ジョン・ロックは、私たちが日常的に見たり認識したりしている物、すなわち経験的対象のことを観念であると定義づけました。そして、この経験的対象を分解していくと微小な粒子やその集合体から成り立つ“物そのもの”が存在すると考えたのです。
心 - 観念/経験的対象 - “物そのもの”
すなわち、私たちの心があって、心が見ている物がある。更にその先に粒子状の状態がある。この粒子状の状態(“物そのもの”)をプラスして考える。これがロックの観念論の特徴のようです。このような考え方を“粒子仮説”と呼ぶようですが、その概略であれば、半世紀ほど前に私が学習した、中学生レベルの物理学の知識をもってしても、理解することができます。例えば水であれば、2つの水素原子(H)と1つの酸素原子(O)が手をつないでいる。H2Oということになります。これが微小な空間の中で、ぶつかりあっている。加熱すると、そのぶつかり方が激しくなるので、水は膨張する。
ロックの時代の物理学がどの程度発達していたのか分かりませんが、少なくとも現代においては、“物そのもの”について研究する学術分野は物理学であって、哲学の仕事ではありません。よって、厳密にロックの観念論について理解する意味も、あまりないような気がします。ここは、ざっくりと行きましょう。そこで、以下のイメージ図に基づいて、簡単に考えてみます。
まず、心の内側と外側とに分けて考える。そして、心の内側には感覚、心象(記憶、想像力)、そして概念などが存在する。心の外側には、粒子状態の“物そのもの”が存在する。ここまではいいと思うのですが、ロックは更に複雑なことを言い出すのです。心の内側と外側の双方に存在する“基礎的観念”というものを想定したのです。簡単に言うと、時間と空間の中に物が存在し、物はある空間を独占的に占有しており、それは人間によって認識される。大体、そういうことをロックは考えたのです。
また、心の中に戻りますと、人間が持つ観念というのは特殊観念、抽象観念に分類できる。例えば赤ん坊は、まず母親を認識するだろう。その後、赤ん坊の目前には父親とか、叔父さん、叔母さんなど複数の人物が登場する。皆、顔を持ち、2本の腕を持ち、言葉を話し、服を着ている。これは、どう考えても似ている。そこで、この似ている彼らのことを赤ん坊は、人間であると認識する。この類似点、共通点を認識する能力のことを、ロックは“抽象”と呼びました。まず、母親を認識する。これは個別の“特殊観念”である。それが抽象されると“人間”になり、更に抽象を進めると“動物”になる。
私は少し前の原稿(類似性と差異)において、逆のことを述べました。すなわち、古代人はまず、自分たちを取り巻く世界を眺めた。そこで、自発的に動く生き物として動物を認識し、自発的には動かないが生きているものを植物とし、元々生きていない物を鉱物として認識したのではないか。すなわち、私の考えたモデルは最初に複数の要素があって、そこから類似性を認識するに至る。ロックの場合は反対に個別(母親)の観念から抽象し、人間、動物という観念に至る。類似性を認識するという点は、両論に共通していると思うのですが、総体を分割する、すなわち全体から個別へと向かう私の説と、個別から全体へ向かうとするロックの説とでは、正反対だということになります。どちらの説も正しいのではないか、という気がします。
次に、ロックは単純観念と複合観念ということを考えます。単純観念というのは、一つの要素に起因する観念のことです。例えば、レモンという単純観念がある。そして、ジュースという単純観念もある。この二つの観念をプラスすると、レモンジュースという複合観念が生まれる。
レモン(単純観念) + ジュース(単純観念) = レモンジュース(複合観念)
人間の心は、このように複合観念を作り出す能動的な能力を持っている。但し、この能力は外的元型(上の例であればレモンとかジュースのこと)から拘束を受ける。例えばレモンは酸っぱいので、甘いレモンジュースという観念を作ることはできない。
更にロックは、様態ということを考える。これは、物事のあり方のことですが、これも単純なものと混合されたものを考える。例えば、漁師が海で魚を採ってくる。これは、単純様態だと思います。これを特定の場所で売買する。そして、混合様態として魚市場が成立する。
魚を採る(単純様態) + 魚を売買する(単純様態) = 魚市場(混合様態)
このように人間の創造的な観念形成によって混合様態は生まれるのであり、ロックはそこに人間の自由を想定したのです。
多くの場合、人間は職業なり役割を持っていて、その生きている狭い範囲でしか、物事を考えない。その職業なり役割を全うするために必要な概念が生まれ、言葉が生まれ、必要がなくなれば、それらの概念や言葉は消えていく。しかし、この混合様態は何らかの制約を受けるものではなく、そこには限りない可能性が秘められている。だから、仮説を立て、チャレンジしてみるべきではないのか。ロックは、そう考えたのでした。人間には自由がある。考えろ、やってみろ、そうすればもっと幸せになれる可能性がある。そういうメッセージをロックは持っていたのだと思います。
“物そのもの”についての研究は物理学に任せるとしても、ロックが提唱した上記のメッセージには、現代においても、全く色あせることのない普遍性がある。そしてロックは、認識論から統治論へと思考の翼を広げたのではないでしょうか。