文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

虚脱感と共に過ごす日々

 

大分涼しくなってきたが、一向に意欲というものが湧いて来ない。ということは、私の“ヤル気”が消失した原因は、夏バテではなかったのである。前回、原稿をアップしてから、早くも1か月が経過してしまった。私の精神状態が危機に瀕しているのかという問題は別にして、少なくともこのブログが存亡の危機にあることだけは確かだろう。

 

このブログを始めたのは2016年だから、かれこれ7年も続けてきたことになるが、前回の原稿「構造と自由」において、私の思想は、一応完成したのである。文化人類学から出発して、ユング、パース、フーコーなどの思想を経由し、オリジナリティー溢れる文明論に至ったのだ。それが、このブログの経緯である。当初、私は何も知らなかった訳だが、現在の私は、多くの疑問に答えることができる。

 

文明の起源は、原始宗教にある。原始宗教の構成要素は、呪術、祭祀、神話の3つである。やがて人々は文字を発明し、文字による幻想を生み出した。それが宗教だ。従って、宗教の本質は幻想にある。やがて、宗教から個々の要素が分岐し、近代芸術が生まれた。その経緯の典型は、ルネッサンスに見ることができる。私たちが今日、芸術として認識しているのは、主にこの近代芸術だと言っていい。

 

但し、今日の文明を形作っているもう1つの流れがある。人々は、呪術や経験の蓄積を経て、科学を生み出したのである。科学は様々な商品と共に、武器を開発し続けている。武器の歴史は、単純な刀や弓から始まり、やがてマスケット銃が発明される。それが大砲となり、原爆につながる。科学が生み出した兵器は、権力を強化し、増長してきた。科学は、今日のグローバリズムの基礎をなしているに違いない。やがて権力は、自らの保身、延命を図るために、幻想を生み出す。例えば、原発安全神話など。このように科学を基礎とする権力もまた、幻想に依存している。権力者は自らの権力を維持する目的で、往々にして、戦争を始める。幻想に依存しているという点において、宗教と科学は同質なのである。

 

私たちが見ている何か、信じている何か、それは真理とは程遠い幻想なのかも知れない。そう疑ってみることが必要なのだ。そう考えるのが哲学で、それは古代のギリシャ哲学から、ポストモダンミシェル・フーコーにまで一貫した主張なのだと思う。私は、この立場を支持している。

 

そして、上に記したような文明の構造を明らかにしようと試みたのが、先の原稿「構造と自由」なのだ。よくぞここまで来たものだ。私は、私を誉めてあげたいと思う。

 

人が何らかの原稿を書く動機は、疑問である。分からないことがあるから、それを何とか明らかにしよう、考えを整理しようと思って、人は原稿を書くのだ。そうだとすると、私には疑問というものがなくなってしまったのかも知れない。若しくは、疑問を設定する意欲が失われてしまったのかも知れない。

 

本当にそうだろうか? 私に残された最後の問いというものが残っているのではないか?

 

それはつまり、人間は幻想を脱することができるのか、という問いである。

 

この問いに対しては、3つの回答が考えられる。1つ目は、幻想を脱することができる、というもの。しかし、そう答えるのであれば、その方法を提示すべきだと思うが、私にその能力はない。イスラエル戦争さえ、始まってしまった。それが現実である。

 

2つ目の回答案としては、人間は幻想から脱することができない、というものである。そう言ってしまうと、絶望しかないことになる。仮にこの案を採用した場合、哲学の歴史自体が無意味なものとなってしまうし、私がこの7年の間、考え続けてきたことにも意味はないことになる。

 

3つ目の案としては、人間が幻想から脱することは困難だが、永遠にその努力を続けるべきだ、とするもの。先の原稿「構造と自由」の結末において、私はこの案を採用したし、実は、日本国憲法の第12条にも、同様の記載がある。

 

12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。

 

憲法に「永遠」という記載はないが、文脈から察するに、日本国民には永遠に努力することが要求されているに違いない。しかし、そんなことが可能なのか、私はその答えを持ち合わせていない。

 

私は、何とかこのブログを継続したいと思っているが、このような状況にあり、思いあぐねているのである。そして、虚脱感と共に無為な日々を過ごしているのだ。

 

構造と自由(その12) まとめ

 

前回の原稿をアップしてから、3週間以上が経過してしまった。その間、私の思考が停止していた訳ではないのだが、とにかく、何もする気が起こらなかったのである。もしかすると、老人性のうつ病ではないのか。そう思って、先日、散髪に出かけた際、試しに言ってみたのである。

 

私 ・・・どうも最近、何もする気が起こらない。

床屋・・・みんな、そう言ってますよ。

 

どうやら、みんなヤル気が起こらないらしい。ということは、私も単なる夏バテに見舞われているのかも知れない。

 

さて、「構造と自由」と題してお送りしてきたこのシリーズ原稿だが、そろそろ、まとめようと思う。他にも興味深いタイトルは思いつくのだが、これ以上進めると収集がつかなくなりそうな気がする。

 

まず、私の歴史観から。大きな流れで見ると、まず、身体に関わる営みがある。生活と言っても良い。文化と言っても良い。そこから文明は出発したのである。次に、身体を否定する形で、「知」が誕生する。この「身体を否定する」ということを具体的に言うと、断食とか禁欲という営為を挙げることができる。「知」には、呪術的なもの、宗教的なもの、そして科学的なものまで、様々なバリエーションがある。やがて、「知」は権力を生み出す。権力は必然的に腐敗し、そして暴走する。従って、強い権力を基軸に置いた文明や勢力は、いつか必ず崩壊する。ローマ帝国だって滅んだし、ナチスも崩壊した。そして今、米国の権力構造さえも、その土台が揺れている。そこで、権力に対抗する反対概念として、主体を措定することになる。これは権力を外側から観察する個人のことで、自らの意思を発動する者を指す。単純に考えると、この主体に目覚めた人間が過半数に達すれば、その集団や国家は成長し、危機を回避できる訳だ。そう考えると、文明論の観点から言えば、日本はとても遅れていることになる。但し、そのような国家、すなわち過半数の国民が主体に目覚めているような国家を、私は知らない。

 

次に、「知」と権力と幻想の関係について。「知」が権力を生み出し、権力が幻想を作り出す。幻想は権力を更に強化するのであって、権力と幻想とは、共犯関係にある。原子力を例に説明しよう。原爆に関する技術、すなわち「知」は、米国が発明した。マンハッタン計画である。そして、原爆を手にした米国は、世界を席巻する権力を手に入れた。そこで米国の権力者は様々な幻想を作り出したのである。広島と長崎に原爆を投下したのは、戦争を終わらせるために必要な手段だったのだとか、核兵器のバランスによって、平和が維持されるというような詭弁が、世界を侵食したのである。近年では、比較的威力の小さな戦術核というものが開発されていて、ロシアがウクライナに対しそれを使用するリスクが指摘されている。核技術の平和利用という名目で出発した原発にも同じことが言える。権力者たちは原発安全神話を喧伝してきたが、福島第一原発ではメルトダウンが起こった。今度はALPS処理水を海洋投棄すると言う。これを汚染水と呼ばないよう、国を挙げての同調圧力が加えられているが、本当にそれは安全なのだろうか。私が1つ確実だと思っているのは、東電や国の説明が不十分だということである。それは、保守系のテレビ番組も同意している。これだけのことを実行するのに、説明が不十分であるということは、東電や国は何かを隠しているに違いない。説明が不十分なのではなく、説明不能であるに違いない。

 

話を戻そう。人は集団を作らないと生きていけない。そして、集団の中には必然的に権力が生まれる。権力を持った者は、幻想を作り出す。集団のメンバーは、権力者たちが作り出した幻想を信じるように洗脳される。こうして、人間は、必然的に幻想の中で生きるようになる。この考え方は、例えばプラトンが提示した「洞窟の比喩」に奇しくも合致する。薄暗い洞窟の中で、人間は手足を拘束されながら、洞窟の壁に映し出される影を見て、それを実体だと勘違いしながら生きて、やがては死んでいく。

 

多くの人々は、幻想の中でしか生きられない。彼らにとっては、それが宿命なのかも知れない。プラトンが生きた、古代ギリシャがそうだった。日本の平安時代に生きた貴族たちは、怨霊を恐れた。現代の日本においても、多くの人々は死後の世界が存在すると思い、日本は米国の核の傘に守られていると信じ、汚染水を処理水と呼ぶ。

 

しかし、幻想の外に出よう、真理を発見しようと試みる人がいなかった訳ではない。ソクラテスがそうだった。そこから哲学、とりわけ認識論の歴史が始まったのだ。大変困難な試みだが、これ以上に大切な思想は、存在しないのだと思う。

 

最後に、私が出した結論を述べよう。

 

まず、人間は構造の外に出ることができない、ということ。人間が集団で生きている限り、そこには必然的に権力が生まれる。権力が存在する限り、文明の基本的な構造を変えることはできない。そして、個人は文明の中でしか、生きることができない。

 

では、人間に自由は存在しないのか、という問題がある。但し、そもそも自由とは、獲得すべきものであって、与えられるものではない。そして、自由を獲得しようとする領域は、幸い、構造の中に含まれている。端的に言えば、芸術と哲学である。芸術とは、人々に活力を与え、人々が何かを思考し始めるきっかけとなる。クルマに例えるならば、芸術とはエンジンのようなものだと思う。そして、何をどのような方向で考えるべきか、それを示すのが哲学ではないか。クルマに例えるならば、哲学はハンドルの役割を持っている。

 

構造の中にあって、それでも幻想を捨てようと試み、自由を希求する。それが人間のあるべき姿ではないか。

 

 

※「構造と自由」と題してお送り致しましたシリーズ原稿は、本稿をもって完了と致します。お読みいただきました皆様、有難うございました。

 

構造と自由(その11) 権力とは何か

 

権力とは、他者の意思に反して、当該他者を拘束し、支配しようとする力のことである。権力は、個人的なレベル、中間集団のレベル、国家のレベルにおいて、それぞれ存在する。権力の主要な構成要素は、暴力(軍事力)、経済力、思想(統制力)の3つである。

 

権力は、「知」によって生み出される。権力を生み出す「知」には、呪術的なもの、宗教的なもの、伝統的なもの、自然科学によるものなど、様々なバリエーションがある。但し、哲学上の「知」は、権力に反対し、若しくはそれを制限しようとするものである。従って哲学の本質は、反権力、反秩序だと言える。

 

また権力は、「知」に通じた内部者が作り出し、それに頼ろうとする依存者によって増幅される。

 

権力や秩序は、人間社会に必要なものだ。例えば、ドロボーを取り締まる警察権力がなければ、社会秩序を維持することはできない。しかし、権力は常に腐敗し、暴走する。そして、権力を持った者は、過去、幾度となく戦争を始めてきたのである。

 

権力は「知」によって生み出されるのではあるが、究極的なことを言えば、それらの「知」は全て真理とは程遠いのである。幻想と言っても良い。例えば、現在、日本の権力者は岸田という人である。選挙で選ばれたのだから、彼は正当な権力者だと考える人がいるかも知れない。では、彼を選出した日本の選挙制度は、正しいものだろうか。国政選挙に立候補するためには、多額の供託金を納めなければならない。つまり、この時点で貧乏人の被選挙権は制限されているのだ。更に、国会運営は正しくなされているだろうか? そこで、政治家や官僚たちは、国民に伝えるべき情報を正しく伝えているだろうか。もちろん、答えはNOだ。

 

かつて、欧州には王権神授説というものがあった。王様の権利は、神が授けたものだという説である。しかし、本当のことを言えば、神などどこにも存在しないのである。つまり、王権神授説とは、幻想に過ぎないのである。

 

世の中には、権力を持ちたいと願う者が、後を絶たない。そして、秩序を構築するために、権力は必要悪だとも言える。そこで、人類は永年に渡って、権力を正当化しようとする努力を重ねてきた。民主主義ですら、その試みの1つに過ぎない。しかし、未だかつて人類は、権力を正当化できる真理、「知」というものに辿り着いた試しがないのである。その基盤とする「知」が幻想なのだから、その上に成り立つ全ての権力も、幻想に過ぎない。

 

では、腐敗し暴走しようとする権力に対抗するにはどうすれば良いのだろう? 権力は暴力(軍事力)、経済力、思想(統制力)によって構成されているのだから、それらのうちのどれかを、若しくは全部を否定することができれば、権力に勝つことが可能となる。暴力(軍事力)の分野で権力に勝とうとすれば、それは暴力革命若しくは戦争となる。しかし、それでは誰かの人権が侵害されることになる。経済力か? 既にガチガチに凝り固まった既得権者を防御するシステムに対抗するのは、至難の業だ。残るは思想(統制力)しかない。これとて、困難を極めることに違いはないが、結局、それしかないのではないか。

 

歴史の中から、2つの例を提示したい。

 

アメリカの独立宣言(1776)。ここには、示唆に富んだ立派なことが書かれている。では、この思想はどこから来たのか。それはジョン・ロック(1632-1704)の哲学から来ているのだ。

 

フランスの人権宣言(1789)。ここにも素晴らしいことが書かれている。この思想は、どこから来ているのか。それはジャン・ジャック・ルソー(1712-1778)の哲学に由来している。

 

戦争リスクと経済危機の時代にあって、私たちは明るい未来を切り開けるだろうか? 仮にその可能性があるとすれば、それは思想、哲学の力によって、権力に対抗する以外に方法はないように思える。

 

構造と自由(その10) 米国の凋落が意味すること

 

最初に、米国の権力構造について、所感を述べておきたい。米国は、世界一の軍事大国であり、世界最強の軍部を保有している。そして、米軍は兵器の製造会社によって支えられている。米軍と兵器製造会社は密接な関係を持っていて、米国の政治を動かすだけの力を持っている。このグループは、一般に「軍産複合体」と呼ばれる。しかしながら、そこに学術部門も連結しているらしい。学術部門を加えた場合、それは「軍産学複合体」と呼ばれる。この学術部門は、一般にシンクタンクと呼ばれる集団を指すのだと思う。更に考えると、兵器製造会社には株主がいる訳で、彼らは巨大な資本家であるに違いない。具体的にそれが誰なのか私は知らないが、一応、彼らを国際金融資本と呼んでも差し支えなかろう。「軍産学複合体」にこの国際金融資本をプラスすると、米国における実質的な権力者の姿が浮かび上がってくる。彼らについては、エスタブリッシュメントまたはDeep State(以下“DS”)と呼ぶのが適切ではないか。

 

DSを和訳すると「国家内国家」だとか「地下国家」ということになる。

 

ちなみに「DSは陰謀論者が唱えている妄想に過ぎない」とする説があるが、この説を流布しているのはDS自身であるとする説もある。

 

DSは日本にも多大な影響力を持っていて、そのせいで日本は国民の血税を使って、オスプレイ(未亡人製造機)やトマホークなど、米国で不要になったポンコツ兵器を買わされている。日本は米国からATM代わりに使われているのが実態だ。

 

さて、国家レベルの権力の構成要素は軍事、経済、思想(統制力)の3つである、というのが私の意見である。その順に従って、米国が何故、凋落傾向にあるのか、その理由を探ってみたい。

 

まずは、米国の軍事力から。

 

第2次世界大戦中にマンハッタン計画というのがあって、米国は世界で初めて、核兵器の開発に成功した。この時点で、米国の軍事力は突出していたに違いない。その後、核兵器の製造技術は拡散し、現在では、米国に加え、英国、ロシア、フランス、中国、インド、パキスタンイスラエル北朝鮮の合計9か国が核弾頭を保有している。つまり、核兵器保有国が増加したことにより、米国の軍事力は相対的に低下したと言える。ちなみに、核弾頭の保有数は、次の通りである。(Bing調べ)

 

米 国・・・ 3,750発

ロシア・・・ 5,977発 (実戦配備数は1,456発)

中 国・・・   350発

 

上の数字を見ただけでも、ロシアが如何に軍事大国であるのか、理解することができる。現在、そのロシアと戦っているのがウクライナだ。ウクライナ戦争が始まって、早くも1年半が経過したが、その先行きは一向に見えて来ない。ウクライナにはNATOが武器を供与しており、この戦争はロシア対NATOの対立を浮き彫りにしている。(止せばいいのに、日本はNATOに接近を試みている。)

 

私は、道義的な観点から、ウクライナの領土奪還と戦争の早期終結を切に願っている。しかし現実には、戦争の長期化、泥沼化が続くような気がしてならない。そうなるとNATOに支援疲れが生ずるかも知れない。最早、米国には世界の警察を名乗るだけの軍事力は残っていないのだ。そもそも、軍事力によって他国を支配しようとする考え方自体が陳腐化しているのであって、今日の国際社会では通用しなくなっているに違いない。

 

次に、米国の経済力について考えてみよう。話は1945年に遡る。この年、米ドルが国際基軸通貨として定められた。但し、そうするためには米ドルの信用を担保する必要があり、米ドルは金本位制を採用することになった。表向きはそういうことなのだが、この取り決めには裏があった。つまり、原油の取引などには必ず米ドルを用いなければならないとする暗黙の規制を伴っていたのである。産油国以外の国々は、どうしても原油を輸入する必要がある。そのためには米ドルを取得しなければならない。そこで、米ドルを取得するために多くの国々は、米国への輸出を強制された。

 

米ドルに対する需要は、高まる一方だ。そこで米国は、大量のドルを発行することになる。具体的には米国政府が国債を発行し、これを中央銀行FRB)が購入する。この仕組みは打ち出の小槌のようなもので、米国はただ米ドル紙幣を大量に印刷し、その米ドルによって、世界中から資源や商品を購入できたのである。米国民は贅沢の限りを尽くし、米軍は大量の兵器を購入することができた。

 

その勢いは止まらず、遂に米ドルの発行高は金によって裏付けることが困難となった。そこでニクソン大統領は、米ドルの金本位制を廃止した。1971年のことだった。(金本位制を維持できなくなったのだから、その時点で米ドルは国際基軸通貨としての地位を失っても良さそうなものだが、現実には、米ドルはその地位を今日に至るまで維持している。)

 

1970年代から1980年代に掛けて、米国の自動車産業の衰退が顕著となった。そこで米国は金融技術を駆使して、新たな需要を掘り起こそうとした。しかし、それも2008年のリーマンショックで、ブレーキが掛かったように見える。その後米国は、ITに活路を見出したが、既にその動きも鈍化している。

 

2002年にEUがユーロを流通させ始めると、相対的に米ドルのニーズは低下した。2003年にはイラク戦争が勃発したが、その理由について、当初米国は、イラク大量破壊兵器を開発しているのでイラクを攻撃する、と主張していたが、結局、大量破壊兵器は発見されなかったのである。米国がこの戦争を始めた本当の理由は、イラクが米ドル以外の通貨で石油の取引を試みたことが原因だ、とする説もある。米国が仕掛けたイラク戦争は、明らかに誤りだった。そして、この戦争におけるイラク側の死者数は18万9千人に上ると言われている。何の罪もないイラクの人々が、米国に虐殺されたのだ。

 

最近では、ロシアから欧州へと天然ガスを供給するためのパイプライン、ノルドストリームが破壊された後、プーチンは欧州諸国に対し「天然ガスが欲しければ、ルーブルで取引をしろ」と主張した。また、中東諸国においても、中国の人民元による原油の取引が開始されている。米国にそれらの取引を停止させるだけの力は、残っていない。

 

米国経済の構造を考えると、まず、大量の国債発行がある。贅沢をし、大量の兵器を購入し続けるために、米国は国債発行を止める訳にはいかない。結果として、大量の米ドルがばら撒かれることになる。すると、貨幣の価値が下がるので、インフレが起こる。実際、米国における2021年のインフレ率は7.1%となっている。これを放置すると、米ドルの信用は下落すると共に、為替市場においてドル安となる。これを回避するため、米国は利上げをせざるを得ない。その理由を簡単に説明しておこう。

 

現在日本は、ほぼゼロ金利である。日本円を銀行に預金していたとしても、ほとんど利息はつかない。対して米国では「2023年7月、連邦基金金利の目標範囲を5.25%-5.5%に引き上げた」とのこと。つまり、米ドルを取得して銀行に預けた方が、日本円を持っているよりも格段に有利なのだ。そこで、多くの投資家は日本円を売って、米ドルを買っている。結果として、現在の円安傾向が生まれている。

 

このような高金利政策には、当然、副作用が伴う。金利を上げると、高リスクの株式投資が減少し、確実に利ザヤを稼げる債権が高騰する。換言すれば、高金利政策は株価を下げ、景気を冷やすのだ。また、借入金によって事業を支えている多くの中小企業や住宅ローンを抱える個人に対しても、金利負担を強いることになる。

 

米国の経済について、ポイントをまとめてみよう。

 

・多額の軍事費負担

・大量の国債発行

・インフレ

・高金利

 

これが米国経済の現状であり、一般の米国民が裕福に暮らしているかと言えば、決してそんなことはない。米国民も日本と同じように、貧しくなっている。米国の会社員は、いつクビを勧告されるか分からないし、国民皆保険が存在しない米国においては、例えば盲腸の手術を行うだけでも多額の医療費が発生する。ちなみに、2021年における米国民の貧困層の比率は、11.6%だった。

 

現状の米国を人間に例えるなら、入院して、ただひたすらカンフル剤を打ち続けているようなものだ。そしていつか、米ドルの信頼が更に揺らぎ、世界的な規模で米ドルが暴落するのではないか。但し、その時期がいつ訪れるのか、私に考えがある訳ではない。10年先になるのか、若しくは、案外早い時期になるのか・・・。

 

では、困窮する米国経済に打開策はないのだろうか? 仮にあるとすれば、それは軍事費の抜本的縮小しかないだろう。いろいろ複雑なことを述べてきたが、簡単に言うと、それは米国が分不相応に軍事費を負担してきたことに起因している。つまり米国は「戦争貧乏」に陥っているのである。

 

厳選した参考動画を2つ紹介しておこう。1つ目は、政治学者の白井聡氏によるもの。

 

【白井聡 ニッポンの正体】入れ替わる米中覇権 ~「米国偏重」日本の選択は?~ - YouTube

 

2つ目は、元JPモルガントレーダー、大西つねき氏によるもの

 

「ドル崩壊は始まっている」大西つねきのパイレーツラジオ2.0(Live配信2023/05/31) - YouTube

 

では、国家レベルの権力における第3の要素、思想(統制力)について述べよう。

 

米国が世界に提示した価値観は、自由と民主主義だろう。しかし、それには裏がある。米国が主張する自由とは、エスタブリッシュメントやDSにとっての自由に他ならない。全ての国民、1人ひとりが自律的に思考し、自らの自由を希求することなど、これっぽっちも求められてはいない。戦後、GHQは日本国民に対して愚民政策を実行した。日本国民に対してそうした位だから、米国政府が米国民に愚民政策を行っていない訳がない。スポーツ、セックス、スクリーンの3Sである。そうでなければ、米国が無辜のイラク人を大量虐殺したりはしない。

 

既に、日本を除く世界中の国々は、米国のこの欺瞞に気づいている。米国の嘘を見抜いているに違いない。参考動画を1つ。

 

【中東情勢】"さよならアメリカこんにちは中国" アルジャジーラが伝えたアラブの本音とグローバルサウス - YouTube

 

そろそろ、まとめに入ろう。

 

ここまで、国際社会における米国の権力を軍事、経済、思想の3要素に渡って見てきた訳だが、思うに軍事と思想については、まだ不確定要素があるように思う。例えば、ウクライナがロシアに勝利し、米国が盛り返す可能性だってない訳ではない。しかし、こと経済について言えば、米ドルの暴落は回避のしようがないように思える。そして、米ドルの暴落は、国際社会における米国の権力自体を消失させるだろう。その場合、米国に次いでダメージを受けるのは日本だと思う。

 

米国の凋落に反比例して国際社会に躍り出て来るのは、中国である。中国は既に、米ドルの暴落に備え、その後の世界秩序を見据えているに違いない。中国を筆頭とするBRICs、そこに中東やアフリカの国々が参加し、新たな軍事、経済、思想が構築されるかも知れない。それは数百年に1度の、人類の文明レベルでの変化となるだろう。その可能性を踏まえ、日本と日本人は対米従属を見直し、自らの頭を使って、生き残る術を模索するべきなのだ。

 

構造と自由(その9) 日本の権力構造

 

 

上の図に従って考えれば、権力の構造を説明することができる。まず、「知」があって、「知」が権力を生み出す。権力を生み出す主な「知」は、科学、宗教、その他の思想などを挙げることができる。そうやって生み出された国家レベルの権力は、軍事力、経済力、そして思想統制力とでも言うべき力に分類することができよう。米国は中国や途上国に対して法の支配、民主主義、人権尊重などの思想を常に押し付けようとしているが、これが思想統制力に当たる。

 

「知」・・・科学、宗教、その他の思想

権力 ・・・軍事力、経済力、思想統制

 

このように考えると、権力(者)、内部者、依存者が誰なのか、それを明らかにすれば権力の構造を明らかにすることができるのではないか。私は、日本という国家をベースにした場合、概略、以下のように考える。

 

権力者・・・米国

内部者・・・官僚組織

依存者・・・自民党

 

<権力者としての米国>

 

そもそも、日本は独立国なのか、という問題がある。形式的に言えば、日本はもちろん独立国だ。国連も認めているし、日本には憲法がある。しかし、実質的に言えば、日本は米国の従属国なのだと思う。憲法の歴史を振り返ってみよう。

 

日本国憲法は、GHQマッカーサーの主導により、制定された。マッカーサーの日本に対する統治方針は、「貧しくて、戦争のできない国」にすることだった。しかし、日本国憲法が施行された1947年、その直後に米国の統治方針は変更される。中国やソ連などの共産主義国の台頭に対抗するため、米国は日本を「豊かで戦争のできる国」にしようと考えた。この方針変更は、一般に「逆コース」と呼ばれている。そして日本は、経済的に豊かな国になった。すると米国は日本に対する統治方針を「貧しくて戦争のできる国」に変更したのである。これは、1980年代に起こった変化だった。厳密にそれがどの年に発生したのか、私はそれを知らない。1985年のプラザ合意が、その契機だったのかも知れない。プラザ合意以降の日米関係を以下に記す。

 

1985 ・・・ プラザ合意。円安が批判され、日本の輸出が打撃を受ける。

1986 ・・・ 日米半導体協議。日本の半導体産業が打撃を受ける。

1990 ・・・ 日米構造協議。日本の市場開放が求められる。

1995 ・・・ 日米自動車協議。日本車の対米輸出が批判される。

 

  • 日米半導体協議に関する参考動画

世界シェア49%から6%に急降下!日本が半導体戦争で負けた原因は○○首相が飲んだありえない条件【よりぬきポリタスTV】《渋谷和宏》 - YouTube

 

このように1980年代以降、米国は圧倒的な軍事力を背景に、日本の経済的な発展を一貫して妨害してきたのである。米国による妨害がなければ、今日の日本は、今よりも格段に豊かになっていたに違いない。米国は明らかに日本の貧困化を目指している。そんな米国に従属しているのだから、日本人が豊かになるはずがない。つらいことではあるが、日本人は、まずこの事実を認識すべきなのだ。

 

<内部者としての官僚組織>

 

憲法68条に従い、国務大臣過半数は国会議員の中から選ばれる。総理大臣が組閣をすると何人かの国会議員が大臣となり、行政機関のトップの座に就く。そもそも憲法国民主権を謳っているので、一番の権力者は国民であって、国民に近い順に大きな権力を持つように設計されている。権力の順序は、「国民>政治家>官僚」となっているのだ。つまり、選挙によって国民から選任される国会議員は、当然、官僚より強い権力を持つ。

 

しかし、私は上記の点についても疑義を抱いている。外務省を例に考えてみよう。そもそも世界には、日本を除いて、195もの国がある。そして、その大半の国々と日本は何らかの関係を持っている。もちろん、歴史的な経緯もある。その全てを1人の外務大臣が認識することなど不可能だ。その全てを何らかの形で知り得ているのは、膨大な数の役人を抱える外務省という官僚組織に他ならない。つまり、「知」を保有しているのは、政治家ではなく官僚の側なのである。

 

実際、多くの政策や法案を作っているのも、政治家ではなく、官僚組織なのだと思う。また、政権交代があると政治家は入れ替わるが、官僚の方は、一向に代わることがない。

 

このように考えると、官僚組織が実質的に握っている権力の大きさが分かる。そして、この官僚組織の首根っこを押さえているは、米国である可能性がある。日米合同委員会は、米軍と日本の官僚によって構成され、政治家は出席を許されていない。議事録が公表されることはないので、一体、どの範囲の事柄が審議されているのか、知る術はない。少なくとも日本の防衛に関する事項は、この場で決まっているのだろう。しかし、それ以外の事柄についても、日本の官僚組織は米国から命令されているのではないか?

 

例えば、コロナのワクチン。日本は米国製のワクチンを大量に購入し、国民に対しそれらを摂取することを強く推奨した。こういう時に限って、予算の話は出て来ない。一体、日本はどれだけの税金をワクチンに投入したのだろう。そして、最近はワクチンの話を一向に聞かなくなったが、その理由は何だろう? 日本の塩野義製薬が飲み薬を開発したとの情報があるが、それらが日本の薬局で販売されていないのは何故だろう?

 

日本の政府は、外国に対してはODAなど様々な名目で湯水のように援助金を交付するが、国内に対しては増税を繰り返す。何故だろう?

 

このような疑問は枚挙にいとまがないが、日本の官僚組織が何らかの形で、米国から指示を受けていると考えれば、疑問は解消する。

 

<従属者としての自民党

 

自民党に所属している全ての議員に該当するとまで言うつもりはないが、傾向として言えば、彼らに思想があるとは思えない。彼らが目指しているのは、現状維持であって、米国に従属し続けることに他ならない。一見、新しいことにチャレンジしているように見える事柄もあるが、それらには概ね、利権が絡んでいる。東京オリンピックもそうだったし、マイナンバーカードの導入と保険証の廃止問題に関しては、ITゼネコンと呼ばれる業界の大手企業が、自民党に多額の献金を行っているという情報もある。

 

多少の例外はあるかも知れないが、自民党は米国の指示は積極的受け入れる。日本の防衛費倍増問題については、バイデンが岸田に指示したのだ。そうバイデンが口を滑らせ、その後、日本政府とバイデン自身が訂正したようだが、どう考えてもバイデンの指示を岸田が受け入れたとしか思えない。日本政府はトマホークとか言う時代錯誤のミサイルを400発も米国から購入するそうだが、そんなポンコツを押し付けられて、さぞかし自衛隊も困っているだろう。

 

思うに、自民党というのは米国や官僚組織からしてみると、都合の良い選挙要員なのだと思う。ひたすら面倒な選挙活動というものをやらせておく。但し、実質的な意思決定は、決して任せない。消費税を始め、無数の増税を推進しているのは財務省で、自民党財務省の言いなりになっているに違いない。

 

私がここで自民党と言っているのは、象徴的な意味なのであって、本質的に言えば、維新の会や立憲民主党(主流派)にも同じことが言える。

 

このような自民党が何故、選挙に強いかと言えば、それは利権や既得権の維持を求める他の依存者が、シャカリキになって応援するからだ。大企業は多額の献金を行い、見返りを求めるだろうし、宗教団体も同じである。宗教法人としての認可を得れば、納税義務が免除される。実際、未だに統一教会に対する解散命令は、発出されていない。

 

メディアに関して言えば、クロスオーナーシップという問題がある。簡単に言うと、地上波のテレビの数には限度がある。それは電波の周波数に限りがあるということに由来している。これを公開入札に掛ければ、莫大な金額で売却することが可能となる。しかし、既存の地上波のテレビ局は、それぞれ格安でこの権利を持っているらしい。公開入札に掛けられると困るので、そもそも、地上波のテレビは権力に対してモノが言えない。従って、先進諸国においては、テレビと新聞の株主は分離すべきだという考え方が浸透し、実際、そのように制度が設計されている。言うまでもなく、テレビと新聞の株主が同一人物だった場合、新聞まで権力を監視する力が弱体化されるからである。日本はどうかと言うと、皆様ご存じの通り、このクロスオーナーシップがまかり通っているのだ。

 

米国、官僚、自民党。この権力のトライアングルによって、日本には権力の網の目が蜘蛛の巣のように張り巡らされているのだ。そして、この権力の構造は、仮に政権が交代したとしても、崩れる気配がないのである。

 

但し、グローバルな情勢に眼を転ずると、状況は一変する。米国の凋落である。ウクライナ戦争の先行きも、一向に見えて来ない。最早、世界の秩序は、急速に流動化しているに違いない。

 

構造と自由(その8) 構造の内側

 

 

上の図を見ていると、様々な発見がある。例えば、「依存者」について。依存者を規定している両極は権力と身体だ。暴走族や暴力団員は、この領域で生きているに違いない。彼らは権力そのものを否定したりはしない。あくまでも自らの身体を権力に服従させるのだ。命令があれば、彼らは喧嘩や抗争をもいとわない。しかし、隙があれば率先して権力の頂点に登りつめようとする。つまり、日頃は権力に従順だが、時として権力闘争を行うのである。軍隊も同じだ。ロシア軍の実態を見れば、明らかだろう。膨大な数の死傷者を出すと共に、内部抗争を繰り広げている。依存者は、「知」と主体から隔絶している。彼らは芸術を愛することも、哲学的な思索に耽ることもない。おそらくは、日本政治を牛耳っている自民党の本質も、この依存者であるに違いない。

 

私は、この図によって権力の構造についても、ある程度、説明することが可能だと考えている。病院を例に説明してみよう。

 

病院という組織は、医学に関する「知」を持っている。そして、その「知」にアクセスできる内部者として、医師や看護士が働いている。病院の最高権力者は、内部者のトップである院長である。また、病院という組織や権力に依存する製薬メーカーの営業マンが存在する。何しろ、病院は多くの医薬品を消費するので、製薬メーカーにとってはお得意さんなのだ。医師が処方箋を書いた場合、ほとんどの患者はその薬を有難がって服用するに違いない。そこで、製薬メーカーの営業マンが、院長や医師に賄賂を贈る。本当にそういうことがあるのか私は知らないが、このパターンはミステリードラマによく登場する。では、一覧にしてみよう。

 

<病院の権力構造>

「知」・・・ 医学

内部者・・・医師、看護師

権力者・・・院長

依存者・・・製薬メーカー

 

私は、特に病院に恨みを持っている訳ではないし、ほとんどの医師や看護師は良心的に働いておられるものと思う。あくまでも分かり易い例として、上述したまでである。なお、ほとんどの企業や役所の権力構造は、病院の例と類似しているのだと思う。また、現代に生きる日本人の大半は、このような権力構造の中で生きているのではないか。上の図で言えば、上半分がこれに該当する。この上半分を指して秩序と言う訳で、換言すれば、日本人の大半は秩序の中で生きていることになる。

 

話が飛んで恐縮だが、上の図によって、三島由紀夫が尊重していた事柄についても説明することができる。三島は、自衛隊の市谷駐屯地に乗り込み、演説を行い、天皇陛下万歳と叫び、その後、自決した。三島の行動の主眼は、対米従属に陥った保守層に対する批判であった。米国に従属している限り、日本人はどこまでも堕落するのであり、日本人がその伝統やアイデンティティーを守っていくためには、団結することが必要だ。そして、そのためには、天皇制の維持、強化が必要なのだと考えていたのだと思う。封建主義的な国家観を持っていた訳だ。そして三島は、憲法や知性を否定していたのである。

 

三島由紀夫反知性主義

https://www.youtube.com/watch?v=8FrxQuWOu20

 

三島が思想上、尊重していた事柄は、上の図の左半分によって説明することができる。一覧を示そう。

 

権 力・・・天皇

依存者・・・戦没者、戦友

身 体・・・ボディービル、剣道

芸 術・・・文学

主 体・・・割腹という行動

 

この際、私の思想的なポジションについても述べておこう。私が尊重すべきと考えているのは、上の図の下半分なのである。やがては身体を脱して、「知」を目指すべきだ。しかし、その「知」とは、権力へと向かう宗教ではなく、自然科学でもない。主体へと向かう哲学こそが重要なのだ。また、権力は分割するなどして、抑制的に扱うべきなのであって、権力を手にした者であっても、なるべく早くそれを手放し、自らの魂の領域、すなわち主体へと向かうべきなのである。そのように生きることこそが、人間にとっての自由なのだと思う。

 

構造と自由(その7) 哲学の領域

 

 

上の図において指し示したように、哲学を形作る1つの極は「知」であり、もう一方の極は主体なのだと思う。奇しくもこの2つの極について、哲学の始祖であるソクラテスは意見を表明している。「知」について、ソクラテスは「不知の自覚」を持てと述べた。このソクラテスの主張は、その後の哲学のあり方を予言していたのかも知れない。2400年後の今日においても、世界中の哲学者たちは最終的な結論に至ることなく、つまり真理に到達することなく、考え続けている。どこまで考えても、それは「不知」という状態を脱することがない。もう1つの極である「主体」について、ソクラテスは「自らの魂に配慮せよ」と主張した。魂とは、主体そのものを指していると思う。

 

長い歴史の中には、似非哲学者も登場した訳だが、あくまでも哲学のメインストリームは、忠実にソクラテスの主張を守ってきたように思う。つまり哲学の本質とは、反権力であり、脱身体なのだ。

 

グローバリズムが進展した今日的な状況下にあって、哲学の歴史には何の成果もなかったのだ、と思う人がいるかも知れない。しかし、それは違う。独立戦争に勝利したアメリカは「独立宣言」を採択し、革命に成功したフランスは「人権宣言」を発出した。そして、我が国においても「日本国憲法」が制定されたのである。これらの規範の根底に流れるものは、哲学(社会契約論)をおいて他にない。

 

ちなみに、日本国憲法における3大原理は、基本的人権の尊重、国民主権、平和主義だと言われている。憲法学者ではない私は、何故、そのように解釈されているのか、その理由を知らない。しかし私は、そこに平等主義と自由主義を加え、5大原理とすべきだと思う。(もしかすると、平等主義と自由主義は、基本的人権の一部として解釈されているのかも知れない。)

 

基本的人権の尊重(11条)

国民主権(前文)

・平和主義(9条)

・平等主義(14条)

自由主義(12条、13条)

 

このように5つの項目を並べてみると、憲法がいかに人権を尊重しようとしているか、理解することができよう。国民主権とは、独裁者による人権侵害を防止することだ。平和主義とは、徴兵制に基づき戦地に送られる自国民や、相手国の国民の人権を守ろうとする思想に他ならない。平等主義は不当な差別による権利侵害を防止することだし、自由主義は全ての国民が個人として尊重され、幸福を追求する権利を有していることを意味する。

 

では、憲法は何故、ここまで繰り返し、様々な角度から人権を守れと主張しているのか。それは、人類の歴史が人権侵害の歴史に他ならなかったからである。では何故、人類は人権侵害を繰り返すのか。それは、権力があくまでも自己増殖を図ろうとするからである。人間集団には必ず権力者が存在し、権力者は必ず自己保身を図ろうとするのである。

 

では、人権侵害が発生した場合、人々を守ってくれるのは誰なのか。それこそが国家であると憲法は述べている。

 

軍国主義という狂気に走り、人権を侵害し尽くすのが国家であり、人々をそのような惨禍から救済するのもまた、国家なのである。

 

今、哲学はグローバリズムと戦っているに違いない。