文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

No. 179 人の心の壊れ方(その5)

イワム族の村長さんが、ある日、こう言ったそうです。

 

「我々の祖先は、バナナである。よって、今後バナナを食べることは禁止する。」

 

その後、村人たちは長い間、バナナを食べなかったそうです。この話を最初に読んだ時には「村長さんも罪なことを言うなあ。バナナは貴重な栄養源であるはずなのに」と思ったものです。しかし、今の私には村長さんの気持ちが分かる。まず、記号原理に従って、この話を分解してみましょう。

 

この話における記号は、バナナです。バナナが指し示している対象は、祖先ということになります。そして、バナナを食べない、食べることを禁止するというのが行動です。その意味するところは、祖先崇拝というアニミズムであることが分かる。

 

対象・・・祖先

記号・・・バナナ

行動・・・バナナを食べることを止める

意味・・・祖先崇拝

 

これは、意味創出型です。そして、「我々の祖先はバナナだ」と思い付いたのは、融即律ですね。この村長さんは、相当に思い悩んだのだろうと思います。考えに考えた末、ある日、覚醒している時に直観が沸き起こったか、または眠っている時に、夢を見たに違いない。人には、親がいる。そして、親たちにも親がいる。では、最初の人間とは、一体何者だったのか。私たちは、どこから来たのか。我々は何者なのか。そういう普遍的なことを、この村長さんは一生懸命考え抜いたに違いありません。やはり、村長に選出されるだけのことはある。りっぱな人物だったのだろうと思います。

 

また、この話はもう一つ、示唆を含んでいると思うのです。それは、村長さんの発言が、ある社会のタブーを生み出している点です。バナナを食べてはいけないという社会的な規範が成立している。現代社会における法律の原点が、実はこんなところにあるのではないかと思うのです。

 

人の心の1次性と2次性は、大昔から、さほど変化していない。しかし、この3次性は、進化してきたに違いないと思うのです。最初に死者に対する恐れがあり、霊魂や精霊の存在を信じ、祖先崇拝へとつながった。これがアニミズムです。そして、前述の融即律という現象が生じる。更に想像力が付加され、神話となる。文字が発明された後、神話は爆発的に普及する。人々は、神話によって世界を理解した。しかし、この神話的な思考は、様々なタブーや不平等、人権侵害を生み出した。そこで、神話的な思考とは別に、純粋な論理というものを人々は考え始めた。それは、平等であり、人権の尊重であり、平和主義につながっていく。人類は、論理的に思考するという心を獲得したのだと思うのです。列挙してみましょう。

 

1 アニミズム

2 融即律

3 神話的思考

4 純粋論理

 

上記の「思考する」という心のあり方を、本原稿では「3次性」と呼んでいます。なお、4番の「純粋論理」という言葉は、「純粋理性」と言った方がしっくりくるのだと思います。しかし、「純粋理性」という言葉は、既にカントが使っている。そして、私は未だにあの本を読み終えていないので、ここでは「純粋論理」としておきます。

 

ちなみに、神話的思考から純粋論理への転換が図られたのは、フランス革命が最初だと思われます。この革命によって、初めて政教分離が行われたようです。

 

なお、この思考するという心の働きは昔からあった訳ですが、ただ、考えるベースとなる知識に相違があるので、上記のような変化を遂げたのだろうと思います。

 

問題なのは、誰もが心の中に1次性と2次性は持っているのですが、3次性を持っている人というのは、半数にも満たないと思われることです。動物的な1次性があって、それが2次性において、調和されてしまう。従って、3次性はなくても生きていける。いや、現代日本の社会を考えますと、3次性を持たない人の方が、生きやすいのではないかと思います。

 

元来、3次性の起源がアニミズムにあるとすれば、その心のあり方は、超越的な存在を想定し、その下に自分を位置付けるという特徴を持っている。超越的な存在や現実の出来事を受容しつつ、考え続ける。このような心のあり方を持った人というのは、権力者にはなり難いのではないか。権力者というのは、1次性の強い人が多いのではないだろうか。そして、1次性と3次性が互いに戦い続けてきた。それが人類の歴史ではないだろうか。昔から、文武両道などと言いますが、文が3次性で、武が1次性だとも言えるような気がします。

 

現代社会において3次性が具現化されている文化形態としては、数学と法律学が典型例ではないでしょうか。そこには、人間のぬくもり(1次性)も、物の確かさ(2次性)もありません。ただ、概念と論理があるばかりです。

 

では、一覧にしてみましょう。

 

1次性 ・・・ カオス ・・・ 人間と動物

2次性 ・・・ 調 和 ・・・ 物と経験

3次性 ・・・ 受 容 ・・・ 概念と論理

 

蛇足ながら、私の所感を述べます。せっかく人間として生まれて来たのですから、より大きな心を持った方が良い。すなわち、3次性を獲得した方が良いと思うのです。3次性というのは、いくらスマホのゲームをやっていても、獲得できるものではありません。言葉の線状性に触れる。すなわち、文章を読まなければ、獲得できないのだろうと思います。なお、勝手に想像させていただきますと、このブログに多少なりとも興味を持っていただいた方は、3次性をお持ちのことと思います。何しろ、このブログには「概念と論理」しか出てこないのですから。

 

3次性を持っている方は、時として、心が疲れてしまう。そんな時は、どうでしょうか。2次性への回帰を目指してみる。すなわち、過去の経験に基づく心的イメージを希求してみるということです。物に願いを託してみる。何かを象徴している物を大切にしてみる。そんなところに、古代から伝わる人間の知恵があるような気が致します。