そもそも、哲学なんてものに興味を持っている人は、どれ位いるだろう。100人に1人もいないのではないか。哲学は金にならないし、そもそも哲学の勉強などしなくとも、日常生活は一向に困らないのである。むしろ、友人に哲学の話などしようものなら、嫌われるか、疎まれるのが関の山である。
しかし、哲学には目的と言うか、目標と言うか、役割のようなものが、少なくとも1つはある。それは・・・
死の恐怖を克服すること
・・・だと思う。
人間、誰しも多くの恐怖を抱えている。そして、その最大のものは、死ではないか。死の恐怖から解放されれば、人は隷従から解き放たれ、自由を獲得し、幸福に生きることができるに違いない。
まずは、「ソクラテスの弁明」から。
- (前略)死を恐れるということは、諸君、知者でないのに、知者だと思うことにほかならないからである。それは知っていないことを知っていると思うことであるから。というのは誰も死が、人間にとって、もしかしてすべての善のうちで最大のものであるのではないか、それさえも知っていないのに、それが悪のうちで最大のものであるということをよく知っているかのように恐れるからである。けれどもどうしてそれがあの最も非難すべき無知、つまり、知っていないことを知っていると思う、無知でないことがあろうか。-
生きている人間の中で、死んだことのある者はいない。従って、誰も死のことを知らないのだ。知らないことを恐れるというのは、論理矛盾であるとソクラテスは指摘している。ちなみに「ソクラテスの弁明」は、プラトンの初期の作品である。これが中期の「パイドン」になると、次のように変化する。
ソクラテス・・・よろしい。では、<死>を受け入れないようなものを、私たちは何と呼ぶだろう。
ケベス・・・不死です。
ソクラテス・・・従って、魂は<死>を受け入れないのだ。
ケベス・・・はい、受け入れません。
ソクラテス・・・従って、魂は不死である。
この場面において、ソクラテスは魂が不死であると明言している。これはプラトンのイデア論に基づくもので、人間の死とは身体の死ではあるが、魂はそこからイデア界に向かい、再び、人間の身体に付着するという考え方である。魂が不死なので、人間は死を恐れる必要がないのだ。実際、ソクラテスは死を恐れず、静かに毒杯を飲み干し、死を迎えた。
イデア論は、大きなスケールを持っている。そこには人間の宿命としての死、人間が目指すべき真善美(プラトンは善のイデアを最高峰のものとして位置付けた)、人間が真善美(イデア)に接近するための媒介としての魂。プラトンは、ソクラテスの静かな死を描くためにイデア論を構築したのではないか、とさえ思えてくる。
次に、セネカの思想を紹介しよう。セネカ(紀元前4年頃~紀元65年)は、古代ローマにおけるストア派の哲学者である。セネカは暴君として有名な皇帝ネロに仕えた。ネロの幼少期には教育係を務め、最後には皇帝暗殺計画の共謀容疑を掛けられ、ネロから自殺を命じられ、自ら命を絶った。
当時は、皇帝が政敵に対し自殺を命じ、従わなければ処刑した上で財産を没収するということが頻繁に行われていた。セネカ自身、そのような理不尽な死を繰り返し見ていたという事情がある。
<参考文献>
- 徳に欠けた生き方をするくらいなら、死を選ぶ方がよい-
- いかにして死すべきかを心得た者とは、人に服従する「奴隷の心」を捨て去り、あらゆる権力の支配を超えた、高みにいる者である。-
- 死んだ後は、生まれる前と同じなのである。-
- 死とは、あらゆる苦しみからの解放であり、この世の不幸がそこで途切れる終着点なのだ。-
- 大切なのは、よく生きることであり、長く生きることではない。-
- プラトンの対話篇「パイドン」には、ソクラテスの死が克明に記されているが、死の間際にも平常心を失わなかったこの哲学者のことを、セネカは非常に高く評価していた。-
<参考文献>
- これは自由を説いた書物なのである。-
- だから今日のわれわれには、これ(葉隠)を理想国の物語と読むことが可能なのである。私にも、もしこの理想国が完全に実現されれば、そこの住人は、現代のわれわれよりも、はるかに幸福で自由だということが、ほぼ確実に思われる。-