している。大体、彼らは黒一色の法服と呼ばれる服を着て現われ、原告や被告よりも高い席に座るのである。これはとても偉そうだ。しかし、そんなことに騙されてはいけない。確かに彼らは、法律の知識を豊富に持ってはいるものの、酷く世間知らずで、自らの裕福な人生を大切にしているのである。大体、裁判官は過ちを犯し易いので、三審制が取られているのだし、過去に冤罪事件だって、多く発生している。すなわち、彼らにも限界があり、それは私たちが持っている限界と大差はないのである。

 

ところで、現代社会の秩序は、宗教、社会科学、自然科学から成り立っていると思う。まず、宗教。何を今更、と思われるかも知れない。しかし、公明党の支持母体は創価学会(仏教系)だし、2012年に公表された自民党改憲草案は、国家神道に基づく価値観を強く打ち出している。すなわち、自公政権は、宗教的な価値観に依存しているのである。だから、夫婦別姓だって、未だに実現しないのだ。

 

次に、社会科学。その代表例は、法律と経済である。法律学の起源は古代ローマにあり、その歴史はとても永い。しかし、現代において、法律は敗北しているように見える。結局、法律学は、法律さえ守っていればいいんだろう、という短絡的な価値観を生んだし、国の最高法規たる憲法だって、今日の政府与党を拘束することに成功してはいない。法律学に代わって台頭したのが、経済学である。こちらの歴史は浅い。マルクスにしてもケインズにしても、最近の人(?)である。秩序を構成する要素として経済が台頭したのには、いくつかの歴史的な要因がある。イギリスで勃興した産業革命もそうだし、自然科学が生んだ自動車が果たした役割も大きい。自動車は便利だし、自動車が経済の国際化に果たした役割はとても大きい。昨今のITを自然科学の枠組みに入れるべきか否か、定かではないが、ITが金融取引を活性化し、グローバリズムと貧富の格差拡大を招いたことは確かだろう。こうして現在の西側先進諸国の文明は、宗教と、経済と、テクノロジーによって秩序化されている。そして、その秩序は「経済的カースト制」とでも呼びたくなる酷い代物なのである。

 

結局、所得は男の方が女よりも高く、若者よりも高齢者が、低学歴者よりも高学歴者が、地方よりも中央が、それぞれ優遇される。

 

ほとんど絶望的な気分になるが、実は、そうでもない。「経済的カースト制」は、人々が働かなければ生きていけないということを前提としているが、近年、この前提が揺らぎ始めている。マクロ経済におけるMMT(Modern Monetary Theory)が台頭してきたし、ベーシックインカムも真剣に議論され始めている。労働に対する価値観が変化すれば、悪夢のような「経済的カースト制」は崩れるに違いない。

 

主体 - 文化 - 秩序

 

秩序に対しては、批判する認識能力を持とう。本来、主体の側に立つべき文学者の中にも、宗教に帰依する人は少なくないが、それは文学の敗北を意味するのだ。

 

文化を維持、発展させるためには、グローバリズムとは戦い、ローカリズムで対抗しよう。

 

人は、1人で生まれてきて、1人で死んでいくのだ。文明という枠組みで考えても、私たち個人の人生を考えても、最も大切なのは、主体なのである。主体の中には、欲望もあれば、狂気もある。それはとても壊れやすい。だから、私たちはそれをより良いものへ、より強いものへと鍛え続けなければならない。そのための手段が、芸術なのだと私は思う。

 

 

以上をもちまして「救済としての芸術」を終了します。読み返してみますと、構成はハチャメチャで、とても恥ずかしい原稿となりました。しかし、主体、文化、秩序の3要素で文明を考えるという方法は、私にとっての到達点となるものです。当分、これを超えることはできないように感じています。もちろんこれは、人間並みの、個別的な真理であるに過ぎません。しかし、皆様が何かを考える際に、多少なりとも参考となれば幸いです。

 

このブログは、暫く休みます。今後の予定は、白紙です。

 

少し早いですが、どうか良いお年をお迎えください。

 

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救済としての芸術(その7) 個人の時代

 

「真善美」というのは、ソクラテスが言った言葉らしい。この言葉を少し、私なりに解釈してみたい。

 

「真」とか真理というのは、「全ての人々が幸福になる方法」のことだ、と私は考えている。そうしてみると、これは人間社会の秩序に関わることだと言える。次に「善」だが、これは個人の良心のことである。胸に手を当てて考えてみろ、とか、お天道様が見ているぞ、というのは法的な規範ではなく、個人の良心に訴えかける言葉であって、これは主体の問題である。最後に「美」だが、これは女性の美であり、居住空間における美であり、伝統的な美のことである。従って、これは文化の中に存在する。このように考えると、本稿において私が提案している構造、すなわち主体、文化、秩序という概念と「真善美」は符号する。

 

主体(善) - 文化(美) - 秩序(真)

 

この構造の全体を考えると、今日の文明社会においては、主体と秩序の対立が激化しているように思える。一見、秩序の側が優勢であるような印象もあるが、秩序化が進んだことの反作用として、主体の側がむくむくと台頭して来ているのが実態ではないだろうか。

 

最近、高級官僚を目指す学歴エリートたちは、減少している。転職する官僚も少なくないと言う。無理もない。高級官僚に上り詰めたとしても、国会で嘘の証言を強要されたり、与野党の政治家から理不尽な攻撃を受けたりするのである。既に大企業においても終身雇用制は揺らぎ、リストラや転職によって、離職する人たちは少なくない。また、少子高齢化が進み、地方における村落共同体の崩壊は、確実に進行している。

 

言ってみれば、現代社会における人間は、集団や秩序に依存して暮らすのではなく、個人の選択によって、人生を組み立てることが求められているのだ。このような個別化、個人化という現象は、デジタル技術の進展と共に出現したに違いない。

 

歴史的に見ても、マスコミとは時の権力者の意向なり、権力の行使を大衆に伝えるのがその役割だった。言ってみれば、上から下へと情報を流す。それがマスコミの役割なのだ。近年、マスコミの劣化が批判されているが、その批判には違和感がある。高尚なメディア論があることは私も知っているが、元来、マスコミだって1つのビジネスであることに変わりはない。そして、彼らのビジネスモデルは、企業の宣伝広告に依存しているのであって、マスコミに正義を求めるのは、所詮、無理な話だと思う。もちろん、そのことに人々は、既に気付き始めている。

 

そして、インターネットの登場により、情報を伝達する媒介、すなわちメディアは、個人の手に解放されつつある。ブログから始まって、それはツイッターYouTubeと急速にその種類を増加させている。こうして、下から上を目指す情報の流れが構築されつつあると言っていいだろう。

 

最近、フジテレビは大規模なリストラを発表した。産経新聞は、全国での販売を断念し、地方紙へと移行するらしい。例えば、テレビとYouTubeの戦いだが、私は、YouTubeが勝つと思う。テレビは、決められた放送時間でしか見ることができないが、YouTubeは、いつでも視聴できる。テレビは一方向だが、YouTubeであればコメント欄を利用することによって、双方向のコミュニケーションが可能となる。地上波のテレビが無くなるとまでは言わないが、その衰退傾向は今後、一層加速するだろう。

 

新聞とネット。こちらも、ネットの側に軍配が上がるだろう。新聞を読むためには購読料が必要だが、ネットは無料である。そして何よりも、新聞の情報は遅い。私は、たまに駅前の蕎麦屋へ行った際、新聞を読むことがあるが、その記事の古さに驚くことが少なくない。大手新聞社の中には、不動産業へ移行しているところがあると聞く。今後、廃刊に追い込まれる新聞社が出てくるかも知れない。

 

ツイッターの威力も侮れない。これは簡単に記事や写真を添付することができるのが強みである。

 

こうなって来ると、人々の間に新たな分断が生まれるに違いない。人々は、次の3種類に分類されると思う。

 

1.ネットにアクセスできない人。

2.ネットにアクセスできるが、自らは情報を発信しない人。

3.ネットで自ら情報発信をする人。

 

問題は、2番と3番の違いである。すなわち、自ら情報を発信するか否か、という点だ。その違いが何かと言うと、それは個性を持つか否か、本稿の言葉で言えば主体を持つか否かという問題に関わってくる。簡単に言えば、個性のない人は情報を発信しづらい。個性のない人は、発信すべき情報を持たないからである。もう少し、正確に言おう。本当は、個性のない人など、いないのだ。但し、自分と向き合うことなしに、個性を発見することはできない。

 

世の中には、「普通のおばさん」という人種がいる。少なくとも、私はそう思って来たし、私は彼女たちに興味を持つことはなかった。特に意見もなく、普通に暮らしているに違いない。しかし最近、ネットを見ていて、私の感じ方に変化が生じた。

 

例えば、「普通のおばさん」が野良猫と出会う。野良猫は腹を空かせているし、どこかケガをしていたりする。これはとても可哀そうだ。何とか助けたい。餌をやってみる。チュールを差し出してみる。そうやって、野良猫との距離を詰めていって、なんとか捕獲に成功する。「普通のおばさん」はその猫を動物病院へ連れて行き、名前を付ける。風呂に入れる。そういう猫動画がYouTubeに沢山アップされている。そのような動画を継続的に見ていると、そこはかとなく「普通のおばさん」の感受性や、人生が浮かび上がって来るのだ。すると、彼女は最早「普通のおばさん」ではなく、個性を有した立派な女性だと思えて来るから、不思議なのである。

 

猫動画は、YouTubeというメディアが生み出した、新しい大衆芸術の1つだと思う。また、老い先の短い私などは、どうでもいいようなものだが、若い人には何か1つ位、情報発信にチャレンジしてみることをお勧めしたい。

 

いずれにせよ、今ほど人間の個性やアイデンティティ、すなわち主体が脚光を浴びる時代というのは、人類が過去に経験したことがないものである。そして問題は、未だに人類が、主体とは何か、という問いに対する答えを持ち合わせていないことだと思う。