文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

戦争と文明(その19) 人間を戦争というくびきから解き放つことはできるのか?

 

表記の問題は、このシリーズ原稿における最後の設問である。私の考えを以下に記す。

 

この設問に対する答えは、その人の持つ歴史観に左右されるのではないだろうか。一方で、運命論というのがある。人間がどのようにあがこうと、大きな川の流れを変えることはできない。それは必然的にある方向に向かっているのであって、人間はそのような運命に身を任せるしかない小さな存在なのだ。そう考える人もいるだろう。歴史的必然ということも、よく言われる。人間の社会はある方向へと必然的に向かっている、という考え方である。

 

他方、歴史は偶然の積み重ねによって成り立つのであって、その行く末は人間の力によって変えることができる、とする立場もある。私は、この立場を支持しようと思う。例えば、マスケット銃が歩兵を生み、歩兵が民主主義を生んだとするカイヨワの分析がある。マスケット銃が発明される以前、一体、誰がそのような因果関係を想像しただろう。誰にも分からない、誰にも想像できない因果関係の連鎖によって、歴史は動くのだと思う。

 

例えば、紀元前399年にソクラテスは毒杯を飲み干して死んだが、彼の死は無駄だったのか。そんなことはない。確かに、ソクラテスに始まった哲学は、その後、千年を超える永きに渡って眠りについた。しかし、誰かが書き残した「ギリシャ哲学偉人列伝」という書物が、印刷技術の発明と共に西欧において脚光を浴び、哲学は息を吹き返したのである。そして、幾人もの思考する哲学者の努力があり、やがて人類は平和主義や人権の尊重という考え方を持つに至った訳だ。このようにして、人類が能動的に、主体的に動かしてきた歴史もある。つまり、未来を変えることは可能なのだ。

 

人間の世界において、確実なことなど何もない。つまり、人類には戦争を回避する可能性と能力とが備わっているのだ。

 

世界に眼を向けると、確かに米中対立はその危険度を増している。しかし、米国だって国内に多くの課題を抱えているのであって、太平洋を挟んだ向こう側の台湾で、戦争などしている余裕はないはずだ。銃規制をどうするのか、人口妊娠中絶をどうするのか、そして南米から大挙して押し寄せる難民をどうするのか。

 

習近平は独裁的な権力の確立に成功したようだが、権力はいつか必ず崩壊する。永遠に続く権力など、存在しない。権力闘争に勝利して獲得した独裁的な権力は、権力闘争というリスクから逃れることができない。この点は、プーチンも同じだろう。

 

日本もまた、危機的な状況にある。新自由主義反知性主義によって、人心は破壊し尽くされたかのように見える。確かに、日本には敗戦という不幸な歴史がある。また、大国が核武装を進める中、日本の防衛は米国に頼らざるを得ないという事情もある。日本人は逆立ちをしたって、米国から自立することなどできない。そう考える人は、少なくないのだろう。そうであれば、日本人が何を考えようと、全ては無駄なのだ。日本ではこうした虚無感、拝金主義などが交錯しており、その中心に位置するのが自民党ではないか。

 

日本人が成し遂げるべきこと。それは明確だと思う。まず、統一教会を解散させることだ。次に、自民党政治から脱却することである。そのためには、与野党を含めて、政界を再編する必要があるだろう。そして最後に、カルトのみならず、あらゆる宗教から卒業しなければならない。カルトは駄目だが宗教は否定しない、との主張をよく耳にする。しかし、カルトと伝統的な宗教との間に、一体、どのような差異があると言うのだろう。信じろ、思考するな、と主張する宗教は、疑え、思考しろ、と主張する哲学と、真っ向から対立する。宗教は権力を生み、人々を奴隷化する。私たちは、哲学の側に立脚すべきなのだ。

 

戦争と文明(その18) 人はなぜ戦争をするのか

 

今年の6月から始めたこのシリーズ原稿も、そろそろ結論を述べるべき段階に来た。そして、このシリーズ原稿における設問は、次の2点に集約される。

 

設問1: 人はなぜ戦争をするのか?

 

設問2: 人間を戦争というくびきから解き放つことはできるのか?

 

本稿では、設問1に対する私の考え方を述べたい。

 

まず、原始宗教があった。原始宗教とは、動物信仰、呪術、神話、シャーマニズムなどの総称である。そして原始宗教は、人々の集団化を促したのだ。例えば、同じ動物を信仰することによって、同じ神話を信じることによって、人々は集団を形成したのである。次に、原始宗教は、様々な幻想を生み出したに違いない。民族主義、男尊女卑などがこれに当たる。幻想に、科学的、合理的な根拠はない。そして、幻想を体系化したものが宗教である。

 

幻想は、権力を生み出す。西洋における王権神授説や日本の天皇制などが、これに当たる。権力者は自らの権力を維持するために、全ての社会制度において、変化を許容しない。現状維持を求めるのである。しかし、人間社会における常識や価値観(エピステーメー)は不断の変化を遂げるのであって、権力者といえども、エピステーメーの変化を止めることはできない。権力は必ず腐敗すると共に、エピステーメーに敗北する宿命を負っている。

 

このようなメカニズムによって、必然的に危機を迎える権力者が、自らが君臨する集団を結束させ、自らの権力を維持するため、戦争を始める。一口に言えば、危機に瀕した権力者が、戦争を始めるのである。

 

原始宗教 → 幻想 → 宗教 → 権力 → 戦争

 

このシリーズ原稿は書き始めてから、その半年足らずの間にも、世界情勢は急変した。

 

ロシアがウクライナへ侵略した当初、ウクライナの首都キーウは、3日で陥落するだろうと言われていた。それがどうだろう。昨今では、ロシアの劣勢が伝えられている。しかし、喜んでばかりもいられない。このままロシアの劣勢が続くと、プーチン政権はもたない。従って、どこかのタイミングでプーチン政権が起死回生の反撃に出てくる危険性がある。それが核でないことを祈るばかりだ。一方、ロシア国内でクーデターか、若しくは内乱が発生する可能性もある。そうなってロシアの民主化が進めば良いと思うが、その場合でも多数の犠牲者が出ることは避けられないだろう。経済への影響も心配される。

 

昨今、南北朝鮮の間で、威嚇射撃の応酬が続いている。北朝鮮は、核弾頭を搭載可能なミサイルの開発を急いでいる。世界情勢が流動化すれば、その機に乗じて、北朝鮮が何らかの暴挙に出る危険性もある。

 

かつて中国は、共産党一党独裁だと言われていた。寡頭制である。しかし、今回開催された党大会において、中国は習近平の独裁へと移行したように見える。独裁制は危険だ。中国の経済が上昇傾向にある間、習近平の権力は揺るがないだろう。問題は、中国経済の成長が止まった時だ。そのタイミングで、習近平は台湾への侵攻を決断するかも知れない。

 

いずれ中国のGDPは米国のそれを超えると言われている。プライドの高い米国民が、それを許すだろうか。米国内でナショナリズムが高まり、それに応えようとする米国政府が暴走する危険性もある。戦争を始めるために、合理的な理由など要らないのだ。米国が始めた過去の戦争を見れば分かる。

 

我が国においても、「敵基地攻撃能力」を持つべきだとする論議が出ている。これはあまりにも評判が悪かったので、最近は「反撃能力」と言うらしい。中味は同じである。そもそも、敵基地攻撃能力を持つということは、日本国憲法9条に対する違反だが、自民党はそのことに頓着していない。防衛費の増額も主張されている。政府がこのようなことを主張し始めたということが何を意味するのか、知性をもって考えれば分かるだろう。月並みな言い方だが、戦争の足音が近づいている。

 

戦争と文明(その17) 「知性」とは何か

 

このシリーズ原稿の中で、私は「知性」という用語を使った。そうであるからには、「知性」とは何か、私にはそれを説明する責任があるように思う。

 

私が述べようとしている「知性」とは、例えば知能指数とか、そういうことではない。人間の能力とは、誠に多岐に渡るものであって、それを数値化することなど不可能である。また、「知性」とは、到底、学歴によって測ることなどできはしない。私は現役時代、仕事柄、多くの弁護士と接してきた。彼らの多くは、東大法学部卒である。確かに彼らは、記憶力が良い。様々な法律について、良く理解している。しかし、例えば訴訟というものは、人間の顔と同じで、千差万別なのである。そのように多様な現実を適切に理解し、如何に問題を解決へと導くか、必ずしも彼らがそのような能力に長けているとは言えない。

 

ところで、近年、リテラシーということが良く言われる。これは、メディアやネットに溢れる膨大な情報の中から必要な情報を抽出すると共に、その真偽を正確に認識する能力のことである。フェイク・ニュースが溢れる今日において、これに対抗する重要な概念である。

 

実は、このリテラシーという言葉には、相当な普遍性がある。例えば、統一教会に騙されて、高価な壺を買わされてしまう人がいる。統一教会に限ったことではない。他の宗教団体だって、同じようなことを繰り返している。騙されてしまう人には、リテラシーが不足しているのだ。

 

自民党を支持している人もいるが、私に言わせれば、大なり小なり彼らも騙されているのだ。もっと言えば、学校教育だって、欺瞞に充ちているのではないか。更に言えば、法律の中にも悪法は無数に存在するのである。いや、100点満点の法律など、存在しないと思った方が良い。あの日本国憲法でさえ、いくつかの難点を抱えているのだ。かく言う私も、今日まで多くの人々に騙されてきた。

 

このように考えると、このシリーズ原稿の冒頭に記したプラトンの「洞窟の比喩」を思い起こさずにはいられない。私たちは、あたかも鎖に繋がれた囚人のように、暗い洞窟の中で影絵を見せられているのだ。

 

私たちは、洞窟から脱出するために、努力を怠ってはいけない。リテラシーという流行り言葉は、このようなプラトンの主張へと結びつく。つまり、リテラシーは「知性」の一部なのだ。

 

もう少し、大きな枠組みで「知性」について考えることもできる。「知性」を磨くためには、まず、「私」から出発しなければならない。

 

実を言うと、私は今まで、多くの嘘をついてきた。誠に恥ずかしい話ではあるが、私は、大噓つきなのである。しかし、この世にたった1人だけ、嘘をつけない人間がいる。それが「私」なのである。私は大嘘つきだが、「私」に対してだけは、嘘をつけないのだ。また、権力は人の目を眩ませるが、「私」の内部に権力が存在する余地はない。「私」の中にこそ、倫理が存在するのである。だから、思考する、知性を磨くためにはいつだって「私」から出発する必要があるのだ。

 

「私」はどう生きたいか、「私」はどうありたいか、そのような価値観を確立することができれば、そこから国家像を導くことが可能となる。「私」から国家へ。これが哲学の基本構造なのではないか。国家のあり方を思考した哲学者は少なくない。先に述べたトマス・ホッブズもそうだし、社会契約論を唱えたルソー、三権分立を主張したモンテスキューなど、枚挙にいとまがない。

 

「私」から国家へ。これが哲学の基本構造だとして、その土台は、多分、古代ギリシャにおいて確立されたのだと思う。ソクラテスプラトンである。

 

ソクラテスは、「自らの魂に配慮せよ」と主張したのであって、彼は「私」に固執したのである。また、ソクラテスは徹頭徹尾、パロール話し言葉)を用いた。本は一冊も書いていない。そして、ソクラテスの弟子であるプラトンは、エクリチュール(文字言語)を用いて多くの著作を残したのである。「ソクラテスの弁明」も「国家」も、プラトンの著作である。つまり、「私」から出発したソクラテスの思想は、プラトンにおいて「国家」へと到達したのである。ああ、何という壮大なスケールなのだろう!

 

ちなみに、国家を成立させるためには、憲法や法律が必要となる。そして、それらは文字で書かれる必要があるのだ。このように考えると、私たちはパロールから出発して、エクリチュールを目指す必要がある。

 

ソクラテスから、プラトンへ。

 

パロールから、エクリチュールへ。

 

「私」から、国家へ。

 

人が成長するということの意味が、ここにあるのではないか。

 

このように考えると、「知性」という言葉の意味も、自ずと明らかになる。「知性」とは、「私」から出発して国家を構想する能力のことなのだ。

 

戦争と文明(その16) 「国家」について

 

どの本に書いてあったのかは忘れてしまったが、こんな話がある。何年か前にある人が、何ヵ国かを対象としたアンケート調査を行った。設問は、次の通りである。

 

人類にとって、最も重要な哲学書は何か?

 

結果として、堂々の第1位に輝いたのは、何とプラトンの「国家」だったそうだ。2400年も前の古代ギリシャの時代から今日に至るまで、人々は国家について考え続けているのである。ただ、プラトンが思索した国家とは、ポリス(都市国家)と呼ばれる少人数の集団であって、近代国家ほどの規模は有していない。

 

では、国家とは何か、一体、どうあるべきなのか。未だに人類は、その答えに到達していない。米国では、銃の乱射事件が相次ぎ、人口妊娠中絶の是非について、激しい対立が続いている。イランは、女性の髪を被うヒジャブの是非で対立が激化している。フランスでは、NATOに加盟しているが故に軍事費が高騰し、物価高に苦しむ庶民がNATOからの脱退を求め大規模なデモを繰り広げ、警察官はデモ隊に対してこん棒を振り上げている。芸術大国のフランスでも、この程度なのだ。英国はEUを脱退したようだが、相変わらずスコットランドの独立問題がくすぶっている。

 

哲学者の西谷修氏は、国境について、こう述べている。

 

- アフリカの利権をめぐって、ヨーロッパの後発国であるドイツ・イタリア・ベルギーと、イギリス・フランスとの対立や衝突が深まります。それを調整するために、1884~1885年、ドイツのビスマルク首相の提唱によりベルリン会議が開かれ、西洋列強による「アフリカ分割」が決定されました。アフリカの国境線の一部がいまも直線なのは、そのときヨーロッパ諸国が机上の地図に線を引いて分割した結果です。アフリカ諸国は現在もその結果に苦しめられているのです。(文献1) P. 55 -

 

確かに、国境によって人々は苦しめられているのだろう。例えば、お隣の朝鮮半島を見れば分かる。戦争の結果、戦勝国が38度線を設けた。そして、国境の南北に民族や親族が分断され、今日に至っても軍事的に対立しているのである。

 

そもそも、国家というものがあるから、国同士の戦争が起こるのだ。そのような考え方もあるだろう。しかし、本当にそうだろうか。もし、日本という国家が存在しなかったならば、私たちの社会はどうなるだろう。

 

統一教会が飛躍的に普及し、「天の父母様が~」などと学校で教えるようになるかも知れない。女性たちは合同結婚式で、海外の貧しい男性と強制的に結婚させられ、悲惨な人生を送る。自衛隊は米軍の支配下に置かれ、米国のために命を捧げる。経済的にはGAFAに支配されるに違いない。やがて、日本語は使用禁止となり、英語が公用語となる。憲法もあらゆる法律も、全て英語が原本となる。国会も、裁判も、英語で行われるだろう。英語を理解できない人々は、あらゆる権利を放棄させられるのだ。また、日本語を失えば、私たちの歴史や文化、それらに裏付けられたアイデンティティも消失するだろう。

 

氏族や民族、宗教団体が自然発生的な集団であるのに対し、国家はあくまでも人為的に作られた集団なのだ。だからこそ、危うさを持っている。実際、近年のグローバリズムは、国家という枠組みを脅かしている。例えば、宗教、イデオロギー、科学、経済などは、国境と無関係に世界を股にかけて普及、流通しているのだ。

 

私たちは、一体、どこを目指せば良いのだろう? 私は、国家という枠組みを死守すべきだと思う。無限に広がる空間に線を引く。これは私たちが何かを認識し、思考するためには必要不可欠な限界設定であるに違いない。(限界設定・・・相撲は土俵の上で、野球は野球場という限られた空間の中でしか、成立しないという話。人間の認識能力は、設定された限界の中でしか機能しない。これは学説ではなく、私の意見。)

 

上記のような考え方は、国家主義なのだろうか。一般に国家主義と言えば、それは全体主義であって、お国のために命を投げ出せ、という戦争礼賛主義を指す。私が主張しているのは、その正反対のことである。あくまでも正義を求め、平和を希求し、人々の人権を尊重する国家を作ろう、ということなのだ。このように最初に考えた人は、トマス・ホッブズ(1588-1679)かも知れない。国家とは海獣リヴァイアサン)のようなものだ。巨大な力を持っているので、これを制御することは極めて困難である。制御することに失敗すれば、国家は国民に召集令状さえも交付する。しかし、諦めてはいけない。この海獣を制御することによってしか、人類は文明化を果たすことができない。

 

(参考文献)

 文献1: ロジェ・カイヨワ 戦争論西谷修NHK出版/2019

 

戦争と文明(その15) 「正義」について

 

リベラルと言えば、それは自由主義思想を指していると思っていたが、必ずしもそうではないらしい。法哲学井上達夫氏は、次のように述べている。

 

- 私は、「リベラルの基本的な価値は自由ではなく正義だ」という趣旨の基調論文を書きました。それが私のリベラリズム理解です。無理に日本語にするなら、「正義主義」とでも言った方がいい。-

 

なるほど。そう考えた方がしっくりくる。しかし、では「正義」とは何か。「正義」という言葉を聞いて、「暴走するトロッコ」の話を思い出す人もいるのではないか。

 

何の本で読んだのかは忘れてしまったが、「暴走するトロッコ」について、私は次のように記憶している。

 

コントロールを失ったトロッコが、急な斜面を猛スピードで駆け降りてくる。このまま行くと、トロッコの先にいる7人の人間が死んでしまう。あなたは、トロッコと7人の中間地点にいて、あなたの目の前には線路の軌道を切り替えるレバーがある。あなたがそのレバーを引くと、トロッコは進路を右に変更する。しかし、その場合、線路の先にいる別の5人が死ぬことになる。さて、あなたは軌道を変更させるそのレバーを引きますか、という問いなのだ。

 

レバーを引けば、犠牲者の人数を2人減らすことができる。従って、そうすることが正義なのだ。しかし、アンケートの結果、レバーを引くと答えた人の割合は、そうでない人よりも少なかった。

 

この場面設定には、無数のバリエーションが存在する。例えば、トロッコが直進した場合に死亡する7人の中に、あなたが愛して止まない恋人がいたとしよう。あなたは、それでもレバーを引きませんか、といった具合に。これは難しい設問であって、私などは、ほとんど回答不能になる。

 

このように考えると、「正義」とは何か、それは分からないことになる。

 

しかし、この論議は何かおかしい。では、「正義」とは、この世界に存在しないのか。そんなことはない。例えば平和主義は、「正義」ではないのか。人々の生存権を尊重し、無用の殺戮を回避し、知性に基づいて紛争を解決する。それが平和主義の骨子だ。平和主義とは正義なのだ、と私は思う。

 

そもそも、「暴走するトロッコ」の話は、あまりにも非現実的である。実際にそのような場面に出くわした人など、皆無であるに違いない。また、この話は個人の領域に関わる話であって、他方、平和主義とは国家の領域に該当するのだ。つまり、文明には様々な位相、領域があるのであって、「正義」とは国家の領域に存在するものだと考えるべきではないか。

 

野蛮から、文明へ。未成年の状態から成人へ。つまり、個々人や我々の文明は、成長することが必要なのだ。それができれば、戦争も回避できるに違いない。簡略化して、A地点からB地点への移動だと記述することにしよう。この移動には、3つの要素が必要だと思う。

 

まず、A地点に安住している人は、動き出さなければならない。これには相当なエネルギーが必要となる。「よっこらしょ」と重い腰を上げなければならない。そのためのきっかけは、いくつかあるだろう。何となく生きづらさを感じたり、何らかの挫折を経験したりすることが、思考し始めるきっかけになる場合もあるだろう。あるいは、優れた芸術に接することによって、目覚める人もいる。思想史的に言えば、文化人類学がその契機となったようにも思う。文化人類学は、主に無文字社会のアルカイックな人間の生態を研究する学問だが、その成果によって、現代人には思いもかけぬ発想なり、慣習の存在することが明らかになった訳だ。すると、それまで当たり前だと思っていたことが、必ずしもそうではないことに現代人は気付かされたのである。換言すれば、文化人類学は現代文明を相対化してみせたのだ。

 

次に、A地点からB地点へと移動するためには、その移動を支える力が必要となる。その力を表わすために、私は「知性」という言葉を選択した。言うまでもなく、昨今の反知性主義に対するアンチテーゼである。反知性主義は、米国の、マスメディアの、権力者の策略だと思う。そんなことに騙されてはいけない。

 

最後に、正しい方向へと移動するためには、目指すべき地点を定める必要がある。その方向性を指し示す用語として、私は「正義」という言葉を選択することにした。「正義」とは何か。それは国家レベルの領域に存在するもので、平和主義や基本的人権の尊重など、日本国憲法に定められている概念を、例として挙げたい。

 

きっかけ、知性、正義。この3条件が充足されれば、きっと人間は成人できる。成人した人間の集団は、国家の文明化を果たすことができる。今のところ、本当に文明化された国家を私は知らないが、それを果たすことができれば、人類は戦争という大禍を回避することだってできるに違いない。

 

戦争と文明(その14) 「知性」について

 

今に始まったことではないが、世の中、右を見ても左を見ても、反知性主義で満ち溢れている。戦後、GHQが採用した日本人に対する3Sと呼ばれる愚民化政策が功を奏しているのだろう。そればかりではない。統一教会は、米国のCIAが日本に投下した毒饅頭ではないのか。最近、私は本気でそう思っている。また米国は、日本人のみならず米人に対しても同様の愚民政策を講じているに違いない。権力者にとって、思考しない愚民は都合がいい。

 

この問題、政治学者である白井聡氏が面白い指摘をしている。本稿で参照するのは同氏の著作、「主権者のいない国」(文献1)である。1つ目の指摘は、「自由からの逃走」である。

 

- ファシズム分析の古典として名高いエーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』によれば、自由と理性が拡大する時代であるはずの近代において、権威主義への傾倒が生ずる理由は、近代的自由の裏面には「寄る辺のなさ」「孤独」があるからだという。すなわち、前近代的な拘束からの解放こそが近代的自由の核心であるわけだが、それはそのまま、社会のなかに個人が裸で投げ出され、不安にさいなまれることを意味する、という。

 拘束を含みつつも各人に確実な居場所を与える前近代的な人間関係をフロムは「第一次的絆」と呼んだが、これが失われることによる不安は、経済不況や産業構造の転換、敗戦等の社会的混乱の際に極大化し、それがある水準を超えてしまうと、人々は近代的な自由を自ら進んで投げ捨てて権威に服従することに偽の安心を求めるようになるのだ、と。(文献1) P. 60 -

 

なんとも皮肉な現象だが、これは近代化の影響を強く受けている人々において、顕著なのではないか。すなわち、老人よりも若者、地方よりも都会で顕在化する現象なのだろう。

 

白井氏はまた、反知性主義者が「文化的エリート」を嫌悪する理由についても説明している。

 

- (前略) この憎悪の原因を、人類学者のデヴィッド・グレーバーは、著書『ブルシット・ジョブ』で、経済格差よりも実は文化資本格差の方が乗り越え困難であることに求めている。すなわち、大衆は運よく大金持ちになることはあり得ても、文化的エリートになることはできないのだ、と。だからリベラルなインテリは、「普通の人」にとって絶対に手の届かない地位を占めながら、かつ同時に道徳的な正しさまでも標榜している、度し難い特権者として憎悪されるのである。(文献1) P. 82 -

 

上記の「文化的エリート憎悪論」は、若者よりも老人、都会よりも地方において顕著に表れる現象だと思う。

 

このように考えると、居住地が都会であろうと地方であろうと、また、年齢層が高齢であろうと若者であろうと、大半の日本人が権威に依存し、右翼ポピュリズムに陥る危険を持っていることが分かる。まったくもって、絶望的な気分になるが、白井氏は次のようにも述べている。

 

- この荒廃を前にして絶望することは、知性の敗北を意味する。(中略)私たちが必要としているのは、反知性主義の起源(から)とその向かう先を正確に見透かす知性と、眼の前の権力ではなく歴史の審判を恐れるという倫理である。(文献1) P. 83 -

 

その通りだと思う。絶望してはいけない。それは弱虫のすることだ。

 

さて、戦争を回避し、平和を維持したいと思う訳だが、そのために達成すべき目標は、2つあると思うのだ。ウクライナ戦争を例に考えてみよう。まず、私たちは、プーチンのような独裁者を作って、ロシアのような加害国になってはいけない。この点は、憲法9条を守れという左派の意見が有効だろう。しかし、それだけで目標が達成される訳ではない。私たちは、ウクライナのような被害国にもなりたくはないと思っている。多くの日本人は、むしろこの点を重視しているに違いない。戦争が勃発しないように抑止力を強化すべきだという意見の根拠もこの点にある。しかし、今更日本がいくら防衛装備を強化しようと、仮に核武装をしたとしても、当面のリスク対象国である中国に勝てる見込みはない。そうしてみると、私たちが目指すべき目標は、戦争を回避するということ以外にないのである。では、どのように戦争を回避するのか。それは、外交である。

 

では、どのように外交を進めれば良いのか。そこで必要になってくるのが、知性ではないだろうか。例えば、モースの贈与論を参考にして、何らかのプレゼントを交換するという方法もある。相手国の歴史や文化を尊重することも重要だ。仮に相手国が日本を非難するようなことがあったとしても、そこは日本の方が大人になって、それを受容するだけの度量が必要だろう。やがて氷は溶けるに違いない。つまり、知性の力で相手国を上回るのである。

 

日本は世界で唯一の原爆被害を受けた国だし、世界的に見ても極めて稀な戦争放棄憲法に謳った国なのだ。平和国家としての思想を確立し、そのことを繰り返し世界に向けてアピールする。そうすれば国際世論だって、やがては日本に味方をするに違いない。第2のスイスを目指す。そういう方法だってある。

 

また、他国の政治に干渉しないということも大切だと思う。自分のすることにいちいち干渉してくる人がいれば、それは不愉快だろう。国家同士の関係にも、同じことが言える。他国のすることに干渉してはいけない。確かに、世界には酷い国があって、文句をつけたくなる。しかし、日本を良い国にできるのは日本人なのであって、中国を良い国にできるのは、中国人だけなのだ。その原則を無視して、他国に干渉すれば、最終的には戦争へと向かうことになる。

 

万が一、中国が台湾に軍事侵攻した場合でも、日本はそのことに関わるべきではない。台湾の人には申し訳ないが、日本はただ、人道支援を行えば良いのだ。夏目漱石個人主義になぞらえて言えば、「個国主義」ということになる。

 

国家としての知性を磨く。気の遠くなるような作業だが、平和を希求する限り、それはどうしても必要な作業だと思う。

 

(参考文献)

 文献1: 主権者のいない国/白井聡講談社/2021

戦争と文明(その13) 日本が抱える戦争リスク

 

日本はどのような戦争リスクを抱えているのだろう。

 

ロシアがウクライナに侵略した直後、ロシアは北方領土で3千人規模の軍事演習を行った。そのことから、ロシアが北海道に攻めて来るのではないかという論議があった。しかし、ロシアは既にウクライナ戦争で疲弊しているし、国内の厭戦ムードも高まっている。北海道に攻め入るだけの戦力をロシアが温存しているはずがない。

 

次に、北朝鮮の問題がある。北朝鮮は、着々と核兵器の開発を進めているし、それを搭載するミサイルの発射実験も繰り返している。これは、とても厄介だ。しかし、北朝鮮が見ているのは第1に米国であり、第2に韓国だろう。何しろ、朝鮮戦争は休戦状態にはあるものの、未だ終結はしていないのだ。解決の糸口は見えないが、北朝鮮を巡る戦争において、日本が主要なプレイヤーになる必要はない。

 

残るリスクは、米中対立を背景とした台湾有事である。専門家である田岡氏の説は、次の通りである。(詳細は、次のYouTube番組にて。残念ながら田岡氏は活舌が悪く、聞き取りにくい。また、番組途中で田岡氏は在日中国人の数を7百万人と言っているが、訂正することなく、数分後には70万人と述べている。70万人が正解。)

 

台湾有事 引き起こすのは誰か【田岡俊次の徹底解説】20220920 - YouTube

 

中国は歴史上の経緯からして、台湾を独立国家としては認めていない。いつかは、統一する意向を持っている。但し、現在、中国は台湾と強い経済的な結びつきを持っており、軍事的な侵攻を行うとは考えられない。一方、台湾市民もその8割以上が現状維持を望んでおり、特段、中国からの独立を目指している訳ではない。

 

しかし、米国の意向は異なる。そもそもアジア人を蔑視している米国は、中国の経済的な台頭が気に入らない。中国のGDPが米国のそれを超えるのは、時間の問題だと言われている。そこで、米国は中台問題に介入しようとしている。実際、米国は台湾近くの海域に空母を派遣したり、国会議員団を台湾に派遣したりするなど、中国の嫌がることを繰り返している。また、米国内での選挙では、中国に対し強硬な姿勢を示した政治家が有利となる。そこで米国は、台湾における軍事的な緊張を高め続けるのではないか、という見立てなのである。

 

何らかの出来事があって、台湾若しくはその近郊で軍事衝突が起こった場合、日本は必然的にその戦闘に巻き込まれてしまう。そのシナリオは2つある。米軍の艦船や戦闘機は、沖縄をはじめとする在日米軍基地を拠点としており、これらの基地が中国から攻撃を受ける可能性があるのだ。また、米軍が中国から攻撃を受けた場合、米軍は「少しは協力しろよ」と自衛隊に命令し、自衛隊はその命令に従わざるを得なくなるのである。そのための日本における法整備は、2015年に安全保障関連法案(別名、戦争法案)として、既に、完了している。日本が米軍に加担した場合、それは日中間の開戦を意味する。

 

悪いことは、更に続く。ベトナム戦争などの過去の事例からして、米国は5年も戦争を続けると、国内で厭戦気分が沸き起こる。そこで、戦争を止めようという世論が強くなり、その方向で主張した政治家が有利となる。そこで、米国は後方へ引き、日本が戦争の矢面に立たされるというのだ。

 

田岡氏が示す上記のシナリオには、現実味があるように思う。

 

勢い、日本国内ではやれ核共有を検討せよとか、軍事費を倍増せよという議論が沸き起こっているのだ。つい先日も保守系YouTuberが、だから軍備を拡張せよ、それがリアリズムだと述べていた。

 

そうだろうか?

 

ここは冷静に、考えなければならない。そもそも、そんな戦争をして、日本に勝ち目はあるのか、ということだ。私は100%、日本が負けると思う。中国の軍事予算は、日本の倍以上である。そんな状態が、既に何年も続いている。GDPだって、既に日本は中国に抜かれている。軍事力、経済力共に、日中の格差は拡大する一方なのだ。今更、日本が軍事費を倍増しようが、中国にかなう訳はない。仮に、日中が互いに1億2千万人ずつ殺害したとしよう。すると日本人は、ほぼ、壊滅する。他方、中国にはまだ13億人以上が生き続けることになる。日本は絶対に中国には勝てない。これこそがリアリズムなのである。

 

上記のような最悪のシナリオを回避するために日本の政治家がなすべきことは、米国に自制を求めると共に、中国側には平和的なメッセージを送ることであろう。しかし、それができる政治家が、日本にいるだろうか? とりわけ与党の中にそれだけ根性の座った政治家はいるだろうか。はなはだ疑問だと言わざるを得ない。何しろ、米国のご機嫌を損ねた政治家は、必ず政治生命を失うと言われているのである。とりわけ、米国は次の3点を許さないと言われている。

 

在日米軍基地の縮小に関すること。

・日本が中国と仲良くしようとすること。

・日本が保有する米国債の売却に関すること。(日本は米国の国債を1兆ドル以上持っている。これを売ろうとすると、米国は激怒する。)

 

結局、米国が日本を守ってくれるなどということは、幻想なのだ。米国は、米国の利益のためだけに判断を下す。それは個人においても同じことが言えて、親や教師が子供たちの利益を考えてくれるというのも幻想なのではないか。自分の利益は、自分で考えるしかない。換言すれば、自分の頭で考えない限り、国も個人も、その利益を確保することはできないのである。